愚慫空論

紀州の思い出(2)

やっと気が向いて、シリーズ第2弾! です(第一弾は、いったいいつだったのだろう?)

前回は、「緑の雇用」という国の林業&雇用対策の枠に乗っかって和歌山へ行き、「私は山へ、妻は畑へ就職 」したという話でした。今回は、その中でも「山へ就職」という話をしてみようと思います。

しようと思いますが、実はあまり愉快な話ではありません。この愉快でないとこらあたりが私のくだらない思索の始まりだったりするわけですが、まあ、そのあたりは今回はさておくことにしまして、思い出話です。

「山へ就職」というのは、具体的には森林組合という組織の下で働く、ということでした。森林組合の作業員として山林労働に就いたわけです。私が森林組合で雇用された時には、新人が私を含めて6人。全員、都市部からやって来た者たちばかりでした。

私が雇用されることになった森林組合ではもうすでにかなりの「都会者(Iターン者ともいう)」がいて、現場の第一線で働いていました。しかし、一度の6人もの新人を受け入れるのは初めてということで、新人育成専門の班が編制されることになりました。私たち新人を指導する班長さんは、地元の人よりも都会出身の人が良かろうとの配慮で、Iターン者が選ばれていました。ここではHさんとしておきましょう。

私たちはこのHさんからいろいろなことを教わりました。教わった内容はもちろん山林作業に従事するための知識・技術が主であったわけですけれど、他にも「さまざまなこと」を教わりました。その中でも重要だったのが地元の人との接し方、特に我々の雇用主である森林組合との接し方でした。

Hさんは最初、このように言いました。

「森林組合は、“民はよらしむべし、知らしむべからず”だからね。」

私たちは森林組合で雇用されることになったとは書きましたが、これは実は一般的にいう「就職」ではありません。「就職」というと正規雇用、つまり会社でいうなら正社員として雇用されることですが、森林組合という組織においては、現場での作業に従事する作業員は非正規雇用であることがスタンダード。これは私が雇用された和歌山の森林組合だけのことではなくて、例外はあるにせよ、全国的に現場作業員は非正規雇用がスタンダードです。もっともそれは森林組合だけのことではなくて、林業という産業全般がそうなのですけれど。

このことは林業が田舎の産業であると言うことと深く関連しています。田舎においては労働者の側も非正規雇用である方が都合が良いという面も少なからずあるのです。というのも田舎では、自分の家に田んぼがあったり畑があったり、また集落ごとのさまざまな催しなどがあったりして、仕事を休む機会というのが多いのですね。都市部では勤め先の仕事の方が自分の家の田畑や集落の催しよりも優先というのがスタンダードですけれども、田舎はそうではない。むしろ仕事は後回しだという風潮が生き残っている。こうした「風潮」が地域のネットワーク(地域の共同性)の活力源になっているわけです。田舎では暮らすにはこのネットワークをしっかり捉まえていくことが最優先事項で、それが出来さえすれば暮らしもなんとかなるのですね。

ところが、他所から新たにその土地へやって来た新人にとってこのネットワークは鬼門なんです。このネットワークに新たに参入するのは難しい。ここに参入するとプライベートといったものがなくなってしまう、いや、プライベートが全くなくなってしまうわけではないのですが、その敷居は都市部よりも極端に低くて、ないも同然に感じられてしまう。そう感じると、田舎は窮屈なんですね。ですから都会から来た者は田舎で生活してもそのネットワークに入りきれずにいる人が結構いたりするんです。

この敷居の低さが端的に表れていたのは、家の造りでした。どこの家にでも玄関があるのは当たり前ですが、あちら(紀州)は玄関を開けて上がり框を上がると、そこがすぐに居間というのがスタンダードな作りでした。「こんにちは~」と家に入っていくと、いきなり家族の親密な生活空間に繋がった。玄関を開け放つと居間は外から丸見えなんですね。これが都会ですと、外部からの進入路である玄関と居間との間には廊下があるとか壁があるとかして、ワンクッション置くのが普通のはず。しかし、紀州ではそうではなかった。

(ちなみに私たち夫婦はどちらかといえば地域ネットワークにうまく参入できた方ですが、玄関からいきなり居間という間取りのやり方までは真似が出来ませんでした。借りていた一軒家はそうした作りになっていたのですが、本来居間であるべき部屋にはちょっとした家具を置く程度で空き部屋とし、外部と居間とのワンクッションにしていました。
間取り
こんな間取りの家でしたが、あちらだとAの部屋を居間とするのが通常ですし、その方が台所にも近い機能的。でも、私たちはBを居間にしていました。
とはいっても、実はAでもBでも外部から近さという意味ではあまり変わりはなかったんです。縁側から簡単にアクセスできましたから。我が家に来る人は私たちがどこにいるのかを外から察知して、時には勝手口を開けるし時には縁側を開けるといったふうでした。
八木尾の家
玄関先から縁側の方をみるとこんな感じで、Bの部屋にいると、人が立っているあたりの窓をのぞき込んだり開けたりするわけなんです。夏などは窓は開け放っていますから、ほとんど外部と直に接していることになります。)

話は元に戻って森林組合の「寄らしむべし、知らしむべからず」ですが、都会人の地域ネットワーク参入への不得手を逆手にとって機能していたものなんですね。まず、他所から田舎に移住してくる窓口となるのは森林組合というケースが多い。そして、新参者はなかなか地域ネットワークへの参入を果たすことが出来ない。地域ネットワークに参入できれば、そこの「寄る」ことができるのですが、これはプライベートの敷居が低くなる、つまり「知られる」ことと引き替えになってしまう。それで新参者は勢い森林組合に「寄る」こと以外に選択肢がなくなってしまう。そこを利用して森林組合は、都会からの参入者を「知らしめない」ことで支配する構図が出来上がる。知ろうとする者に対しては、

「不満があるなら辞めてもらって結構」

というスタンスをとる。そのときに非正規雇用であるということが重くのしかかってくる、と、そんな事態になってしまう。都会からの参入者は一般に“意識が高い”人が多かったりしたわけですが、またそうした人ほど「寄らしむべし、知らしむべからず」には反撥を持つという傾向も強いと同時にプライバシー意識も高い。自身の「知られたくない」という防御意識が巡り巡って自身が抑圧の構造から抜け出せない要因となる、という図式です。

また、こうした構造は既得権益による抑圧や搾取の典型的なものですが、これはおそらく田舎であったからこそ典型的だったのでしょう。抑圧・搾取の構図の「本場」は都市であるはずなのですが、実は都市では「本場」であるがゆえに逆に典型的な構図は少ない。田舎はそういった意味では「辺境」ですから、かえって典型的な構図が出るのでしょう。

その典型的なものを身をもって体験できたこと、そして、その構造から抜け出すための方法がすぐ隣にあったこと、紀州での暮らしは、私にとっては大変貴重なものでした。

コメント

抑圧の本場

>抑圧・搾取の構図の「本場」は都市であるはず

都市には参加できるコミュニティの選択肢が多いですから、田舎のようにちょっとの行き違いから村八分という悲劇は避けやすい、生きやすいと思いますよ。

田舎から抑圧と搾取が無くなったのは戦後の農地解放直後のごく僅かな時期だけで、本質的に田舎は抑圧的ではないでしょうか? 都市にあるのは抑圧ではなくて「疎外」では?

雇用への道

愚樵 さん
この内容に考えさせられました。
確かに、地方の村社会やプライバシーのなさは色々な所から聞きます。
それでも安心して食べていける農林漁業にどうしても期待してしまいます。

企業での非正規雇用の悲惨さは後を絶ちません。少なくても最低限の生活が期待できるのは労働人口が減っている農林漁業だと理解していたし、ここを重視することが食料自給率を上げることであり、環境悪化を食い止める役割と解釈していました。
それに私の仲間で、地方の農林漁業での人集めに、ネットを使って広めているグループや人たちがいます。
この人たちは本当に農林漁業での「非正規雇用」の仕組みを分かっていたのかが疑問です。そこで働きながら、もし病気をしたらどうなるのだろう、ここでもハラハラしながら働かざるを得ないのだろうか。
都会からここに来るのに、何の生活手段もなく安心して来るのです。救いを求めて来るのです。
勿論、農林業に不向きなのに来てしまった場合もあるでしょうが。
新しい事実をありがとうございます。

このブログ記事を仲間に見せるためにコピーをさせて頂きたいのですが、許可を願います。

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