愚慫空論

なぜ赦してしまえるのか

明日12月12日の土曜日、午後11:10から、NHK-BS1・世界のドキュメンタリーで

『“償い”と“赦し”の家造り ~ルワンダ・大虐殺からの模索~』

という番組が放映されます。

この番組の初回の放送は約1年前。私がこの番組を見たのは昨年のことですから、初回の放送か、最初の再放送。今回は5回目の放送になるようです。

ルワンダというアフリカの国でどのような出来事があったのかは、いまさら説明する必要はないでしょう。この番組で紹介されているのは、あの救いようのない出来事からいかにして国を立て直してゆくための取り組み、「家造りプロジェクト」の様子でした。

政府は地域の揉め事を解決する村の慣習的な“裁判”「ガチャチャ」を活用して裁きを進め、真実を告白した加害者には懲役ではなく労働奉仕刑を科して減刑し社会復帰を図っていくことにした

この労働奉仕刑のプログラムの一つとして注目されているのが「家造りプロジェクト」だ。・・・ 家造りの作業を通して双方が向き合う中で、加害者を「赦す」という被害者も現れた。



「家造りの作業を通して双方が向き合う中で、加害者を「赦す」という被害者も現れた。」

「赦し」も文章にしてみれば簡単なものですが、番組を観てみて驚いたのは、この「赦し」が私が想像していた以上に簡単に、――ほんとうにそれで赦してしまってよいのか? と観ているこちらの方が不安になってしまうほど簡単に行われたことでした。番組を観ての印象は、“双方が向き合う中で、「赦す」”という感じではなくて、向き合うことができればそれが直ちに「赦し」に直結する、そんな感じなのでした。

私の不確かな記憶によれば、登場した被害者は3人。うち、ひとりが「赦す」ことが出来ずに終わりましたが、この人は加害者と“向き合う”ことが出来ない状態で終わりました。他のふたりは、“向き合う”ことが即そのまま「赦し」であるかのような感じだったと記憶しています。「え? もう?」という感じです。

「え? もう?」というのは、被害者のひとりが口にした言葉でもあります。ある被害女性の家造りのケースで、そこで労働刑として家造りに従事していた加害者が、言葉を交わせるようになった被害者に向かって言うのです。

「もう、私たちの間にはわだかまりはないよね?」

たかだか数ヶ月の“向き合い”で、残虐な犯罪を犯した加害者がそのような言葉を吐けることにも驚きましたが、口では

「え? もう?」

と言いながらも、笑顔になってしまっている被害者にはもっと驚かされます。私の感覚からすれば“ありえない”と言いたくなるほどです。

こうしたいかにも軽い印象は、番組による「脚色」の所為かもしれません。「赦し」を為しえたのが取り上げられた3人のうち2人だというのも、実際の割合を反映しているかどうかはわからない。あくまで構成された番組を観ての印象でしかないわけですけれども、それにしても感じられるのは、ルワンダの人たちの(これまた曖昧な表現ですが)「生命力」です。たかだか家を提供してもらっただけで(提供してもらったといっても、もともとの家は加害者たちによって破壊されたのですから、弁償という方が正確です)、家族が虐殺した相手を赦すことが出来てしまう。私たち日本人の感覚からすればどうにも理解できないような“軽さ”ですが、この“軽さ”がどこから来るのか、彼らの表情などを観ていると、それは「生命力」からだろうと、私のつたない想像力と言語能力とでは、そうとしか言いようがないのです。

私のこの想像が当たっているのかどうか、それは是非とも番組を観ていただいてそれぞれで判断していただきたいところですが、もし私の想像が当たっているとするなら、「赦し」がとても重く、非現実的あるいは夢想的といって良い状態にになってしまっている現在のわが日本の状況を鑑みる一助になるかもしれません。「赦し」が“軽い”ことの要件がわかれば、それが“重い”理由も理解できるだろうからです。

今の日本で加害者への「赦し」というと、どうしても思い浮かぶのが死刑制度です。死刑の賛否を巡っては、被害者遺族の感情、つまり被害者遺族が加害者に「赦し」を為すことができるかどうかが鍵になっているとしてもさほど言いすぎではないと思いますが、そのときに重しとなるのが「赦し」の“重さ”。この“重さ”の前には、為す術も無いといったような状況です。

「赦し」は軽い方がよいのか、それとも重い方がよいのか、「正しさ」という観点から問えば、たぶん重い方が正解ということになるでしょう。が、どちらが「幸福」なのか? と問い直せば、私は軽い方だという気がしてなりません。そして思うに、どちらも曖昧なものですが、「幸福」と「生命力」とは極めて近しい関係にあるものです。

コメント

めっちゃよくわかるわあ

最近の若い子達がJAICAなどを通してアフリカに惹かれるのは、貧困に対する援助の意識からというより、無意識の内に、この自分たちにはない「生命力」をただひたすら求めているという気がしてなりません。
世界を飛び回る日本の若者たちよりも、ルワンダの大地に縛り付けられている村人たちのほうが、おそらくはるかに「生命力」に満ちているのでしょう。
この国の自殺率の高さも、そうした「幸福・生命力」の欠乏と強い相関関係がある気がします。

赦すのか、許すのか

う~ん、御案内の番組は見ていないのでこんなこと言っちゃいけないのかも知れませんが…
「赦し」なんでしょうか?
「許し」なんじゃないかなと言う気がします。
たった一文字の違いだし、音は同じだけど、「赦し」と「許し」には絶望的な壁がある筈。
「赦し」は全人的に肯定するという感じ、「許し」は特定の行動と派生した結果による損害を許容するという限定した感じがするんですよ。
罪を赦すのか、
罪を許すのか…
本エントリを読む限りにおいては、「許し」なんじゃないかなぁ…と。
ひょっとすると、愚樵さんの感じた違和感もこのあたりにあるんじゃないかと思うのです。

私は同時期に同じBS世界のドキュメンタリーで、似たような内容の番組を2つ見たのですが。

『赦すことはできるのか~南ア真実和解委員会の記録』
http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/081125.html

『憎しみは越えられるか~北アイルランド紛争・対話の旅』
http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/081126.html

これら2つと比べて、ルワンダのそれは飛び抜けて“軽い”感じがしたことを記憶しています。

この“軽さ”は、とみんぐさんご指摘の「赦し」「許し」でいうならば、その差がほとんどないかの如く感じられるということだったと思います。

私たちの感覚では、双方が向き合う中で「許し」が「赦し」に深まっていくというイメージを抱くのが普通で、また他の2つはそういった感じだったと記憶しているのですが、ルワンダの場合はいきなり「赦し」だったので驚いた、と記憶しているのです。

この記憶が間違いないかどうか、私も再放送を見てみるつもりでいます。

お久しぶり

昨日、私も途中からですがその番組見ましたよ。
母親の顔にリトル似てる方がいたなぁ・・(笑)、私もアッチ系に祖先は近いのかな?wwv-7

赦す ということは 生きる(生命力)ということなのですよね、ここでは。
赦す というよりも「赦したフリ」に近いのでは。
身近で、そして狭い世界の中では、それが必然的に生きる道ですもんね。
赦したフリ=共感したフリ も同じようなものです。
人と人が共存してやっていくってそんな生き方になるでしょう、やっぱ。

幸福と生命力の関係は、近しいですね。
ま、幸福の定義もまた考えなくちゃいけませんが^^;

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/318-104a7013

ルワンダの赦し・・それと、もっかい伊勢崎さんの番組宣伝

今日の朝日新聞の話を書こうと思ったら、「ブログ編集者が見た世界と日本」の松竹伸幸さんに先を越されてしまいました・・・この方に書か...

 | HOME | 

 
プロフィール

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード