愚慫空論

贈与とハラスメント

引き続き、贈与についてです。
贈与は It's my pleasure なんだと前エントリーで述べましたが、このことをもう少し考えてみます。

贈与が It's my pleasure であるというのは、贈与が贈与であるための2つの要件のうちのひとつです。2つの要件とはすなわち、表向きと裏向きでして、It's my pleasureは裏向きです。では表向きは何かというと、モノやサーヴィスの受け渡しが行われるということです。

ここにAとBのふたりの人物がいるとします。贈与の表向きの部分、AからBにノやサーヴィスが受け渡されることをA→→Bと書き表すとします(AB間でなされる等価交換はA←→Bとできます)。裏向きの部分は[A←→B]とします。そうしますと、贈与は

A→→B/[A←→B]

と書き表すことができます。スラッシュの左辺が表向き、右辺が裏向きです。

表向きのA→→Bについては特に説明を要しないでしょう。AからBに一方通行で受け渡されることの表記を一方向の矢印で示してある。ごく単純なものです。対して裏向き[A←→B]は双方向になっています。双方向であるがゆえに It's my pleasure となるのです。

裏向きとは贈与を為し為される者の内面、すなわち心理的な部分のことですが、贈与において、それが双方向であり、双方向であることが喜びであるということは、誰もが実感として知っているはずです。贈与と表記されると言葉が堅くてなかなか喜びのイメージが湧いてきにくいかもしれませんが、ごく普通にプレゼントと言えば、ここには同時に喜びのイメージが湧いてくることでしょう。人が他人にモノやサーヴィスをプレゼントするのは、贈る相手の喜びを喜びたいというのが、ごく普通の動機でしょう。「喜びを喜ぶ」のは双方向です。


創発的コミュニケーション
生きるための経済学―“選択の自由”からの脱却 (NHKブックス)生きるための経済学
―“選択の自由”からの脱却
上の図1は、安冨歩著『生きるための経済学』からお借りしてきたものです。この本からは、以前にも文章をお借りしたことがあります。

『創発的コミュニケーション』(愚樵空論)
『身体性=脳の拡張性』(愚樵空論)

上の図1は、その創発的コミュニケーションを図示したものです。創発的コミュニケーションとは、互いに相手から受け取ったメッセージから学習を重ねつつ、双方向にメッセージを受け渡していくというものです。ここでいう学習とは、相手のイメージと自らの状況への認識の更新であり、その更新は相手からのメッセージを理解しようとする“身体的な”努力によって支えられます。この努力が実を結び、双方向のコミュニケーションが成立したときに、喜びを感じる。つまり「喜びを喜ぶ」ことであり、それが It's my pleasure です。

以上から言えることは、贈与A→→B/[A←→B] とは、創発的コミュニケーションに裏打ちされた、表向きのモノ・サーヴィスの受け渡しである、ということです。主目的は裏向き、つまり創発的コミュニケーションであり、人は創発的コミュニケーションによってもたらされる“身体的な”喜びを獲得するために、他者に労苦を経て手に入れた自らの所有物を譲り渡します。というより、創発的コミュニケーションが成立していれば、相手に譲り渡すのは所有物を媒介とした自らの労苦であり、譲り受ける相手もそのことを理解しているということです。そして、この理解こそが喜びであって、その喜びがあるから人は自ら進んで労苦を負うことができる。喜びを得る為に労苦を厭わないという人間の性質は、その性質の中でも善良なものだということができるでしょう。

ところで、『生きるための経済学』には創発的コミュニケーションを示した図1とならんで、下のような 図2が啓示されています。

ハラスメント
この図が表わしているのが、ハラスメントです。創発的コミュニケーションとハラスメントとの違いは、メッセージの交換は行われるものの、片方(図2によるとB)が学習を停止してしまうところにあります。

学習を停止したBからAに送られるメッセージは、変化しないものになってしまいます。学習とはイメージ更新ですから、更新が停止すれば変化しなくなるのは当然の話です。そうしますと、一方で学習を続ける側は(図2ではA)、どうしても変化しなくなる一定の側へ引き寄せられてしまうことになってしまいます。図2に即していいますと、Bが規定したAのイメージにAが引き寄せられていく。これがハラスメントです。これを[A←←B]と表記しましょう。

一般にハラスメントといえば、「嫌がらせ」とされます。しかし、今述べたハラスメントは「嫌がらせ」とは少し感じが違います。Bが規定したイメージをAに押しつけ、Aが拒否するにも関わらず、社会的な権威などを背景に強制するのを一般的にハラスメントというのでしょうが、ここでいうハラスメントでは、Aが拒否するかどうかは問題ではない。AがBの規定を拒否せずに受け入れたとしても、ハラスメントはハラスメントです。実際、ハラスメントであることにハラスメントをしている側もされている側も気がつかない。そういう現実は非常に多いと思います。ハラスメントの問題は、とても難しい問題です。

『生きるための経済学』には、ハラスメントについて、次のように書かれています。

ハラスメントがコミュニケーションの重要な要素である規則・制度・概念・言語・記号などの存在によってはじめて可能になり、しかもそれらは、本質的にハラスメント的側面を常に帯びている点である。それは、ちょうど、包丁が料理をするために不可欠の道具であるにもかかわらず、殺人の動に似も使えることに似ている。殺人を防ぐために包丁を全廃することが不可能であるように、ハラスメントを防ぐために、たとえば規則を廃することは不可能である。包丁は殺人の道具になりかねないことを意識しながら、料理のために使わなければならない。規則は、それがハラスメントの道具になりうることを常に注意しながら、コミュニケーションのために使わなければならない。そのことを忘れて規則を振り回すのは、包丁を振り回す以上に危険である。


最後に話を贈与の方に戻しましょう。

贈与は先に、A→→B/[A←→B] と表記するとしました。[A←→B]は創発的コミュニケーションであり、贈与とは本来、創発的コミュニケーションを主目的とするものである、としました。が、コミュニケーションは、常にハラスメントの危険を孕んでいます。それは贈与でも同じです。贈与も、それが規則化・制度化されていくと、A→→B/[A←→B]だったはずのものが、A→→B/[A←←B]あるいはA→→B/[A→→B]となっていく。表向きは変わらず贈与だけれども、その主目的が変質してしまう。これまた世の中にありふれた現象です。

コメント

ふと

図2は、学生の居眠り・レポート丸写しに対して教師が激昂する理由なのかもしれませんね。
教師は「できの悪い生徒」よりも「学ぶ気のない生徒」を嫌いますが、それはこの『学習のフリ』が、教える側にとってハラスメントとして機能するからなのかも知れません。

そう、逆に

図1は、やる気にある生徒を教師が喜ぶ理由でもありますね。

図2

図2の<学習のふりをする>Bの側に<生徒はこういうものだ>という固定観念から一歩も動こうとしない教師を想像してしまった私はちょっとひねてますね。

学習というものは双方向のものであるはずなのに、生徒から学ばない教師のいかに多いことか!
(親類に多いので大きな声では言えませんが)
成果主義の導入はこうした硬直化した教師を動かそうという試みでしたが、教育というものの成果評価の不可能性の壁の前にもろくも崩れ去りつつあります。

内田氏のように<良い教師>に恵まれて<良い生徒>に囲まれていれば自然と<良い教師>になっていくのでしょうが、あったりまえの話ですが世の中がもしそれでうまくいくならとっくに全世界は平和で人類は皆平等でしょう。どうしたもんでしょうね?(笑)

自然に

<良い教師>に恵まれて<良い生徒>に囲まれていれば自然と<良い教師>になっていく。

この「自然に」が大切なんだというのが私の立場でして。が、この「自然に」が難しいのが人間という存在。

人間が人間であるためには、いうまでもなく「自然に」だけではダメです。規則・制度・概念・言語・記号といったものが人間には必要で、これらはすべて人工のモノ。で、これらは本質的にハラスメントの要素を含む。ということは、人工のモノとばかり接していると、人間は自然にひねていくのでしょうね。

要するに自然とコミュニケートしろということですが、実際、大きな流れとして人はそこへ回帰しつつあるのではないですかね?

学問のススメナイ

学力を上げるのは別段難しいことじゃないんですにゃ。ただ読めばいい、図書館一館。
よく、音楽家や一芸に秀でた人が、毎日十数時間も練習するといったことが驚嘆めいて語られますが、あれはおかしい。日に十八時間の学習を行うことは、普通。(≠自然)
教師は一冊のテキストを講じ終えるのに半年~一年の時間をかけますが、そんなに必要ない。一人で座学すれば数日完了、しかも金がかからない。
あっ、もちろん家族はいらないです。そんなノイズ。ただ三食寝床あればいい。

本というのは、あらゆる本というのは、わかるように書かれている。但し、「筆者の独自体系に添って」分かりやすいように。これは、道具に手足を合わせるようなもの。精神を、筆者のそれに強制的に合わせなければならない。だから、なるべく「他者」というノイズを排除して、一冊の中に深く深く潜り込んでいく必要がある。学力なんかなんぼでも上がる。

まぁ騙されたと思ってやってみて下さい。絶対後悔しますから。
だってー、本の筆者に合わせることを二十年続けるんですよ? もう戻れない。戻れやしない。他者なるノイズを撥ね退ける人生が始まる。それでいい。いいよね?

ま、あたしは「負ける方法を知らない」人生が嫌だったんで、パスったけどー。兄貴になれないんじゃね。

教育はノイズなのです。一人で読めば一日で終わる内容を、わざわざ何日もかけてやる。教える必要のない事を教えている。だから、「私は之々のことを教え、その結果生徒は然々の成果を得る」といったことを語り得る教師は、教師でない。そんなもの、必要ない。それなら一人で読んだ方が早い。
成果を売買できるとする教師は、しかし、俊才にとって不要な存在です。なぜなら彼の英知は、“教師”が一教える間に十を知るのだから。テクニックとしての教育を商とするところの“教師”は、本来何も売っていない。あなたが提示する知識など、ウィキペディアにも載っているのだから。

じゃあ? 学校教師さんは何を教えているの? 一のことを教えようとする間に十学ぶのが全ての子どもであるという事実を前に、教師の頭の中では何が行われているの? 負うた子に教えられて浅瀬を渡るのが本質であるところの教師、成果を売買することを旨としない教師、本という人工体系にわざわざノイズを混ぜる教師は、一体何を教えているの??
それは、まあ、愚樵さんにまかせた!

お任せされても(苦笑)

人生アウトさん。あなたのおっしゃることはよくわかります。

教師から教わるべきことは、みんな書物にかかれています。そういえば私も授業に関しては、教師からあまり教わったという記憶はありませんね。

けれども。この人からは多くを学んだという教師は、少なからずいます。そういった人から学んだのは、学ぶ喜びでしょうか。

例えば。私は高校生の頃までは歴史がつまらなくて嫌いでしたが、高3の時の世界史の教師が歴史の楽しさを教えてくれました。最初はその教師の話を聞いているのが楽しかっただけですが、知らないうちにその教師が語る歴史が好きになっていました。その教師との付き合いは高校卒業とともに終わりましたが、歴史との付き合いは今でも続いています。私はその教師に感謝しています。

私は教育を「教える」と「育む」に分けて考えていますが、教師のみならず、大人が子どもになしえる最良の貢献は「育む」ことです。身体を育むために食べ物を与える、精神を育むためには喜びを与える。子どもに「教える」必要があるのは、子どもが自らを「育む」のに必要な忍耐だけです。子どもと大人の違いは、この忍耐を知るか知らないかの差でしかありません。

喜びに裏打ちされない忍耐は、ハラスメントです。多くの教師たちが子どもたちに施しているのは、ハラスメントです。そして秀才とは、教師からなされるハラスメントをうまく交わすことが出来る者のこと。が、しかし、ハラスメントは連鎖します。秀才は、そうでない者にハラスメントする。それが今の社会の在り方です。

ぴかぴかの一年生

本は筆者の独自体系であり、また同時に教師も一つの独自体系なのですよね。そして、教わる側の一人一人も独自体系。
座学独学の類は、己の内の独自体系を殺して筆者のそれに合わせることと言えるでしょう。自分をよく殺した人間が、もっともよく座学するのは当然です。

思うに、教師は教室というものは、三十人四十人からなる体系の出会いを作るミキサーなのでないかと思います。
愚樵さんの体系は、その先生の内部の体系とミックスされたのではないでしょうか。そうしてミックスされた出会いは、人の生涯に影響を及ぼす。まるで別の人間に変わる学ぶ。

自身の体験から考えれば、私は教師の発言を遮るほどに主張・発表をした。そのことごとくを、師は、教室全体に投げかけた。そこで教室内で意見の乱反射が起こり、「僕たち」は一つの撹拌された思考体系の中にお互いの身を置いた。
そんな師が、むしろ多数派だった。

ミキサーによく出会いたいものです。そして、自らもミキサーを。

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