愚慫空論

〔近代〕という〈システム〉への隷属

さて、今回は、資本主義下の〔経済〕の崩壊(=再起動)の責任はどこにあるのか? というところからでした。民主主義(立憲主義)下の〔国家〕では「革命=崩壊」の責任は「市民≒国民」にある、すなわち〔国家〕という〈システム〉を構成する成員全員にある、ということですが、資本主義〔経済〕の崩壊(=再起動)の責任も、同様なのでしょうか?

その答えは明らかでしょう。

ここで敢えて「資本vs労働」という“古い”対立構図を用いてみます。資本家も労働者もともに〔経済〕という〈システム〉の成員であることでは同じですが、その崩壊の責任ということになると、責を負うべきは資本家であるということになる。労働者は自らの労働力を資本家に売ることで貨幣を得、その貨幣を日々の暮らしに必要な物資やサービスと交換する経済を営みますが、その労働者の経済の内部に崩壊の要因などあるはずもない。労働者の経済の崩壊は常に外部からもたらされます。資本主義〔経済〕が崩壊を孕んだシステム、労働者の経済を含む資本主義〔経済〕全体は、これまで見てきたように崩壊(=再起動)を内包している。が、労働者の経済の中には崩壊の要因はないとなるならば、考えられるのは労働者の経済の外部、すなわち増殖する貨幣の恩恵に与る資本家があやつる経済にある、ということになります。

いま、「資本vs労働」という構図を“古い”と言いました。今時「階級」といった言葉を持ち出されると、感覚的にはどこか過ぎ去ったことのように感じがするからです。が、その“古い”はずの言葉が新たな現実味を帯びて感じられるようになってきたというのもまた、今時の傾向でもあります。これは奇妙なことですが、この奇妙さにはわけがあります。

私は前々回の終わりで、〔国家〕も〔経済〕も崩壊を内包していながら、その内包の在り方が大きく違うとしました。すなわち、〔国家〕の方は、前回示したように、国民による「革命」を前提とされることで権力と国民との間に(現状では不完全ながらも)相互性がうまれて崩壊の責任を国民が負うことになる。これは、崩壊の原因と責任との対称性が確保されている、ということです。が、一方で資本主義での〔経済〕では、この対称性は確保されず、非対称になっています。崩壊の原因は資本の側にあり、その責は資本が負うべきであるにも関わらず、そうなっていない。結果としての責任は労働者を含む〔経済〕で負うことになる。

“古い”“新しい”という観点でいえば、「革命」を経て〈システム〉崩壊の原因と責任との対称性が確保されている〔国家〕の方が“新しい”のであり、いまだ原因と責任との関係性が非対称な〔経済〕の方が“古い”というわけです。上で述べた「今時の奇妙な現象」の理由は、〔経済〕の勢いがグローバル化することで〔国家〕を凌ぐようになった結果なのです。「階級」とは原因と責任の非対称性の帰結ですが、それが今時になって表われるのは、“古い”〔経済〕が勢いを増してきたことに理由があるのです。

そして、“古い”〔経済〕と“新しい”〔国家〕とが複合して出来上がっているのが〔近代〕という政治経済をひっくるめた社会の〈システム〉です。それも単に複合しているだけではなくて、〔国家〕の対称性が〔経済〕の非対称性を隠蔽するような構造になってしまっている。この隠蔽構造が〔近代〕への隷属――自覚なき承認――を促しているのです。

ここでもう一度、前々回にてお借りした池田氏の文章を引いてみます。

前略・・・たいていの(経済)現象は事後的には説明できる。困るのは、いつバブルが崩壊するのかを事前に予測する理論がないことだが、経済のようにきわめて複雑な非線形システムのふるまいを予測するのは、自然科学でも無理だ。たとえば東海地震がどれぐらいの規模になるかは予測できても、いつ起こるかは予測できない。


私はこの文章が「〈システム〉への隷属」を端的に表現するものだとし、その理由を自然現象と経済現象とを同列に置くことだとしました。そして、私たち現代人は〈自然システム〉と〔国家〕〔経済〕の3つの〈システム〉に属しており、そのうち民主主義という形態の〔国家〕と資本主義という形態の〔経済〕が複合した〈人工システム〉の形態が〔近代〕である、としました。

これら3つの〈システム〉の特徴を簡単にまとめてみると、次のようになります。

〈自然システム〉:対立構造は「自然(あるいは創造神)vs人間」で、その関係は非対称
民主主義〔国家〕:対立構造は「権力vs国民」で、その関係は不完全ながらも対称
資本主義〔経済〕:対立構造は「資本vs労働」で、その関係は非対称

前々回でも述べたとおり、私たち人間と自然との関係の非対称性は解消しようがありません。東海地震のメカニズムが科学的に解明できて規模を予測できても、逃れることは出来ない。私たちに出来ることは地震に備えることであり、〔国家〕という〈人工システム〉が構築される理由のひとつは、そうした自然と人間との非対称性に備えることであると言えますし、またこのことは〔国家〕もまた〔自然〕という〈人工システム〉には隷属する以外にないのだということでもあります。

〔経済〕もまた〈自然システム〉と同様の非対称な〈システム〉です。が、こちらは、人間自身が構築した〈人工システム〉です。人間は〈自然システム〉に働きかけて富を産出しますが、その富の生産と分配を合理的に行うために構築した〈システム〉のはずです。それがいつのまにか、もともとは合理的な分配のための道具だったはずの貨幣に増殖の仕組みが組み込まれてしまったことで、非対称な〈システム〉となってしまった。しかもその非対称性を、「革命」を経由して権力と国民との対称性を獲得したはず〔国家〕が保障してしまっています。この〔国家〕保障が、実は国民が薄々は感じている〔経済〕の非対称性を隠蔽してしまっているのです。

(ここまでの話は社会主義を肯定するかのようですが、それは少し違います。私に理解では、社会主義とは〔資本vs労働〕の対立を暴力によって強制的に解消させようとするもので、とても支持できません。が、暴力のコントロール装置である〔国家〕の廃絶まで視野に入れる共産主義革命ということになると、目指しているところは同じかもしれない。そのあたりのところを、まだ私自身がよく理解できていません。ただ、目指すところは同じ共産主義であったとしても、その経路は一般的に「左翼」と言われる人たちが支持するそれとは異なります。)

最後に、話の口火となった池田氏の文章についてもう一言。氏のブログ記事のタイトルは『経済学は役に立つ』というものでしたが、このタイトルに私も同意できます。ただし、“役に立つ”対象が池田氏が考えているものとは異なるでしょうけれども。

私の観点からすれば、経済学は一種のプロパガンダです。確かに経済学は論理的であり、さまざまな現象の事後的説明も、ある程度の未来予測も可能でしょう。論理的だということは、論理を組み立てる原則があるということになるのですが、その原則は自然現象のそれとは違って、いついかなる場合にでも表れる普遍のものではありません。経済原則に基づく理論は、経済行為を為す人間がその原則に則って行動するから成り立つのであり、人間には既成の経済原則を踏み外す「自由」もあるのです。経済学とは、その「自由」を自主的に放棄するように促し、〔近代〕という〈人工システム〉形態に隷属するよう導くプロパガンダです。

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