愚慫空論

「〈システム〉へ隷属」とは、「自覚なき承認」

前回からの続きです。資本主義も民主主義(立憲主義)も崩壊を内包しているというところからでした。

貨幣が増殖する仕組みが組み込まれた資本主義という〔経済〕形態は、いずれかの時点で崩壊(再起動)することになる。現下の金融危機=経済危機は、そうした崩壊の局面であるということでした。では、民主主義(立憲主義)下の〔国家〕も崩壊を内包しているというのはどういうことか。それは端的に言うと、「革命」を前提としているということです。

民主主義は国民主権、すなわち国民ひとり一人の主権があるという考え方ですから、民主主義国家において支配者とは国民自身のことです。

民主主義国家にも権力は存在します。権力なき統治などありえませんから、国民主権であっても国民は自らが持つ主権を何者かに委託して行使せねばならない。その制度が代議士制というやつで、国民は選挙によって自らの意思で権力者を選択します。権力は国家という統治機構が振るう暴力を背景に統治を行いますが、その行使に際しては憲法という定めに行うことになっています。権力者は憲法に従うと国民と約束し、その約束があるから国民は権力に従って秩序を保っていく。これが立憲主義という考え方です。

立憲主義では暴力を否定いるわけではありません。暴力の有効性を認めつつもその危険性も省みられています。暴力の危険性をコントロールするために、暴力を振るう〔国家〕の主人を暴力によって最も被害を受ける国民そのものだとするところから制度が構築されて、国民を支配する権力を国民が支配するという、権力と国民とが相互に支配し合い牽制し合うという構図になっています。

この相互性は現実には甚だ不完全なものです。どうしても権力側が力を持つ方向に傾きがちになるという不完全さがある。この不完全さを自覚して、完全なものにしよう――民主主義を成熟させよう――という志を持つ者たちが「市民」という存在です。現代の民主主義は「市民」が主役になって「革命」を起こしたところに起源があるわけで、「市民」が「国民」として権力と憲法という契約を交わす。もし権力が国民の意に反するような悪政を敷けば、国民は権力との契約を破棄して、また再び「革命」を起こすことができる。

つまり民主主義(立憲主義)とは、「市民≒国民」の側に「革命=崩壊(再起動)」を為す主導権があるというところが根っこのところにあるわけです。国民の側に崩壊の主導権があるということは、崩壊の責任も「国民」にあるということですから、「国民(≒市民)」は、憲法という契約を通じて確保される権力との相互性を完全なものにする責任も負うことになるのです。

ところで日本ではつい先頃、政権交代という「革命」がありましたが、これは正真正銘の「革命」ではないにせよ、擬似的には「革命」と呼べるものです。正真正銘の「革命」とは〔国家〕を完全に崩壊させることですが、本当にそんなことになってしまうと暴力をコントロールする箍が外れてしまって大変困ったことになるので、民主主義という〈システム〉は、選挙という制度を設けて擬似的に「革命」を演出することになります。選挙とは、暴力がコントロールを失って剥き出しになることを防ぐ、利口な制度だということができます。

しかし、選挙にも問題点はあります。それは、正真正銘の「革命」を起こす主導権が国民にあるということを忘れさせてしまう、という欠点です。剥き出しの暴力は恐ろしいものですから、誰しも暴力を抑える箍が外れることを望みはしません。しかし、そこを恐れるあまり、選挙という疑似「革命」を行う〈システム〉が至上のものだと思い込んでしまうと、そこから「〈システム〉への隷属」への道を歩み出すことになってしまいます。

ここで大切なのは、「〈システム〉への隷属」を免れるためには、つねに〈システム〉を「革命=崩壊」を起こす覚悟が必要、というのではないということです。「覚悟」というところから論理が先走ると、これは「暴力革命」を肯定する道に入ってしまいまい、それはそれで困ったことになる。常に必要なのは(抽象的な言い回しになってしまいますが―)、「覚悟」といった臨戦的な姿勢ではなくて、そこから一歩退いた「自覚」という姿勢です。つまり、「革命=崩壊」を本当に実行するかどうかは別にして、そのことを思考の枠の中には入れておけ、ということです。「革命=崩壊」は危ないからと言って思考の枠からすら追い出して「自覚」を失い、暴力を抑え込んでいる〈システム〉を盲目的に承認してしまうと、それは「〈システム〉への隷属」の道に入ってしまうということなのです。


ここまでの話を要約すると、民主主義(立憲主義)下の〔国家〕では「革命=崩壊」の責任は「市民≒国民」にあるということです。だとするならば、次は、資本主義下の〔経済〕の崩壊(=再起動)の責任はどこにあるのか、という疑問が生じてくることになります。もう答えはわかったようなものですが、そこは次回とさせていただきます。

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