愚慫空論

無尽

『無尽』(wikipedia)
無尽(むじん)とは日本の金融の一形態である。複数の個人や法人等が講等の組織に加盟して、一定又は変動した金品を定期又は不定期に講等に対して払い込み、利息の額で競合う競りや抽選によって金品の給付を受ける。

・・・

歴史
無尽は、貞永式目追加法にも記述があり、鎌倉時代に登場したとされる。庶民の相互扶助として始まったものだとされる。江戸時代になると、身分や地域に問わず大衆的な金融手段として確立し、大規模化していく講も存在するようになった。 ・・・
以下のWikipediaの記述では無尽が業として、すなわち〈システム〉として変遷していく様子が記されていますが、本来、無尽は“庶民の相互扶助として始まった”とあるとおり、〈生活世界〉のなかのものです。


怯えの時代 (新潮選書)怯えの時代
(新潮選書)
内山 節

〈生活世界〉の中の無尽がいかなるものであったか、右の著作より記述をお借りします。


 ところで、1927年の金融恐慌からはじまり、30年、31年にピークに達していく昭和恐慌の時代に、人々が作り出していった自主的な庶民金融に「無尽」のひろがりがあった。無尽は会員によって運営され、たとえば月に一回会員が集まって会費を払う。仮に20人の会員がいて会費が一万円だとすると会合の時に20万円が集まる。このお金を必要としている会員に融資していく。よく用いられた方法は、セリに掛けるという方法だった。集まったお金が20万円だとすると、有志を受けたい人が入札価格を示す。3人が応札し、Aさんが19万円と言い、Bさんは18万円、Cさんは17万円を提示したとしよう。この場合、Cさんが落札し、20万円の中から17万円を手にする。Cさんは返すときには20万円を返金しなければならない。差額の3万円は出資者である会員が受け取る利子になる。だから、最低価格を提示した人が、実は最高金利を示したことになるのである。
このようなルールだけだと無尽は単なる〈システム〉でしかありませんが、
...そして第三は、メンバーがよく知り合っている少人数、通常は2、30人程度でできあがっているために、お互いの配慮が働くということである。たとえばAさんの家族が入院して大変になっているというようなことがあった場合、Aさんが19万8千円という入札価格を示したときに、他のメンバーは入札せず、Aさんに落札させてしまう、というようなことができる。これならAさんはかなりの低金利で資金調達が出来たことになる。また逆に誰も資金調達が必要でなく、応札者がいないというようなことがあることもある。この場合は「流れ」にしてしまってもよいが、そのときメンバーのなかに経済状態がきわめて良好な者がいると、その人がたとえば15万円を示すといったような形で低値落札をし、メンバーたちが共同で受け取る利子量をふやす、といったこともあった。・・・
といったような柔軟な運用をすることによって、無尽は、貨幣という〈システム〉を〈生活世界〉に上手く取り込む知恵として機能した。上の引用にもありますが、昭和の大恐慌の時にはこうした無尽が全国津々浦々に出来上がって、さらには無尽同士が無尽を組む大無尽といったようなものも出現したりして、大変な時代を相互扶助で乗り切っていった、ということらしいのです。
(ちなみに、大無尽がシステム化したのが現在の信用金庫だということです。)

私は前エントリーで、association志向、community志向といったことを言いましたが、無尽はそのcommunity志向になるのだと思っています。本来、貨幣といったものは〈システム〉の世界のものであり、普通ならassociation志向になっていくものでしょう。家族、親族といったような求心力の強い集団ならば、association志向の貨幣がcommunity志向で用いられるといった現象は世界中で見られるでしょうが、国家的な危機に際して(昭和の大恐慌を国家的危機だった言っても、言い過ぎではありますまい)、community志向の仕組みが全国津々浦々に広がって機能するといったようなことは、他では見られなかった現象ではないでしょうか。かつての日本人は、大きなcommunity志向能力があったということができます。

しかしこれはあくまで過去の話で、現在の日本人にはそのような能力が失われてしまっています。平成に世になった現在も、昭和の時代と同様の金融危機が懸念されていますが、もし現下の 金融危機が恐慌に至るような状況になったとして、昔のように無尽といった相互扶助の仕組みが各所で自然発生的に立ち上げることが出来るような、そんな能力を今の日本人が持っているかというと、まず無理でしょう。それが無理なのは、昨年の暮れから今年の正月にかけて騒がれた派遣村の騒動を見てもわかります。もしまだ日本人に無尽を立ち上げることができる能力があるのなら、あのような騒動は起こることはなかったでしょう。派遣切りや雇い止めといった仕打ちに遭う人が多数いようとも、それぞれが持つ〈生活世界〉のネットワークの中に吸収されていったはずです。いつの時代にもそうしたネットワークを持たない不幸な人はいたでしょう。しかし、あれほどの人間が〈生活世界〉のネットワークからはじき出されているような状態は、近代以降の日本ではなかったことだろうと思います。

あの派遣村の騒動の時、論点にあがったのは、いかに日本という国家の〈システム〉のセーフティーネットが穴だらけかといったことでした。もちろん国家の〈システム〉として、十全なセーフティーネット を張り巡らせるということは大切なことです。しかし、それはあくまで最終のセーフティーネットであって、国家のセーフティーネットにのみ議論の焦点を当てることには、私は危惧を覚えます。セーフティーネットは〈システム〉と〈生活世界〉を含む社会全体に様々な形で張り巡らされていなければならないものであって、〈システム〉にのみその責務があるかのごとき議論は、問題を矮小化させていると思うのです。現在の日本が「すべり台社会」だいうのはその通りでしょうが、それは、〈システム〉だけの問題ではなくてむしろ〈生活世界〉の問題ではなかったのでしょうか? 

かつての日本人には、〈生活世界〉を作り上げるcommunity志向の豊かな能力がありました。現在ではそれが失われてしまい、日本人は裸の個人のまま〈システム〉と対峙しなければならなくなってきた。少し前まで「勝ち組」だ「負け組」だと騒がれていましたが、これは〈システム〉を動かせる者が「勝ち組」だったということで、ここにある新自由主義的発想には〈生活世界〉は完全に欠如している。がしかし、その新自由主義を批判する者たちの多くも〈生活世界〉は欠如したままです。新自由主義は国家の〈システム〉が改悪されたから生じた問題であり、〈システム〉を改善しさえすればよい――これは問題の矮小化であって、改善しさえすればよいのは〈システム〉だけではありません。人々が幸福を感じるのは〈生活世界〉のなかであって、最大の問題は〈システム〉が全域化し、〈生活世界〉が空洞化してしまったことなのです。問題を〈システム〉の中にしか見いだせない者は、結局のところ〈生活世界〉の空洞化に手を貸している者であり、新自由主義信奉者と同じ誤りを犯していると私は考えています。

コメント

ご無沙汰してます

こんにちは。

いあ~、昭和恐慌の時代にそういうことが行われてたんですねぇ!
全然知りませんでした。
なにか江戸時代の話を聴いているようでしたが、昭和の時代にもそれが成立していたというのが、なんか感動的です。

やっぱり、メンバーがよく知り合っている人たちだってのがポイントですね。
このつながりが前提にないと、うまく機能していかないように思います。
「地域集団」ということで言うと、うちの周りはこれが希薄なんですよねぇ。
僕自身も、自分からそれを何とか打ち破りたいとも思わない。
また、うちは子どももいないので、学校つながり・・ってのもないし。。。
どこに埋まってる種を育てていけばいいのか、自分でも迷っています。

何を言ってるんですか(笑)、アキラさん

沖縄では今現在‘もやい’は普通に機能してます。
最貧県の面目躍起というか…。
県民のほとんどが何らかの‘もやい’仲間に入っています。
多い人だと、月に四、五回も別々の‘もやい’の会合に行きますよ。
会社経営者には経営者仲間の‘もやい’の会合があるし、高校同期の‘もやい’仲間もあれば、ご近所の‘もやい’、親戚一族の‘もやい’もありますよ~。
‘もやい’知らない沖縄県民は、まずぜったいにいませんね。

アキラさん風に言うと、沖縄はそのまま‘江戸時代の社会’です。
たぶん、内地の人とのコミュニケーションがかなりずれるなあと思うことの多い理由のひとつかも。
互いに‘生きている社会’が、どこか微妙に違うんですね。

naokoさん

こんにちは♪

その「もやい」って何する集まりなんですか?
「無尽」とおんなじ?
何か具体的な機能を果たすもの?
そのへんが、実は問題。

江戸時代から‘無尽’の別名が‘もやい’

愚樵さんが上で書いているとおりのものですよ。
そのものまんまです。
東京でも古くからの共同体が生きている地域では、似たような仕組みが残っているようですよ。

‘もやい’にもいろいろあってね

‘助け合いもやい’の場合は、入札制じゃなくて、相談の上、必要な人が必要な月にとる。利息も低く設定されてます。
でも、困っている人が多い場合には、そういう‘もやい’では埒が明かないので、入札制になって、高い利息を払わされ、貧乏人が自分の首を絞めることになったり、お金に余裕のある人が、わざと入札に参加して利息を吊り上げてもうけを狙ったりと、いやらしいこともいろいろ起こる。
‘もやい’で儲けて家を建てたという人もいます。
貧乏人の生き血をすすったわけですね。

とはいえ、その‘もやい’がなければ生きていけなかったという人もいる。
互いの親睦を兼ねて毎月集まっている面もある。
‘五千円もやい’もあれば、‘五万円もやい’もあります。

内山氏によると

もっとも無尽密度(?)が高いのは山梨県、ついで沖縄県南だそうです。山梨でも、4、50歳以上の人なら3つ4つの無尽に入っているのはふつうらしい。

で、私は今、山梨にいるのですが、周囲に聞いてみると、みんな知ってるみたいです。飲食店なんかに入ったりすると“ご宴会・無尽にどうぞ”なんて書いてあったりする。無尽というのは、naokoさんも書いておられるとおり、親睦というか娯楽の側面もあるらしく、だから宴会と同列に扱われたりもするらしいんですね。

それから、本文には書きませんでしたが、無尽には借金をチャラにする仕組みもあるという話です(内山氏による)。

困った人を助ける相互扶助の集まりですので、無尽でお金を借りたはよいが返せないケースもたくさん出るわけです。そういったときには、よく使われたのは「代参」という方法で、みんなの代わりに山へお参りに行ったらしいのですね。借金を返す代わりに良いことをしてもらったということで、チャラになる。

もっとも、現在もまだ「代参」といった方法が生きているかどうかは、私は知りません。「代参」が有効なのは、それが「良いこと」というみんなの意識が必要ですが、そこは現代では怪しいですからね。

ひとつ言えることは、無尽というのは、相互扶助と娯楽と信仰とが一体となって生み出された知恵だったということ。無尽はもとともは、富士山講だとか伊勢講だとかいった「講」が母体となっていたらしく、日本人の自然信仰と深く結びついていた。江戸や大坂などの都市で暮らす人たちの、自然の世界との結びつきを確保する方法が「講」だったわけで、しかもこの「講」はシステム化された宗教ではなく、あくまで自主的な集まりだった。

ただ、アキラさんも仰っていますが、私自身も無尽のような知恵を復活させるべきかというと、ちょっと違うという感じがする。お金のことは、やはり個人個人で切り離す方が良いと感じるし、そこは〈システム〉に任せた方が良いように思います。現在の貨幣システムは大変に問題の多い偏った〈システム〉ですが、それを無尽といった方法でやり過ごすよりも、〈システム〉そのものを改善しなければならないと考えています。その上で、相互扶助が円滑に行えるような仕組みを考えるべきかな、と。

あくまで私見ですが、その相互扶助の中心になるのは無尽のようにお金ではなくて、ズバリ食料がよいような気がします。日本の食糧事情は、自給率が低いだけではなくて、安全性といった面でも問題が大きいですからね。そうした問題の解決は、農業の発展よりも「農の営み」の復活の方が有効であるように思います。そして、「農の営み」に相互扶助は欠かせないものです。

おー♪

naokoさん、愚樵さん

>愚樵さんが上で書いているとおりのものですよ。
そのものまんまです。
 ・・・・・・・・・・・・・・
‘五千円もやい’もあれば、‘五万円もやい’もあります。
<
おー、なるほど♪
ありがとうございます。
naokoさん、そこを最初に言ってくれなきゃ。 (^o^)
あちこちに今も生きてるんですね。

要するに、naokoさんも仰ってるように、「選択集団」(趣味の集まりとか)でも無尽のようなものは運用可能だってことですよねぇ。
「講」のように、メンバー全員が認める掟のようなものがあるところでは、案外うまくいきそうです。

食料のやりとりになると、今でもそこここでやってますよね。
食料の相互扶助くらいにまで(利害関係の)濃密さをうすめると、地域通貨なども同じような類だとも言えそうなんですが、それが拡がっていかないのはなんででしょうねぇ。

ちょっと関係ないかもしれないんですが、最近 映画の「チェ・ゲバラ2作」を観たんです。
それ観てて思ったんですけど、革命ってむずかしいなぁ、と。 (^_^;)

〈システム〉の全域化

アキラさん

食料の相互扶助くらいにまで(利害関係の)濃密さをうすめると、...

そこはちょっと違うのではないかと思います。というのは、昭和初期の頃を考えてみますと、食料は都市であっても、おそらくかなりのものがおカネを出さなくても手に入ったでしょうし、田舎に帰るという手も多くの人が使えた。つまり生存に必要な食の安全保障は〈生活世界〉の領域で確保できた。無尽でおカネを融通し合うのは、まず食の安全保障があって、その上で〈システム〉と対峙するときのための相互扶助だったろうと思うのです。つまり無尽は、二段構えの相互扶助・安全保障の2段目だったろうというわけです。

翻って今の世の中では〈システム〉が全域化していますから、安全保障はおカネの一段だけ。ですので、現在における食料のやりとりは、相互扶助・安全保障にならないんですね。おカネさえあればよいわけだから、相互扶助の必要性に欠ける。

また逆に、おカネがなければどうにもならないのも現代社会ですから、安全保障を確保するためにはおカネはできるだけ手元に確保しておいた方が有利。ですので、おカネのところでも相互扶助をすることが難しい、といった状況になっていると思うのですね。

ですので、

食料の相互扶助くらいにまで(利害関係の)濃密さをうすめると、...

というのは確かに現代的なんですけど、現代的であるが故にネットワークが広がっていかないということになっている。相互扶助というのは切実な利害関係があったからこそ成立したもので、利害関係が薄いと逆に成立しづらいものだと思います。

ちょっと関係ないかもしれないんですが、最近 映画の「チェ・ゲバラ2作」を観たんです。
それ観てて思ったんですけど、革命ってむずかしいなぁ、と。 (^_^;)

私もそのうち観ようと思ってますが...。

革命というのは、庶民の相互扶助・安全保障のリセットなのではないかと思うのですね。カストロとチェの舞台も、アメリカによってかき乱された庶民の相互扶助のリセットであって、現在のキューバはそれに成功した。ソ連もフランスもアメリカも、革命成立時には似たような状況にあったのではないですか?

私の方も話が飛びますが、私が共産党に批判的なのは、その相互扶助のリセットを、その必要がないのに行おうとしたところにあるんですね。頭で作り上げた理念にのみ拠って、まだまだ耐用年数が切れていない〈生活世界〉をリセットしようとした。今はやりの言葉で言うとKYです。理念は立派だったかもしれないけど、KYだった。だから嫌われたんだと思っているんです。

もうちょっと続けますと、今回の民主党の勝利を革命と評する向きがありますが、こんなのは全然革命ではない。国民も民主党も、〈生活世界〉をかき乱した〈システム〉をリセットしようとしているのではなくて、〈システム〉を立て直す方向を選択したわけですから、ゲームの継続ですね。

しかし、私にはこのゲームはゲームオーバー寸前に見えていまして、遠からずリセットの局面がやってくるだろうと思っています。その時に問われるのが〈生活世界〉を立て直す能力、つまり相互扶助を組み立て直す能力だと思うのですね。敗戦直後の日本人のこの能力には素晴らしいものがありましたが、果たして現在はどうでしょうね? 

無尽(もやい)もね

持ち逃げされるなんてことはめったにないんです。
信用できない人ははじめから入れないし、たとえなくても‘もやいのお金’は、どんなことしても持ってくるもんです。

お金なくても生きていかなきゃならないから、いろんな知恵を総動員する。

いざという時、そういう‘生きる知恵’が鍛えられているかどうかが、ものをいうかもしれませぬ。

これは個人のことだけじゃなくて、社会全体が、ということですね。

naokoさん、愚樵さん

>naokoさん

もやい、、やっぱりある程度濃密な人間関係が成り立っているという前提があるからこそ、ですね。

>いざという時、そういう‘生きる知恵’が鍛えられているかどうかが、ものをいうかもしれませぬ。
<
ホント、そうですよね。
愚樵さんが仰るように、さて、現在はどうか。。。


>愚樵さん

>相互扶助というのは切実な利害関係があったからこそ成立したもので、利害関係が薄いと逆に成立しづらいものだと思います。
<
なるほど、納得です。

>その相互扶助のリセットを、その必要がないのに行おうとしたところにあるんですね。頭で作り上げた理念にのみ拠って、まだまだ耐用年数が切れていない〈生活世界〉をリセットしようとした。
<
これですね、こういう感じのものを『チェ・ゲバラ2作』で感じました。
1作目の『28歳の~』は成功例、『39歳の~』は失敗例。
で 思ったのが、キューバの例は成功例なんですが、ロジックは成り立たないな、と。
ロジックだけでは成功しないな、と。
ある意味、「あり得なさ」の現実化なんだなぁ・・と感じました。
まぁ当たり前のことなんですが、改めて想った次第でした。

あ、同じような感覚を、今年の夏の甲子園・高校野球決勝戦を観てて(たまたまですが)、感じました。 (^o^)
「あり得なさ」が現実化する。
蓋然性の高さ・・といったようなことがまったく問題にならなくなってしまうのが、現実なんだなぁ・・と。

事実は小説よりも奇なり

「あり得なさ」が現実化する。
蓋然性の高さ・・といったようなことがまったく問題にならなくなってしまうのが、現実なんだなぁ・・と。

歴史を眺めてみると、「あり得なさ」の現実化のオンパレードですよね。だからこそ歴史は面白いとも言える。

また私たちひとり一人の「生き様」にだって、振り返ってみれば、「あり得なさ」の現実化としかいいようのないことがいくつかあるものです。決してロジックなんかで言い表すことが出来ない場面。

社会がそうした人間で成り立っているんだから、ロジックが役に立たないとは言わないけど、全面的に通用するはずなどないのですがねぇ...。また頭の良い人ほど、こうした現実を理解できていないことが多かったりしますし...。

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 無 盡 講    本村唯一ノ金融機関、無盡講(頼母子講)ナリトス。其ノ何レノ時代ヨリ行ハレタルカハ詳ナラズ。最初ハ貧困者救済ノタメ組織セラレタルガ如シ。古昔、人情厚ク隣保相和シ相助ケ、破産等ノ厄ナカラシメタルモノニシテ、若シ一旦、負債等ノタメ到底破産ヲ...

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

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