日本とフランス――農村の風景の違い
2009-08-20
林業労務者で貧乏人のワタクシ愚樵は、当然のことながら、おフランスなぞには行ったことがございませんので、日本とフランスの農村風景の違いとは言っても、自分で見てきた話ではありません。他人様から聞いた話なのですが、それによると、最大の違いは、フランスの農村には、日本の農村には存在しないものがあることなのだそうです。
フランスの農村にはあって、日本の農村にはないもの。それはシャトーなのでそうです。現在シャトーというと、シャトー・マルゴーとかシャトー・ペトリュスだとか、ワインの名前を思い浮かべてしまいますが(私が知っているのは名前だけです)、シャトーとはもともとは領主の館。フランスの農村――フランスに限らず、日本を文明社会の大方の場所――では、農村の中に領主の館が存在する。
このことが何を意味するのか? 答えは簡単で、昔は、フランスでは、領主と農民は同じ場所に住んでいた、ということ。日本に領主の館がないということは、日本では、領主――というより支配階級は武士ですが、武士は農村には居なかった。どこにいたかというと、城下町にいた。江戸時代、武士は須く都市住人だったのです。
領主が農民と同じところで暮らす、暮らさないは、単に領主の居場所の違いというだけには、当然のことながら留まりません。領主――支配者階級と言い換えましょう――が、被支配者の実際にいるかいないか、この違いは、現在の私たちでも容易に想像がつくと思います。例としては学校のクラスなどを思い浮かべてもらえばよいと思いますが、教師が居るのと居ないのとでは、雰囲気はかなり異なる。やはり監督者の目が行き届いている方が雰囲気としては厳しいものがあるでしょう。領主が農民から搾取する年貢を教師が生徒に出す宿題に例えると、フランスでは教師がひとり一人の生徒から直接宿題を受け取るようなもので、日本の場合は学級委員がまとめて教師に報告だけするようなもの。フランスでは領主が農民と一緒にいるので、農地からどの程度の収穫が上がってどの程度の年貢を取ることが出来、農民がどの程度の暮らしをしているかも把握できるが、農村に武士がいなかった日本ではそれが出来なかった。庄屋という、学校のクラスでいうと学級委員が、あくまで自主的な形で武士たちに年貢を引き渡していた。
江戸時代を支配階級の抑圧が強かった暗黒時代だと教わった私たちには驚きですが、当時武士たちは、農村にいなかったというだけではなくて、農村に自由に立ち入ることも出来なかったらしい。何の前触れもなく武士が農村に立ち入ると、たちまちにして農民一揆が起こったというのが江戸時代の実態だったらしい。そんな状態では、本当に武士たちが日本の支配階級だったのかどうかさえ、疑わしいものです。
支配者階級、言い換えれば搾取者が被搾取者と同居していなかったという事実は、そのほかにもいろいろな影響を及ぼします。その一例が、読み書き算盤といった教育。江戸時代における日本の識字率の高さは世界一だったことはよく知られていますが、これは単に日本人が教育熱心だったという精神論だけの問題ではない。むしろ唯物論的に説明がつくことで、それは武士が農村に立ち入れなかったということと大きく関連しています。
武士が農村に立ち入れなかったということは、武士は農村の生産の実態を把握できていなかったということになる。ということは、当時の農民は現在の私たちが想像している以上に豊かな暮らしをしていた可能性が高いということ。そして江戸時代は、これも私たちが想像している以上に貨幣経済が発達していた社会であって、しかも豊かな農民は、それぞれ自由に貨幣による交易を行っていた。日本で識字率が高かったのは、貨幣による交易を行うのに、文字を読み書きし計算をする必要があったからなのです。農村の子どもたちは寺子屋で読み書きを習いましたが、このことは、日本の農民たちが当時から読み書き算盤を農民の暮らしに必要なものだと認識していたに他ならないのです。
対して領主が農民とともに暮らしていたフランスでは、農民自身が他所と交易をする必要も機会もなかった。交易をできるだけの豊かさも、交易を行う機会もすべて領主が搾取していた。だから、フランスでは日本に比べて圧倒的に識字率が低かった。農民には、文字を読み書きし複雑な計算をする必要がなかったし認められなかったのです。
日本でもフランスでも、近代以前は農業国家でした。それは世界のどこの国をとっても同じですが、それはすなわち国民の大多数は農民だったということ。そして、豊かでひとり一人が読み書きも出来た日本の農民と、貧しく読み書きの機会すら与えられなかったフランスの農民とが、それぞれの風土の違い以上に文化的に違いがあるのは当然のはずで、その文化の違いは現代にも大きく影響を及ぼしていると考えるのも、これまた当然のはず。にもかからわらず日本の知識人の多くは、日本の歴史を顧みることをせず、フランスやアメリカあたりで培われてきた価値観を日本人にも当てはめようとする。フランスでその逆をすればどういったことになるか想像がつくでしょうに、なぜか、そのような想像はしないようなのです。
日本と、フランスをはじめとする欧米の文化の違いがどういったところに表れるのか? そのことを的確に示す例が志村さんの記事にあります。
『国を作る力が試されている』(志村建世のブログ)
ここで述べられているのは、欧米人は、すぐさま秩序を作り上げるということですが、この欧米人の秩序とは、組織だった秩序、英語で表記するならassociation(アソシエーション)。対して日本人が作るのは、community(コミュニティ)だということです。志村さんの記事では、日本人のcommunity志向は“どうしようもない後進性”と評価されていますが、私はこれを後進性とする評価そのものが欧米的だと思います。確かに戦争という時代背景のなかで、日本人が作るcommunityが暴力性を帯びたのは事実でしょうが、その同じ日本人が、一旦平和になれば9条を支持したことも考え合わせなければ成りません。9条は日本人がcommunity志向だからこそ支持されたのであって、association志向の欧米人には理解しがたいものです。
欧米人のassociation志向は、彼らの社会がいまだに階級社会の強固な伝統を引きずっていることと強く関連していると考えるのが自然です。そのことは領主が農民と同じ場所にいた、という事実とも深く結びついているでしょう。また日本人がcommunity志向なのも、日本が農村的平等社会の伝統をいまだに引きずっていることと深く関連しているはずです。
そしてもうひとつ注目すべき事実は、欧米人よりも読み書きに慣れ親しんだ歴史が長い日本人の方が、欧米人よりも非言語コミュニケーションに長けている、ということです。これは欧米の言語と日本語の構造の違いという側面もあるかと思われますけれども、それぞれの気質がcommunity志向かassociation志向かの違いが大きいでしょう。community志向ゆえに早くから読み書きに慣れ親しんだのか、早くから読み書きに慣れ親しんだからcommunity志向なのか、それとも読み書きの早い遅いとcommunity志向association志向とは関連がなく日本人の例は偶然なのか、そのあたりは私には判然としませんが、いずれにせよ、注目に値する事実だと思います。
最近私は、宮台氏の表現を借用して〈システム〉〈生活世界〉といったことを言いますが、association志向が〈システム〉志向であり、community志向〈生活世界〉志向であることは、特に論証する必要もないでしょう。そして現在、特でヨーロッパで注目されているのが、community志向〈生活世界〉志向の方向性らしいです。アメリカは未だにassociation志向が〈システム〉志向で、日本も知識層は同じ傾向ですが、ヨーロッパが現在でもまだ世界の思想潮流の先進地域であるとするなら、日本が未だ association志向が〈システム〉志向でものごとを捉えようとするのは、半周遅れだということになる。かつてassociation志向が〈システム〉志向だった欧州の基準を、もともとcommunity志向〈生活世界〉志向の日本に適用しようとすることは的外れと同時に、時代遅れでもあるのではないでしょうか。
フランスの農村にはあって、日本の農村にはないもの。それはシャトーなのでそうです。現在シャトーというと、シャトー・マルゴーとかシャトー・ペトリュスだとか、ワインの名前を思い浮かべてしまいますが(私が知っているのは名前だけです)、シャトーとはもともとは領主の館。フランスの農村――フランスに限らず、日本を文明社会の大方の場所――では、農村の中に領主の館が存在する。
このことが何を意味するのか? 答えは簡単で、昔は、フランスでは、領主と農民は同じ場所に住んでいた、ということ。日本に領主の館がないということは、日本では、領主――というより支配階級は武士ですが、武士は農村には居なかった。どこにいたかというと、城下町にいた。江戸時代、武士は須く都市住人だったのです。
領主が農民と同じところで暮らす、暮らさないは、単に領主の居場所の違いというだけには、当然のことながら留まりません。領主――支配者階級と言い換えましょう――が、被支配者の実際にいるかいないか、この違いは、現在の私たちでも容易に想像がつくと思います。例としては学校のクラスなどを思い浮かべてもらえばよいと思いますが、教師が居るのと居ないのとでは、雰囲気はかなり異なる。やはり監督者の目が行き届いている方が雰囲気としては厳しいものがあるでしょう。領主が農民から搾取する年貢を教師が生徒に出す宿題に例えると、フランスでは教師がひとり一人の生徒から直接宿題を受け取るようなもので、日本の場合は学級委員がまとめて教師に報告だけするようなもの。フランスでは領主が農民と一緒にいるので、農地からどの程度の収穫が上がってどの程度の年貢を取ることが出来、農民がどの程度の暮らしをしているかも把握できるが、農村に武士がいなかった日本ではそれが出来なかった。庄屋という、学校のクラスでいうと学級委員が、あくまで自主的な形で武士たちに年貢を引き渡していた。
江戸時代を支配階級の抑圧が強かった暗黒時代だと教わった私たちには驚きですが、当時武士たちは、農村にいなかったというだけではなくて、農村に自由に立ち入ることも出来なかったらしい。何の前触れもなく武士が農村に立ち入ると、たちまちにして農民一揆が起こったというのが江戸時代の実態だったらしい。そんな状態では、本当に武士たちが日本の支配階級だったのかどうかさえ、疑わしいものです。
支配者階級、言い換えれば搾取者が被搾取者と同居していなかったという事実は、そのほかにもいろいろな影響を及ぼします。その一例が、読み書き算盤といった教育。江戸時代における日本の識字率の高さは世界一だったことはよく知られていますが、これは単に日本人が教育熱心だったという精神論だけの問題ではない。むしろ唯物論的に説明がつくことで、それは武士が農村に立ち入れなかったということと大きく関連しています。
武士が農村に立ち入れなかったということは、武士は農村の生産の実態を把握できていなかったということになる。ということは、当時の農民は現在の私たちが想像している以上に豊かな暮らしをしていた可能性が高いということ。そして江戸時代は、これも私たちが想像している以上に貨幣経済が発達していた社会であって、しかも豊かな農民は、それぞれ自由に貨幣による交易を行っていた。日本で識字率が高かったのは、貨幣による交易を行うのに、文字を読み書きし計算をする必要があったからなのです。農村の子どもたちは寺子屋で読み書きを習いましたが、このことは、日本の農民たちが当時から読み書き算盤を農民の暮らしに必要なものだと認識していたに他ならないのです。
対して領主が農民とともに暮らしていたフランスでは、農民自身が他所と交易をする必要も機会もなかった。交易をできるだけの豊かさも、交易を行う機会もすべて領主が搾取していた。だから、フランスでは日本に比べて圧倒的に識字率が低かった。農民には、文字を読み書きし複雑な計算をする必要がなかったし認められなかったのです。
日本でもフランスでも、近代以前は農業国家でした。それは世界のどこの国をとっても同じですが、それはすなわち国民の大多数は農民だったということ。そして、豊かでひとり一人が読み書きも出来た日本の農民と、貧しく読み書きの機会すら与えられなかったフランスの農民とが、それぞれの風土の違い以上に文化的に違いがあるのは当然のはずで、その文化の違いは現代にも大きく影響を及ぼしていると考えるのも、これまた当然のはず。にもかからわらず日本の知識人の多くは、日本の歴史を顧みることをせず、フランスやアメリカあたりで培われてきた価値観を日本人にも当てはめようとする。フランスでその逆をすればどういったことになるか想像がつくでしょうに、なぜか、そのような想像はしないようなのです。
日本と、フランスをはじめとする欧米の文化の違いがどういったところに表れるのか? そのことを的確に示す例が志村さんの記事にあります。
『国を作る力が試されている』(志村建世のブログ)
ここで述べられているのは、欧米人は、すぐさま秩序を作り上げるということですが、この欧米人の秩序とは、組織だった秩序、英語で表記するならassociation(アソシエーション)。対して日本人が作るのは、community(コミュニティ)だということです。志村さんの記事では、日本人のcommunity志向は“どうしようもない後進性”と評価されていますが、私はこれを後進性とする評価そのものが欧米的だと思います。確かに戦争という時代背景のなかで、日本人が作るcommunityが暴力性を帯びたのは事実でしょうが、その同じ日本人が、一旦平和になれば9条を支持したことも考え合わせなければ成りません。9条は日本人がcommunity志向だからこそ支持されたのであって、association志向の欧米人には理解しがたいものです。
欧米人のassociation志向は、彼らの社会がいまだに階級社会の強固な伝統を引きずっていることと強く関連していると考えるのが自然です。そのことは領主が農民と同じ場所にいた、という事実とも深く結びついているでしょう。また日本人がcommunity志向なのも、日本が農村的平等社会の伝統をいまだに引きずっていることと深く関連しているはずです。
そしてもうひとつ注目すべき事実は、欧米人よりも読み書きに慣れ親しんだ歴史が長い日本人の方が、欧米人よりも非言語コミュニケーションに長けている、ということです。これは欧米の言語と日本語の構造の違いという側面もあるかと思われますけれども、それぞれの気質がcommunity志向かassociation志向かの違いが大きいでしょう。community志向ゆえに早くから読み書きに慣れ親しんだのか、早くから読み書きに慣れ親しんだからcommunity志向なのか、それとも読み書きの早い遅いとcommunity志向association志向とは関連がなく日本人の例は偶然なのか、そのあたりは私には判然としませんが、いずれにせよ、注目に値する事実だと思います。
最近私は、宮台氏の表現を借用して〈システム〉〈生活世界〉といったことを言いますが、association志向が〈システム〉志向であり、community志向〈生活世界〉志向であることは、特に論証する必要もないでしょう。そして現在、特でヨーロッパで注目されているのが、community志向〈生活世界〉志向の方向性らしいです。アメリカは未だにassociation志向が〈システム〉志向で、日本も知識層は同じ傾向ですが、ヨーロッパが現在でもまだ世界の思想潮流の先進地域であるとするなら、日本が未だ association志向が〈システム〉志向でものごとを捉えようとするのは、半周遅れだということになる。かつてassociation志向が〈システム〉志向だった欧州の基準を、もともとcommunity志向〈生活世界〉志向の日本に適用しようとすることは的外れと同時に、時代遅れでもあるのではないでしょうか。
コメント
話の本筋では有りませんが、
つらつらと
フランス人がアソシエーションを作る、というのはある意味正しいですが、その運用を見るとコミュニティの要素が実は相当に多いです。なんと言ってもフランスは『ラテン』ですから、情にもろいのです。
私の経験では『お前を見込んで頼みがある』という浪花節なごり押し依頼が一番通じるのはフランス人でした。
フランスでも非言語コミュニケーションは重要ですが、彼らは言語の全能性を信じるあまり、自分自身が非言語の感情に影響されているという事実を知覚することができないようです。非論理的な決定を無理矢理な理屈で言い逃れてしれっとしていることがよくあります。まだ情実主義を自覚できているだけ日本人のほうがマシです。
中国人は逆にアソシエーションをまったく信頼していません。彼らにとってはコミュニティが全てです。これはどの階層の人間でもまったく変わりません。
彼らはコミュニティに属するものには無制限の信頼を、そうでないものには冷徹なまでの金銭関係を求めてきます。よく中国人は面子に拘る、という人がいますが、あれは交渉の駆け引きの一つです。本気で拘泥している奴なんか一人もいません。
もちろんコミュニティに敵対するそぶりを見せれば徹底的に攻撃されるでしょうが、それは本来の『面子』とは違うものです。
韓国人は深刻なコミュニティとアソシエーションの二律背反に悩まされている人々です。盧武鉉元大統領を自殺にまで追いやった潔癖な儒教道徳と、中華譲りの縁故絶対主義の狭間で彼らは常に揺れています。
中華文明が対外的な仮面として使っていた『面子』を彼らは内面化してしまっていますから、中国人のように自分の面子を潰しても実利を取るということができないのです。
インドはそういう意味でまったくアソシエーションしか存在しない奇妙な社会でした。土着のコミュニティ同士の断絶度合いが酷すぎて、それ以外の集団ではまともなコミュニティを作ることができないのです。
彼らに何かを納得させるのは本当に大変でした。普通なら非言語的な情報で伝わるべき何かがまったく無いのです。わたしは信じるに足る人である、ということを言葉で説明することなんて日本人はしません。フランス人だってそんなことはしません。が、彼らはそれを要求します。非常に狭い複雑な互いに信頼しないコミュニティから来た人々どうしの間にはそのような非言語的相互理解は期待できないから、彼らは彼らの理屈でちゃんと理解するまでは絶対に納得したりはしません。
ただ世界のどこでも同じですが、時間と手間さえかければ友人になることは可能です。それは間違いがありません。ただ日本人は『友愛』の度が過ぎて「どんな場合でも」友愛できると思っている人が多すぎるような気はします。当たり前のことですが、すれ違いざまに友愛することは不可能です。何の紹介もなしに初対面でいきなり友愛しろというのは無茶な話です。中国人が自分でも信じてなど居ない面子を重視してみせるのは、それが彼らと友愛しない人に対する仮面だからです。フランス人が平等を口にしながら黒人もムスリムも重要なポストにつけないのは彼らとの「友愛」にかかるコストが大きすぎるからです。物事には本音と建前があります。
あと思うのが、日本人にはむやみに自分たちを外国と引き比べてけなす傾向が強いようには思います。
識字率の高さはかえって外国の『建前』を読んで自分たちの『本音』と比べることで自尊心をへこませる伝統を作り出してしまったのかもしれませんね。
長文失礼いたしました。
私の経験では『お前を見込んで頼みがある』という浪花節なごり押し依頼が一番通じるのはフランス人でした。
フランスでも非言語コミュニケーションは重要ですが、彼らは言語の全能性を信じるあまり、自分自身が非言語の感情に影響されているという事実を知覚することができないようです。非論理的な決定を無理矢理な理屈で言い逃れてしれっとしていることがよくあります。まだ情実主義を自覚できているだけ日本人のほうがマシです。
中国人は逆にアソシエーションをまったく信頼していません。彼らにとってはコミュニティが全てです。これはどの階層の人間でもまったく変わりません。
彼らはコミュニティに属するものには無制限の信頼を、そうでないものには冷徹なまでの金銭関係を求めてきます。よく中国人は面子に拘る、という人がいますが、あれは交渉の駆け引きの一つです。本気で拘泥している奴なんか一人もいません。
もちろんコミュニティに敵対するそぶりを見せれば徹底的に攻撃されるでしょうが、それは本来の『面子』とは違うものです。
韓国人は深刻なコミュニティとアソシエーションの二律背反に悩まされている人々です。盧武鉉元大統領を自殺にまで追いやった潔癖な儒教道徳と、中華譲りの縁故絶対主義の狭間で彼らは常に揺れています。
中華文明が対外的な仮面として使っていた『面子』を彼らは内面化してしまっていますから、中国人のように自分の面子を潰しても実利を取るということができないのです。
インドはそういう意味でまったくアソシエーションしか存在しない奇妙な社会でした。土着のコミュニティ同士の断絶度合いが酷すぎて、それ以外の集団ではまともなコミュニティを作ることができないのです。
彼らに何かを納得させるのは本当に大変でした。普通なら非言語的な情報で伝わるべき何かがまったく無いのです。わたしは信じるに足る人である、ということを言葉で説明することなんて日本人はしません。フランス人だってそんなことはしません。が、彼らはそれを要求します。非常に狭い複雑な互いに信頼しないコミュニティから来た人々どうしの間にはそのような非言語的相互理解は期待できないから、彼らは彼らの理屈でちゃんと理解するまでは絶対に納得したりはしません。
ただ世界のどこでも同じですが、時間と手間さえかければ友人になることは可能です。それは間違いがありません。ただ日本人は『友愛』の度が過ぎて「どんな場合でも」友愛できると思っている人が多すぎるような気はします。当たり前のことですが、すれ違いざまに友愛することは不可能です。何の紹介もなしに初対面でいきなり友愛しろというのは無茶な話です。中国人が自分でも信じてなど居ない面子を重視してみせるのは、それが彼らと友愛しない人に対する仮面だからです。フランス人が平等を口にしながら黒人もムスリムも重要なポストにつけないのは彼らとの「友愛」にかかるコストが大きすぎるからです。物事には本音と建前があります。
あと思うのが、日本人にはむやみに自分たちを外国と引き比べてけなす傾向が強いようには思います。
識字率の高さはかえって外国の『建前』を読んで自分たちの『本音』と比べることで自尊心をへこませる伝統を作り出してしまったのかもしれませんね。
長文失礼いたしました。
訓練という要素は大きいでしょうね
逝きし世の面影さん
>『国を作る力が試されている』(志村建世のブログ)の記事の意味の解釈が納得いきません。
>外国では捕虜になる事を想定して平時から教育していたから自立的にスムーズに行くのが当然なのであり、想定外の日本軍捕虜が弱肉強食のサバンナの掟で行動するのも有る意味当然なのです。
ご指摘の訓練の要素は大きいかと思います。が、となると、
>「原点からの秩序作り」
(志村さんの記事の記述)
ではなかったということになってしまいますね。想定内で訓練されていたというなら、“原点から”とは言えません。
志村さんの記事のタイトルは『国を作る力』ですから、想定されていたのはやはり“原点から”だと思います。
欧米に人にとって戦争捕虜となることが“原点から”だったか否かは別にしても、私はやはり欧米人はassociation志向〈システム〉志向、日本人はcommunity志向〈生活世界〉志向という「原点」があることは変わりはないと思います。彼らの世界観は上下関係が厳格に定まった一神教に影響されていますから、作る秩序も似通ったものになるはずです。
>『国を作る力が試されている』(志村建世のブログ)の記事の意味の解釈が納得いきません。
>外国では捕虜になる事を想定して平時から教育していたから自立的にスムーズに行くのが当然なのであり、想定外の日本軍捕虜が弱肉強食のサバンナの掟で行動するのも有る意味当然なのです。
ご指摘の訓練の要素は大きいかと思います。が、となると、
>「原点からの秩序作り」
(志村さんの記事の記述)
ではなかったということになってしまいますね。想定内で訓練されていたというなら、“原点から”とは言えません。
志村さんの記事のタイトルは『国を作る力』ですから、想定されていたのはやはり“原点から”だと思います。
欧米に人にとって戦争捕虜となることが“原点から”だったか否かは別にしても、私はやはり欧米人はassociation志向〈システム〉志向、日本人はcommunity志向〈生活世界〉志向という「原点」があることは変わりはないと思います。彼らの世界観は上下関係が厳格に定まった一神教に影響されていますから、作る秩序も似通ったものになるはずです。
日本人の部分にだけ
KYDさん
>あと思うのが、日本人にはむやみに自分たちを外国と引き比べてけなす傾向が強いようには思います。
日本人でもフランス人でも、自分を他者とを引き比べたがる性向の人はいると思いますが、やはり日本人には多いのでしょうね。それも私の感触では、都市在住で学歴が高かったりする人間に多いような印象を受けます。
仕事柄私の周囲には、昔ながらの日本人と言いますか、田舎で生まれて田舎で育ち、長じてもずっと田舎で暮らして年を取ったというような人が多いのですが、そうした人たちに共通しているのは、むやみに自分と他者とを引き比べたりしない、ましてや卑下したしない、ということ。自分は自分、他者は他者、です。
自分を他者と引き比べる必要がある人は、きっと心の中に大切な“何か”が欠けているのでしょう。その“何か”は、いくらおカネを蓄えても知識を蓄えても、補うことが出来ないもの。現在の日本人に自分と他者とを引き比べる必要がある人が多いのはその“何か”が欠けている人が多いということになるのですが、私はその“何か”は〈生活世界〉の充実から生まれて来るのだと思っているのですね。決して〈システム〉からは獲得できない。
で、私はこのことについては、フランス人はおそらく自覚的だろうと思っています。たっぷりバカンスをとって、仕事よりも家庭が大切。対して、日本人はまだ自覚している人は少ない。ワーキングプアだとかプレカリアートだとかいいながら、まだ〈システム〉のなかで居場所を確保しようとする。正社員になりたいとか、今時正社員になったって良いとは限らないのに、〈システム〉のなかで闘争して奪い取ろうと考える。
フランス人のマネをするならそういった部分をマネればよいと思うのですが、どうしても自分と他者とを引き比べてしまう日本人は、目が〈システム〉の方へ向いてしまうのでしょうね。〈システム〉だと比べることが出来ますが、その国それぞれの〈生活世界〉は引き比べようがない。自分の根っこを掘り下げて、自分と他者とは違うのだということを確認しなければならない。自分の「原点」を見つけ出すしかないのですね。
つまり、日本人が見失っているのは日本人の「原点」。そういうと天皇がどうのと短絡的なことを言う者が多いですが、天皇なんて日本の「原点」でもなんでもない。江戸時代の庶民は、ほとんどの者が天皇の存在すら知らなかったのですから。将軍様や殿様は知っていても、帝(みかど)は知らなかった。日本の庶民にとっての天皇の歴史は、200年にも満たないのですね。1000年を優に超える歴史を持つ日本において、たかだか200年ほどの歴史しかないものが「原点」であるはずなどないのです。
>あと思うのが、日本人にはむやみに自分たちを外国と引き比べてけなす傾向が強いようには思います。
日本人でもフランス人でも、自分を他者とを引き比べたがる性向の人はいると思いますが、やはり日本人には多いのでしょうね。それも私の感触では、都市在住で学歴が高かったりする人間に多いような印象を受けます。
仕事柄私の周囲には、昔ながらの日本人と言いますか、田舎で生まれて田舎で育ち、長じてもずっと田舎で暮らして年を取ったというような人が多いのですが、そうした人たちに共通しているのは、むやみに自分と他者とを引き比べたりしない、ましてや卑下したしない、ということ。自分は自分、他者は他者、です。
自分を他者と引き比べる必要がある人は、きっと心の中に大切な“何か”が欠けているのでしょう。その“何か”は、いくらおカネを蓄えても知識を蓄えても、補うことが出来ないもの。現在の日本人に自分と他者とを引き比べる必要がある人が多いのはその“何か”が欠けている人が多いということになるのですが、私はその“何か”は〈生活世界〉の充実から生まれて来るのだと思っているのですね。決して〈システム〉からは獲得できない。
で、私はこのことについては、フランス人はおそらく自覚的だろうと思っています。たっぷりバカンスをとって、仕事よりも家庭が大切。対して、日本人はまだ自覚している人は少ない。ワーキングプアだとかプレカリアートだとかいいながら、まだ〈システム〉のなかで居場所を確保しようとする。正社員になりたいとか、今時正社員になったって良いとは限らないのに、〈システム〉のなかで闘争して奪い取ろうと考える。
フランス人のマネをするならそういった部分をマネればよいと思うのですが、どうしても自分と他者とを引き比べてしまう日本人は、目が〈システム〉の方へ向いてしまうのでしょうね。〈システム〉だと比べることが出来ますが、その国それぞれの〈生活世界〉は引き比べようがない。自分の根っこを掘り下げて、自分と他者とは違うのだということを確認しなければならない。自分の「原点」を見つけ出すしかないのですね。
つまり、日本人が見失っているのは日本人の「原点」。そういうと天皇がどうのと短絡的なことを言う者が多いですが、天皇なんて日本の「原点」でもなんでもない。江戸時代の庶民は、ほとんどの者が天皇の存在すら知らなかったのですから。将軍様や殿様は知っていても、帝(みかど)は知らなかった。日本の庶民にとっての天皇の歴史は、200年にも満たないのですね。1000年を優に超える歴史を持つ日本において、たかだか200年ほどの歴史しかないものが「原点」であるはずなどないのです。
二律背反ではなくコインの裏表
愚樵さん。
仰られている論の趣旨には概ね賛成ですが、ただ論の立て方が、KYDさんも愚樵さんも同じ様に誤解していますよ。
コミュニティとアソシエーションは、二律背反するデジタル的な命題ではなく、一つの同じものの裏表の関係でアナログ的で有ると考えられます。
どちらか一つなどは、本来其の性質上無理が有るのです。
例えば、KYDさんが >『中国人は・・コミュニティが全て・・』で、『これはどの階層の人間でもまったく変わらない』と、コミュニティー100%と断定する。
この考え方は中国の一面は確かに正確に言い当てているが、物事の一面(片側)であり全部ではない。
その中国はアソシエーション の代表的な存在である『政党』(中国共産党)が絶対的な権力を握っている国家です。
そして、多分今でも中国共産党以上に力が有ると思われる中国の人民解放軍はアソシエーション の見本のような組織です。
(中国に限らず軍事組織はいずれもコミュニティでは無くアソシエーション)
その反対の例として挙げられている『アソシエーションのみ』(アソシエーション100%)のインドは、
KYDさん 自身が、>『土着のコミュニティ同士の断絶度合いが酷すぎて、それ以外の集団ではまともなコミュニティを作ることができないのです。』<
と、インド固有の強固な『コミュニティ』の存在を認めていて、『コミュニティ』が強すぎるので→『コミュニティを作ることができないのです』なる、
言葉の前後が完全に矛盾する、不思議な論になっていますが、これはコミュニティとアソシエーションが二律背反ではないので、必ずこうなるのであり、仕方がないのです。
特に愚樵さんの、コミュニティの例に、アソシエーションの代表例の旧日本軍(しかも日本兵捕虜)を持ってくるのは基本的に間違いです。
日本のコミュニティの例なら軍隊ではなく、誰もが知っている欧米と日本の普通の会社を対比するべきでしょうね。
日本の会社とは、ホリエモンこと堀江崇文が主張した株主の所有物である欧米型(世界基準)の資本主義社会の株式会社ではなく、今までの年功序列、終身雇用の会社は間違いなく(欧米近代社会が失った)擬似コミュニティだったのです。
対して、旧日本軍とは、アソシエーションの代表例で有る軍事組織の中でも最たるもので、元々あった最も日本的なコミュニティの論理を完全に破壊して作られています。
『君死にたもうことなかれ』の与謝野晶子の歌に有る様に既存の『コミュニティ』では誰も、軍の『人殺しを善とする論理』を教えることはない。。
ですから、軍の新兵訓練では暴力で『コミュニティの論理』を破壊する必要があるし、アソシエーションでないと軍隊は成立しないのです。
仰られている論の趣旨には概ね賛成ですが、ただ論の立て方が、KYDさんも愚樵さんも同じ様に誤解していますよ。
コミュニティとアソシエーションは、二律背反するデジタル的な命題ではなく、一つの同じものの裏表の関係でアナログ的で有ると考えられます。
どちらか一つなどは、本来其の性質上無理が有るのです。
例えば、KYDさんが >『中国人は・・コミュニティが全て・・』で、『これはどの階層の人間でもまったく変わらない』と、コミュニティー100%と断定する。
この考え方は中国の一面は確かに正確に言い当てているが、物事の一面(片側)であり全部ではない。
その中国はアソシエーション の代表的な存在である『政党』(中国共産党)が絶対的な権力を握っている国家です。
そして、多分今でも中国共産党以上に力が有ると思われる中国の人民解放軍はアソシエーション の見本のような組織です。
(中国に限らず軍事組織はいずれもコミュニティでは無くアソシエーション)
その反対の例として挙げられている『アソシエーションのみ』(アソシエーション100%)のインドは、
KYDさん 自身が、>『土着のコミュニティ同士の断絶度合いが酷すぎて、それ以外の集団ではまともなコミュニティを作ることができないのです。』<
と、インド固有の強固な『コミュニティ』の存在を認めていて、『コミュニティ』が強すぎるので→『コミュニティを作ることができないのです』なる、
言葉の前後が完全に矛盾する、不思議な論になっていますが、これはコミュニティとアソシエーションが二律背反ではないので、必ずこうなるのであり、仕方がないのです。
特に愚樵さんの、コミュニティの例に、アソシエーションの代表例の旧日本軍(しかも日本兵捕虜)を持ってくるのは基本的に間違いです。
日本のコミュニティの例なら軍隊ではなく、誰もが知っている欧米と日本の普通の会社を対比するべきでしょうね。
日本の会社とは、ホリエモンこと堀江崇文が主張した株主の所有物である欧米型(世界基準)の資本主義社会の株式会社ではなく、今までの年功序列、終身雇用の会社は間違いなく(欧米近代社会が失った)擬似コミュニティだったのです。
対して、旧日本軍とは、アソシエーションの代表例で有る軍事組織の中でも最たるもので、元々あった最も日本的なコミュニティの論理を完全に破壊して作られています。
『君死にたもうことなかれ』の与謝野晶子の歌に有る様に既存の『コミュニティ』では誰も、軍の『人殺しを善とする論理』を教えることはない。。
ですから、軍の新兵訓練では暴力で『コミュニティの論理』を破壊する必要があるし、アソシエーションでないと軍隊は成立しないのです。
和魂洋才
西欧と日本の差違についてはこちらのブログが興味深いですよ。
http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/
アソシエーションとコミュニティが同じモノを違う見方で見ている視座の違いでしかないことについては同意します。ただ『どちらを重視するか』という<価値観>の差違は現物のありようとは独立して重要だと思います。
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『事件性なし?』で当局がひた隠す押尾事件の闇
当局がひた隠す押尾事件の闇 2009年08月21日(金曜日)内外タイムス(抜粋)
ここへきて押尾容疑者とともにMDMAを使用して死亡した「全裸女性」に注目が集まりつつある。
『警察発表と女性の素性が全く違う』と業界関係者の間で話題になっているのだ。
関係者らの話を総合
元々軍隊内部の秩序と一般社会のそれとは別物で同列には論じらないが、ましてや挙げられている例は、捕虜の自立的社会秩序の話ですよ。
日本軍捕虜の話は、余りにも特殊すぎて何かの例になる話では在り得ません。
旧日本軍以外の軍隊では、自軍の兵士や将校が敵軍に投降して捕虜になる事は最初から想定済みで、(弾が尽きるまで戦った)『捕虜』は軍人として最高の名誉有る行為で有るとされています。
去年にオバマに負けた共和党大統領候補のマケインは北爆で撃墜され捕まり北ベトナムでの4年間の捕虜体験が最大の自分のセールスポイントだったのですよ。
ところが日本軍は東条英機の作った戦陣訓で「生きて虜囚の辱を受けず」として、自国の兵士に対してどんな負け戦でも投降を許さなかった。
ノモンハン(ハルハ河会戦)で捕虜になった日本軍将校たちは敗戦責任を問われて全員が処刑されて生きて日本の地を踏んだものは一人もいません。
外国では捕虜になる事を想定して平時から教育していたから自立的にスムーズに行くのが当然なのであり、想定外の日本軍捕虜が弱肉強食のサバンナの掟で行動するのも有る意味当然なのです。