愚慫空論

自民党と共産党

ブログ更新に少し間が開いてしまいました。前エントリー『Re:共産党差別』に頂いたコメントにも返答をせねばと思っていたのですが、ここのところ、リアルの方の仕事の加減で時間が取れなくて、失礼していました。仕事が忙しかったというわけでは決してなかったのですが、暑さに参ってしまって、いつもならばブログ更新にあてていた時間を身体の休息の方へ振り向けなければならなかった、といった次第でありました。

当エントリー『自民党と共産党』は、前エントリーに頂いたコメントへの返答であるとともに、前エントリーの補足でもあります。私は、共産党は『むら』の【自生的秩序】と敵対した書きましたが、このことがどういったことなのかを、自民党という政党がどのように『むら』の【自生的秩序】を破壊したのかと併せて、記してみようと思います。


KYDさんが、次のように指摘をなさっています
彼らは<一般の自生的秩序>の敵対者ではありますが、<秩序の破壊者>ではなくて、<共産党の秩序>に従うだけの、<秩序>側の組織だからです。
<一般の自生的秩序>とは、私が表記するところの『むら』の【自生的秩序】でしょう。そして、共産党にはそれとは別の<共産党の秩序>があるという。『むら』の【自生的秩序】と<共産党の秩序>。この2つ、おなじ「秩序」という言葉で表記されますが、私の考えでは、これら2つの「秩序」は似て非なるもの。KYDさんをはじめ、前エントリーコメンテーターの皆さんに欠けている思われるのは、この“似て非なるもの”の認識であり、その意味では、共産党支持者と同じく「無自覚」です。

では、この2つの「秩序」の違いとは何か? それは、『むら』の【自生的秩序】が〈生活世界〉の「秩序」であり、『むら』それぞれの風土や生活様式、習俗や伝統いったものと一体になった「明示できない秩序体系」であったのに対し、共産党のそれは〈システム〉の「明示することができる秩序」。『むら』で暮らす庶民たちが共産党に敵対感情を持つようになったのは、共産党が為そうとしたのが、「明示できない秩序体系」を「明示することができる秩序」へと入れ替えようとした、その企てのためなのです。

逝きし世の面影さんは次のようにコメントされています
都市の労働組合の組織化と、農村の寄生地主に対する小作争議によって急速に日本共産党は支持を伸ばし、1949年の第24回総選挙(吉田内閣)では今の共産党の党員の何十分の一の少ない党員で35名の当選者が生まれている。
当時は『共産党アレルギー』や『共産党差別』何かは存在していなくて、今とは正反対に、『志村建世のブログ』の当時の日記によると『共産党ブーム』とでも呼ぶべきものが存在し、『当時は昭和天皇よりも共産党の方が人気があった』のです。

ところが事態は一変する。
労働運動はGHQの方針転換で2・1ゼネストは軍事力で弾圧し、三鷹、松川、下山等の謀略事件が勃発し、政府やマスコミは直ちに共産党の破壊工作と大宣伝する。
多数の共産党員を逮捕、国労10万人の首切り等が続き、多くの党員に死刑の判決が下さている。 続く第25回総選挙(吉田内閣)では共産党は35議席から当選ゼロになるという壊滅的な打撃を受ける。
ところが、これ等は全て、当局によるでっち上げの証拠に因る冤罪で有る事が20年近く経った後に発覚して、日本共産党員の死刑囚も全員が無罪となるも、 しかし,とき既に遅し、其の頃には『何となく恐ろしい共産党』のイメージは国民の間に広く深く浸透してしまっていた後だったのです。
この指摘は歴史的な事実であり、説得力があります。しかしながら、私はこうしたメディアの偏向報道のみが「共産党差別」の原因ではないと思います。

その根拠となるのが、政権交代目前である現在においての、マスメディアの偏向報道と国民の意識とのギャップです。自公政権に阿るメディアがあの手この手で偏向報道を繰り返しているのも関わらず、国民の民主党支持は揺るぎそうにない。このことは、マスメディア報道と国民の意識とは常に一致しているわけではないことを示します。

確かに、マスメディアの威力には絶大なものがあります。特に短期的な期間でみれば、メディアの影響力は絶対的と言ってもよい。現在はネット等の発達でその影響力に陰りが見えてきてはいますが、少し前までは、庶民は情報の入手源がほぼマスメディアに限られていた。マスメディアからの情報は信用するしかなかったし、誰も疑いはしなかった。

しかし、それが長期的な期間ともなれば、その影響力はかなり減退します。“人の噂も七十五日”という諺はよく知られていますが、これはマスメディアの影響力の限界を示す諺でもある。長期的に影響力を及ぼすのは、メディア等からの情報によってもたらされる「虚像」ではなくて、「実像」でしょう。共産党がどういった性格の団体であるのか、マスメディアがいかに偏向報道を繰り返そうとも長期的にはその「実像」が広がることは避けられません。まして共産党は、強固な組織力を誇る団体でもある。決して「虚像」だけで「謂われなき差別」が為されていると考えられません。

面影さんは、現在の日本において最大の差別用語は「共産党」だと仰った。私自身も、そうした差別的ニュアンスで、“オマエは共産党だから××”と言われた経験は幾度かあります(共産党員になったことはありませんが)。その私自身の経験からいうならば、「共産党」という差別用語は、「ガリ勉」のそれと酷似したものがあります。

この「ガリ勉」という差別用語も考えてみればおかしなものです。日本が学歴偏重社会であることは日本国民誰もが知っている事実ですから、机にしがみついてガリガリ勉強することは、社会のなかで行われる競争に積極的に参加しようとする行為であって、決して差別の対象とされるような行動ではないはずなのです。にもかかわらず、「ガリ勉」という言葉には差別的なニュアンスが厳然として存在します。

この一見矛盾した事実を理解する鍵は、やはり〈システム〉と〈生活世界〉です。学歴社会が〈システム〉に属するのは明白でしょうが、日本人の価値観の中には、〈システム〉への過度な偏重を嫌う風潮がある。〈システム〉のみに依存し〈生活世界〉を軽視する者に対しては「屁理屈」だとか「アタマデッカチ」といった言葉を浴びせて批判した。「ガリ勉」「共産党」といった言葉は、「屁理屈」「アタマデッカチ」と同系列の、〈生活世界〉を軽視する者に対する差別用語――ではなくて、「敵対用語」なのです。



さて、自民党です。前エントリーで私は、自民党は農村政党であるゆえに『むら』の【自生的秩序】を壊滅的に破壊することが出来た、と述べましたが、ここの部分にもう少し踏み込みます。

日本は昔、“社会主義国家よりも社会主義的”だと評された時期がありました。その時代の中核を担ったのは、いうまでもなく自民党です。日本の一時的な、しかし幸福だった社会主義時代は、〈生活世界〉国家から〈システム〉国家へ移行する過程で現出した過渡的な現象でした。

高度成長期以前の日本の基盤になっていたのは、これもいうまでもなく農村です。 日本の高度経済成長は、人的・物的資源を農村から都市へ移動させることで実現されてきた。経済成長が進むにつて農村の産業は空洞化していきますが、そこ補ったのが「自民党政治」でした。資源を農村から都市部へ移行させる一方で、都市部から農村へ重点的に「再配分」を行ってバランスをとった。この「自民党政治」の「再配分」が成功したために、日本では“幸せのうちに”農村から都市への移行が行われた。そして、その「再配分」において利用されたのが、『むら』の【自生的秩序】に沿った仕組み――たとえば、「談合」――です。

「談合」は現在でこそ「村社会日本」の悪弊のように言われますが、それは一面的な見方で、「談合」は資源を効率的に配分することに関しては大きな威力を発揮します。たとえば機械化される以前の田植えなど、「談合」の慣習なしには行えなかった。村落の労働力が「談合」によって上手に配分することで、限られた期間に大きな労働力を投下する必要がある田植えを乗り切ってきたわけです。自民党は、そうした『むら』の【自生的秩序】から生まれてきた慣習を使いつつ、仕事の「再配分」――すなわち所得の「再配分」を行ってきたわけです。

これが“幸福”だったのは、こうした農村への「再配分」が行われることで、農村は都市に比べると貧しいということは間違いないにせよ、たとえば現在中国あたりで見られるように、農村が生活に困窮するほど貧困化するといった現象が避けられたことが大きいでしょう。全般に若者は活力ある都市へ出ることを望みましたが、農村に残るという選択肢がなかったわけではなかった。あくまで、当人の意志として都市へ出る、あるいは農村に残る、という選択が出来た。このことは、日本で生活しておりさえすれば、どこにいても暮らすことができるという安心感をもたらすことになったのでした。

こうして「自民党政治」は大きな成功を収めてきたわけですが、逆に、その成功のおかげで『むら』の【自生的秩序】も空洞化が進むことになった。本来、『むら』の【自生的秩序】の基礎にあったのは、村落構成員の「相互扶助」です。田植えでの「談合」がその典型的事例ですが、それが都市の「所得再配分」という形で金銭に置き換えられることによって、物質的生活においては「相互扶助」の必要性が低下していった。そして、貨幣経済が農村部へも浸透していったことで、ますます現金収入の重要度が増していき、『むら』の【自生的秩序】よりも、貨幣による経済秩序の方が優勢になっていく。

つまり自民党は、『むら』の【自生的秩序】を利用して農村住民の支持を得つつ、『むら』の【自生的秩序】を空洞化させていった、いうなれば近代的農村政党だったわけです。農村から都市への人的・物的資源の移行はどの国においても近代化の過程で共通してみられる現象であり、それはともすれば苦痛を伴うことが多いのですが、日本の場合は、それが“幸せのうちに”為されていった。共産党はそうした時勢のなかにあって「自民党政治」、ひいては『むら』の【自生的秩序】を彼ら自身の〈システム〉依存の「秩序」に基づいて批判していたわけですから、彼らが『むら』の住民あるいは都市に移住してもまだ『むら』的メンタリティを抱えた人たちから「敵対者」として捉えられてしまうのも、無理はないところなのです。

ついでに自民党について続けますと、現在の日本は農村から都市への資源の移転が完了した状態にあって、その時点で旧来の「自民党政治」はその有効性の基盤を失ってしまった。自民党も否応なく都市政党へ変貌しなければならなかったのですが、そこが上手くできず、公明党に頼らざるを得なくなったのが現在の自民党の姿です。しかも、小泉-竹中の構造改革以降、それまで自民党を支えてきた農村への再配分を止め、空洞化した地方にさらに追い打ちをかけた。そればかりか、小泉-竹中の構造改革は、都市の農村的部分――という表現は的を射ていないかもしれませんが、要するに、中小零細企業や派遣労働者など、主として肉体労働従事者――を切り捨て、都市の都市的部分――金融資産などの所持者や、労働者から搾取する「スキル」に長けた者たち――を優遇した。つまり、共産党は旧来から「敵対者」であるが、自民党は「裏切り者」。これが未だ『むら』の【自生的秩序】的価値観を抱える人たちの感情だと思われるのです。

コメント

違うかな。

 マスコミの現状は、二大政党キャンペーンですから民主党に風が吹いています。民主党の扱い程度、社民党、共産党も扱っていないと愚礁さんの現状分析は成り立ちません。

 貨幣社会の農村への浸透が農村の自生秩序を破壊した原因であれば、貨幣を廃止すれば自生的な秩序は回復します。そうなりませんか?

 また、日本共産党が「システム」秩序を重視するのことが原因で農村の自生秩序を破壊したということですが、貨幣社会のシステムを日本共産党は否定していないからだ、ということでしょうか?

 貨幣社会を否定する点から愚礁さんは、経済について立論していませんか?つまり、貨幣は自生的秩序を否定するだけしか役割がありませんか?貨幣の人類的な役割はありませんか?貨幣については、総否定でしょうか?

 

題名が間違っているような・・

愚樵さん。
この記事は、自民党と共産党のタイトルですが、
資本主義と社会主義(共産主義)の方が主題としては合っている様に思いますよ。
資本主義の基本単位は、其れまでの農村共同体的な集団ではなく、一人一人バラバラな『個人』で、現在の民法等の法体系も『個人』を単位としています。
女性の権利を認めなかった明治時代に創られた旧民法は親の財産は封建時代と同じ『長子相続』で長男だけが家長として全てを相続する。
同じ男子でも長男と其れ以外の子供は、江戸時代と同じで殿様と家来の関係になっていた。
ところが今の民主主義の社会では子供は生まれた順番や男女の差別はなく平等で,分割相続が建前である。
確かに江戸時代でも商家は(資本主義的な)『のれんわけ』の制度があり分割相続が当たり前であったが『タワケ者』という言葉が有る様に田地は分割しては農業がやっていけない。
一人っ子なら問題は起こらないが、戦後半世紀で新民法(民主主義)のお陰で農業は完全に立ち行かなくなってきています。
これはもう。昔の先人の知恵に立ち返り農村共同体の復活の為には、元々農業に向いていない事が判りきっている資本主義を廃止して『封建制の復活』以外に道はありません。
自民党(資本主義)も共産党(社会主義)も農村共同体(封建制)に良くないのは当たり前の話です。
特に近頃流行の資本主義の一派である新自由主義は、社会から完全に遊離した個々の個人の欲望を最大限に拡大するものなので最も危険な資本主義です。
なので正しいスローガン(題名)は、
『打倒資本主義(自民党)。目指せ新しい封建制。』となります。

仕事と稼ぎ

東西南北さん

貨幣社会の農村への浸透が農村の自生秩序を破壊した原因であれば、貨幣を廃止すれば自生的な秩序は回復します。そうなりませんか?

貨幣は〈システム〉です。〈システム〉が減退すれば、〈生活世界〉に属する【自生的秩序】は回復するでしょう。が、〈システム〉の駆動原理が貨幣から別のものに置き換わっただけでは【自生的秩序】は回復しません。

貨幣社会を否定する点から愚礁さんは、経済について立論していませんか?つまり、貨幣は自生的秩序を否定するだけしか役割がありませんか?貨幣の人類的な役割はありませんか?貨幣については、総否定でしょうか?

私は貨幣を全否定はしていません。貨幣の三機能〔交換の媒体、価値測定、価値保存〕のうち、価値保存だけは否定するべきだと考えていますけれども、全否定ではありません。

『むら』の【自生的秩序】はむらびとたちの「仕事」によって支えられてきたのです。かつての『むら』の労働には2種類あって、それはすなわち「仕事」と「稼ぎ」でした。「稼ぎ」とは貨幣を手に入れるための労働、〈システム〉に依存する労働。現在では、「仕事」も「稼ぎ」も同じ意味になってしまって、ともに貨幣を手に入れるための労働になってしまっていますが。

東西南北さん。共産党が信奉するマルクスの論理の中に「仕事」と「稼ぎ」の違いが明示されていますか? 「仕事」は、時においては非生産的な行事、例えばお祭りのための労役なども含みます。マルクスの理論はこれらの労役に価値を認めたのでしょうか? 私の所感では、唯物論は非生産的な労役に価値を見出すことが出来ず、科学的でないの一言で切り捨ててしまった。これすなわち、マルクス流の〈システム〉に載らない労役は認めないということ。が、しかし、『むら』で暮らしていたのは、そうした非科学的行事に大きな意味を見出していた人々だったのです。

自民党はお祭りを否定したのではありませんでした。むしろ、お祭りに集まる人脈を利用したのです。そうした人脈を通じて貨幣の再配分を行った。だからこそ、人脈を通じて再配分を行ったからこそ、貨幣がより大きな価値を持ったのです。共産党は、最初から最後まで、そこのところを理解できなかった。人間の理性のみを信奉して、論理が正しければすべて正しいと信じ込んでしまったのです。

封建制はどうかなぁ?

逝きし世の面影さん

『打倒資本主義(自民党)。目指せ新しい封建制。』となります。

ご意見には大方賛成ですが、最後のこのスローガンだけはちょっとどうかな、と。

封建制というのは、あくまで支配者側から見た歴史観です。江戸時代は、徳川幕府を頂点とする支配者側の体制でみれば封建制と言えるのかもしれませんが、それはあくまで城下町で暮らす武士までにしか及んでいなかったのが江戸時代の実態でしょう。農民や一般の町民は、一部では支配者の権力に従いながらも、権力に全面的に従属していたわけではなかった。封建制という言葉は、どうしても権力に押さえつけられていたという印象が拭えません。

さりとて、では封建制のかわりにどういった言葉が適当かというと、その言葉が思い浮かばないということはあります。敢えていえば「共同体社会」でしょうか? でも、スローガンとしてはスマートではありません。

つくづく、言葉というものも、これまでは支配者の道具だったのだなと感じます。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/293-7c4f3f4b

「右翼」そして「愛国」について

「右翼」と言うと物々しい街宣車と特攻服の人たちというイメージが確かにありますね。 (一方、「左翼」というと反戦平和と弱者救済できまじめな人たちというイメージになるのでしょう) ついでに言えば、「右翼」は、ヤクザ組織や総会屋ともつながっている認識もけっこ...

早すぎた悲劇、天誅組と中山忠光

1853年ペリー提督率いるアメリカ太平洋艦隊4艘が浦賀沖に来航し、圧倒的な軍事力を背景にして日本(徳川幕府)に開国を迫った。 以後日本国内は開国か攘夷か、朝廷を担ぐ尊皇か親幕府の左幕かで国論が二分し大騒動となり、徳川幕府は急速に弱体化していく。 この時、歴...

愚樵氏の〈自生的秩序〉と差異共振共同体

愚樵氏の〈自生的秩序〉という社会概念は差異共振共同体の概念と同質であると考えられる。だから、差異共振秩序と呼ぶことができる。 資料: 自民党と共産党 2009-08-14 ブログ更新に少し間が開いてしまいました。前エントリ

押尾学や酒井法子の薬物問題から見るマスコミ

『乗っ取られたニュース枠』 今テレビのワイド番組や昼12時のニュースの枠は殆んどが酒井法子の覚醒剤と押尾学の合成麻薬の話ばかりで、国民みんなに関係する総選挙の話などは何処か隅の方に追いやられている。 これは偶然に起こった事でしょうか。? それとも耐震偽装...

私の共産党批判

 共産党批判はマルクス理論そのものから日本共産党の政策までという広範囲のものになってしまうので、深入りは避けたものにさせていただきます。 (マルクス理論のレベルになると、共産党だけではなく新左翼を含めたマルクス主義を名乗る政治勢力すべてに関わってきます

マルキシズム Vs. アナーキズムや「最終決戦」について

>私は、太田龍自体も、イデオロギーに毒されているように思うのですが、本当に"デモクラシー"の化けの皮が剥がれ、本質的な"全体主義専制独裁体制"が到来しかねないのでしょうか?あっしらさんは、その前に"近代"が挫折するとお思いのようですが?果たして、どちらに転ぶ...

「社会ダーウィニズム」はクロポトキンが言うようにダーウィン理論の“誤読”

アナーキズムや「最終決戦」について の続きです クロポトキンやバクーニン、プルードンを育んだロシアの伝統思想について ロシアの近代化は、ツアーリによって推進されたが、イギリスを中心としたレッセ・フェーるの自由放任経済思想から自由でいられた。 元来、ロシア...

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード