愚慫空論

地域主権

農村文化運動 8.30衆院選を目の前にして、道州制だのなんだのと、「地方分権」が話題に上っているようですが。

当エントリーで取り上げてみたいのは、「地方分権」ではなくて、「地域主権」です。

右の、『農村文化運動 vol.193』を眺めていましたら、次のような記述に出会いました。
・・・
 江戸期になりますと、その反省から、徳川幕府は再び中央集権体制の確立をめざします。
 そのためにまずやったことの一つは、武家の思想として、儒教を定着させることでした。武士を農村からはがして、城下町に集めたことでした。そして、藩校などではひたすら儒教を教え、中央集権国家に向かって、まずは支配階級の意識統一をはかったのです。
 そうやって、農村から離れた武士を軸とする儒教国家を形成する一方で、民衆側にあった土着的な思想体系を排除し、儒教的思想に切り替えさせようと試みます。
 ところが、これは村側の抵抗にあって、まったく進みませんでした。というのは、村の人々はすでに、自然に帰っていく自分たちの精神世界を持っていましたし、そのうえに講をふくめたさまざまな関係をつくって、確固たる我らが世界を形成していたからです。
 ですから、ある意味では、江戸期というのは民衆の力が非常に強い時期だったといえます。確かに年貢は取られていますが、それでも、武士が農村に立ち入って取り立てるわけではなく、あくまで庄屋が集めて持っていくものでした。庄屋というのは村の代表ですから、村方代表がみんなのものを集めて運ぶということであって、武士が入ってきて、早く出せと取り立てることは出来なかったのです。
 そのために、年貢は台帳上、折半、六公四民といった高い税率になっていたともいえます。農民が自主的に集めて持っていくわけですから、当然ながら、知恵を絞ってなんとか出さないように努力します。ですから、脱税が非常に多い。そのために、台帳上の税率を非常に高くしたわけです。最近の歴史学者が計算したものによると、江戸期の実効税率は10から20%の間ではないかといわれていて、決してそんな重税ではありません。もしかすると、今よりも税率は低いのじゃないかというくらいの税金だったということです。
(54ページより。太字強調は、愚樵による)

年貢は取られるが、あくまで村方代表が自主的に納める。これこそ地域主権です。地方分権は、あくまで国から権限の一部を委譲してもらうのであって、主権は国にある。ですから、徴税権は国にある。民主党の新たな政策案では税や社会保険等を一元化して歳入庁といったものを作るんだということですが、いずれにせよ国家主権であることに間違いありません。道州制ということになっても、徴税権まで地方に移譲はしないのですね。

日本は主権在民の民主主義国家です。一応、タテマエではそうなっています。けれども、そのような実感はあまりありません。税金は、自主的に納めるなどといった感覚はまるでなくて、あくまで徴収されるもの。税金は国民のおカネだから、「政府をよく見張って透明で公正な無駄のないおカネの使い方をさせよう」、といったことはよく言われますが、「徴税権を国から奪おう」といったような話は聞いたことがない。地方の首長たちもそのようなことまでは言いません。彼らが求めるのはあくまで分権です。

税の徴収権は、国家の根幹に関わる問題です。中央集権を志向する者にとっては、時には暴力をも伴った徴収権を中央が一手に握っていることが好ましいでしょう。しかし、私たち民衆にとってはどうなのでしょう? このことはこれまであまり考えてこられなかったように思います。

私たち民衆の側からすれば、公のシステムを維持するために税を納めるのは必要なことですが、徴税権はなるべく近くにある方が好ましい。みんなで決めた税金をみんなが自主的に納めるというのが理想ですが、それは空想的な理想で現実的ではないにしても、最も強大な力を振るうことができる中央に徴税権も持たせるということの是非は、一度考えてみた方が良いように思います。中央に比べると力が弱い地方や、さらに小さな地域に徴税権を持たせることが出来れば、そちらの方が主権者たる国民にとっては好ましい形のように思えるのです。

徳川幕府が目指した儒教的中央集権国家は、江戸期は民衆の力が大きく実現できませんでした。それが実現したのは、徳川幕府を倒した明治政府です。現在の日本国の体制は、タテマエは国民主権ですが実態は儒教的中央集権国家と言ってもよい。だとすれば、明治維新とは、地域主権・民衆主権であった江戸期の日本から、明治以降の中央集権国家へ移行した「反革命」であったわけです。

現在、自公政権の自滅により民主党への政権交代が期待されています。そのことを「革命」と呼ぶ向きもおられるようですが、市民が主権を奪うことを革命と呼ぶなら、政権交代などは到底「革命」と呼ぶに値しません。政権交代は、強大な官僚機構を上手く利用しようとするものではあっても、あるいは官僚たちの権力濫用を抑制するためのものであっても、官僚機構の力を小さくしようとするものではないからです。

それは、二大政党制に反対する立場の者もあまり変わらないように思います。そうした者たちは、官僚組織が強大な力を持つことは反対しますが、替わって市民の代表が力を持つことを支持する。このことは一見革命的ではありますが、江戸期の日本ほど革命的とはいえない。江戸期日本では、力を持っていたのは「市民の代表」ではなくて、「民衆そのもの」だったからです。

「民衆そのもの」あるいは「市民そのもの」がより大きな力を持つためには、権力機構はなるべく小さな方が良い。小さい方が市民の目が行き届きやすいだけではなく、市民が自主的に参加できる余地も大きいし、また自主的に参加しなければ運営できない。これが地域主権です。

現在の国際社会を鑑みると、国防や外交といった面では国家の強大な力が必要だということは否めません。しかし、このことは、国家があらゆる面に渡って中央集権的な強大な力を持って良いということにはならない。強大な力が必要な部分と、強大な力があるとかえって弊害が出る部分とを切り分けることも出来るはずです。国家権力を「切り分ける」ことが本当の意味での国民主権なのでしょうし、教科書的な民主主義のモデルである三権分立も「切り分ける」という発想では同じものです。

コメント

都市と農村

江戸時代の日本は自給自足、完全循環型のエコ社会でしたから、生産は全て農村の農作物に依っていたわけです。
富が地方で生み出され、都市はただその富を流通させるだけの存在でした。とはいえ流通が絶えれば農村も困るので、都市が食える程度に『税』を払う必要がありました。だから農村の自主性に任せた徴税でも問題はなかったのでしょう。

しかし文明開化を経て高度経済社会となった日本では、富の大半は都市で生み出されて都市で消費されています。地方が無くても都市は困らないのです。
この状態で『地方』に徴税権を移せば、もはや都市という『地方』はその他の地方に税金を分配することを止めるでしょう。

都市が必要とする資源はほとんど海外から輸入されています。人材の面でも、過疎化の進行で地方の人材供給力はどんどん下がっています。ならば地方が衰退して都市の側に何の問題があるでしょう。ありはしません。

おそらく知事会の方々もそれは重々承知の上なのでしょう。下手に徴税権を移されたりしたら、都市からの支援が無くなって干上がってしまう。だから税金に関しては国家単位で徴税してほしい、そして分配は地方にも回してほしい、本音はそんなところでしょう。

さて、都市住民に地方出身者がまだまだ多い今のうちは都市から地方への分配は正当化されうるでしょうが、永続的とはとても思えません。
江戸時代に戻って地方を活性化させるのか、それとも割り切って原始林+都市国家に変貌を遂げるのか・・・
私は都市+原始林(自然公園)国家になるのが良いのではないかと思うのですが、どう思われますか?

人の世に愛はいらぬ、だが俺にはくれ

>私は都市+原始林(自然公園)国家になるのが良いのではないかと思うのですが、どう思われますか?

「銀河鉄道999」だったかな?「文明と自然、そのどちらを選ぶか?」という、本当にバカげた選択肢の前に立たされ、そしてふたつに割れた「社会」の末路を描いた作品は。

あたしがKYDさんの話で理解できないのは、というかそのつながり具合が見えないのは、

「弱肉強食」を人間社会の常態としてとらえ、その思考体系から社会を想定し、構想していく人間、

というのと、

自らを生み出した社会の「あたたかさ」のなかで幸せに生きたいと願い、その前提(欲求)のもとに行動する人間、

< このふたつが何らの衝突もなく共存している(ように見える)ことなんだよな。それがあたしには全然不思議。いや、そのふたつの「共存」はいいんだけど。あたしが問題にしてるのはその状態。「何らの衝突もなく」ってとこね >

はっきり言ってしまえば、KYDさんの描く人間像って、

表では「弱肉強食」が自然だ、合理だ、正当だと言いつつ、裏ではちゃっかりと「自分だけ」はぬるぬるべったりの「郷愁」みたいなものを求めている、

みたいな感じ。まあ「人間くさい」といえばそうなんだけど、それは他に気取られちゃまずいよね。自分自身が求めているものは「弱肉強食」ではないのに、他にはそれを押し付けようとしている、なんて。

だからこういうふうによくわかんない極端が表出される。(話し相手に下心を気取られないようにその論を進めるためにね)

>江戸時代の日本は自給自足、完全循環型のエコ社会でしたから、生産は全て農村の農作物に依っていたわけです。

たとえば、こやしの需要があってその供給源である長屋ってのが江戸の町にはあるわけだけど、「完全循環型」ってのはそういった切れ目のないモザイク型社会のことを言ってるのか、と思ったら、その後に続く部分を読んでみるとどうやらそうでもないみたい。KYDさんによると、江戸時代から農村と都市ってのは厳密にわかれていたんだけど、食料の供給源としての地方の役割が高かったから、都市の側も簡単に地方を切り捨てることができなかった、なんて言うわけだよね。

< あたしなんか、こういう話しを聞くと「農業をしているみなさんに謝りなさい」なんてフツーに思ったりするんだけど、そんな説教がくるなんてことは微塵も感じていないだろうし、だから「言っても無駄だろうな」と思わせるところがKYDさんのすごさだよね >

とにかく、KYDさんの論としては「人がいて社会があって国家がある」んでなくて「まず、主体としての国があって、、、」というところからはじまる、と。

だから、「農」村の機能は他で調達した方が、安くて後腐れもないし、それで間に合うからということで(主体としての「国」とは別物として)何かの部品みたいに取り替えればいい、みたいな発想でしょ(笑)

KYDさん、あたしがなんで笑うかわかるかい。わかんないだろうから教えてあげるよ。簡単なことさ。金を出す人間はいくらでも取り替えがきくけど、ものの供給源は取り替えがきかないんだよ。

あたしは全国の給食センターのおばちゃん(おじちゃんでも)は、のんびりゆったり愛情いっぱいの家庭で生活している人であって欲しいと思うんだけど、なんでだかわかるかい?

答えは、給食センターのおあばちゃん(とおじちゃんたち、お兄さんでも、お姉さんでも、おじいちゃんでも、おばあちゃんでも)は何百人もの小学生の食事を「愛情を込めて」作るから、です。

ここであたしの言う「ものの供給源は取り替えがきかない」ってのはそういうこと。

Re:都市と農村

KYDさん

だから農村の自主性に任せた徴税でも問題はなかったのでしょう。

農民の側は問題なかったんですね。けれども、農民を支配していた武士の側は問題だと感じていた、と。それが『農村文化運動』からの引用部分の趣旨です。
(KYDさんは、おそらくこの趣旨を取り違えておられます。)

で、武士側は農村から徴税権を奪い取りたかったのだけれども、江戸期はそれが出来なかった。それほどに民衆の力が強かったということなのですね。つまり、

民衆の力>支配階層の力

だったわけで、そのことが当エントリーの眼目なわけです。

ですので、

おそらく知事会の方々もそれは重々承知の上なのでしょう。・・・

といった話は的外れでして、なぜなら、知事も国会議員や官僚と同じく「民衆そのもの」「市民そのもの」ではなくて、市民の代表という名の「支配階層」なんです。「地方分権」という話は、「支配階層」同士の権力闘争でしかないのです。

*******

私は都市+原始林(自然公園)国家になるのが良いのではないかと思うのですが、どう思われますか?

それで、食料の安全保障はどうするのですか? 「農村」機能を海外に依存するのは良いとしても、その依存が永続的に続けられる保証はありませんよね? 「国家」という以上、安全保障は至上命題であるはずです。

もし、そこが保証されるというのであれば、都市+原始林(自然公園)国家も悪くはないのですが。

地方分権

話が行方が都市と地方(農村)の対立みたいに語られているが、『都市の定義』は首都の東京唯ひとつなのでしょうか。?
何やらその様(東京VS農村)に解釈される不思議な方向に話が向いています。
都市といって政令都市でない地方の県庁所在地では、街なかの一番人通りの多い目抜きどうりの商店街は寂れはてシャッターが閉まったままのシャッター通りに成ってしまっているのですよ。
東京に近い横浜は、東京の衛星都市として幾等かはお零れに預かれるが、東京から遠い名古屋、大阪等の其の他の日本の大都市は軒並み財政再建団体転落一歩手前で青息吐息状態である。
いまや財政的に豊か(健全)なのは東京だけ。
東京以外はみんな夕張市と同じ様な『金の切れ目が命の切れ目』で自治体としては死に体(地方)になっているのです。

で、都市(東京)だけで後は地方が無くても生きていけるとの話ですが、
面白い事にこのブログで大活躍している、『脳の機能停止は即、人の死である』との唯脳主義者の主張と酷似していますね。
ソックリといって良い。
(脳(東京)だけ生きていれば、体(地方)が無くても生きていける)
しかし其れは観念的には可能でも、現実には不可能ですね。
体(地方)と脳(都市)とは一体のもので、片一方だけが生き続ける話は無理が有るでしょう。
体(地方)と切り離して脳(東京)だけにしたら、生き続けることは出来ません。間違いなく脳(東京)も自動的に死にますよ。



今大阪府の橋下が盛んに『地方分権』を主張しているが、この話は如何もインチキ臭く胡散臭い事このうえない。
中央集権か、地方分権かは、一見するとわかりやすい正義に聞こえるが、やっている事と言っている事とに齟齬が有る。
大阪府知事である橋下は、府下の市町村に対して助成金や共通テストの公開問題では恫喝的な言動で府知事の意見を一方的な中央集権的手法で押し付けている。
地方分権が、中央主権かの問題は、言い換えれば下からの意見の集約であるボトムアップか、一番上のリーダーシップを発揮するトップダウンかの政治手法の問題でも有る。
そして中央集権に反対して『地方分権』を叫ぶ橋下徹本人が一番『中央集権的な手法』を多様しているのです。
何とも胡散臭い橋下知事の主張する道州制は、同時に日本の財界の主張と全く同じものでも有る。

隠遁

きこりさんや晴耕雨読さん自分もそうしたいのですが、限界集落に住むにはどうすればいいんですか。所有権も要らないし雨露しのげればいいんです。今は都会のホームレスですが、やはり東京はつまらない。限界集落に住みたい。コネクションがないだけで、こんな人も多い筈です。地方分権とかちょうちんとかは、仙人志願者にはどうでもいいことです
限界集落という区分け自体、根底に所有権や既得権を放棄しないで、生活を向上させようという意図がかくれている。醜い。ただ、ひとのすくないところでスローライフしたいひとはおおい。それを疎外してるのは、社会問題化しているマスコミ、それとも政治。反吐が出る。田舎暮らしがしたいにとに、所有権ぬきで廃屋を提供すれば、人口ふえるとおもう。欲特にかられた業者が田舎暮らしをするひとをだまして、ハードルを高くしてる。所有権はいらないから廃屋をかしてくれ!住みたい。

都市と農村

<民衆の力と支配階層の力>の関係の話だったのですね。
誤解をしておりました。申し訳ありません。

しかし記録を残すのは<支配者>の側ですから、実際のところ<被支配者>の持っていた力がどの程度だったのかは分かりづらいように思います。日本の現状だって、閉塞的で抑圧と差別に満ちていると感じている人もいれば、そこそこ自由で平等だと思っている人もいるわけで、後世の歴史家になんと評価されるのかは興味深いところであります。

さて、食料安全保障の話ですが、食料すら輸入できない状況では石油も輸入できないと思いますが、石油資源なしで日本の農林水産業は日本人が生きるのに十分な食料を生産できると思われますか?

農村を失った都市は肉体を失った人間のよう、確かにそうかもしれません。しかしその喩えで語るなら、その<肉体>は現代では既に地球全土レベルに拡張された、と言えるでしょう。
脳みそに筋肉は必要ありません。眼球に消化器官は不要です。さて日本国に農業が必要でしょうか? 
その本来の意味、生きる糧を得るという意味での農業は既に日本には不要なのではないでしょうか?
今日本で必要とされている<農業>は、<安全なもの>や<エコロジカルなもの>を、高い金を出してでもほしい、という需要でしかないのでは、と思うのです。

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