愚慫空論

辺野古が重い

この春から仕事の都合で家を空けていることが多い。
仕事場が山奥なので、山の中で暮らしているとはいいながら、さらに通勤で毎日かなりの距離と時間を費やさなければならない。昔の山仕事の人たちは通勤が容易ではなかったので、たいていは山の中に飯場(はんば)を設えて、そこで寝泊りしながら仕事をしたらしいのだが、田舎といえども現代日本、山仕事も都会並みに仕事場へ通勤するのが通常のスタイルとなっている。
ところが現在の仕事場は、通勤するにはあまりに遠すぎて、毎日通っていたのではソロバン勘定に会わない。致し方なく飯場で...、ということになってしまい、私もそこに放り込まれてしまったというわけ。といっても、昔のように山の中ではなく、一応、電気も水道もガスも完備の飯場。田舎の空き家を借りたという次第。
だが、その飯場、電気も電話もあってもパソコンがない。で、帰宅するまでブログの更新もできないというわけなのである。

前置きが長くなってしまった。テーマは辺野古である。前回、帰宅したときも辺野古についてなにか書こうかとは思ったのだが、自宅にステイする時間が一日しかないせいもあって、結局、何も書けずじまいだった。で、今回帰宅して、馴染みのブログを巡回してみると...、ますます辺野古が重たくなってしまっているではないか。
それにしても「辺野古が重い」とは妙な表現ではないか、「熱い」「激しい」などというのならともかく...、といった具合に感じられた方もいるかもしれない。国家権力との闘争の現場である辺野古は「熱い」「激しい」のであろうけれども、「重たい」のは私の中の辺野古の存在、つまり私の主観なのである。

できることなら、私も辺野古へ行きたい。現地へ行って、さまざまなブログで伝えられている状況を自分の目で確かめてみたい。そして、できることがあるなら活動の手伝いもしてみたい。私のリアルな知り合いに実際に辺野古へ足を運んだ者がいて、その男の話を聞いて以来、そうした重いが募るようになって、辺野古が重くなってきているのである。
辺野古の存在を最初に知ったのは、ブログでであった。たしか、dr.stonefly さんのところでだったと思う。今回のバルブ事件の主役の平良さんのことを取り上げた記事だったと記憶している。しかし、そのときには正直なところ、「ああ、この国のやりそうなことだ」程度の感想しか持たなかった。たいして重くはなかったのである。呼びかけに応じて、関係部署に抗議のメール・FAXを送った記憶はあるが。
だが、リアルな知り合いのリアルな話、ブログで収集する情報と一向に報じないマスメディアとの落差、そして殺人未遂事件があって、緊急声明が出て...、と事態が展開していくにつれて、ますます辺野古は重たくなっていくのが自覚される。特に、緊急声明ににじむ平良さん(平良さんたちというべきか)の人柄というか、哲学というか、そうしたものに実際に触れてみたいと強く思うようになってきているのである。

だが、しかしだ。重たくなっているのは、前向きの願望のせいだけではない。それと同じ強さで反対の方向の...、そう、現実といえばいいだろうか、実際には身動きできない自分がいるのを自覚して、その自覚がなおさら辺野古を重いものにしているのだ。
断言はしないけど、たぶん、私は辺野古へは行かないと思う。人手が足りないと訴えているから、行けば何か焼くには立つだろうとは思う。けれど、行かない。
行けない、なんていい訳をするつもりはない。どうしても行きたいなら、行けないわけではない。けれど、「どうしても」といったときに、失われるもの(金銭的なものもそうだし、周囲との関係もそう。ヨメはいいとしても、辺野古を理由に今、
仕事を放り出したら、おそらく信用を失う)が恐ろしい。
まったく小市民的なことだ。おまけに「重さ」を少しでも軽減しようとしてか、こんな文章を書いている...。



リアル友人から丸腰のカヌーで決死の阻止行動をする人たちの話を聞いたときに漏らした感想を憶えているのだが、それは「荒ぶる神を必死でなだめようとする素朴な庶民のようだ」というものだった。
友人はもうひとつ意味を理解できなかったようだが、これは私がいつもの如く訳のわからんことを言うためで、けっして友人の理解力が低いわけではないのだが、今回の
緊急声明を見て、自分の抱いた感想がさほど的外れではなかったと、ちょっとだけ自信を深めることができた。荒ぶる神とはもちろん国家のことだけれど、この国家は「いい人」で組織されていて、このカッコつきの「いい人」たちの組織をひとりひとり解体していい人に戻すことが、平良さんたちの抗議行動の基本姿勢であるということが確認できたから。とても困難だろうけれど、困難と自覚しつつ諦めない姿勢には大きな感銘を覚える。

ただ、ひとつ気になることがある。違法行為に加担する個人の責任という点についてだ。バルブを閉めた本人の責任は問いつつも、現場作業員をそのような精神状態に追い詰めた権力に批判の矛先を向けていて、それはそれで正論なのだが、「いい人」たちをいい人に分解するにはそれでは足りないかもしれない。このことに関連して思い起こしたのが、ナチス・ドイツでユダヤ人のホロコーストに加担した、アドルフ・アイヒマンのことである。

アイヒマンは効率的にユダヤ人虐殺を行ったとしてイスラエルの法廷で裁かれたのだったが、法廷で無罪を主張した彼の根拠は「ただ命令に従っただけ」というものだった。その主張は受け入れられずアイヒマンは死刑に処せられたわけだが、後に「アイヒマンとその他虐殺に加わった人達は、単に上の指示に従っただけなのかどうか?」という質問に答えるためにとある心理実験が行われた。俗にアイヒマン実験といわれているものだ。
この実験でわかったことは、人間が残虐な行為を行うのは、必ずしも権力者の指示に否応なく従ってというわけではない、という深刻な事実だ。残酷な試験を行う被試験者たちは、自分の行う行為が残酷なことだと知りつつも、自分が行ったその行為に関して自分が責任を負わなくてよいなら、躊躇いながらも権力者の指示に従って残酷な実験を行ってしまう。あくまで
自分が責任を負わなくてよいなら、である。つまり権力なり権威なりが尻を拭ってくれるのなら、いい人は安心して「いい人」に変身できるというわけなのである。

ここに大きなポイントがあるように思う。権力は、例えば法的には「いい人」たちを保護することはできるかもしれない。だが、社会的にはどうであろうか? こちらの方面はいかに権力といえども、万全に保証するとはいかないだろう。特に、ネットの世界では。
残虐な行為を行っている者たちの実名が、ネット上であっても流されることになると、残虐な行為を行っている個々人は、権力にバックを支えられた「いい人」たることができず、ひとりひとり悪人として社会と対峙しなければならなくなる。そうなれば、そうならなくてもそうした可能性があるということを「いい人」たちが理解すれば、ひとりひとりのいい人に戻ろうとするインセンティブが働くことになるだろう。そして、かなりの効果を発揮するはずだ。

こうした方法を採用すべきかどうかは、私には判断はしかねる。この方法は、社会問題となっている「2ちゃんねる」的方法だからだ。目的のために手段を選ばずというのは、辺野古的行動方針ではないかもしれない。
だが、人間の中に潜む闇と弱さには十分に注意を払うべきだと思う。辺野古に集う正真正銘のいい人たちは、得てして人間の闇と弱さを見逃してしまう。何も弱さを衝けといっているのではない。知っておかなければ足元をすくわれるといいたいのだ。
実際問題として、バルブ事件の容疑者を特定して告訴するという方法がよいだろうと思う。刑事事件の容疑者となれば実名公表も常識となっている。実名をあげて容疑者告訴をすることで、他の「いい人」たちも自分たちの足元を今一度見つめなおすことになる、はずである。

コメント

こんばんわ.戴いたコメントを基にいろいろ考えてみました.不平等と格差について深く考えることは私には難しいです.それにしてもTBが一発で通って気分が良い.TBほんとに久しぶりです.
そうそう,辺野古が重い,というのは私にはよく理解できそうです.ひょっとしたら私は辺野古へ行くかもしれません.何の力にもなれないことは重々承知ですが,重いです.

ほんとうに重い

ここのとこ辺野古のエントリーを連続して書いていたのですが、本当に重いですよ。でも、他のことをしていると辺野古が全く消える時間がある。もちろん「その時間」には解らないのですが、後で考えると「その時間」は軽いというより、楽なんですね。
辺野古にいる人々は、ほとんど、か、全く「その時間」がないのだろうなぁ、と考えます。
重さを感じることしか出来ないと考えるか、せめて重さを感じることは出来ると考えるか……
やっぱり、いいわけかなぁ(爆)

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