愚慫空論

どちらも搾取

マルクスは生きている (平凡社新書 461)マルクスは生きている

不破 哲三
ご存知、前共産党委員長が著したマルクス本。わかりやすいと評判のようで、私も読んでみましたが。

マルクスは「剰余価値」の仕組みを発見した

 そういうなかで、資本主義的搾取の秘密を明快に解き明かしたのが、マルクスでした。マルクスが解明した内容を短い文章で説明するのは難しいのですが、理論だての様子だけでも見ていただければと思って、あらましの紹介を試みてみましょう。
 イ. マルクスがまず明らかにしたことは、労働者が資本家に売っていたのは、それまで思い込まれていたように、「労働」ではなくて、労働する能力、すなわち「労働力」だということでした。
 ロ. 「労働力」商品の価値は、ほかの商品と同じように、その商品の再生産の費用で決まります。再生産の費用とは、労働者が引き続き働けるという状態を維持する費用ということになりますから、労働者とその家族の生活費ということになります。
 ハ. 資本家は、買い入れた「労働力」を消費する、つまり自分の工場で働かせます。「労働力」商品はこれを働かせることで新しい価値を生み出すという、ほかの商品にはない特性を持っています。だから、ある時間働かせれば、賃金分の価値を生み出しますが、そこで仕事をやめさせる資本家はいません。必ず、賃金分に相当する時間をこえて、労働を続けさせます。その時間帯に生み出された価値は、まるまる資本家のものになります。これが、「剰余価値」です。
 この取引で、資本家は別にインチキをしているわけではありません。世間並みの生活費ではなく、もっと低い賃金をむりやり押しつける資本家は現実にはどこにもいますが、資本家が、市場経済の法則に従って、世間並みの生活ができるだけの賃金を支払っていたとしても、その分を埋め合わせるのに必要な労働は、1日の労働時間の一部分に過ぎません。それ以上の労働時間は剰余労働であり、資本家は、まちがいなく剰余労働を手に入れることができます。
これが、資本主義の搾取の仕組みです。
(80~82ページ)
とてもわかりやすいので、引用させてもらいました。資本主義社会では、資本家がインチキをしなくても労働者は搾取される構造になっているというわけです。
(私には、その構造はロ.の定義から導き出される構造に過ぎないような気がしますが。)


「利潤第一主義」が社会悪の根源

・・・・・・

 そもそも、資本家が自分のもつ貨幣をあれこれの事業に資本として投下するのは、剰余価値を手に入れて資本を増殖させるためです。
 剰余労働も、それによって得られた富の蓄積への欲求も、資本主義以前の社会からありました。しかし、資本主義社会では、富の蓄積というのは、ただのためこみではないのです。貨幣というものは、ただ手元にためこんでいたのでは、剰余価値を生んではくれません。だから、資本家は、投下した資本が剰余価値を生んだら、その一部または全部を再び生産過程に投じて、より多くの剰余価値を獲得しようとします。こうして、新たな資本をたえず生産に投じ、剰余価値の生産の規模をひたすら拡大すること、つまり、「生産のための生産」が資本主義の合い言葉になります。マルクスは、ここに資本市議生産のもっとも根源をなす病理をみました。 (83ページ)

「生産のための生産」に問題があるということには合意しますが、それは搾取とは別問題です。
「剰余価値」とは、経済学の専門的な言葉です。私たちは、剰余価値の生産が資本主義的生産の塊だということを、日常語では、「利潤第一主義」という言葉で表しています。生産過程で生まれた剰余価値は、資本主義社会では、利子や地代などいろいろな部分に分解してゆき、生産過程をにぎる資本家の手に残るのは利潤の部分だけですが、労働者から剰余価値を直接搾取する当事者は生産を投資する資本家ですから、その手に残る「利潤」を、剰余価値の代表者に見立てて議論を進めても、それほど見当違いにはならない、と思います。 (84ページ)
私にはかなりの見当違いだ思いますが。

「労働者から剰余価値を直接搾取する当事者は生産を投資する(産業)資本家」

はそうでしょう。けれども、

「資本主義社会では、利子や地代などいろいろな部分に分解してゆき」

と、この部分があっさりスルーされているのは納得がいきません。利子や地代を取るのは金融資本かであり、産業資本家は金融資本家から搾取されています。つまり間接的ながら、労働者からの搾取です。

貨幣や土地はそもそも再生産などできません。ですから再生産の費用などかからない。ただ所有しているというだけで利潤が得られる。利潤第一主義が資本主義の病理の根源だというなら、金融資本家こそがその根源となるはずですが、そこはスルー。これでは見当違いとしかいいようがありません。

さらに。
※マルクスが想定した生産物の配分方式

 マルクスは、未来社会での生産物の配分方式について、『資本論』のなかで、次のような想定を示しています。
イ. 社会の総生産物のなかから、(1)社会の存続と発展が必要とする再生産への投資元本、(2)不慮の災害や事故の備える保険元本、(3)生産に参加できない人びとへの社会保障元本などは、配分の対象からはずされる。
ロ.社会の公共的な必要にあてられる元本部分をのぞいて、社会の生産物の全体が、消費手段として、社会の構成員に配分される。
 その配分の方式は、一律に決められるものではなく、未来社会の性格とその発展の度合い、社会を構成する生産者たちの発展の度合いに応じて、変化するだろう(第一部第一編第一章、第三部第七編四十九章)。
(161ページ)

???

「社会の存続と発展が必要とする再生産への投資元本」・・・○
「会社の存続と発展が必要とする再生産への投資元本」・・・×

私にはこの差がよく理解できません。労働者からの搾取がダメだというのなら、資本家が経営する会社による搾取であれ、労働者が独裁する社会であれ、ダメなものはダメではないのでしょうか? 生産手段や土地が共有なのか私有なのかは、労働者の搾取の論理と全く関係がありません。

資本家と労働者の階級がダメだというのであるなら、プロレタリアート独裁の社会にだって「剰余価値」の配分を決める者と決められる者との階級が生まれるだけの話。〈ブルジョアvsプロレタリア〉の対立が〈ノーメンクラツーラvsプロレタリア〉になるだけの話です。

「未来社会の性格とその発展の度合い、社会を構成する生産者たちの発展の度合いに応じて、変化するだろう」

この配分が適正であるという保障など、どこにもありません。冷静に合理的に考えれば、冷静で合理的な「剰余価値」の配分方法などありえないとする結論が妥当です。マルクスは労働時間を配分方法の基準に考えているようですが、アタマの悪い私にはその論理は全く理解できません。労働時間と労働生産性とはまったく別のパラメータですから、どう考えても労働時間のパラメータに一元化出来そうもないです。それならば、市場原理によって商品の価値を測定する方がよほど合理的なように思えます。

結局のところ、マルクスの論理(かどうかはわかりません。日本共産党の論理、あるいは不破哲三個人の論理でしかないのかもしれませんが)は、〈ブルジョアvsプロレタリア〉の構造を〈ノーメンクラツーラvsプロレタリア〉に置き換えるだけのことです。マルクスは経済を下部構造、政治や法律、宗教などの社会形態を上部構造としましたが、〈ブルジョアvsプロレタリア〉の構造を〈ノーメンクラツーラvsプロレタリア〉に置き換えるだけでしかないなら、その上下は逆さまだと言わざるを得ません。土地と生産手段の私有共有にかかわらず労働者からの搾取は行われるが、一方は○、一方は×。○×を決めるのが下部構造で上部は下部に付随するもの。そして、〈ブルジョアvsプロレタリア〉がよいか〈ノーメンクラツーラvsプロレタリア〉がよいかは社会形態の問題です。いや、もっと明確に言うと、イデオロギーの問題でしかないのです。

共産主義者とは、イデオロギーを最下部の構造とする者だと言えそうです。

コメント

雑文にて読み流してください

”価値”とは、社会の構成員が生きてゆくために必要な物資を、分業で生産し交換しあう。そのための基準であり、生産のために投じられた社会的平均労働量を実体とした”価値”という概念は、それゆえ個々人の欲求を満たす個別具体的な使用価値とはことなり、抽象的で社会的なものであり、”交換”という現象の実体をなすものでもあります。たいへん難解にして厄介な概念です。

これは、社会的生産が、利潤追求を動機として私的生産として無管理、無政府的におこなわれる資本主義社会特有の概念です。それ以前の社会、封建社会などでは、たとえば日本の”村”、ロシアの”ミール”などの共同体で余剰の生産物が生じた場合でも、それを剰余価値とはよびません。剰余生産物といいます。なぜなら価値は交換をとおして”社会的な価値”を実証するとき価値たりえるからで、あまねく社会を交換の連鎖が支配するほどにより、より完全に、より社会的に平均化されたものとして機能するからであります。

さて、ロ.の定義から剰余価値学説があとづけされたように思われるということでありますが、ロ.の定義は剰余価値学説のコアであり、実にマルクス氏はこの定義を導くのに十年の歳月を費やしたといわれています。
何百年のちにそれを知るものにとっては「あぁ、そうかい!な~んだ」程度のものかもしれませんが、このロ.の定義こそがそれ以前のスミス&リカードの古典派経済学を乗り越えるものなのであります。彼らには”新たな価値”がどこから生じるのかが説明できなかったからです。「どうも労働が価値の源泉ではないか」とリカードは”労働価値説”を説きましたが、100円の価値を生み出した労働に100円の代価を支払って、100円の商品と100円の商品を交換したのではどこからも”新しい価値”は生じません。80円の商品を100円で売って20円の儲けは詐欺であり、それ以前に60円の商品を80円で仕入れてきたりして結局は詐欺の連鎖ということになります、これを俗流経済学といいます。

マルクスは”労働価値説”の内部へ切り込み賃労働にメスをふるいます。そこで見いだしたものが、”労働力(最近では労働能力ともいう、こちらのほうがEEかも)”という概念だったわけであります。

まあ、愚樵さまがいろいろと書いておられますが、私はファー(ツァーじゃないよ(^o^))の本を読んでいないし、読む気もないので、とやかく書くつもりはないのですが、日「共」スターリン主義最高指導部ファーの本をもって資本論批判とはなりえないとはおもいます。ご自分でも「結局のところ、マルクスの論理(かどうかはわかりません。日本「共産」党の論理、あるいは不破哲三個人の論理でしかないのかもしれませんが)」と書いておられますとおり。ただ、ちょっと批判的な視座をもって読めば、「赤い貴族対労働者人民」という構図が見えてくるということは、「あ! やっぱりネ」というところでしょうか。愚樵さま個人の理論でしかない、ということでもないかと。まあ、推測の域をでないのでこれでやめときますが。

最後にもう二つ
まず一点、同じくロ.の商品の価値は再生産の費用ではなく、生産に要した固定資本+可変資本の量です。ファーがそう書いていることはないとおもいますが、もしそうなら驚愕に値します。なぜなら、商品の価値=再生産の費用なら生産は単純再生産にしかならないからです。資本主義的生産は拡大再生産を是とするものであります。
それゆえに、商品の価値は、生産を重ねるほどに生産は拡大し、生産量は増え価値は逓減するわけです。

もう一点、資本主義では労働の成果をこっそりパクリます、これは詐欺で搾取です。
社会主義、共産主義は労働の成果を公公然と召し上げる収奪です、でも原則的に合意にもとづいた明朗会計をめざしています。社会や生産を維持発展させてゆくためのコストはだれもが等しく供出せねばならないことには違いはありません。ただ、時速60km制限の公道を時速200kmで走行する能力をもったクルマや、やたらと薄くなる一方の液晶テレビの開発競争のような社会的価値の無駄使いはなくなり、本当に必要なところへ、人と自然にやさしいとかの明確なポリシーをもった生産へと目的意識をもって労働は配分されることとなるでしょう。キーワードは「必然の王国から自由の王国へ」「欲望ではなく必要におうじてとる」ということになりましょうか。

おはり

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