愚慫空論

労働を商品として売らない自由を保障する

労働を商品として売らない自由を保障する。早い話がベーシック・インカムであり、私が提唱する個人通貨です。

『労働者の商品化の果てに - 書評 - 大搾取!』(404 Blog Not Found)

この本は私も読んでみたいが、共産党員にも是非読んで欲しいと思います。
「資本家が労働者を再び搾取するようになったからだ」というのは確かに事実であり原因でもあるが、真因ではない。現代の搾取者たちは、自ら鞭をふるって強制労働させているわけではない。実際本書には「搾取の首魁」が何人か登場するが、彼らは気さくで温情的な紳士にしか見えず、残酷な奴隷商人の姿を見いだすことは難しい。実際に鞭をふるう者たちは確かにいるが、実は彼らすら奴隷であるという冷酷が現実がそこにある。

それでは、なぜ資本家は労働者を再び搾取できるようになったのか。

労働者たちが、それを許してしまった--それどころかそれを望んだ--からだ。

それでは、なぜ労働者たちがそれを望んだか?

労働者自身が、労働力を商品だと思い込んでいるからでしょう。自らの労働力は高く売り、他人の労働力は安く買う――高く売って安く買うのは、古今東西、いつの世でも商売の秘訣ですが、労働者が商売人になってしまったがゆえに、資本家という上手の商売人が労働者という下手な商売人を搾取することが出来るようになった。

では、労働者に労働を商品として売らない自由はあるのか? 

答えはわかりきっています。そんな自由があるのは、はじめから自由な人だけ。資本主義社会において「自由な人」とは「持てる者」、すなわちカネも土地も所有している人。労働力しか持っていない労働者に労働を商品として売らない自由などない。にもかかわらず、労働者自身がその自由を欲しない。労働者が欲するのは、あくまで自分自身の商品が高く売れることでしかない。労働者自身が資本主義的価値観に浸りきってしまっているのですね。

資本主義的労働観からすれば、ベーシック・インカムはただで商品をもらうことに他なりません。誰かがタダの商品の提供を受けるというのは、裏を返せば誰かがタダで提供するということであり、その 誰かとは国家あって労働力商品を売る労働者自身でもあるわけです。ですから、資本主義的労働観に立つ限り、ベーシック・インカムは肯定しようがない。不公平だとしか思えない。

でも、それは狭い考え方だとしか私には思えません。労働者が搾取されるようになってしまったのは、労働力を商品として売るしか選択肢がなくなったからだと理解すれば、労働力を商品として売らない自由を保障するベーシック・インカムは、資本主義的労働観に風穴を開ける現実的な仕組みになる。労働者に必要なのは、労働力を商品として売らなくても済む自由です。

ただし、資本主義的労働観を相対化させ、労働力を商品として売らなくても済む自由を確立するにはベーシック・インカムだけでは足りません。労働者ひとり一人が持っている労働力が、富へと変換させる場が必要。つまりは生産手段であり土地です。富は労働力と土地がなければ生産できませんから、労働力を商品として売らなくても済む自由を確立するためには、労働者に生産手段と土地を自由に使える権利も与えなければならない。

それを阻むのが所有権です。利用されていない土地も、所有権があるというだけで他人を排除できる。ここにも風穴を開けなければなりません。

ここまでの主張は、まるで共産主義ですね。しかし、ここから先が違います。

生産手段や土地は共有してはいけません。共有は自由を妨げます。共有を管理する者が結局は労働者の自由を奪います。必要なのは、土地や生産手段を利用する能力のない者(=資本家)が土地や生産手段を所有することを禁止する、ただそれだけのことです。国家が土地や生産手段を共有物として管理する必要など全くない。国家の役割は、土地や生産手段が労働者によって適切に利用されるルールを整えて遵守させるところまで。国家がそれ以上踏み出しはいけません。

労働者にとって必要な社会は、土地や生産手段が共有される社会などではありません。労働者が自らの労働力を、労働力を富に変換する手段も含めて自らのものとできる社会です。労働者に団結など全く必要はないのです。労働力を国家の共有とすることは、国家による労働者からの搾取に他なりません。

コメント

こんにちわ。ご無沙汰をしております。

毎日、たのしみに読ませていただいていますが、コメントは久しぶりです。
というのも、「<トランスモダン>を阻むもの」以降、量といい質といい素晴らしい理論の展開で、付いていくのがやっとな状態だからなんですが。

さて本題です。

>ここまでの主張は、まるで共産主義ですね。

いままで私はいつもここまで来て壁にぶち当たっていました。
(国家というか、国家を運営する一部の人間(裏表含めて)が容易に搾取者となれることを止める仕組みを見つけ出せなかった。)

>しかし、ここから先が違います。

たしかに違いますね。
「共有」へのこだわりが(私の場合)思考の邪魔をしていたとは。目からウロコです。

以前のエントリーで入会地の記述のところで、わざと「総有」とされていましたが、あれは前振りだったのでしょうかね。

muchomejorさん

とりあえず、この部分にだけ。

以前のエントリーで入会地の記述のところで、わざと「総有」とされていましたが、あれは前振りだったのでしょうかね。


ええっと、べつにわざとではないですよ。入会地の共有の概念は特殊なものとされていまして、特に「総有」と呼ぶのだそうです。「総有」は法律用語のようですよ。

共産党と同じ事言ってます

> 国家が土地や生産手段を共有物として管理する必要など全くない。国家の役割は、土地や生産手段が労働者によって適切に利用されるルールを整えて遵守させるところまで。国家がそれ以上踏み出しはいけません。

ご存じないでしょうが、ここ、日本共産党の現在の主張と全く同じだと思います。綱領をご確認下さい。

わからんなぁ

ではなぜ、共産党は民主集中制を捨てないのでしょうね?

あくまで共産党の内部規律ですか?

しかし、それならば自民党総裁だって、自民党の内部規律ですよ?

共産党が万年野党でいるつもりなら集中制を内部規律とすることは一向に構わないのですが。

いずれ内部規律を自民党総裁=総理大臣のように外部にも反映させようと考えているのであるなら、

 国家が土地や生産手段を共有物として管理する必要など全くない。国家の役割は、土地や生産手段が労働者によって適切に利用されるルールを整えて遵守させるところまで。国家がそれ以上踏み出しはいけません。


と民主集中制との不整合は問題ではありませんか?

うっ

>入会地の共有の概念は特殊なものとされていまして、特に「総有」と呼ぶのだそうです。「総有」は法律用語のようですよ。

なるほど。そうなんですね。よく調べもしないで書いてるのがバレバレです。根がいい加減なものですから、よくこうなります。

それはそうと、よく考えたら、地球まるごと入会地なんでしょうにね。現状では到底無理だとは分かっていても、100年後でも、200年後でも、きっといつの日かそれが実現することを思わず夢見てしまいます。

>共産党と同じ事言ってます

共産党と言えば、長年の刷り込みのせいか、クールじゃないと、つい最近まで思っていましたので(このごろその偏見こそ捨てたつもりでしたが)、真面目に主張を聞いたこともなかったです。
愚樵さんも指摘されているとおり、中央集権制が決定的な違いで、これさえやめれば、カベを大きく突き抜けられる可能性ありますね。これからは、ちらちら様子を見ていくことにします。

> ではなぜ、共産党は民主集中制を捨てないのでしょうね?

さーね?党外的に一枚岩に見せたいからでしょうか?
ちなみに、私は捨てても一向に構わないんじゃないかと思ってますけどね。

>あくまで共産党の内部規律ですか?
そうですよ。綱領読めば分りますが、これをソ連のように国の運営に適用することは、厳しく否定しています。

>しかし、それならば自民党総裁だって、自民党の内部規律ですよ?

そうですよ。民主集中制が政党の内部規律である限りは、何も特別な事じゃない。

ベーシックインカムに前向きではない共産党。労働組合が支持基盤ということとも関係しているように思えます。貧困を完全雇用で解決しようというのは、生産が消費を上回る現在では、それは夢物語に過ぎません。上手いこと方向転換してくれるとよいのですが。

生産と消費のアンバランスとそこから生まれる格差は確かにその通りですね。
そこに金融格差や所有の問題が混ざって、生産者が生産量以下の物しか得られない構図も一部…。
と言うか、考え様によっては広く存在しますね。

この場合の一部は貧困国やなにかの労働者で、広くって言うのは「労働者一般」ですけど。

どうしても前提に疑問がぬぐえない

愚樵さん、こんにちは。
拙記事をトラバがてら、コメントさせていただきます。

>労働者が搾取されるようになってしまったのは、労働力を商品として売るしか選択肢がなくなったからだ…

私は、この前提に非常に違和感を覚えます。
左派の方々は必ず「労働者=被搾取者」という前提で話を始めますが、その被害者根性が気に入りません。

「カムイスペースワークスブログ」という、私が愛読しているブログがありますが、これを読んでいると、「搾取した、とか、された」という議論が馬鹿らしく思います。
そのことについて過去に書いた拙記事↓を貼っておきます。

・日本人に足りないのは、「公の心」と「判断力」
http://yamamoto8hei.blog37.fc2.com/blog-entry-92.html

左派の主張の基には、どうも植松先生のいう「他人にはぎ取られる前に、自分がはぎ取るか、という人」の嫉妬心であるような気がしてなりません。

そうした動機もある程度は必要なのでしょうけど、あまりに「過度」であるような気がする。

それと、「労働すること」は必ずしも「搾取されること」ではありませんよ。

古来より人は何らかの労働をすることで食を得てきたし、また、自らの社会的役割を自覚することで精神的な充足を得ています。

人はパンのみで生きるにあらず。
そのことを、忘れた議論であるような気がします。

>労働力を商品として売らない自由を保障するベーシック・インカム

ベーシック・インカムが具体的に何を指しているのがわかりませんが、何か一種の所得補償制度のようなものですか?

しかし、労働力を売らない自由を保障してしまったら、誰も働かなくなるのでは?

そうしたとき、ベーシック・インカム制度を支える経済そのものがどうなるかを、考えたことがあるのでしょうか?

一知半解さん

ようこそ。

まず私は左派ではありません。エントリーを最後まで読んでいただくとわかると思いますが、このエントリーは左派批判のエントリーです。

まずこの点を確認させていただいておいて、

>>労働者が搾取されるようになってしまったのは、労働力を商品として売るしか選択肢がなくなったからだ…


についての私の見解は、

労働者たちが、それを許してしまった――それどころかそれを望んだ――からだ。

です。でありますから、私も

私は、この前提に非常に違和感を覚えます

であり、

左派の方々は必ず「労働者=被搾取者」という前提で話を始めますが、その被害者根性が気に入りません。

に同意です。その上で私はベーシック・インカムを採用すべきだと考えているわけです。

しかし、労働力を売らない自由を保障してしまったら、誰も働かなくなるのでは?

そんなことはありえません。労働力を売らない自由とは、労働をしないで食べさせてもらう自由ではありません。一知半解さんも指摘されているとおり、古来から人類はずっと労働してきました。労働なしで人類の存続はありえないのです。労働力を売らなくても、労働はしなければなりません。そうでなければ自らが食べられなくなるだけです。

一知半解さんはベーシック・インカムに反対の立場であるとお見受けしますが、その反対の根拠もまた労働力=商品でしょう。私は本文で以下のように指摘しています。

資本主義的労働観からすれば、ベーシック・インカムはただで商品をもらうことに他なりません。誰かがタダの商品の提供を受けるというのは、裏を返せば誰かがタダで提供するということであり、その誰かとは国家あって労働力商品を売る労働者自身でもあるわけです。ですから、資本主義的労働観に立つ限り、ベーシック・インカムは肯定しようがない。不公平だとしか思えない。

ベーシック・インカムの目的は、タダで商品を提供することではなくて(現実には提供することになるのですが)、一知半解さんも抜け出せないでいる資本主義的労働観から脱するためなのです。

少し考えてみてください。

もし仮に、ベーシック・インカムで働かなくなる人が増えたとすれば、それだけ労働力商品の値段は上昇します。ということはつまり、労働によって生産される商品の値段が上がるということになる。商品の値が上がるとベーシック・インカムでは生活をさせることが出来なくなくなります。単純な市場原理の問題ですね。そうすれば、労働者は生活のために必然的に働かざるを得なくなりますが、その時の働き先を、資本家に労働力を売る以外にも選択肢を設けようというのです。

ただし、資本主義的労働観を相対化させ、労働力を商品として売らなくても済む自由を確立するにはベーシック・インカムだけでは足りません。労働者ひとり一人が持っている労働力が、富へと変換させる場が必要。つまりは生産手段であり土地です。富は労働力と土地がなければ生産できませんから、労働力を商品として売らなくても済む自由を確立するためには、労働者に生産手段と土地を自由に使える権利も与えなければならない。

労働者にベーシック・インカムだけでなく土地と生産手段も与えることで、労働力を売らない自由を保障する。商品の値段が上がってベーシック・インカムで賄えなくなれば、例えば遊休農地を使って自ら食料を手に入れればよい。私がこのエントリーで主張しているのは、労働者が遊休農地を使用するときに、土地所有者の所有権によって労働力の実現(=富の生産)が阻まれないようにしなければならないということです。

労働者が労働力を自由に発揮できる環境が整いさえすれば、あとは自由競争でよいのです。他人の2倍の農地を経営できる人間は、2倍の収穫を得ればよい。他人の3倍価値の高い労働力を発揮できる者は、他人の3倍の報酬を得ればよいのです。ただし、この能力はあくまで自身の能力です。他人を使役して、つまり労働力を他人購入して、それを使いこなす能力は認めない。いえ、労働者自身が認めて積極的に経営者に仕えるというのならその自由は排除しませんが、生産手段や土地を占有することで労働者が労働力を売るしかないような状態は解消しなければならない。労働者に自由があってことこその自由競争でなけばならないのです。

愚樵さん、レスありがとうございます。

何となく愚樵さんの言わんとするところがわかってきたような気がします。
私は経済オンチなので、解釈が間違ってたとしたらご容赦くださいということで、以下私見をコメントします。

愚樵さんの主張どおり、高度資本経済社会の段階にある日本で、所有権を無視するということは、即ち資本主義社会の否定ですから、「革命」でもおきない限り無理ですよね。

もちろん、私の意見は、資本主義的労働観から脱していないから…ということになるのでしょうけど。

>労働者にベーシック・インカムだけでなく土地と生産手段も与えることで、労働力を売らない自由を保障する。

結局、ベーシック・インカムとは、所得補償と理解してよろしいのでしょうか?

仮にそうだとしたら、その原資は、税金ということになるのでしょうが、税金を費消しながら、勤労精神を麻痺させ、かつ、自給自足しなければならない状況になるのだったら、最初から税金を投入するのは無駄ですし、勤労精神を破壊する分だけ愚策であるような気がするのですが…。

それに、実際のところ、「土地と生産手段」を労働者に与えるといっても、1次・2次産業程度の産業社会なら考えられなくもありませんが、高度に複雑化された資本社会で、「上手く」機能するでしょうか?

「土地と生産手段」を与えても、使い方もわからない労働者だってゴマンといるでしょうし、使えたとしても、非効率極まりない可能性もある。

資本抜きの人海戦術といった感じですし、何となく、毛沢東の「大躍進政策」的結果に終わりそうな気がしてならないですね。

「労働者が労働力を自由に発揮できる環境が整いさえすれば…」と仰りますが、これは「自由競争」を引き起こし、その競争において「能力のない」労働者というのは、結局のところ、被搾取状態が続くような気もするのです。それは仕方ないということになるのでしょうか?

ご意見を伺っていると、愚樵さんは、自らを左派ではないと仰ってますが、どうも「資本」を敵視しているように私は感じます。

もちろん「資本」には、影の部分もあるとは思いますが、光の部分を無視するべきではないと私は思うのですが…。

もし、愚樵さんの主張に対する私の解釈が違っていたら、スミマセン。

返事が遅くなって済みません。

もちろん「資本」には、影の部分もあるとは思いますが、光の部分を無視するべきではないと私は思うのですが…。

まず、この部分から。仰るとおりだと思います。「資本」に限らず、「国家」といった組織や「伝統」といった文化でも同じことです。

たとえば「国家」ですが、国家概念なくして国民はありえません。が、国民なくして国家もなし。国家という組織が国家概念を最優先にすると、国民は不幸なことになる。

「伝統」もそう。伝統は人びとが日々の暮らしのなかで培うものですが、形骸化すると害悪です。伝統を支える力、伝統を育む力、伝統を壊す力は庶民の力そのものであって区分けできるものではない。「伝統」の概念は、区分けできないものに区分けの圧力を掛けることになる。

「労働者」という概念も、実は「資本」という概念と対になってのものです。資本概念なしに労働者という概念もない。が、概念がなくても労働者は労働者です。

「資本」は労働者の労働を区分けしてしまいます。すなわち「資本」にとって有利な労働とそうでないと労働とに。「資本」にとって有利な労働は、我々の文明の発達に大きな益をもたらしてきました。それはまちがいなく「資本」の光の部分です。けれども、光が強くなると影もまた強くなる。「資本」にとって役に立たない労働は労働とすら見なされなくなってしまった。「労働者を自由にする」というのは、労働者に「資本」の役には立たない労働をする保障を与えるということです。

結局、ベーシック・インカムとは、所得補償と理解してよろしいのでしょうか?


貨幣経済では、ベーシック・インカムは所得保障に他なりません。労働も含め、すべてが貨幣に置き換えられてしまう社会では、労働を貨幣に交換しない自由を与えるためには、貨幣を与える以外に方法はないからです。そうでなければ、「資本」の役に立たない労働をする人間は生きていくことが出来ません。

このことは同時に、労働者でない者にも貨幣を与えてしまうことになり、大きな欠点のように見えます。が、この欠点は、ベーシック・インカムの欠点というよりも、貨幣経済の欠点なのです。貨幣経済では、すべてが貨幣に置き換えられてしまう反面、貨幣がありさえすればすべてが手に入る。労働が収穫と直結していないのです。労働が収穫と直結すれば資本に出る幕はなく、資本家は搾取できません。

仮にそうだとしたら、その原資は、税金ということになるのでしょうが、

いいえ、原資を税金に求めないベーシック・インカムは可能です。ベーシック・インカムと表記してはいますが、私が念頭に置いているのは税金原資のそれではなくて、「個人通貨」というものです。
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-242.html

極めて革命的、というより、単なる空想です(笑)

実際のところ、「土地と生産手段」を労働者に与えるといっても、1次・2次産業程度の産業社会なら考えられなくもありませんが、高度に複雑化された資本社会で、「上手く」機能するでしょうか?

機能すると空想しています。現在の産業社会は株式会社がその主体ですが、別に株式会社でなければならない理由はありません、私たちに必要なのは高度な資本社会ではなくて、高度な技術です。高度な技術には多額の資金が必要ですが、資金がつねに資本と同じというわけではない。そのあたりは、『労働主義社会の実現は、案外簡単かも?』のエントリーで言及しています。

ご意見を伺っていると、愚樵さんは、自らを左派ではないと仰ってますが、どうも「資本」を敵視しているように私は感じます。

私が敵視しているのは「資本」だけではありません。「資本」概念であり「国家」概念であり「伝統」概念です。「資本」を敵視する左派は、「資本」概念を他の概念に置き換え要するだけのことで、私にとっては敵です。また右派が「国家」概念を守ろうとするものであるのなら、それも私の敵になります。

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