愚慫空論

「幸福実現」のイメージ

とある方が教えてくださいました。“記事の下のスペースに幸福実現党の広告が出てるよ”、と。

FC2ブログでは設定で消すことができるのだそうですし、せっかくの良心的なアドバイスですが、広告を消すのはやめておくことにします。なんといっても、私のような貧乏人がブログなど運営できるのもスポンサー様のおかげです。おカネの出所は問いません。また問われもしないでしょう。政治資金規正法が私に適用されることはないでしょうから(笑)

それに、幸福実現党の広告を消さなかったからといって、私を幸福実現党支持者だと見なす人もいないでしょう... ん? いやいや、幸福実現党の広告が存在していることを知っていながら敢えて消さないのは支持と同じだ――なんて論理を展開する人は、いなくはなさそうですね。臓器移植法のA案が通ったのを知っていながら拒否の申請をしないなら、臓器移植の意志を示したのと同じ、だとか?

...冗談はさておきまして、本題に入ります。本題は、「幸福実現党」という党名の、「幸福実現」という言葉から喚起されるイメージ。私はなぜか、この「幸福実現」という言葉に「強欲」を感じてしまうのです。


あなたの孫が幸せであるために―百年後の世界を考えようあなたの孫が幸せであるために
―百年後の世界を考えよう

志村 建世

「幸福実現」→「強欲」という連想から思い浮かんだのが、次のお話。
(著者の志村建世さんは、こちらの志村建世さんです。)
金に支配されなかった人たち

  これは少し古い笑い話です。 文明開化が南アジアの島国にも及びはじめた頃、日本がドイツ領だった南洋諸島を委任統治領としていた昭和初期の話かもしれません。
 南の豊かな自然と、そこで暮らす穏和な人たちを見たとき、文明国から訪れた紳士は、あまりにもったいないと思ったのだそうです。いくらでも魚はとれるのに、島人は家族が食べるぶんだけ取ると、あとはのんびり遊んでいます。そこで「魚をたくさんとって売ることを考えたらどうか」と提案しました。興味をもって集まった島人は、魚をたくさんとって売ったらどうなるかを聞きました。紳士はそこで新しい事業を始める可能性も踏まえて「魚がたくさん売れたら、儲かってみんな金持ちになれる」と言いました。島人は金持ちになったらどうなるかと聞きました。紳士の答えは「なんでも好きなことをして、のんびり暮らせるようになる」というものでした。それを聞いた島人は、「それなら今とおなじだ」といって、一人二人と立ち去ってしまったということです。

 私はこの話を「だから南洋の土人(当時の呼び方)は怠け者でだめだ」という文脈で聞いたように思います。「冒険ダン吉」という漫画が人気だった頃の話です。

志村さんからお借りしたこの話を読んで、“愚樵は紳士を「強欲」だと言いたいのだな”と思った人。正解です。でもそれは半分だけ。「強欲」なのは紳士だけではないのです。「南洋の土人」を怠け者だとバカにしつつ勤労に励む労働者もまた、紳士と同様に「強欲」です。
 昭和初期の島人が金銭欲に支配されなかったのは、金があれば快適な人生を送れる文明社会というものを知らなかったからに過ぎません。文明以前の未開の社会に住んでいたから金の価値が分からなかった、ただそれだけのことです。しかし、現代の社会に生きている私が、この話に何がしかの羨ましさと、島人の人間性の尊厳を感じるのはなぜでしょうか。それは多分、この話が本当の幸せとは何かということ、そしてさらには人間とはどのような存在であるのかということを、深く考えさせるからだと思います。

本当の幸せとはなにか? 昭和初期の島人たちにもし、

“幸福とは努力して実現させるべきものだと考えますか?”

と問うてみたとしましょう。果たして“Yes”と答えるでしょうか? 「強欲」な紳士や勤勉だけれども同じく「強欲」な労働者なら躊躇いなく“Yes”と答えるでしょう。けれど島人たちが“Yes”と答えるとは私には思えません。“幸せを実現させるだって? そこらにいくらでも転がってるじゃないか!”と笑われるような気がしてなりません。

志村さんは、島人に羨ましさを感じると言います。文明の発達した現代の日本に生きる私たちは、島人を羨ましいと思うかどうかは別としても、“幸福とは努力して実現させるべきものだと考えますか?” の問いに躊躇なく“Yes”と答えることが出来ない人の割合は、以前より少なくなってきているのではないでしょうか? 戦中戦前のモノが極端に欠乏した時代から、所得倍増、高度経済成長の時代をあたりまでは、「幸福実現」の問いは、モノが必要とされる人全員に行き渡る豊かな社会の実現とほぼ同一視されて、“Yes”と答えることができたでしょう。しかし、一見、かつて実現が夢見られた豊かな社会にたどり着いてみると、幸福は「実現させるべきもの」から「見失われてしまったもの」になってしまったのではないでしょうか?

〈システム〉はいまだ幸福を「実現させるべきもの」だとして機能しています。学校では個性だのスキルだのと刷り込みがなされるし、社会へ出れば出たで競争を強いられて、勝ち抜いた一人握りの「勝ち組」だけが幸福を実現できるといった仕組みで、「負け組」とは幸福とは何かを識っていながら実現できなかった者だと見なされる。これすなわち俗に新自由主義と呼ばれていた思想と仕組みですが、それが破綻した現在では「勝ち組」の強欲(←「」なし)な搾取が多々指摘されているけれども、その指摘している人たちもまた「強欲」(←「」つき)。幸福は努力して、ときには闘争して、「実現させるべきもの」だと捉えている人はいまだに多いことは間違いありません。

けれども、幸福は「見失われてしまったもの」だというイメージは、日本人の中に広く深く浸透してるように感じられます。このイメージは複雑で屈折したものです。かつては確かに識っていたはずなのに、いつの間にかわからなくなってしまった。いや、単にわからなくなってしまっただけではない。もはや「昔の幸福」に戻れないことだけはわかっている。またかつてのように、みんなが一緒に同じ幸福観を共有できないであろうことも何となくわかる。昔に戻ることもできず、誰かに教えてもらうこともできず、自ら答えを見つけ出すしかない。

この答えを自ら見つけ出すことができるか否か――この境目となるのが「強欲」です。「強欲」な者は決して「自らの答え」を見つけ出すことは出来ません。「強欲」な者が見つけ出す答えは、いつでも「みんなの答え」です。「強欲」な者の中にも誠実な者はたくさんいて、そういった人たちは「みんなの答え」をみんなのために出そうとする。反対に強欲な人(←「」なし)はみんなの答えを自分のためだけに出そうとする。

「みんなの答え」はみんなのために出して使うのがよいに決まっています。しかしながら、「ポストモダン」の時代である現代は、「みんなの答え」をみんなのために出してみんなのために使うことが、疑いなく善であるとは言えなくなってしまった時代です。「みんなの答え」とは、言い換えれば「合理的な答え」ですが、「強欲」な者が理解できずにいるのは、この「ポストモダン」が示す合理性の限界。すなわち「強欲」な者とは、アルマティア・センの言い方を借りれば「合理的な愚か者」なのです。

「合理的な愚か者」には、これでも喰らえ! と動画を貼り付けておいて、当エントリーの終了とします(笑)

コメント

では私が

「自分の答え」をみんなのために使う、ということで(笑)。

まあ実際、「個性的であれ」といったことを教条とする必要は薄いのでしょうね。
私は自分「が」普通の人間だと信じて疑ったことがないし、もっともっと普通でありたかった。

私「が」、みんなにとっての普通なのだから。

「自分の答え」をみんなのために使う

それこそが本当の意味での強者ですね。ニーチェに言わせれば超人かな(笑)

「個性的であれ」といったことを教条とする必要は薄いのでしょうね。

そう教わる者にはハナからそんな必要性はありませんよね。皆生まれながらにして個性的なのだから。この教条を必要とするのはそれを教える人。すなわち弱者です。個性を「みんなの答え」にすることで我が身を守るのです。強者は生まれながらの個性をただ受け入れるだけ。

降伏実現党

「憲法9条改正。
 北朝鮮のミサイルから日本を守ります。

 消費税・相続税全廃。
 あなたの財産を倍増させます。」

キモは相続税なんじゃないのかなあ。
10万の貯金の人は20万に、10億の資産の人は20億に。
金持ちほど儲かる仕組みが「幸福」なのだと思いなさい、と、押しつけられてるようだなあ。

さすが、幸福の「科学」!
科学とカルトは近いところにいるという好例ですねw

よく聞く科白

>憲法9条改正。
 北朝鮮のミサイルから日本を守ります。

ブログ界隈にもよくいるよね。
幸福実現党と同じメンタリティということで・・・・

ちがった

コメントしたかったのは、そんなことじゃなくて、
愚樵さんにかかると、みんな「強欲」になっちゃうなぁ、
と、いう感想。まあしょうがないか。

一旦「強欲」が普通だと思っちゃうと、南洋の土人のような幸福には戻れないかもね。
でも「強欲」が普通の社会では、いちいち「強欲」を指摘してくのも大変だね。反発必至だし……。

まえからチョクチョク書いてるけど、日本でも「強欲」から解放された真に幸せな人もいるよね。一部のホームレス。





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