愚慫空論

〈零次意志〉あるいは〈霊次意思〉

ここに貧しくお腹を空かせた人と、裕福で満ち足りた人がいるとします。

お腹を空かせた人は、食物を欲します。この欲求は〈一次意思〉です。

裕福な人は、自らが満ち足りているだけではなく豊富な食物を持っています。そして豊富な食物を自分だけでは食べきれず、大部分を腐らせ廃棄している。

今、裕福な人の前にお腹を空かせた人がいます。裕福な人の目の前には、無駄に廃棄されるしかない食物が積み上げられている。にもかかわらず、裕福な人はお腹を空かせた人に食物を提供することをしない。裕福な人は、好奇心から人が餓死する様子を知りたいが為に食物を提供しなかった――〈絶対悪〉です。

裕福な人の振る舞いは、相対的な善悪からは必ずしも悪とは言い切れない場合があります。すなわち、所有を善であると見なせば、自らの所有物である食物を他者に提供しないことは悪と見なすことは出来ません。もし仮に国家が裕福な人に対して貧しい人に食物を提供することを強制したとすれば、裕福な人は財産権の侵害だと叫ぶでしょう。なので国家は、裕福な人に提供を命令できず、貧しき人の救出を自らの責務とする以外はない。〈概念〉の産物である国家は裕福な人の〈絶対悪〉は問えないのです。

しかし、生命を有し〈一次意思〉を抱える個人には、裕福な人の〈絶対悪〉を見まごうことはありません。裕福な人が〈絶対悪〉に堕ちていることを識るのに、いかなる論理も必要としない。〈絶対悪〉は直観的に感じ取られます。

カルネアデスの舟板のような状況――ひとりしか生存できない――において、それぞれの〈一次意思〉に基づいて生存競争を繰り広げることは、善とも悪とも言えません。が、映画『タイタニック』で描かれていたように、男が愛する女に席を譲ることに私たちは絶対善を直観します。あるいは大人が子どもに席を譲ることに絶対の善を見ます。この善は、男も女も、あるいは大人も子どもも、互いに生き延びたいという〈一次意思〉を抱えていることを認めながらも、限定された環境のなかでより生存の可能性が高いことを理性的に選択したことによって感じ取られる善です。超越的意思をもつ個人の差異共振によって発揮された理性が絶対善を生み出す。男より女を、大人より子どもを理性が選択するのは、個人の思考が個人の枠を超えて、ふたりまたは一群の生命をひとつの生命と見なした上で、その生命がより長く生き延びる可能性を選ぶからです。こうした選択は、自暴自棄になり理性を放棄してしまっては得ることが出来ません。私たちが絶対善を感得し感動を得るのは、差異共振を求める意志によってです。

〈一次意思〉の差異共振を求める意志――これは「意志」とするか「意思」とするか迷うところです――は〈零次意志〉あるいは〈霊次意思)と表現することができるかもしれません。また〈零次〉が〈霊次〉であるなら〈一次〉は身体的であり〈二次〉は頭脳的ともいえるでしょう。身体的〈一次意思〉に善悪がない、また頭脳的〈二次意志〉がもちえるのが相対的善悪だというのも、あくまで直観的ですが、腑に落ちるものがあります。さらにいえば、〈零次〉〈霊次〉とは〈心身合一〉への意志であって絶対善であり、逆に〈心身合一〉を阻む意志が絶対悪となります。

参考:『Evil(道徳・倫理・法上の悪) or Malice (legal term)(事実の既知か不知か。認識上の善・悪)』(『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu)

なお、上掲の海舌さんのエントリーで示されている
また、ここで面白いのは、「知っていること」を「悪」と表記する慣習です。「無垢」を「純白」とプラス・イメージで捉えます。
 つまり、

  「知らない」→ +イメージ Bona Fide 善意 白 (潔白)
  「知っている」→ -イメージ Malice 悪意 黒 (腹黒い)

アダムとイブの物語でも、「知ること」に「罪」が関連付けられます
ですが、これは「純粋無垢」と〈心身合一〉とを重ね合わせてみれば理解できると思います。赤子の純粋無垢は心身未分化、すなわちいまだ〈合一〉の状態です。成長して「知ること」は心身の分離を促す、これは〈霊次〉においては悪です。

(私は「知ること」と「識ること」とをしばしば区別しますが、「識ること」は合一志向であり、「知ること」は分離志向と言えるかもしれません。 
    → 『知識』(愚樵空論)

コメント

何回、読んでも分かりません、、、、

愚樵さん。
こんにちは。
お元気でしょうか???
私はこのところ、大忙しでバタバタしています。
臓器移植についても書きたいのですが、なかなかパソコン前に座れませんが、愚樵さんのエントリーや皆さんのコメントを考えながら拝見しています。

さてさてさて、、、
そんな中、今日のエントリーは、何回読んでも、前に進むことも、上に積み上げることもできませんでした。
何故か?
ズバリ、愚樵さんの論理の進め方が分からないからです。

「にもかかわらず、裕福な人はお腹を空かせた人に食物を提供することをしない。裕福な人は、好奇心から人が餓死する様子を知りたいが為に食物を提供しなかった――〈絶対悪〉です。」と愚樵さんは書かれていますが、
これは、もっと丁寧に検証すべきではないでしょうか???
裕福な人は好奇心から、、、云々と書かれて、いきなり「絶対悪」です。と決めつけられても、スンナリと納得できません。
次に進むために、この前提には譲歩して。
さらに、わけが分からなくなりました。
「〈概念〉の産物である国家は裕福な人の〈絶対悪〉は問えないのです。」
????????????

ううううう~~~~ん。
国家とは概念の産物ということでしょうか???
裕福な人が、貧しい人の飢える様を見ていきたい、という好奇心(愚樵さん曰くの絶対悪)については、その是非は問えないということでしょうか???

「生命を有し〈一次意思〉を抱える個人には、裕福な人の〈絶対悪〉を見まごうことはありません。裕福な人が〈絶対悪〉に堕ちていることを識るのに、いかなる論理も必要としない。〈絶対悪〉は直観的に感じ取られます。」となり、絶対悪を直感のレベルにもっていきます。
そして、「〈心身合一〉を阻む意志が絶対悪となります。」と、書かれ、最後に「霊次」と言う新しい概念で悪と決めつけ締められるわけですが、、、
愚樵さんにかかると、
「おなかをすかせた人」はアプリオリに善で、富めるものは悪になり、さらに絶対悪にまで格上げ(?)されます。
結局、このエントリーで、何を仰りたいのか、私にはわからないまま、、、最後まできました。
これは、あまりに杜撰な分類ではないかと、私は思うのです。
そも人間に対しての見方に「マチの部分」が見受けられないように感じます。
二分法で人を分けることは、ある意味危険では、と思った次第です。

ううううう~~~む。
いずれにしても、また考えてみます。

「にもかかわらず、裕福な人はお腹を空かせた人に食物を提供することをしない。裕福な人は、好奇心から人が餓死する様子を知りたいが為に食物を提供しなかった――〈絶対悪〉です。」

じゃなけりゃ合理的にも倫理的にもそうするほか仕方がないはずのシステムの中でのこのいびつな表出が誰にも問題にされずに存在していることの筋立てが出来ないんだよね。

金持ちは捨てるほど飯をいただき。

貧乏人は死ぬほど飯がない。

同じ人間であるはずなのに、

みんな善意で動いてるのに、

なんでこうなってるんだ?

>裕福な人は、好奇心から人が餓死する様子を知りたいが為に食物を提供しなかった

こういう「裕福な人」がいるからじゃないのか?

そうではないのか?

なら「強欲なシステム」があるからだろ。

それに対してなんで誰もおかしいと言わないんだ。

「裕福な人」が「好奇心」でやっているならみんなに引き摺り降ろされるような、

そんな「強欲なシステム」を。

「システム化された善意」の強欲を。

なんで誰もおかしいと言わないんだ?

頭が病気なのか?

俺たち人間は。

科学教の徒

「文明砂漠で合理性や科学的啓蒙と呼ばれるものは、理性や誠実さが健全な人間に要求するのとちょうど反対のものを生み出したように思われる。そこに見るのは、かれらの科学的啓蒙が天や地や河川を汚染することだ。そこに見るのは、かれらが心身ともに滅びることだ。そこに見るのは、かれらの認識作業が頂点にあるとき、この世界の全生命を一度どころか数度も殺せるような爆弾を造ったことだ。

かれらの合理性の生み出したこのようなものでさえ、かれらを不安にさせないのに、なぜかれらはわれらの非合理性をあれほど恐れるのだろう?

だが、かれらは自らの合理性を恐れていない。それを誇りにさえ思っている。かれらの頭は病気なのだろうか?」

ミヒャエル・エンデ『ある中央ヨーロッパ先住民の思い』より

信仰

「かれらが合理性と呼ぶものが、かれらの目を見えなくしてしまった。そのような考え方の中には、はじめから死がひそんでおり、それが少しずつ表面化してきたことがかれらには本当に見えないのだろうか?死んだ思考、そして死をもたらす思考が、正しく応用されさえすれば、生に役立つとかれらは本当に信じているのだろうか?」

ミヒャエル・エンデ『ある中央ヨーロッパ先住民の思い』より

空想です(笑)

せとさん、お久しぶりです。

題名に「空想です(笑)」なんてしましたが、これ、冗談ではないんです。本当に空想です。でも、ふざけた空想ではなくて、マジメに空想しています。それがこのエントリー、いえ、ここのところのエントリーはみなそうです。真面目な空想なんです。ですから論理性は、文章の形態としては論理的構成になっているようでも、実はほとんど考えていません。

論理というのは、論理を組み立てる何らかの前提、数学では公理と呼ばれるものがなければならないでしょう? 私が空想だというのは、公理を取っ払ってしまっているからなんです。

空想とは、少しカッコヨク言うと創作と言い換えることができるかもしれません。私が好きな音楽に寄り添っていいますと、モーツァルトやベートーヴェンは、ハイドンが確立した古典派音楽の公理と論理を受け継ぎつつ、それぞれ独自の公理と論理を同時に発展させた。「公理と論理を同時に発展させる」ことが創作でしょう? そしてベートーヴェンの創作はブラームスやワーグナーに引き継がれ新たな公理系が創作されていく。

もっと言いますとね、ここところのエントリーは海舌さんやrenshiさんとの“セッション”といった感じかな。マジメに楽しんでやってます(笑)

当エントリーは、かなり独りよがりなアドリヴ・ソロといった感じですけど(笑)、次エントリーもまた同じ。私としては、とりあえず楽しんで頂ければ嬉しいです。でもって、「楽しみ」が「希望」へと成長していってくれれば、なお嬉しい。ま、これは大それた願望でしょうが、でも、大それた部分も含めてマジメではあります(苦笑)

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脱理性,脱合理性の彼方にある知的世界とはどのようなものか,想像するだけでわくわくします。 by toramaru氏

 toramaruさん、コメント、ありがとうございます。  そうです。あの Keynes が、近代を超えた視点で世界を見ていた、ということが明確になりました。これは、物凄い「発見」です。  海舌も、ケインズの数理経済面しか知らずに、これまでいました。  盲点でした...

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「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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