愚慫空論

臓器移植と幼児ポルノ

臓器移植とは、端的に言ってしまえば、死体の再利用です。死体から摘出されるを「使用価値のある商品」として扱うということです。脳死とは、臓器を商品として取り扱うために、死の〈概念〉に修正を加えるということです。

他方ポルノとは、裸体の画像や映像を「使用価値のある商品」と取り扱うことです。
わが子の成長記録として撮影された裸体を、通常の人は「商品」とは見なしません。他の「商品(貨幣を含む)」と交換に値する使用価値が裸体の画像や映像にあるなどとは考えないからです。自分は「商品」としては捉えていない財の単純所持を禁止するということは、国家が一元的に裸体を「商品」として見なした上で禁止するということに他なりません。

臓器移植法改正A案と児童ポルノ改正案の共通点は、これまで全面的に「商品」として取り扱ってこなかった臓器や子どもの裸体の画像を、全面的に「商品」と見なすということ。違いは、臓器移植の場合は全面的に「正当な商品」とし、児童ポルノの場合は全面的に「不当な商品」とすること。

生身の身体を他の商品と交換可能な「商品」と見なすことは、許されることではありません。奴隷や売春が禁止される所以です。が、死体が「商品」を商品として取り扱うことが許されるというのであれば、生身でない裸体を「商品」として見なすことがなぜいけないのでしょうか? この違いはどこにあるのでしょうか? 臓器移植も児童ポルノも、ともに子どもが対象になっています。

言うまでもなく、死体と裸体は異なるものです。が、単に違うというだけでは死体と裸体との取り扱いが異なる理由にはなりません。また「商品」としての正当性を区分するに足る客観的理由も見当たらないように思われます。にも関わらず、片方は「正当な商品」として、片方は「不当な商品」として取り扱われようとしています。

「商品」としての取り扱いが生じる主因は、感情でしょう。臓器移植は「高い志」によって取り扱われる「商品」だとと見なされ、児童ポルノは「劣情」によって売買される「商品」だとされる。「高い志」か「劣情」かの違いです。抱く感情が高いか低いかの違いでしかない。他に「商品」の正当性を区別する理由は見当たりそうにありません。

ここで私は問わなければなりません。民主主義が、個人的あるいは大衆的な感情に左右されてよいのかどうか? それは民主主義がもっとも警戒しなければならないポピュリズムではないのか? と。いくら高尚な感情だからといって、感情を理由に「商品」の正当性に判断を下してしまう民主主義は、私には堕落した民主主義であるとしか思えません。

コメント

世界基準の胡散臭さ

世界で広く行われているのだから『グローバル・スタンダード 』は絶対に正しく、未だ実施していない日本は遅れている、との論が『誠』であるかの如き(置かれている条件を無視した)議論がまかり通っている。

今国会では、児童ポルノの単純所持を禁止してい無いのは日本だけ(日本は遅れている)なる珍論が展開されているが、日本は、イスラム諸国を除けば先進国唯一の大人のポルノ禁止国なのですよ。
この議論は、先ずハードポルノを解禁してからにして欲しい。
順番が完全に間違っているばかりでなく『グローバル・スタンダード』の意味さえ理解していない。

『脳死=人格の死』はみんなが認めている。確かにこの部分だけなら正しい。

しかし今回のグローバル・スタンダードを標榜するA法案のような『脳死=人の死』には絶対に成りません。
『脳死は人格の死』である。
だから、『脳死=人の死』で有るとする事は何ともおぞましい非科学的な飛躍がある。
何故なら、この二つの等式、『脳死=人格の死』→『脳死=人の死』が成り立つなら自動的に『人格の死=人の死』になる。

この二つの等式が、同じ様に原則で有るとすれば其れは多くの場合には植物状態や無脳症児には人格が有るとも思えないので将来的にこれ等が脳死患者と同じ『生きている死者?』に分類されかねないですよ。

植物状態とは脳幹以外の脳の大部分の機能が失われた状態ですが、現在は勿論脳死とは判定されないので絶対に死者とは看做されていない。
ただし大脳は人格が宿る場所である。
脳死=人の死論者達は『脳死では人格が消滅しているから死んでいる』と主張するなら、植物人間や無脳症児は哺乳類だけではなく爬虫類程度の人間と比較して下等な生命にもある『脳幹』だけが機能しているのですよ。
ですから彼等『脳死=人の死』論者の主張に矛盾が生まれる。
今までの生死の判断の既成事実は(考える為の)大脳皮質ではなく(生きる為の)『脳幹』が生きているか如何かだった。
昔の技術水準では脳幹が生きている事が『生き続ける為』の絶対条件だったので植物状態が医療の限界でもあった。
ところが蘇生術などの医療技術が進歩して脳幹の機能も失われても機械で生き続ける『脳死状態』が可能になる。
しかし回復させるだけの技術水準には程遠い。
医療の進歩とその限界によって『脳死患者』が生まれた。
生きているか死んでいるかの判定では、当たり前ですが『生きているか、それとも死んでいるか』だけを判定すれば良いのです。
『考えているか。?人格があるか。?それとも其れ等が無いのか?』の判断を『その生命の生きているか如何か?』の判定に組み入れるべきでは有りません。
自己や人格の有無が今の様な『生死の判断』の基準の一つ成ったのは、臓器移植が可能になって以降のことで、それ以前の移植技術が無かった植物人間時代には『人格や自己統一性』などが議論される事は、そもそも考える事さえしていない。
移植を考えるから『生きている臓器』の必要性が生まれ、其処から『脳死は人の死』『人格の死は人の死』の考え(方法)を、誰か知恵のある人が新しく考え付いたのでしょう。しかし恐ろしい考え方ですね。

極論すればA法案の考え方は、
人格が崩壊した重症の痴呆や精神病患者までが『生きている資格が無い』としたナチスの優性論と紙一重の際どい考え方であろうと思うのです。


そもそも問題設定が間違えている

逝きし世の面影さん

私には、今回の脳死の議論の在り方は、間違った問題設定の上でなされている気がします。

問題設定は「脳死は人の死か?」ということではなく、「脳死患者の殺害は殺人罪の適用から除外すべきか?」となされるべきだった。「脳機能の停止=人の死」だなどいう等式は成り立つはずもない。仮に脳機能の停止が必然的に人の死をもたらすとしても、そのことが直ちに人の死だなどとはとても言えない。科学的に明らかなことです。

脳死の問題が大きく取り上げられた経緯から見ても、「脳死患者の殺害は殺人罪の適用から除外すべきか?」という問題設定の方が正しいはずです。そして、この問題設定からみれば、A案などハナから論外であることが明か。医師と家族が共謀すれば殺人は合法化されるのです。

私はA案を推進している人たちの「善意」に疑いを差し挟むわけではないですが、自らの善意ゆえに自らの理性の無謬性を信じて疑わない人とは議論をする価値はないと思っています。

レイプレイ

ワタシは、例えば「レイプレイ」というゲームは規制したいと考えているんです。「高尚な感情」以外でその商品の不当性を言葉にしたいんですがどんなもんでしょうね。

毎度お騒がせのコメ欄TBですみません。
http://dr-stonefly.at.webry.info/200907/article_2.html


議論の摩り替え

脳死者の存在で証明さえた意外な事実は、
其れ以前では、生命維持の為には最も大事で有ると考えられていた脳幹部分の役目が、実は『脳幹』が働かなくても『命』の持続にとってそれ程決定的ではなく、大事でなくなった事ですよ。

植物人間が『死者』と認定されないのは『脳死患者』と違い、脳幹が機能しているからですが、脳死者の存在自体が『脳幹』の大事さを否定しています。
現代の医療技術の進歩は、脳幹の役目の大部分を機械で代行できるまでに進化してしまった。

『脳死=人の死』論者達が、脳死の人の死の正当性を主張すればするほど、その論の正当性が高まれば高まるほど、脳幹だけが生きている植物人間の『人間としての命』は脅かされる結果になる。
植物状態が『生きている』と看做される根拠が崩れるのですよ。
植物人間が死者とはされなかったのか、当たり前ですが生きているからですが、
一見するだけでは外見上同じに見える脳死患者が『生者』ではなく『死者』とされたのは『生きている臓器』の需要が有ったからで、移植を前提としなければ、同じ様に自己同一性が無く、人格が無い植物状態と同じ『生きている』扱いになっていた。

脳の死=死者の考え方は、資本主義社会の『生きている臓器』の移植の需要側と、救命術の進歩で脳死患者を生み出した供給側が有って初めて考え出された、『臓器移植』用に新たに創られて概念です。

仮に脳以外の何かの機能の停止が必然的に人の死をもたらすとしても、誰が此れをもって生きている者を『死者』と認定するあわてモノがこの世に存在するでしょうか。?
そんな慌て者は世界中で一人もいません。
ところが不思議な事に『脳』に関してだけは存在している。実に不可解だ。

善悪定かならぬ情動

dr.stoneflyさん

ワタシは、例えば「レイプレイ」というゲームは規制したいと考えているんです。

そちらへもコメントさせていただきましたが、私は「レイプレイ」であれ、殺人シューティングであれ〈システム〉が規制するべきものではないと思っています。

人間は誰でも善悪定かならぬ情動を持っている。力の強い男が弱い女を力にものをいわせて陵辱する...。あるいは銃を乱射して敵をバッタバッタとなぎ倒す...。言葉にするだけでも嫌悪感を禁じ得ませんが、この嫌悪感をもって善悪の判断はできないんだと思うんですね。

仏教では、如来、菩薩から修羅、畜生、餓鬼、地獄までの10に分類される境地を人間誰しも持っていると説きますが、私はそれが実相だと思うんです。こうした実相は、〈システム〉によって規制することでは抑えきれない。いくら法理を説いて悪を教えてもダメでしょう。生きた人間が修羅や餓鬼の場所に居ることの虚しさといったものを感じるように、生きた人間を育んでいくしかないと思うのですよね。

たとえ統計的な事実として、「レイプレイゲーム」を好む者が性犯罪を犯す確立が高いと判明したとしても、個々人でみれば、必ず犯罪を犯すと決まっているわけではない。そうした性癖があると仮に判明しゲームを規制したとしてもおそらくどうにもならないでしょう。〈システム〉による規制では性癖は抑えられません。

嫌悪感はありますが、「レイプレイゲーム」といったシロモノは容認すべきです。そうすることで、どうしようもなくそうした性癖を持った人間の「捌け口」を提供するのと、そうした性癖を持った人間を洗い出して未然に犯罪を防ぐことに利用するべきだと思います。

主知的主意主義者

逝きし世の面影さん

ところが不思議な事に『脳』に関してだけは存在している。実に不可解だ。

同感です。これはいつもの愚樵流の仮説ですが、そうした不思議な人を主知的主意主義者と呼べるのではないかと思っています。

つまりこういうことです。世界には〈決まっていること〉があります。〈決まっていること〉を明らかにする営為にはさまざまありますが、科学は間違いなくその営為のひとつです。

〈決まっていること〉を明らかにする営為を為すために「意志」が必要です。〈決まっていること〉は誰の目にも見えるような形では存在していません。目に見えない法則といった形で存在する。目に見えないものを明らかにするには「意志」が必要とされるわけです。

ところで「意志」は、〈決めること〉と大きく関わってくるものでもある。〈決まっていること〉はもうすでに決まっているので〈決めること〉はできないが、〈決まっていること〉を明らかにすることは「意志」を必要とする点で〈決めること〉と極めてよく似ているのですね。科学者は本来〈決まっていること〉を明らかにする「意志」と、何事かを〈決めること〉への意志は厳重に区別しなければならないのですが、往々にしてその区別が曖昧になるのは見てきた通りです。

脳死は生命維持装置によってもたらされる擬似的な生であって、生命維持装置を外せば死に至る。これは〈決まっていること〉と言っていいでしょうが、だからといって脳死を死であるなどと〈決めること〉はできない。「脳死は科学的に人の死である」という言説は、〈決まっていること〉を明らかにした「意志」と〈決めること〉に必要な「意志」とが混同されているのですね。

こうした混同を為す人を私たちは科学教信者だと指摘してきたと思うのですが、そうした科学教徒は「主知(=科学」への「意志」を主に置くものとして、主知的主意主義者と言えるのだろう、というわけです。

移植を推進する側が殺人と認識しているのは明かです

移植を推進する側が
===========
つまりこの提案は、遺族あるいは関係者が、科学的根拠に基づいてある特定の判定、この場合は脳死判定を受けた者に対して死を与える、つまり殺意を持つことを非倫理的なこととして排除しない、ということと同義だからである。

ここで「殺意」を非倫理的なこととして排除しない特定の判定基準の内容は、法律で規定されなければならないとしても、脳死と限定しているわけではない。それは時代に合わせて国民の決定に委ねられるのである。
========
と断言しているのですから、脳死からの移植は明らかに殺人であることを彼らは認識しています。
また、この発言を「優性思想」と言わずになんと言えばいいのでしょう。

脳死は脳の死を意味しない

『脳死=人格の死』には、皆さんの考え方は一致しているので、これは間違いないでしょう。

『人格の死』からA法案賛成者は『脳死=人の死』に科学的に導けると考えるが、反対者は非科学的な『論理の飛躍』であると考え批判している。
ところが此処に根本的な(致命的な)疑問が『脳死』には未だに残っているのですよ。
脳死判定とは、
(1)深昏睡。(2)瞳孔固定。 (3)脳幹反射の喪失。(4)平坦脳波。(5)自発呼吸の消失。の五つであるがこれ等では確かに脳の機能停止(自己の喪失)状態の判定は出来る。
しかし『機能停止=死んでいる』と言えるだろうか。?
例えば、指が動かないからといって血流が満足に行われて組織が健在なら『指が死んでいる』とはいわない。
下半身不随で全く動かないからと言って『下半身が死んでいる』と思う人は誰もいない。
これ等からだの部分が死んでいると看做されるのは血行が止まり壊死した時だけです。
体の一部分の血行が止まって壊死した場合には、速やかに壊死した部分を切除する手術を行う必要がある。

ところが脳死患者の脳だけは例外扱いである。
脳死患者の脳は機能停止状態に陥っているが、脳細胞には血流が有り十分に生きているのですよ。
マスコミで賛成者が『脳死状態では脳が解けてどろどろに』などの俗論を述べているが、たしかに脳内の血流が止まれば脳細胞は死滅(壊死)して『脳がどろどろ』状態になって仕舞うが、其の場合には速やかに全身に波及して死に至る。
其の状態では幾等人工呼吸器などがあっても数週間も数ヶ月も1年も生きることは絶対に有りません。
生命は一部が壊死したままでは生き長らえる事は不可能なのですよ。
長期の脳死患者の脳の血流は完全には止まっていない可能性が濃厚です。
これ等の脳死患者の脳は、機能停止状態ですが個々の脳細胞は未だ死なずに生きている可能性があるのではないでしょうか。?
脳死は人格の死ではあるが、『脳自体の死』は今の5項目の判定では知る事は出来無い。
脳の血流の有無こそ、脳死判定にとって決定的に重用で有ると思うが何故か採用しようとはしない。
脳にはまだまだ未知の部分があり、ことは人の生死にかかわることで慎重の上にも慎重な判断が求められるが、『どうせ、助からない。助かっても植物状態がせいぜい』と考えて何故か杜撰な判定しか行っていないのが現状ではないか。?
正に愚樵さんが考えているように、脳死移植とは医者と患者家族とが談合して殺人を合法化する錬金術である可能性が存在しているのです。

科学を知らない方ほど、「非科学」だのと叫びたがる。
また、「脳死は人の死であるはずがない」などと叫ぶあなたには、それなら「3兆候死なら人の死なのですか?その根拠は?」と問うてあげよう。そうでないなら、なにが「人の死」なのか?の定義を述べなさい。

あと、『脳自体の死』とはなにか?の定義も述べよ。

ちなみに私は、脳死も心臓死も3兆候死も、生物としての死とは言えないと考える。というか、生物としての死など定義不能である。

そもそも、「脳死」も「心臓死」も「3兆候死」も、生物学的な死を意味しているのではない。そこが分っていない人が多すぎる。ここで決めようとしているのは、社会的な「死」の定義である。人が、生命体としての機能を失い、徐々に細胞が死滅していき、やがて遺伝子配列も全てが分解され土に返るまでのある時点を、社会的に「死」として定義するのである。ホメオスタシスを完全に失い、土へ返っていく過程に入ったことを確認出来た時点で、社会的な死と決めたのである。かつては、それを「3兆候」で確かめた。そして、移植とは全く関係なく、医療現場ではとっくに「脳死」が戻って来れないラインを超えた事の確認手段として使われている。人工呼吸装置を外すという行為が「殺人」とならないのは、その理解が共有されているからである。

仮に、「脳死では完全に死んでいない」というなら、「心臓死」でも、「3兆候死」でも、同様に死んでいない。なぜなら、3兆候死を確認した瞬間に全ての細胞が死んでいるわけではない。そこに人工心肺で血液を送り込めば、その細胞はしばらくは生き続けることが出来る。

「脳死が死であるはずがない」というなら、同じ論理で、「3兆候死も死であるはずがない」が成り立ってしまうことに気がつくべきだろう。

つまり、何が議論されるべきなのか?を理解すべきなのである。

お題は、
脳死が人の死か?
ではない。
今後、「脳死」と「3兆候死」のどちらを、社会的な「人の死」の判断とするのが適切か?
なのである。

で、あなたはどっち派?

愚樵空論のはずが何時の間にか

愚樵さん。

>『私はA案を推進している人たちの「善意」に疑いを差し挟むわけではないですが、自らの善意ゆえに自らの理性の無謬性を信じて疑わない人とは議論をする価値はないと思っています。』

全くの同感です。
会話とは、双方が望むから成り立つもので何かの特殊なイデオロギーやカルト宗教の教育宣伝活動を行いたい者との間では成り立たない事は既に(何度か実践して)証明されている。

それにしても言語に絶する凄まじいコメントですね。

>・・・定義を述べなさい。
>・・・・の定義も述べよ。

等の『口上』も凄いと思うが、何と言っても極めつけは其の続きである。

>『ちなみに私は、脳死も心臓死も3兆候死も、生物としての死とは言えないと考える。というか、生物としての死など定義不能である。』 <

自分は定義不能であるが、他の誰かなら可能で有るとするのだろうか。?
自分が『人の死』や『脳死』を知らないから教えて欲しいとの『お願い』なら、もう少し言葉に注意して喋らないと無駄に人さまの反感を買うでしょう。
しかし、繰り返し繰り返しこの人物は『脳死は人の死』と何度も断定していて、異議をとなえる反対者を口汚く罵っていた。
突然これまでと『正反対』の発言をする意味とは何であろうか。?実に興味深い。
(まさか、『脳死は人の死は正しいが、生物の死とは関係ない』などとは言い出さないでしょうね。それなら人は生物とは別物に成りますよ)
突然の宗旨替えの意味は何か。?何を意味するのだろうか。?
やっと自分の間違いに気付いたのだろうか。?
如何も、そうではないようだ。

>『ちなみに私は・・・・・・死など定義不能である。』 <
の意味は、常識的な判断である『私には判らない』と言葉の意味どおり普通に解釈するべきではないのだろう。
この言葉は『判らない』ではなく、其の正反対『私には(真理が)判っている』と解釈するべきですね。
そうで無いと、この言葉の前後の文脈と矛盾して意味をなさない。
対話や討論とは賛成反対何れであれ、何かの共通点が無ければならない。
最低限話す主題(テーブル)が一致してこそ会話が成り立つものですが、この場合には最初から自分を会話の埒外に置いている。
完全に会話のルールの逸脱であるが、一体全体これは如何なるものであろうか。?

以前に同じ人物が『臓器移植が設計図の移植である』との詭弁を語っていた。
其れが正しいとするなら移植がされる側の患者の方も、単なる設計図ですよ。
この人物は、瀬戸さんの2009.06.19『臓器移植法改正法案はA案に』では、

>Aさんの脳をBさんに移植したら、その人は誰なのでしょうか?
私は、見かけはBさんでも、その人は紛れもなくAさんであると思います。
Aさんの心臓をBさんに移植した場合はBさんとして皆さん扱います。Aさんの顔をBさんに移植しても同じくBさんです。これは、脳=人格がBさんだからに他なりません。
このように、脳死を人=その人格の死とすることは、実は当然のこととして皆さんは既に受け入れ済みなのです。<

と語っている。
脳だけで生きているマモーですね。想像するだけでも何ともおぞましい限り。
科学的思考方法とは反対の『科学教』という新種のカルト信者です。

そして今回のコメントは(おそれれおおくも)自らを『神』(あるいは神と同等の神の声を聞ける者)と宣言している。
それにしても愚樵空論は自らを神と思っている人物が何人も集まってくる不思議な空間ですね。
愚樵さん。此れでは私ら普通の人間は立場がありませんよ。

『生命』は機械ではない。
臓器にしろ其の他の身体にしろ蛋白質は日々新しく作られ置き換わっていて、分子的には半年前の生命体と今では別物になっている。
ルドルフ・シェーンハイマー 機械でない生命 
http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/40546a1c057159f6afef3e6a334560f2
『命』を機械の寄せ集めと考える科学教信者にとっても、『生命』とは『機械とは全く違う性質のもの』なのであることは事実として認めざるを得ない。
そこで考え付いたのが『臓器=設計図』論なのでしょう。
大きい設計図(移植される側の患者)に小さい設計図を継ぎ足す発想ですが、それなら、
>Aさんの脳をBさんに移植したら、その人は誰なのでしょうか?
の答えは体側(大きい設計図)側ですね。
科学教徒の機械論であるAさんBさん論の正しい答えは、
カローラの車体にベンツの大型エンジンを搭載しても、その車をベンツとは誰も言わない。
単に大型エンジンを搭載したカローラでしか無い。

少しは礼儀とか常識とかを弁えて喋ってももらいたいものですが、討論をしたくないカルト宗教である科学教信者に注意するだけ無駄でしょう。
相手から誠意ある返事が欲しかったら、先ず自分から誠意あるマトモな態度をする必要が有る。
この人物は他人には必要以上の誠意を要求するが自分にはこの原則は適用されない。それで基本的に会話が成立たない。

面影さん、

あらあら、また口汚い罵倒だけ残して議論から逃げるのですか?相変わらずですね。それでいて、人の口調には注文を挟む。あなたは、ご自分を映す鏡をお持ちでないようです。

>>『私はA案を推進している人たちの「善意」に疑いを差し挟むわけではないですが、自らの善意ゆえに自らの理性の無謬性を信じて疑わない人とは議論をする価値はないと思っています。』
>全くの同感です。

そうでしょうねぇ。あなたと愚樵さんはどことなく似ているように思います。人のことを言いつつ、その実は、自らの無謬性を一番疑わず、他者への配慮がゼロの論を垂れ流し続けているのがあなた方自身であり、それが今批判されているのに反省はおろか、ますますそれをエスカレートしている。
本当によく似ています。

また、ここで言ってることと、せとさんのところで言ってることは同じ事なんだが、それも分からないようですね。社会的な「人の死」の定義と、「生物の死」の定義は、全く別であることが理解できてないからでしょうか?

>カローラの車体にベンツの大型エンジンを搭載しても、その車をベンツとは誰も言わない。

車を人に例えること自体が的外れですよ。おまけに、エンジンが人の脳に相当するとでも考えおられるのですか?

このあなたのご主張から推察すると、Aさんの全脳をBさんに移植したら、あなたはその人に、「あなたはBさんだから、Bさんの家族と一緒に暮らしなさい」というわけですね?
ちなみにその方に「あなたは誰ですか?」と質問したら、私は100%の確率で「Aです」と答えると思いますけどね。

あなたと論じる気が失せました

>私は100%の確率で「Aです」と答える

愚かなことです。
生命には実体は有りません。
定常状態を保とうと流動する「場」とでもいうようなものです。
そこに「場」違いの「A」さんの脳が入ってきたらAさんでもBさんでもない、「キメラ」になります。

あなたが要素還元主義者らしいことは解りました。

Looperさん

あなたが移植を待つ患者さんに深い同情の念を持っていることは感じます。

しかし、「命」に対する畏敬の念は全く感じられません。

「命」についてもう少し掘り下げて考えてみることが出来れば、あなたの言で人の心を動かし移植医療を進めることも出来るかもしれません。

移植医療に反対することになるかも知れませんが。

科学とは

> しかし、「命」に対する畏敬の念は全く感じられません。

あらあら、あなたも同じですか?
科学的に物事を見・考える人は、人の心や命に対する配慮が足りないと思いたい、決めつけたいのですよね。愚樵さんからも、いつもその決めつけ匂いを感じますが、実に勿体ない思いこみです。

科学を知ると言うことは、自然を知ると言うことと同義です。宇宙を知ると言うことと同義です。自分自身のルーツを知ることと同義です。
例えば生物学は、学べば学ぶほど、生命の神秘を知ることができます。人も、他の生物との複雑なネットワークの中でしか生きられないのだと言うことが腹の底から理解できます。この奇跡的な地球環境の中で、生物が誕生した奇跡を理解できます。全ての生物との繋がりを実感できます。そして、人という生物が如何に無知で無力で不完全かということもね。

このように、科学を知るということは、全ての生命の貴重さ、人とという高機能の脳を備えた生物に感情や論理思考などの高機能脳活動が生まれた事がどれだけ奇跡的な事なのか、を理解する事にもつながるのです。科学を知れば知るほど、知る前よりも、実は、人、地球環境、全ての生命、それらへの畏敬と愛情の念が深まるのです。

「科学を知らない方が、深い情念の世界に生きられる」なーんて粋がっているのは、私から見れば自己満足の世界です。哲学と科学は、切り離せない事を理解すべきでしょう。

そして、まともな科学者こそ、現在の科学的知見の未熟さをよく知っています。だからこそ、簡単に思いこみで「それはニセ科学だ」なんて発言する人は、真に科学を知らないか、科学的思考を忘れた人です。

あと、以下の私の意見には、誰も反論してくれないのですか?

> お題は、
> 脳死が人の死か?
> ではない。
> 今後、「脳死」と「3兆候死」のどちらを、社会的な> 「人の死」の判断とするのが適切か?
> なのである。

で、「3兆候死」がOKで、「脳死」がNGだという根拠が、私にはさっぱり理解できません。
どなたか、ご教授下さいません?

早雲さん

>あなたが移植を待つ患者さんに深い同情の念を持っていることは感じます。

「同情の念」ね~
はっきり言ってそんな上から目線ではありません。

あなた方は、提供者の立場で考えている(といいつつ、私のような積極的提供意志を持つ人は想定外のようですが・・・)ように見えます。で、一部の臓器移植推進者は、レシピアントの立場だけで考えていることも否定しない。

でも私は、本気で、私や私の家族が、どちらにもなりうる事を覚悟している。そうしたときに、どちらの場合でも、自分たちも含め、多種多様な希望を出来るだけ叶えられる制度はどうあるべきか?という視点で考えている。完全に全ての希望を満足する制度などあり得ない。しかし、どこなら折りあえるのか?を必死で探るべきだと考えている。それは、とりもなおさず、自分や自分の家族のためでもある。
互助保険制度である、社会保障制度と考え方は同じなんだが、ご理解いただけるかな?

>>私は100%の確率で「Aです」と答える
>愚かなことです。

では、その人は何と答えるのです?
臓器移植と同じですよ。
で、あなたの説だと、心臓移植された人は「キメラ」になるわけですか?

ちなみに、私は、生物学的にはAさんとBさんの合成生物であると思っています。しかし、社会的には誰なのか?と聞かれれば、その人の記憶・意識がAさんである以上、どんな見かけであっても、Aさんとすべきである。という事を言ってるに過ぎない。脳とは、そういう人の社会的アイデンティティを保持する役割を担っている組織だからです。

要素還元主義???

早雲さん。
Looperさん。
こんにちは。
お二人のコメント、とても興味深く、拝見しています。
私も刺激を受け、さらに考えを深めるための参考とさせていただいています。
ところで、
ところで、
そんな私ですが、ちょっとだけ疑問に思ったので、もしよろしければ、詳しく説明していただけたら嬉しいなぁ、、、と思った箇所があったので、横やりとは思いつつコメントを書いています。

早雲さん>
コメント番号3050 でいきなり登場してくる「要素還元主義」が、わかりません???
察するに、Looperさんの
「私は100%の確率で「Aです」と答える」
と言うコメントからのものと思いますが、
その後のあなたの解説、感想がさらに私には困惑したのです、、、

「愚かなことです。
生命には実体は有りません。
定常状態を保とうと流動する「場」とでもいうようなものです。」と早雲さんは書かれていますが、
これは、、、
生命には実体がないと思われていると言う事でしょうか>早雲さん。
その早雲さんが、次のコメントで生命に畏敬の念を持て、と書かれています。
こうなると私はますますこんがらがります。
生命には実体はないが、畏敬の念はもて。
それは、生命を観念として捉えろと言うことでしょうか???

さらに、不思議なのは、
今までのLooperさんの文脈からして、Looperさんが要素還元主義者と、どうしてなるのかも分かりません。
Looperさんは、
あるところでは、要素還元主義であり、あるところでは多元主義であり、とにかく「自然」と言う対象に対して、真摯であろうとしているのでは、、、、と私は思いますが。

お二人のご意見、興味深く拝見していた私は、いきなりの早雲さんの「要素還元主義」と言うレッテルでの切り捨てに戸惑いを覚えたのです。
なお、生物では要素還元主義も、一つの手段ではあります。もちろん全体を把握した上での、一つの方法としてですが。

と、言うことで、ちょっとした感想です。
横やりをいれて失礼をいたしました。
では、、また。

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グローバル・スタンダードは正しいか

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