愚慫空論

〈一次意志〉〈概念〉〈二次意志〉

〈一次意志〉 = 〈概念〉を生み出す意志
〈概念〉   = 脳死、所有、貨幣...etc
〈二次意志〉 = 〈概念〉によって生み出される意志

〈概念〉はさまざま考えられるが、ここでは、脳死、所有、貨幣の3つの概念を例に考えてみます。

〈脳死概念〉の〈一次意志〉 = 医療の意志
〈所有概念〉の〈一次意志〉 = 利用の意志
〈貨幣概念〉の〈一次意志〉 = 交換の意志

〈脳死概念〉の〈二次意志〉 = 臓器移植の意志
〈所有概念〉の〈二次意志〉 = 所有の意志
〈貨幣概念〉の〈二次意志〉 = 貯蓄の意志

〈概念〉は〈一次意志〉を合理的に捉えることから生じます。

・脳死は、医療の意志によって生み出された医療技術の進歩によって生じる現象。医療への意志なしには脳死は起こりえないので、脳死を人の死と捉える〈脳死概念〉は合理的。
・土地や資源を利用しようとする意志から〈所有概念〉は生じます。〈所有概念〉は所有の範囲を明確にすることで他者との無用の紛争を避けることが出来ますから、合理的だと言えます。
・〈貨幣概念〉もまた、商品(交換に供せられるモノ)の交換を合理的に行うために発明されたもの。

〈一次意志〉から〈概念〉が生じると〈システム〉が機能するようになります。〈システム〉は〈概念〉から生じる〈二次意志〉によって駆動し、〈一次意志〉を抑圧するようになります。

・臓器移植の意志は、脳死とされた患者への医療の意志を抑圧します。
・所有の意志は、非所有者の利用の意志を抑圧します。
(農地を例に考えてみると、いくら耕作放棄地が存在し農業を志す者がいたとしても、農地を所有するか所有者から借りるかしない限り、農地を所有しない者は農業を行えません)
・貯蓄への意志は、適正な交換を妨げます。
(いわゆる投機によって物価が上昇する現象が起こる)

かような〈二次意志〉による〈一次意志〉の抑圧を指して、私は「強欲」と表現しました

付け加えておきますと、〈一次意志〉を保証する権利を生存権とすることができるでしょう。〈二次意志〉を保証する権利が財産権です。そのように捉えると、〈システム〉は財産権によって駆動し、生存権を抑圧する仕組みということが出来ます。

コメント

おはようございます

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>○「適法」であるだけでは「法の支配」の下にあるとはいえない(『自由の条件』より)

>ハイエクは、この「法の支配」の観念が現代では喪失されてしまったことを嘆いています。立法府で制定された法律は、すべて「合法」として通用してしまう。憲法それ自体も立法府によって制定されるのだから、「法の支配」などあったものではありません。

まさに民主制が行き着く先であり、多数による「専制」ですね。

「法」が家族やグループでの取り決めと同じように受け止められ、国家(政治権力)が人々を規制したり強制する“根拠”であることが失念されていることから生じる悲喜劇です。

国家(政治権力)が人々に手出しできる範囲は、隣人に手出しできる範囲が自ずと定まっているように、限定的なものであるはず(べき)なのに、民主主義的手続きという形式性を支えにすることで制限がゆるゆるになっていく。

そして、人々はそれを“善きこと”と歓呼する。

(「世界は一家、人類みな兄弟」というスローガンは、“俗耳”には人道的で心地よいものであっても、政治権力の無制限な手出しを認めてしまう心性を醸成する極めて危険な「思想」なのです)

その一方で、民主制で主権者の全員賛成でも許されない立法とは?、「“立法それ自体”が“法”による制限を受ける」範囲は?、「“憲法それ自体”が無効である」根拠は?という難問があります。

とりわけ、そのような思惟をめったにしない“大衆”が主権者である近代民主制においては、難問の解で合意形成することそのものが難題になってしまう。
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ハイエクが語るべきは、「自生的秩序」を回復できる条件である:正統の哲学⑤
http://sun.ap.teacup.com/souun/1146.html

現代では社会化された善意は必ず災いをもたらします。

フリードリヒ・アウグスト・フォン・ハイエクは貴族の枠を超えられなかった

ハイエクは「法の支配」が、私のいう〈一次意思〉に沿ってなされなければならないものであるということは理解していたようです。ですが、そのハイエクが「自生的秩序」もまた〈一次意思〉によるものでなければならないことは理解できずにいた。と、私はそんな風に感じています。

その理由は、結局ハイエクは、貴族の枠を超えられなかったことにあるのでしょう。貴族が貴族たる所以は〈二次意志〉によってもたらされる財産にあるわけです。ハイエクはおそらく、貴族という環境から確立した「個」に立って法や経済秩序と対峙したのでしょうし、その対峙姿勢は非常に真摯なものであったと評価出来ますが、しかし、ハイエクの論理は、貴族から“出家”できなかったことの限界を露呈した論理であるとも思います。

ふと、愚樵さんのコメントを見て思ったのは、現在は「警戒」の時代ではないかと言う事。

私は「占有を求める」物はいくらでもありますと書きましたし、
動物からして「所有」の概念は存在すると書きましたが、
今と昔でその占有(特に土地)に関しては警戒の度合いは違うかもしれませんね。

私が占有を求める物は、主に自分が良く使う物や、
家やHDD(笑)の様に領域の共有性が高まれば意味を失う物(プライバシーと安全性と自由度が主目的ですしね)ですが、
昔の家は今ほど硬く閉じられていなかったですからね。
だからこそ「プライバシー」などと言う権利も出てこなかった訳でしょうけど。

それと、占有を求める物のその理由を考える時、私は大抵の人は一次意志に沿った理屈から始まると思いますよ。
使用についても「使い方」がそれぞれである事を考えれば、
共有してれば大丈夫と言う物でもないですしね。

自分の「使い方」と自分が望む「道具としての存在」を守ろうとする意志が所有の欲求に繋がると考えると、
所有を完全否定する事は、その人の「使い方」を否定する事ですからね。
共有してもその使い方が保護されるのであれば所有の欲求は起きないでしょうが、
実際にはそうでない場合は少なくないですからね。

一次意志に善悪はないと言っていますが、ではむしろ「衝突」しない環境がどれほどの数あるのかと言う事もありますからね。
ブランコに乗りたい子供がブランコに乗れず、それをきっかけとして、
自分のブランコを作って(買って)、そのブランコを他の人に使わせないのは、
最初の「悪」は誰なんでしょうね?と言う事です。
まぁ、ゲーム機でもテレビでも家でもPCでも掃除機でも洗濯機でも同じ様な物かと…。
洗濯機は交換でいくつかの家で纏めて洗うと労力も減って良さそうですけど。

家でも何でもいいです。「ブランコに乗りたい時に乗る」と言う意志と欲求が「悪だ」と言うならそれもいいですけどね。
現実にはみんな社会に対して妥協している事ではありますが、
そういった事はやはり「強欲だ」と非難されるでしょうか?

私はそれを強欲だとは思わないタイプです。
だから私は「抑圧される側」にとっては制度:摂理はどんな物でも理不尽だと思ってますよ。
(乗りたい時に乗れない状況を作った側も、自分の物として所有して占有する側も、
そういった意味では「悪い」と思いますけど、それって生きる上で普遍的で、
特別な事でもなんでもないことで、それを「悪い事だ」として止めるなら
「じゃあ、動物も植物も殺したら悪いって思うなら何も食わずに死になよ?」ってなりますからね。
生きてればある程度は妥協も必要でしょう。そして私にとってそこは、
妥協点の正当性のラインの内側です。)

一次意志に善悪はないと言っていますが、ではむしろ「衝突」しない環境がどれほどの数あるのかと言う事もありますからね。

「衝突」のない環境なんてあり得ませんね。けれど、〈一次意思〉と〈二次意志〉とを分けて考えれば「衝突」の在り方にもまた考えが及ぶと思うのですが。

ブランコやゲームといった話は、いうならば“子供のケンカ”でしょう? 〈一次意思〉の衝突は“子供のケンカ”のようなものかもしれません(が、違うかもしれません。まだよく考えがまとまっていません)。“子供のケンカ”であれば、そこに“親が出てくる”ことはおかしくて、“子供のケンカ”にはそれなりの対処のしようがあるはずなんですね。

〈一次意思〉の「衝突」が〈概念〉を経由して〈二次意志〉の「衝突」になってしまうのは、これは“大人のケンカ”で、近代社会ではなんでもかんでも“大人のケンカ”になってしまう。アメリカの訴訟社会なんて、その典型でしょう。

なんだか返答になっていないようなお答で申し訳ありませんが、私が何を考えて発言しているかは、最新のエントリーをご覧になってください。またコメントお待ちしてます。

大人の喧嘩と子供の喧嘩や、動的概念辺りは正直読み砕けていないのですが、とりあえず、

「衝突のあり方」についてが私には「そこまで区別しなければいけない差が常にあるか?」と言う疑問が前回の書き込みの元ですね。

所有が「優先」されすぎ、その所有の観念こそが争いの種になっている状況は現実にありますが、

ブランコの所有を主張する子供は「所有」したいのでしょうか?
それとも「何時でも自由に使える環境」を望んでいるのでしょうか?
ある絵や本について所有を主張する人は、その本をしばらく読んでいないからと言って、
「紙」として扱われたり、汚されたりするのを嫌悪し、警戒するのは、
「所有の意志ゆえ」でしょうか?それとも「利用の意志ゆえ」でしょうか?

現在、目の前の事だけを問題にしましょうと言うなら、極論突き詰めれば家は共用スペースで、
1日毎に寝る部屋を別々に借りたりすれば良くなります。

そう言った事を考えると、「存在維持」「利用環境維持」の欲求を
「どこまで認める」と言う差くらいで、
金融取引などを介さなければ、そこまで意志に区別を付ける意味(価値)が理解しがたい。
と言う所が実情だったりします。

金融取引を別にするのはそれ自体の「利用」に対する意志ではなく、
「取引」を介す事で自分の所有を増やす「錬金術」や「不労収入」に絡むからですけどね。
まぁ、似た事はアパマン経営や不使用農耕地にも言えますけど…。

減価する通貨についても、それを言葉通りに適用してしまうと、
老人などは「不自由になったら程度の低い生活してください」となってしまう事もあり、
一概に全面賛成出来ないと言うのも個人的感覚からはあります。
貯蓄を許さない→労働が低い人はほかでどんな生活方法をしてもある希望は諦めてください ですしね。

現在の社会の問題点と解決策として、減価する通貨を全面的に否定する訳ではないですが、
全面的に賛成するには色々、懸念があると言うのが感想です。
これは私が文明人(別に自慢じゃないです。文明に侵されて自然的営みのみでの生活に満足出来なくなった意味で使ってますので)だからかもしれませんけどね。

生きるだけなら多分、愚樵さんのは介護が必要な老人以外は多分、問題ないと見てますからね。
(寝たきりで脳梗塞で口や何かも不自由な人は大変そうですので介護老人は…)

ちなみに、学術本はいくら汚れても読めるんでいいんですが、
美術本は汚れたら価値無しっていう考え方の人間です。はい。^^;

申し訳ないです。

減価する貨幣については結構システム的に誤解をしていました。
とりあえず、再考察します。貯蓄出来ないのは同じですが、
これなら無利子のローンと言う形を組めばどうにかなるかな…。

労働力を失った、色々不自由になった年寄りの問題も、むしろこちらの問題は全くないですね。
労働が可能かは二次的に得る金銭の部分だけなので、ある程度の生活は保障されそうです。
節約すれば上記のように定期支払い契約する事で高い物も買えそうですしね。^^;

若い内に思いっきり働いて後はのんびりと言う事はできなくなりますが、
貨幣の流通の事を考えると、この「稼いで貯蓄して働かない」は結構危険ですしね。
(景気の意味でも労働力の意味でも定常性は確かに危うい)

まぁ、働ける人が程ほどにしか働かなくなるリスクはありますが、
死ぬまでの労働量で言うとあまりかわらなそうですしね。

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〈一次意志〉=⇒/〈概念〉=⇒+1/〈二次意志〉=+1

以下、愚樵氏の才知ぴりりとした論考である。思うに、一次意志は⇒であり、概念が⇒+1であり、二次意志が+1ではないだろうか。概念のエネルギー⇒が消えると、二次意志+1となるだろう。これは、一次意志⇒を抑圧すると言えるだろう。後で再考したい。 *******

一次意思を「虚数」、二次意思を「実数」と見る立場

愚樵氏の次の論考から考えたこと。 〈一次意志〉〈概念〉〈二次意志〉 2009-07-04  一次意思を「虚数」世界、二次意思を「実数」世界と見ると海舌としては理解し易いように思います。  一般に、ガウス平面は、複素数によって成立していますが、これは、虚数...

現代では社会化された善意は必ず災いをもたらします。 by 早雲氏

 これも、また、名言であろう。 愚樵氏のブログ「愚樵空論」 〈一次意志〉〈概念〉〈二次意志〉 2009-07-04 に投稿された早雲氏のコメント欄で見つけた。  ポスト・モダン社会が、近代の末期で有り、近代の悪徳が一気に噴き出る様子を言い得ています。 ...

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