愚慫空論

〈世界〉の再配分

前置きはなしで、いきなり本題。

まず〈世界〉の定義です。

〈世界〉=〈システム〉+〈生活世界〉

私たちが今暮らしている〈世界〉は「ポストモダン」だと言われています。で、「ポストモダン」がどういった〈世界〉なのかといいますと、
「ポストモダン」とは〈システム〉が全域化して〈生活世界〉を空洞化してしまった時代です。これは〈システム〉の全域化が達成された時代ともいえます。では〈モダン〉とは何かと考えれば、全域化が可能な〈システム〉が生み出され、その〈モダン・システム〉が拡張していった――これを「進歩」と称する――時代だといえるでしょう。
『底が抜けた〈システム〉を』(愚樵空論)

つまり「ポストモダン」の〈世界〉とは、〈システム〉が極大化〈生活世界〉が極小化して、

〈世界〉=〈システム〉

になりつつある時代だといえます。

そうしますと、『〈世界〉の再配分』とは、〈システム〉を縮小し〈生活世界〉を拡大して、〈世界〉をもう一度

〈世界〉=〈システム〉+〈生活世界〉

に戻すことになります。これは要するに、当ブログが繰り返して述べている「近代の超克」であり「トランス・モダン」です。


以上で当エントリーは終了としてしまえるのですが、面白くないので続けましょう。

〈システム〉はさらに分割して〈国家〉と〈社会〉に分けるとします。〈システム〉が全域化して「ポストモダン」となった現在、主に議論されているのは、〈システム〉内の〈国家〉と〈社会〉の配分比率です。

これはつまり、「大きな政府」「小さな政府」の議論です。「小さな政府」の主張は、〈国家〉をできる限り小さくして〈社会〉の自生的秩序に任せようとする主張です。少し前まで猛威を振るい金融危機で落ち目になった俗に言う新自由主義がこの系列です。またいまだに日本では「改革」などと言っているのも、本性はともかく、看板は「小さな政府」です。

対して、「大きな政府」の議論は、〈社会〉の自生的秩序に任せると格差問題が生じるから、〈国家〉を大きくして富の再配分を強化すべきという立場。「国民生活が第一」とか「セーフティーネットの強化」とかいった主張はこの路線です。

これらの議論はしかし、いずれも「ポストモダン」、〈世界〉=〈システム〉を暗黙の前提として為されているものです。〈システム〉内の〈国家〉と〈社会〉の配分比率の議論でしかない。〈生活世界〉は初めから考慮のうちに入っていないのです。
〈世界〉を再度〈システム〉+〈生活世界〉に配分し直すべきと考える私の立場から見ると、これらの議論は、議論の枠組みそのものからしてすでに違います。その枠組みの違いが、これまでもいろいろな形で現れてきました。

例えば村野瀬さんと意見が食い違う議員定数の問題です。村野瀬さんは議員定数を増やせ、つまり〈国家〉の配分比率を大きくしろ、と主張します。それに対して私は反対で、議員定数は削減すべきだと考える。私も村野瀬さんも格差社会に反対というところでは意見は一致するのですが、格差社会を是正するための方法論が違う。

要するに村野瀬さんの議論は、私から見れば〈システム〉の内側での議論。議論の枠を〈システム〉内に限定すれば、大きくなり過ぎた〈社会〉を抑制するために〈国家〉を大きく、議員も増やせという主張は理解できます。しかし、私が大きくなり過ぎたと考えているのは〈システム〉=〈国家〉+〈社会〉です。〈システム〉を小さくすることを考えるから、それに伴って〈国家〉も小さくするべきだと考える。それゆえに議員定数は減らすべきだと考えることになる。

格差是正の問題の問題でも、考えている対処法は異なります。現行〈システム〉の枠内では思考は〈国家〉による再配分の方向へ議論が進むのは当然でしょう。しかし、〈システム〉+〈生活世界〉の視点からは、〈システム〉の在り方を革新していくべきだということになる。現行〈社会〉の自生的秩序を解体せよということになります。

現行〈社会〉の自生的秩序の要は増殖する貨幣、つまり金利です。私たちが暮らす〈世界〉の大きな部分を占めるのが経済です。経済は〈システム〉にも〈生活世界〉にも跨りますが、基本的に〈システム〉は貨幣経済、〈生活世界〉は自給自足あるいは贈与経済です。私たちの〈世界〉が〈システム〉に全域化してしまったのは、贈与経済が駆逐され貨幣経済が全域化したことと密接に関わっていて、そして、貨幣経済の血液である貨幣は増殖する性質を付与されている。すなわち、現行の〈社会〉は、貨幣増殖の性質に引きずられて〈社会〉そのものが放っておくと増大する仕組みになっている。現行の自生的秩序は、格差を必然的に生み出す秩序なのです。

この現行〈社会〉の性質に手をつけなければ、〈社会〉を抑制するための〈国家〉はますます強力になって行かざるを得ません。〈システム〉が全域化したのは、増大する〈社会〉と強力な〈国家〉の2つ歯車が噛み合ってもたらされた「成果」であり、それが「近代」という仕組みの大枠なのです。

現行〈社会〉の自生的秩序を解体するとは、具体的いえば、増殖する貨幣の性質を改善することです。そのことによって必然的増大する〈社会〉の性質は改められ、するとそれに合わせて〈国家〉を大きくしていく必要もなくなる。すなわち〈システム〉が縮小し、〈世界〉は再び〈システム〉+〈生活世界〉に戻ることが出来ます。

〈システム〉が全域化してしまった「ポストモダン」が、〈システム〉の全域化が原因で解決困難な問題をあちらこちらで引き起こしています。私の目に映る「近代」は明らかに末期症状を呈しています。

コメント

<生活世界>とその機能的代替物

どうもお久しぶりです。
僕的には好きなテーマなんですが、コメントがついていないですね。
愚樵さんが宮台を読まれたようなので、話が進めやすいかもしれません。

早速本題へ入りますが、大雑把な図式化をしてみます。
<世界>=<生活世界>      (前近代)

<世界>=<システム>+<生活世界>(近代前期)

<世界>=<システム>      (近代後期)
ま、これは愚樵さんの図式とはやや異なるかもしれませんが(宮台はシステムの全域化を、あくまで近代後期として捉えていたと思います)。

それはさておき、上記の図式を妥当なものとして進めますが、僕の疑問は、では近代後期において<システム>が全域化した状態から<生活世界>を復活させる過程、すなわち
<世界>=<システム>(近代後期)

<世界>=<システム>+<生活世界>(ポストモダン?)
という道は可能なのか?ということですね。

言い換えれば、後期近代を経て復活した<生活世界>は、前近代、あるいは近代前期の<生活世界>と同等なのか?ということなのですが。
さらに言い換えれば、前近代、あるいは近代前期的な<生活世界>と機能的に等価な、システムの産物である<生活世界>は、本当に<生活世界>と呼ぶに相応しいものなのか?という疑問でもあるのですが。

素朴な意味ではもはや<生活世界>を再興できそうにない、つまり、もはやシステムの産物として(機能的等価物として)<生活世界>を構想する他ない、再帰的近代とどう付き合っていくか?という問題に僕には思えるのです。

何かコメント頂ければと思います。

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