愚慫空論

〔トランス・モダン〕を阻むもの

当エントリーは、海舌さんからのTB『「選択の限界」から、構造主義からトランス・モダンまでを説明してみる。』を受けたもの。また、海舌さんのエントリーは私のエントリー『「選択の限界」~好き嫌い』を発展させたもの。ですので、当エントリーを読み進めるより先に

『「選択の限界」~好き嫌い』(愚樵空論)

『「選択の限界」から、構造主義からトランス・モダンまでを説明してみる。』(『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu)

の順序でご覧になってください。


海舌さんのエントリーは、〔トランス・モダン〕と呼ぶものの姿を簡潔明瞭に描き出しておられます。それはすなわち
トランス・モダン哲学では、人間の合理的意思選択は無限の可能性を持っているのである。
この結論に先立って海舌さんは構造主義の限界――「個人的合理性」と「集団的合理性」の相克――を示し、続いてポスト構造主義の限界も示しておられます。
ところが、ポスト・モダン哲学は、抽象的に、このジレンマの解決が必要と主張しつつも、つまり、近代合理性で解決できなければ、近代合理性を捨ててでも問題を解決するべきだ、と主張しつつも、具体的に、何らの解決方法を見出しませんでした。(単に、「脱構築」という抽象的概念を百回唱えても、何も解決にはなりません。)
私見では、〔トランス・モダン〕とは、「個人的合理性」と「集団的合理性」の相乗です。〔トランス・モダン〕が示す「近代の超克」は、相克を相乗へと超越することによって成し遂げることができる。相乗であるからこそ、「人間の合理的意思選択の無限の可能性」を示すことができるわけです。

では、相克が相乗へと超越されていく鍵になるものは何か? 言い換えれば〔トランス・モダン〕を阻んでいるものは何か? 私はその鍵は、パトス――すなわち個々人の感情や情念にあると考えます。〔トランス・モダン〕の哲学は、「人間の合理的意思選択の無限の可能性」を示すと同時に、その可能性を具体的に哲学するものでもあるように思われるのです。

〔トランス・モダン〕の思想は、ガウス平面といった数学的な概念を援用する一方で、【即非】という禅の思想にも依拠しています。これすなわち〔トランス(橋渡し)〕ですが、禅とは自己探求の方法論、言い換えれば情念の哲学です。ここから見いだせるのは、トランス・モダン〕は理性と情念をトランス(橋渡し)することで、モダンをトランス(超越)する思想だということ。つまり「人間の合理的意志選択の可能性」は人間の持つパトスと〔トランス(橋渡し)〕されることで、近代的理性の限界を〔トランス(超越)〕することになる、ということなのでしょう。



具体的に見てみます。海舌さんも取り上げられた“集団の中に投げ込まれた手榴弾の対処”の例です。

海舌さんが示す〔トランス・モダン〕思考的行動は、近代理性の思考の枠を超えて、
つまり、トランス・モダン哲学は、この手榴弾を投げ返す可能性について考察する必要性を喚起します。
 或いは、トランス・モダン哲学は、この手榴弾を使って、「壁」を破る可能性についての考察を喚起します。
私が今ここで指摘したいのは、この「可能性」が、集団を構成する個々人の集団へのパトスによって左右されるということです。パトスの在り方によって「可能性」は閉じられもするし、開かれもする。〔トランス・モダン〕が「可能性」の無限性を探るのであれば、それは必然的にパトスの在り方を哲学するものにならざるを得ないのです。

もう少し具体的にみてみましょう。もし個々人が集団に対して抱いているパトスが“個人は個人であり、集団は虚構”というものであったとします。有り体に言えば“集団は個人の利益のためのもの”という考え方であり、近代理性はこうした考え方を誘導するものでもある。このようなパトスの在り方をしている集団に手榴弾という悲劇的な事態が起これば、そこに生じるのは「個人的合理性」と「集団的合理性」の相克であり、“手榴弾を投げ返す”思索への可能性は閉じられてしまいます。

が、逆に集団が抱えるパトスが“一にして全、全にして一”、“個人は集団のために、集団は個人のために”であるならば、ここで生じるのは「個人的合理性」と「集団的合理性」の相乗です。誰か一人が集団のために犠牲なって失われると、集団が集団であることには変わりなくても、犠牲が出た前後の集団は別の集団になってしまう。そうした連帯感があってはじめて“手榴弾を投げ返す”思索への可能性が開けてくるのです。

ついでに申し上げておきますと、私は『「選択の限界」~好き嫌い』のエントリーで“思いっきり「好き嫌い」で語ってみよう”と言い、「好き嫌い」を味覚に託して語りましたが、このことで示したかったのは、人間には、相克に嫌な味を感じ相乗を好む、生理的といってもよい性質を持っているのだということです。〔トランス・モダン〕は、相克・相乗への「好き嫌い」の機序を探求することで、人間の持つ理性の無限の可能性を開くものである――これが、現時点での私の理解です。

(〔トランス・モダン〕へは、単なる「感情の相対化」では足りません。単なる「感情の相対化」ならば、感情を構造として捉えることで構造主義によっても可能だからです。しかし、構造主義で示すことができるのは相克まで。〔トランス・モダン〕へ至るには、各々のパトスへの没入――すなわち【共感】――が必要です。〔トランス・モダン〕は【共感】の機序の探求であり、その探求を支えるのは「内なる自然」への信仰です。)

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/271-c58f0c32

移植医療と患者の延命効果、お玉さんの勘違い

本当に移植医療は患者を救うのか? と題して当部ブログに晴耕雨読の早雲さんから下記の趣旨の資料をいだたきました。 『移植の延命効果は限定的』 脳死者から臓器の呈供を受けて移植してもらった人は、かなり長く、巧く行けば健康な人と同等に長生きできる、と思い込

不思議なこと。同じ所を見ているという感覚。

愚樵氏から、トラックバックを頂きました。 〔トランス・モダン〕を阻むもの 2009-07-01  海舌が、愚樵氏の書かれた 「選択の限界」~好き嫌い 2009-06-25 に感銘して、少し一歩前に進めようと書いた文章を、 さらに、愚樵氏が、「内なる自然」への...

トランス・モダン認識と「内なる宇宙」:トランス・モダンの内面感性

以下、Kaisetsu氏と愚樵氏とのトランス・モダン的認識に関する「差異共振」的対話であるが、実に意味深長である。この「感情」、「感応」、「感性」、「パトス」、「共感」、「内なる自然」等々の問題は、きわめて重要である。今は余裕がないので、詳述的にコメントできな...

我々は、哲学の最先端に位置した。⇒ポスト・モダン(ポスト構造主義)を近代哲学の末期症状と規定し、トランス・モダンを近代から切り離すことに成功。

 次の三つのブログで、現代哲学の最重要な論点である、「近代以降」の哲学状況について、初めて、ポスト・モダン(ポスト構造主義)を近代の末期、つまり、近代の範疇に含めて、その最終段階と位置付けるとともに、トランス・モダンを近代哲学を超越した、近代を越えた新...

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード