愚慫空論

A案は「国定道徳」である

衆議院を通過した臓器移植改正法A案は、参議院で提出された対案のE案と共に審議入りしたとの報道が伝えられています。

その報道のなかで私の関心をひいたのは、「脳死が人の死」ということが国民に広く受け入れられているかという点をめぐっての、A案E案提出者のそれぞれの見解の違いです。報道されているところによりますと、A案提出者は「脳死が人の死」が国民の合意を得ているとするのに対して、E案はまだ得られていないとしているそうです。

私はこの2つの見解、どちらかが正しくどちらかが誤っているという性質のものではないと見ます。見方によって、どちらも正しいと言える。そうした類のものでしょう。どういうことかというと、臓器移植の前提として「脳死を人の死」だと考えることについては、国民的な合意は得られている。が、自分自身や身内の者の死について「脳死を人の死」だと考えることについては得られていない。有り体に言ってしまえば、他人事なら「脳死は人の死」だけれども、自分自身については「脳死は人の死」ではない、とうことでしょう。


他人事なら「脳死は人の死」。そのように言うと冷たく響きますが、必ずしも冷たいだけではありません。文字通り、“臓器移植なんて私には関係ない”と冷たく突き放す人から、“移植を待ち望む人の気持ちはわかるけれども、でも、臓器提供にまでは踏み切れない”という人まで、一口に“他人事”といっても中身はさまざまでしょう。

こうしたことから推測されるのは、「臓器提供は高い志の元で行われる」という国民の間にある意識です。そして脳死が自らのことであるか否かというのは、自らが「高い志」を持てるかどうか、ということになっている。ドナーカード所持者にある種の敬意が払われるという状況が、脳死と「高い志」との関連を裏付けていると思います。

私自身は「高い志」をもって「脳死を人の死」と考えないと自負してますので、この状況そのものにも違和感がありますが、かねてから「強欲」と批判していることはそのことではないのです。何度も繰り返しているように、「善意」や「高い志」がデフォルトとして国が規定することを批判している。それは道徳基準を国が定めるのと同じことだからです。

権力者が道徳を持ち出して他人を批判することへの違和感は、多くに人が共有するところだと思います。臓器移植に賛成の意を表明しておられる方はほぼすべて、権力者が道徳を盾にするべきではないと考えておられると思う。ところがこの臓器移植については、権力が道徳を規定することに賛成する。私にはこのことが不思議でしかたがないのです。

権力者が道徳を盾に他人の行動を批判したり規制しようとすることを「強欲」だと批判したとして、その「強欲批判」に批判的な意見は臓器移植賛成者の中からはまず聞かれないでしょう。たとえば「幼児ポルノ」ですが、こうした類のものが道徳的によろしくないのは自明のことです。ですので、「幼児ポルノ」を販売して利益を得ようといった行動は規制されてしかるべきでしょう。しかし、それが所持の全面的禁止にまで至るなると、行き過ぎだと感じるのが民主主義の精神です。全面禁止をしようとするのは、それがたとえ道徳的であっても、権力者の「強欲」でしかありません。

もうひとつ例をあげれば、シルバーシート。電車やバスなどの公共交通機関に設けられている、お年寄りや身体の不自由な人のための優先座席です。シルバーシートを設けることに反対する人はまずいないと言ってよいでしょう。お寄りよりなどに健常な者が席を譲ることは道徳的に正しいことです。しかし道徳的に正しいからと言って、全席をシルバーシートにすることは、民主主義的には正しくありません。全席シルバーシートは、お年寄りに席を譲ることをデフォルトだと規定することに他ならないからです。

臓器移植改正法A案が行おうとしているのは、全席シルバーシートと同じことです。臓器を提供しようとする志を持つ者は道徳的に正しい。国民の多くはそのように認知している。それはいいのです。が、その道徳的基準を国の標準とし、移植を望まない人は拒否の意思表示をせよとは、これはまったく民主主義的ではない。A案は、移植拒否の権利が自己申告の形で認められてはいますが、これシルバーシートでいえばお年寄りに席を譲らない人は自己申告せよと言っているのと同じです。

批判を覚悟で言いましょう。人は他人の命など救う義務はないのです。道徳的に他人の命を救う義務があるというのは正しい。しかし、道徳という限定を外したとき、人命救助を正しいとする根拠はなにもないのです。民主主義はその地平に打ち立てられなければならないものです。「カルネデアスの舟板」の勝者を罰してはならないのです。道徳的規定でしかない臓器提供を基準と定めることに賛成の者は、民主主義のなんたるかを理解できていない人間です。民主主義は仲良しクラブを目指すものではないのです。

コメント

個人の意思を尊重すべき

日本在住の米国人と臓器移植について議論したことがありますが、米国では「自分達には移植医療を受ける権利がある」という意識の下で、国民の7・8割は「脳死は人の死である」ことを受け入れているそうです。

彼らの「自分が死んだ後に臓器提供することは、相互の助け合いである」という共通意識は最初からあったのではなく、むしろ教育や啓蒙活動の成果だそうです。 また、脳死が自らのことであるか否かというのは、完全に個人の選択であって、この点で大きな論争が起きた経緯はないそうです。

おそらく日本の問題は、脳死が人の死であるかどうかを共通の認識としてとらえるべきかどうかに固執している点にあると考えます。 実際には、A案であっても、自分の意志に反して脳死判断されて移植を強行実施されることはないはずです。

私自身は、日本においても、移植を待っている患者の人たちのために、脳死後に臓器提供しようとする人達の意思を最大限に尊重する制度にすべきであると考えます。 そのためには、(完全な個人情報として)もれなく自分の脳死後の移植の意思を記録する仕組みが必要です。

もう一つの現実

世界最大の企業であるGMの自主再建が躓いたのは医療保険問題だと報道されています。
全てが民間の営利医療保険に頼っているアメリカらしい話ですね。
企業退職後も一生GMが面倒をみるとの労組の条件は、最初聞いた時は『なんとも無茶な』と思ったが、よく考えると労組(労働者側)の主張の方が当たり前で常識的です。
退職した高齢者は退職前の企業が面度を見ない限り無保険で医者にかかれない。
労働者側の要求は最低限の要求だったのですね。
それにしても世界最大の製造業を潰したのが医療保険だったとは、絶句です。
WHOも推奨するグロバルスタンダードの名目で日本で欧米並みの脳死移植を推進する臓器移植法が衆議院で可決されたが、アメリカの医療費の高さの原因の一つが移植のようなトンデモナク金のかかる高度医療がある。
つい最近の報道では、アメリカで心臓移植を受けた一歳の乳児が多臓器不全(手術の失敗?)で亡くなられたが、家族に対して病院側は3億数千万円の医療費を請求する。
アメリカの中産階級が自己破産する最大の原因は医療費の支払いだそうです。
勿論貧困層と違い、余裕がある中産階級なら大概は民間の医療保険に入っている。
ただし任意加入なので免責条項が色々付いている。(免責条項なしならトンデモナク高くて中産階級では払えない)
今でも史上最高の助っ人外人と呼ばれている阪神のバースは子供の難病に関しての医療保険の免責条項の件で揉めて日本球界を去っている。
何億円の年俸を貰っていたバースでもカバー出来無いほどの高額の医療費の負担であったらしい。

この問題ですが、アメリカでは『脳死は人の死』は市民の間に定着している(そんな事を今頃議論している日本は遅れている)とする説も有るが、
その正反対で,『脳死』問題に対して市民は何も知らない(医者任せ)でまったく知らない(スルーしている)との説がある。
どちらの方が正しいのでしょうか。?
脳死問題は、遺伝子組み換え穀物や狂牛病と同じで、これ等はアメリカ政府が何も言わないので国民は問題がないと信じている、らしい。
『議論して賛成』(容認)したのではなく、『現実のアメリカでは議論さえしていない』で流通しているのが現実である。
アメリカにおける遺伝子組み換え作物問題は、遺伝子組み換え作物が使用されているか否かは、アメリカでは食品には何も書かれていない。
(アメリカ政府が)『安全だから認可した』だから、わざわざ表示する必要がないとしていますが、正しいかも知れないし、正しくないかもしれない。
何も書いていないので消費者には遺伝子組み換え食品を(日本の様に)選別することは不可能です。

日本でも食肉がどの様な経過で我々の手元に届くか、屠殺現場などの現場を全く考えないように、アメリカでも臓器移植用の臓器が『どこからどのような経緯で』もたらされるのか関心のある人は少ない。
『死者から来る』とは判ってはいるが、その『死者』とはどんな人たちか。?
どんな状態の人を医者が『死者』だと定めているのか知っている人は少ない。
脳死者の現実を知らせるとアメリカ人の多くはたじろぐ、ひどいショックを受ける人もいる。
彼らは、それまで移植される『臓器』がどこから来るのか、一度も考えたことがなかったのである。

とむらうという選択

(ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓えて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。)『よだかの星』宮沢賢治

仏教にとっても「死」が解放であるか、つまりは「解脱」というのがそのことを意味しているのかどうかは解釈の分かれるところだと思う。そうしてまた、こういう主題の設定自体が、大きな問題をはらんでいることもみなさんご承知のことであろう。あからさまにそのことを言うと「死(この場合は自死)」の肯定ととらえられかねない側面を持っているからだ。もちろん、人は倫理的にそれ(自死)が悪い行いだからはばかるのではなく、年少の者たちに配慮してそうするのである。年若い、この世である程度の経験を積んでいない人間は、その「わかりやすさ」にとらわれてしまうことがあるからだ。

そもそも、生まれて、食べて、生きて、死ぬ、ことの意味を、そんな「わかりやすい」ものにしてはいけない。というのが、人間にはあるのだと思う。

『高瀬舟』では、苦しむ弟の喉笛から剃刀を抜き取った兄は、お上から島流しの沙汰を賜った。

働けど、、、我が暮らし楽にならざり、の京都から、つつましくもおだやかな世界へ向けて。

それを可能にしたのは、弟の解放があったからだ。

何度も同じことを繰り返すが、今、みずからの子の死に際している親に、ふたつの命を天秤にかけさせ、その選択を迫ることは、避けるべきだ。誰がどのように解釈しようとも、ここでの選択の責任を取るのは、ほかの誰でもなく、その親だ。

その人がのぞんでそのふたつの選択肢の前に立つのでなければ、その場に、その人を、追い詰めてはいけない。

この子を、とむらうという選択肢と同様、それが、その人にとって最初からそこに存在するのでなければ、いけない。

 臓器移植に否定的な立場の方々は多くいらっしゃるものと思いますが、その「反対意見」の論調として非常に残念なのが、あくまでも「自分はそうまでして生きたくない」という程度のあくまでも「個々人の自由な判断」を前提としている事です。

裏を返せば「そうしたい人を否定はしない」という考え方です。

これは、ドナーとなるかならないかの判断についても同様です。あくまでも個々人の自由な判断に任せるという 論法です。

 人の考え方にはそれぞれの考えかたがあり、個々の意見を尊重するというのが民主主義の基本に則った考えという事もできますが、この問題については全く当てはまらないと思います。

個々人の自由な考えや行動が許されるのは、その影響が他に及ばない場合のみであり、そうでない場合は「個々人の自由な判断」に任せるべきでは無い、と思います。

何故なら、多くの「臓器移植推進反対・慎重論」にあるように、臓器移植が「野放し」となった時の様々な弊害が頻発する状態を、社会の状態として容認すべきでは無いと考えるからです。

個々人の「臓器移植を受ける自由、ドナーとなる自由」が保障された社会は、「臓器移植社会の弊害を必要悪として容認する社会」と言えます。

結果的にその「個々人の自由」が「社会悪を助長する結果となる訳ですから、そこに「自由」など認められるはずはありません。

 従って、「臓器移植への反対」は、「個人として」の反対ではなく、「社会的に容認すべきでは無いという スタンスでの反対」の姿勢が必要だと思います。

「個々人の自由」を前提とした「個人的な反対意見」は無責任な考えであると私は考えています。

 そして何よりも、「一個人に自然の摂理に反する行為を自ら行ったりそれを助けたりする権利は無い」と いう事であり、その「権利」を否定する以上、個々人の考えで臓器をもらったり提供したりする「権利」を社会的に認めるべきでは無い、というのが私の考えです。

 私はあくまでも生きとし生けるものは全て「自然に生かされている」という立場です。

自然に生かされている事を前提として、それを人が勝手に操作する事は許されない事であり、従来それを社会において担保するものが「生」に対する「権利」や「義務」と呼ばれるものであると考えます。

ところが、以前までは、「自然に生かされている」状態を人が「操作」する事は即ち「殺す」事=「死」を意味していましたが、現在ではそれが「生」を「操作」する事も人の力で可能となってしまいました。

 このような世の中になってしまった今(と言ってもつい最近ですが)、「自然に生かされている」という立場を取る以上、「生」とは絶対的な権利では無く、「人は自然の恩恵の中で初めて生きる事が許されている」のであって、「自然に逆らってまで生きる権利は持っていない」という事であり、「無制限」で「絶対的」ものではなく、「限定的」で「相対的」なものです。

敢えてはっきり言えば、「他人の臓器をもぎ取ってまで人に生き長らえる権利は無い」と思います。

例えそれが「死人」のものであってもです。

一体何の根拠があって、そうまでしてでも生き長らえる事が当たり前の権利の様にそれを前提として議論が始まるのでしょうか?

その説明を一言もせずに、特に推進派の方々は「臓器移植」の「正当性」というより「必然性」について主張していますが、その中には単なる生に対する「盲目的な」立場があるだけと思います。

特に医療関係者や科学者には残念ながら元々な哲学的視点に欠けている者が多く、というかそんな勉強や思索もあまりしていない人が多いと私は思っていますが、そんな人たちは自らの「思慮の浅薄さ」を省みるべきです。

同じ医療関係者や科学者の中で少なくとも「推進派」ではない方々の中には、「哲学的思考」に基いて臓器移植に反対されている多くの方々がいるものと信じておりますが・・・・・。

 又、「臓器移植」を受ける・受けないのは個々人の自由、「臓器提供」をする・しないのも個々人の自由という事もよく言われます。

その中で、「臓器移植を受ける意志が無い人が、受けたい人を非難する権利は無い」であるとか、「ドナーとなりたいという人の意志を否定する権利は無い」などという事が言われますが、私に言わせれば、「臓器提供を受ける権利もドナーとなる権利も人には無い」という事です。

人には「自然に逆らって生きる事を求める権利も他人のそれを助長する権利も無い」というのが私の考えの 根本です。

より多くの人に

愚樵さんの一連のBLOG記事と、早雲さんのコメント読んでたら、もっとたくさんの方に読んで欲しくなったので、関係ない記事ですが、リンク&TBしました。

他者への想像力

早雲さん、
>人には「自然に逆らって生きる事を求める権利も他人のそれを助長する権利も無い」というのが私の考えの 根本です。

そういう価値観に自らが従う事を誰も非難はしないでしょう。ただし、その価値観に他者をも無理に従わせようとすれば、当然非難されることとなります。

また、ご意見内容は、「臓器移植」そのものに反対とのことですが、問題の焦点は別の所にあります。臓器移植をすでに認めている現行のシステムは、ある人達にとっては、自らの価値観に基づいた行動を取ることをシャットアウトして禁止するシステムとなっています。だからそのシステムのドアを開けて欲しいと願っている人達がいる。そのためのシステム変更をどうするか?が、今回の改正の焦点です。

仮に私が早雲さんと同じ価値観だったとしても、そのドアを開けることには反対はしないでしょう。自分の価値観に自らが従うことが大切であるのと同様に、他者がその価値観に従った行動が出来るようにしてあげることも同様に大事だと思うからです。

「自然に逆らって生きる事を求める権利も他人のそれを助長する権利も無い」とするのは個人的な信念としましょう。これは移植医療に反対する直接の理由ではありません。

最初のコメントで書いたように、
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個々人の自由な考えや行動が許されるのは、その影響が他に及ばない場合のみであり、そうでない場合は「個々人の自由な判断」に任せるべきでは無い、と思います。

何故なら、多くの「臓器移植推進反対・慎重論」にあるように、臓器移植が「野放し」となった時の様々な弊害が頻発する状態を、社会の状態として容認すべきでは無いと考えるからです。

個々人の「臓器移植を受ける自由、ドナーとなる自由」が保障された社会は、「臓器移植社会の弊害を必要悪として容認する社会」と言えます。

結果的にその「個々人の自由」が「社会悪を助長する結果となる訳ですから、そこに「自由」など認められるはずはありません。

 従って、「臓器移植への反対」は、「個人として」の反対ではなく、「社会的に容認すべきでは無いという スタンスでの反対」の姿勢が必要だと思います。
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と言う理由での臓器移植そのものに反対です。

弊ブログでも何度も取り上げていることですが、臓器移植の弊害は目に余るものがあります。
ドナーにとっては目に見えて深刻ですが、レシピエントにとっても少なからぬ弊害があります。
知的障害を持つ人々の周囲の人間にも大きな不安を抱かせています。
ご興味がおありでしたら弊ブログの 医療・臓器移植 カテゴリーに関連記事を集めてありますので覗いてください。

あなたの「善意」に基づく移植医療の進展によって起こるこれらの結果にあなたが責任を取れるとお考えならそれも良いでしょう。
しかしそうではないとすれば個々人の自由など認められるはずがありません。

>仮に私が早雲さんと同じ価値観だったとしても、そのドアを開けることには反対はしないでしょう。自分の価値観に自らが従うことが大切であるのと同様に、他者がその価値観に従った行動が出来るようにしてあげることも同様に大事だと思うからです。

したがって私の価値観に関係なくそのドアを開けることには反対します。

早雲さん

>したがって私の価値観に関係なくそのドアを開けることには反対します。

いや、明らかにあなたの価値観でおっしゃっている。

>個々人の自由な考えや行動が許されるのは、その影響が他に及ばない場合のみであり、

というね。
で、私は別の考えです。
個々人の価値観に従った自由な行動が、他者と全く独立であり得る事象なんてほとんど無いでしょう。
音楽を聴きたい、楽器を演奏したいという欲求も、騒音という害を他者に及ぼす恐れがあります。表現の自由の発露も、他者に精神的な被害をもたらす恐れがあります。それでも、その自由を最大限に社会が尊重しているのは何故なのでしょうね。

>個々人の「臓器移植を受ける自由、ドナーとなる自由」が保障された社会は、「臓器移植社会の弊害を必要悪として容認する社会」と言えます。

当然です。どんな自由も、その弊害が発生することを完全にゼロにする事はできません。それでも、他者への悪影響を極小化する努力をしつつ、その自由は最大限守ろうというのが、人権を大切にする社会だと私は信じます。

>ドナーカード所持者にある種の敬意が払われるという状況が、脳死と「高い志」との関連を裏付けていると思います。

それは、自分の死後の扱いについての自らの明確な意志を持っているからでしょう。ちなみに、黄色の臓器提供意志カードは、拒否の意志も示せます。仮に臓器移植を拒否する明確な意志があるなら、あなたも持ったらいかがです?

あと、私個人は臓器提供を希望しますが、別に「高い志」がそれを望むのではありません。単にケチなだけです。自分が要らなくなった物をただ焼いちゃうのが勿体ない、それを使ってもらえるなら嬉しいというだけ。

>ところがこの臓器移植については、権力が道徳を規定することに賛成する。私にはこのことが不思議でしかたがないのです。

例えば私は、「権力が道徳を規定する」とは思っていませんから。個人の権利行使をより認められるようにする制度と考えるのですから賛成するのです。で、これが不思議ですか?

Looper さんの意見に賛成です

もし「 個々人の自由な考えや行動が許されるのは、その影響が他に及ばない場合のみである 」とすると、現在の我々の様々な自由な権利は否定されることになります。 これは全体主義です。 自由で民主的な社会というのは、お互いの自由な権利を認め合いながらも、他人の権利は侵害しないように配慮することで成立するものです。 そこでは、早雲さんの意思は完全に尊重されますが、異なる意見を持つ別の人に強制はできません。 A案に関して言うならば、移植を拒否する人の権利も賛成する権利も、両方が完全に尊重されます。

また、移植医療には、正確な脳死判定、臓器摘出のガイドライン遵守、高額な医療費負担、本人および家族の移植意思の確認など、多くの課題があることは事実ですが、それによって移植医療自体が否定されるべきではないと考えます。

つまみ食い的な参加の仕方ですみません。

早雲さんの

>個々人の自由な考えや行動が許されるのは、その影響が他に及ばない場合のみであり、そうでない場合は「個々人の自由な判断」に任せるべきでは無い、と思います。

と、Looperさんの

>他者への悪影響を極小化する努力をしつつ、その自由は最大限守ろうというのが、人権を大切にする社会だと私は信じます。

は、私にはほぼ同じに聞こえます。

一方、A案によるシステムの持つ強制力が、

>他者への悪影響を極小化する努力

を反故にしてしまうことが、ごく単純に言って(*)、Looperさんには見えていないように見受けられます。

(*)語弊があるでしょうけれど、取り合えず私の話の先に行かせて貰います。決して攻撃でないことだけは付け加えておきます。

立ち位置は同じ、見ている方向も同じであるのに、A案の向こうに透けて見えるいるものが違うのではと思います。Looperさんの明るい未来予測に対して、私の(あるいは、たぶん、愚樵さんや、早雲さんや、反対者のみなさんの)見る悲しい現実予想との違いなのかと思います。

A案によるシステムが

>個人の権利行使をより認められるようにする制度

であることは私もそう思います。同時にそれが正に

>権力が道徳を規定する

行為であると見るわけです。

横レスすみません。

>A案の向こうに透けて見える

ってのは、すごいなぁ。ああ、そうなんだ、って頷いてしまいました。
おそらく人間も自然のなかでは持っていた筈の「これは何かヤバいんじゃない」って肌感覚(畏怖)を、近代から現代、そしてこの先さらに強烈に麻痺させるものがあるとするなら、その本質を見極めなければならないんだろうなぁ、と考えさせられます。

muchomejor さん、

>は、私にはほぼ同じに聞こえます。

私は全然違うと思います。きっと早雲さんも否定されるんじゃないかな?
自由の発露にコストはつきものです。
それを是認しているのが私や伯爵さん。
それを明確に否定しているのが早雲さんです。

>を反故にしてしまうことが、ごく単純に言って(*)、Looperさんには見えていないように見受けられます。

はい、全く見えません。
どういうシナリオで反故にしてしまう可能性があるのか?「見えていない」私にどうか教えていただきたく思います。

>立ち位置は同じ、見ている方向も同じであるのに、A案の向こうに透けて見えるいるものが違うのではと思います。Looperさんの明るい未来予測に対して、私の(あるいは、たぶん、愚樵さんや、早雲さんや、反対者のみなさんの)見る悲しい現実予想との違いなのかと思います。

どうしてそう両極に置いてしまうのです?
両極の間には中間地点が一杯ありますよ。どちらの要求も満たせる解をなぜ探ろうとしないのです?
A案でも両者の要求を満たせるとは思うが、私自身はA案に固執もしていないと何度も言っているのに・・・
あと、明るい未来?
真っ暗な暗闇でもがき、そのままでは命が尽きてしまう人に、希望の光の窓を開けて欲しいと思うと、バラ色の「明るい未来」が見えているとかいう評価になるわけですか?
困ったもんだ・・・

意思確認の強制

>真っ暗な暗闇でもがき、そのままでは命が尽きてしまう人に、希望の光の窓を開けて欲しいと思うと、バラ色の「明るい未来」が見えているとかいう評価になるわけですか?
>困ったもんだ・・・

もう少し真面目にやれよ。

これは批判だからな。抗議ではなく。

あなたには絶望の淵にいる家族の姿が見えないのか?

その極限状態の中、ふたつの命を天秤にかけろと言ってるんだぞ。

これが小説家の作り上げたプロットならわかるが、A案ではシステムの運用過程で必然的にその状況がつくられてしまう。

これが人間のすることか?

それでもその扉をこじあけたいんなら、国会議員全員に意思確認してからだ。

あなたは脳死状態の自分の子(もしくは孫)の臓器摘出を認めますか?

(本当は国民全体、と言いたいところだが、そうすると今まで言ってきたことと矛盾するのでね)

Looperさんの仰るように、多くの親にとって子は生きる希望だ。

たった今その希望を失いつつある親に、そこから一縷の望みを奪い取り、重い重い十字架を背負わせようとする、しかもどの十字架を背負うかすぐに結論を出せと言う、そんな悪魔のような法案を国会で通すなんて日本国民はどれだけバカなんだ。

末代までの恥だよ。

ごんさん、

>あなたには絶望の淵にいる家族の姿が見えないのか?
>あなたは脳死状態の自分の子(もしくは孫)の臓器摘出を認めますか?

あなた、人のコメント読んでないでしょ。
ちゃんと読んでたらそんな質問はできませんよ。

以下に、引用しておきます。
>同様に、自分の子どもが脳死となり、どんな最新の治療法でもその回復の可能性が全く無い事が確実だと確認・納得できたなら、心臓がパルス信号で無理矢理にでも動く内に、臓器提供を希望しますし、その希望が叶えられなければ大変残念に思うでしょう。そういう意味では、移植法の改正を心より望んでいた一人でもあります。ちなみに妻も同意見です。

出来るだけ、ご自分の価値観とは全く違う他人もいることを想像していただきたいと思います。

ごんさん、(続き)

> たった今その希望を失いつつある親に、そこから一縷の望みを奪い取り、重い重い十字架を背負わせようとする、しかもどの十字架を背負うかすぐに結論を出せと言う、そんな悪魔のような法案を国会で通すなんて日本国民はどれだけバカなんだ。

あなたにかかれば、世界の多くの国民はバカですね。

で、「希望を失いつつ」じゃないですよ。移植とは、もう失った後の話です。「一縷の望み」も無くなった後で、移植するかどうかの話になるのです。

他でも書いているが、僅かでも希望があるうちは、家族が希望を完全に失うまでは、懸命に治療をするのです。その「完全に希望が失われた状態」が、医学的に脳死段階なのか?心臓死段階なのか?は、家族の考えや患者の状態によって違うでしょう。あなたが、脳死は死ではないと治療の継続を望むなら、納得するまで続ければよい。今回のどの改正案でも、家族が生きていると思っている間には、臓器提供なんて出来ない。

A案でも、家族がその死を納得した場合にのみ臓器提供が出来るのです。「脳死が人の死」と思っている私でも、医師の脳死判断に少しでも疑いがあるうちは、臓器提供も、法的脳死判定も拒否するでしょう。そして、「完全に死に至った(自分の場合は、疑いのない完全な脳死。人によっては心臓死)」と納得してから、法的な脳死判定を経て臓器提供へと進むのです。ちなみに、心臓死の患者からの臓器提供も、種類は減りますが出来ますから、例え心臓死であっても、臓器提供意志を尋ねられる場合があり得るでしょう。

で、「完全に死に至った」と、心臓死でないと納得できないなら、それまで治療すればよい。私のように「脳死」で納得できる人は、その段階で提供の判断をすればよい。A案でさえ、その自由を与えているだけです。強制なんか、どの法案もしていない。

ちなみに、「脳死」でその死を納得できる人がいるとあなたは想像できないのかも知れませんし、それを分かれというのも無理なのかも知れません。

しかし、私の回りも含めて、黄色の臓器提供意志カードを持って、積極的に脳死後の自らの臓器提供を希望する方が、現実に沢山いることは、知っておいた方が良いでしょう。

Looperさん、

>「脳死」でその死を納得できる人がいるとあなたは想像できないのかも知れませんし、それを分かれというのも無理なのかも知れません。

わたしの言葉のどれをとってそのようなことを?

あたしはこれまで「脳死という死」の観念が存在することを前提に話しをしてきた。

そして「臓器移植」の善意も。

< じゃなきゃ、親同士で分別のついていない幼子の体をやりとりするなんて、一見おぞましいことについて真面目に考えるわけがないよ >

>私の回りも含めて、黄色の臓器提供意志カードを持って、積極的に脳死後の自らの臓器提供を希望する方が、現実に沢山いることは、知っておいた方が良いでしょう。

そしてその方々の中にはLooperさんのような方もいらっしゃるということもね。

しっかりと覚えておくよ。






Looperさん、八面六臂のご活躍、ご苦労様です

賛成派として、ほとんど一人で闘われているその様子に鬼気迫るものを感じ、Looperさんの行動の基になっている信念の深さが窺い知れる思いです。

私は筆が遅く、そのせいで、少し時間が経ってしまいましたので、思い出すのに苦労されるかもしれませんが、その点、容赦いただければ助かります。

前回の続きから。

>>早雲さんの
>>
>>個々人の自由な考えや行動が許されるのは、その影響が他に及ばない場合のみであり、そうでない場合は「個々人の自由な判断」に任せるべきでは無い、と思います。
>>
>>と、Looperさんの
>>
>>他者への悪影響を極小化する努力をしつつ、その自由は最大限守ろうというのが、人権を大切にする社会だと私は信じます。
>>
>>は、私にはほぼ同じに聞こえます。
>
>私は全然違うと思います。きっと早雲さんも否定されるんじゃないかな?
>自由の発露にコストはつきものです。
>それを是認しているのが私や伯爵さん。
>それを明確に否定しているのが早雲さんです。

そうですか。私は大分近いんではないかと思うんですけれどね。
どちらのコメントも、「二者間で異なる価値観には、それぞれがあるところで折り合いをつけなければ、共同体が機能しない」という意味のことだと思ったものですから。
違うのは線を引く場所だけなのかなと思い、まあ、ほぼ同じ、と言ってみたわけなんです。
(あと、実際のところ、早雲さんは否定されるかもしれないですね。それはそれで構わないです。)

それと、コストですかぁ。誰が払う性質のものなんでしょう?(ちなみに、発露と言うのは「生み出す」という意味でいいですか?あまり使ったことのない言葉なので確認まで。)
あ、「発露のコスト」で、「生みの苦しみ」ですか? ということは、主語はこの文脈では推進派の人たち、となりますね。どうなんでしょうか。

>>を反故にしてしまうことが、ごく単純に言って(*)、Looperさんには見えていないように見受けられます。

>はい、全く見えません。
>どういうシナリオで反故にしてしまう可能性があるのか?「見えていない」私にどうか教えていただきたく思います。

見えていないものを教えて差し上げるのは大変難しいですね。少なくとも、私には難しいことに感じられます。
どこから話をすればいいのか分かりませんが、例えば、A案システムに抜け穴があるとは感じてはおられないのでしょうか。あるいは、いくつか具体的に認識されているけれども、それでも簡単な解決方法か何かの考えを持っておられるとか、そういう感じなのでしょうか。

(ちなみに、私にも見えていないことはあるのでしょうね。そういう話もできたらいいと思っていますけれど。)

たいへん勝手ながら、まずは、これくらいで話の続きができたらいいのですが、いかがでしょうか。

ごんさん、本当にいい加減にしろよ。

お前の思考と感情は、一方的にドナー側にしか向いていない。臓器移植がなければ明日をも知れない患者の側に向いていない。

与党も民主党も、自由投票にした意味がわからんのか?
麻生首相が「私はD案なら・・・」という状態で、A案には反対票を投じた。公明党の太田代表も反対票だ。与党の党首がこぞって反対を投じた法案である。
民主党も党首は反対票。民主党の長島議員に至っては、A案に賛成票を投じながらも、A案成立の喜びどころか「本当に良かったのだろうか」と言わんばかりの苦悩を吐露した。党ぐるみで棄権した共産党の小池議員にしても、テレビで「審議会を開くべきだ」と主張しながらも、表情は苦痛に満ち、言葉を選んでいた。

私なんかは、ドナー側の親の気持ちへの理解や同情、同意を表明すること自体、その親に対して失礼だと思うぐらいに、察してもまだ余りありすぎると考えている。A案も、本音を言えば賛成なんてしたくない。
しかし、移植を待ちうける側についても同じ気持ちである。それを考えればA案に全面的に反対することなど、理屈を超えて苦しいものである。

そういう苦悩に満ちた人間に対して、「移植される側への配慮」が微塵も感じられない君ごときが批判も非難もする権利も資格もない。

悪魔のような法案?日本国民はバカ?末代までの恥?
私に言わせれば、 お前の思考と感情が「悪魔」で「バカ」で「末代までの恥」だよ。猛省しろ!(大激怒)

お玉さんとこの転載の、転載と

わくわくさん、

これは読んでるよね。

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81例のうち、51例の検証を終えている。また、それらドナー家族のうち、年月のたった25家族に連絡し、同意を得られた9家族について、精神科医と臨床心理士で構成した心情把握班が面接調査をした。

 1.多くの家族は、大事な肉親の突然の死に直面しての強い悲嘆反応と本人の臓器提供意思を生かしてやりたいという思いの交差する葛藤と苦悩に陥る。
 2.脳死を受け入れられないまま同意する家族と自然死と同じだという家族の両方がある。
 3.同意の決断を迫られた時の迷い・苦悩をサポートしてくれる専門家の不在。
 4.臓器提供を誇りに思い生きる支えにしている家族がいる一方で、「思い出したくもない」「連絡もしてくれるな」という家族や「あれでよかったのか」と悩み続けている家族もいる。(柳田邦夫)

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あたしには、柳田さんが、

「脳死判定に関しては取り立てて問題はなかった。それは、煩瑣ではあるが、丁寧に作り込まれたシステムがあったからだろう。しかし、ドナーの家族の、特に精神的な面に関しては大きな課題を残したままだ

と仰ってるようにしか見えないよ。10年間、ほんの少ししか事例がないのに、「たくさんの問題がそこにある」と具体的に述べていらっしゃる。

だから、これからドナーになってくれる方を増やそう思うのなら、この問題「提供者の家族の精神的ケア」に関する議論は必須だと。それなのに、

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今回の国会審議では、検証会議の委員は誰一人として意見を求められなかったし、このような現実をめぐる議論も行われなかった。(柳田邦夫)

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なんで、国会は彼ら検証会議の委員のうちのひとりでも呼んで「話しをさせなかった」んだ。

わくわくさんの仰るように、みんなの気持ちを慮ったからか?

そうかもしれない。でも、10年間議論してきた柳田さんは、そう思ってはいない。

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いったい検証会議のこの10年間の議論は何だったのか。(柳田邦夫)

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わくわくさん、

実際に臓器提供者の家族が思い悩んでる。そこを議論しないで、これからもっと臓器提供者の家族を増やそうというのは、あまりにも不義理なことじゃないか。

ここに関わってきたすべての人々に申し訳が立たないんじゃないか。

日本はいつまでこういうことを続けるんだ。

ごんさん

お前の思考と感情は、一方的にドナー側にしか向いていない。臓器移植がなければ明日をも知れない患者の側に向いていない。

この状態を脱却してから意見を述べろ。以上。

心臓内科渡部良夫博士の国会議員へ質問

“あなた方は移植医療の短期的利点――目の前の患者さんが何人救える、延命できる――よりも、それが倫理、社会秩序、人類の文化に与える長期的悪影響のほうが、遙かに大きいことを認識できないのですか?”

野本 亀久雄移植学会学会理事長

「脳死状態からの臓器提供は個人に対するものではなく、社会に対するものである。提供された臓器は、社会から最もふさわしい相手に手渡されることになる。言い変えると、身体から離れた臓器は、もはや本人や家族に帰属するものではなく、社会に帰属するものである。この捉え方が、皮膚や骨などの組織から細胞、遺伝子へと拡がり、本人の生と死にかかわらず、身体から離れたものは社会に帰属するという原則が一般化して初めて、臓器、組織、細胞、遺伝子が医療用素材として活用されるようになる。とくに産業を介して広く国民に利用されるようになるためには、ヒトの生命材料を適正な形で産業へと手渡す仕組みが必要であるが、社会が提供を受け、社会が医療材料として、必要とする人々や企業に渡すという原則の確立がまず必要であろう。・・・・・・このような社会構造を構築するためのビッグバンとして、脳死・臓器移植を位置づけたいと考えている」(「感染 炎症 免疫」二十九巻四号)

臓器社会主義

早雲さん、こんにちは。

おエライ方のありがたいお言葉を紹介して頂き、ありがとうございます。

野本というおエライさんはきっと、医学界のスターリンを目指しておられるのでしょうね。

日本移植学会元理事長の太田和夫氏は

1997年9月29日の座談会“臓器移植法の成立と今後の臓器移植の問題” (今日の移植10巻6号p805~p820)において

「法律というのは、基本的には後追いでできるもので、まず最初に事実をつくる必要がある、と法律家にいわれました。私たちが脳死で腎臓移植を始めたのはそのためです。しかし心臓移植や肝臓移植をやって事実をつくると大変なことになるので、現在行なわれている腎臓移植でもって事実を積み上げていったらいいかと思い、実質的には百数十例ぐらいやりました」

と述べ、心停止後の死後の臓器・組織提供と称して、「脳死」臓器摘出を行なってきたことを認めた。

“社会存続・臓器獲得のため、社会の規律で生きていても死を与えよ”

 科学的な根拠に基づき、国会の承認を経て定義された一定の判定基準を満たしている者に対して、遺族あるいは親密な関係者が死を与えることを、本人が生前に遺族に対してそのような判断を委ねている場合には、非倫理的であるとは見なさないとする提案である。

ここでは脳死を死と認めるかどうかを論ずるのではない。

つまりこの提案は、遺族あるいは関係者が、科学的根拠に基づいてある特定の判定、この場合は脳死判定を受けた者に対して死を与える、つまり殺意を持つことを非倫理的なこととして排除しない、ということと同義だからである。

ここで「殺意」を非倫理的なこととして排除しない特定の判定基準の内容は、法律で規定されなければならないとしても、脳死と限定しているわけではない。それは時代に合わせて国民の決定に委ねられるのである。

命のつながり重視の原則

 脳死体も含めて死体から提供される移植目的の臓器提供は、移植によって生命がつながる可能性が高い場合を優先するとする原則である。

歴史上、なにゆえに与死が許容されてきたのかを回顧した時、すべての場合、それが結局はその社会の存続に関わってきたのであることが察せられる。

日本移植学会雑誌「移植」40巻2号は、p129~p142に松村 外志張氏(まつむら としはる・株式会社ローマン工業細胞工学センター)
「臓器提供に思う-直接本人の医療に関わらない人体組織等の取り扱いルールのたたき台提案-」から抜粋

移植教信者の皆様へ

> お前の思考と感情は、一方的にドナー側にしか向いていない。臓器移植がなければ明日をも知れない患者の側に向いていない。

本当に移植医療は患者を救うのか?
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『移植の延命効果は限定的』

脳死者から臓器の呈供を受けて移植してもらった人は、かなり長く、巧く行けば健康な人と同等に長生きできる、と思い込んでいる者が多いが、実は、被移植者の平均余命は健康人に比べてかなり短いことを、全米臓器移植機構2003年8月公表の統計が示している。

移植された臓器の種類により大きな差があるが、10年生きえた人の割合は、心臓45.6%、肝臓45.5%、膵臓20.5%、肺18.6%、小腸0%である。

さらに問題なのは、被移植者(レシピエント)が生きていられるのはすべて移植のおかげと信じられているが、実は心臓移植を受けずに生き長らえる期間の平均と、受けて生き長らえる期間の平均とを比べることのできる統計調査が、1991 年にアメリカで行われて、その結果意外な事実が判明した。

すなわち、(移植)待機患者のうちで、心臓移植の必要を宣告されてから移植を受けられないまま 1年後も生存している者の割合は67%であるのに対して、心臓移植を受けたレシピエントのうち1年後も生存している者の割合は88%であった。
つまりこの場合の心臓移植の延命効果は21%である。

次に、平均待機期間の6ヶ月間待機した患者がその時点でも心臓移植を受けられない場合の1年生存率は83%であり、延命効果は5%に低下する。
(生存率が上昇しているのは、移植の必要宣告後に受けた内科的治療の効果と思われる。)

『つまり、心臓移植の必要を言われて内科治療で6ヶ月間生きた者は、6ヶ月後に移植を受けようと受けまいと、その時点からの1年生存率には大差がないのである。』 

さらに9ヶ月待機してその間内科治療を受けた人の1年生存率は88%で、延命効果はゼロであり、(待機日数が9ヶ月を越えた場合は)。
待機患者とすでに心臓移植を受けた者の1年生存率は逆転し、移植手術を受けずに内科治療に専念した方が生き長らえる蓋然性が高くなる。

『心臓移植の延命効果はマイナスになる』
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【資料】2008年度心臓移植適応検討症例の予後調査結果(PDF)について

心臓移植黎明期には余命6ヶ月未満が移植適応とされたのですが、これでは術後みんな死んでしまう。心臓以外の臓器もかなり痛んだ状態になっているので耐えられないわけです。
これでは心臓移植の効果を世にアピールできないですよね。
そこで考えたのが基準を余命1年に変更することでした。
つまり健康な患者に移植すれば術後の余命が長くなるということです。
1年後に生存していれば先のデータによれば移植を受けてもうけなくても期待できる余命は代わりがありませんから、心臓移植以外では生存できない患者を適応から外し健康な患者に移植すれば「心臓移植適応検討症例追跡予後調査」のようなデータを取れるはずです。

腎臓移植は延命効果はありません。透析によって対処できるからです。

データの恣意的な利用

こちらも取り急ぎ。

延命効果だけを比較して、腎臓移植を含め移植にはメリットがないという事実無根の言説には呆れます。
生きてさえいれば幸せなのですか?透析の負担がどれだけのものか知っていますか?

心臓移植や腎臓移植した人が、健常者と同様に行動できる幸せを謳歌している成果を全く無視している。そっちのデータも出てるから調べてみなさいね。しかも、移植した人は、通常の治療ではもう対処のしようがないという重症患者がほとんどです。比較のベースがそもそも間違っている。

そんな我田引水な方が、ここにもいたわけですが、データを都合良く読み替えるというのは、実に非科学的な思考で、疑似科学者などに典型の恥ずかしい行為。まともな科学的態度を採る人なら、もっとも忌み嫌う行為です。

もう一つ、ついでに質問しておきましょう。
腎臓や、肝臓の死者からの臓器提供が少ないため、日本では家族などからの生体間移植が世界でも突出して多い。家族に、あなたの命を危険にさらしても臓器の一部を分けてあげたら助かるかもしれません、という究極の選択を強いる事を放置している事はどう考えるのです?

腎臓などは、心臓死のドナーからも提供可能である。
それすらしないで、生きている人の腎臓を採って、その人の命を危険にさらす。実際それで亡くなった方もいる。あなたはそれで平気なのですか?

他人の命を奪う行為であるからには

延命効果が無ければしてはならないし、意味がないでしょう?
それとも、某野球選手のように通常の生活には支障が無くとも選手生命を延長するために心臓移植を受けるようなことを肯定なさいますか?

>10年生きえた人の割合は、心臓45.6%、肝臓45.5%、膵臓20.5%、肺18.6%、小腸0%である。

これに腎臓について記載がないことについての説明です。

>比較のベースがそもそも間違っている。

全米臓器移植機構2003年8月公表の統計と
心臓移植を受けずに生き長らえる期間の平均と、受けて生き長らえる期間の平均とを比べることのできる統計調査が、1991 年にアメリカで行われた時のデータです。

>透析の負担がどれだけのものか知っていますか?
親しい人間で透析に頼っている者がおります。
自然災害などのがあると特に気がかりです。

リテラシーがない人が、データをただ抽出しただけで述べるという、実に愚かしい言論、言論の自由の冒涜も行われている模様だ。

移植した後の経過措置において、データはその通りなんだろうが、「死亡原因」がまるで記載されていない。
移植した臓器が機能しなかったために効果がなかったのか、移植に伴う副作用が原因で死亡したのか、あるいは移植の技術が不十分なためにトラブルが発生するのか、それによって「移植が効果があるかないか」は確認することはできないはずである。
これらを全部ネグレクトして、移植賛成の人間を批判・非難する思考と感情は、憲法で保障されるべきではない思想であることを認識する義務が、文明人にはある。

ただ、この発言者の最も許しがたい発言は「移植教」という言葉。ドナーや患者をあまりにも馬鹿にした言葉で許しがたい。こんな発言者に人格を認めてはいけないし、「人間」として扱ってはならない。

患者の治療が目的ではないのですか?

それとも臓器移植が目的ですか?

>移植した後の経過措置において、データはその通りなんだろうが、「死亡原因」がまるで記載されていない。
移植した臓器が機能しなかったために効果がなかったのか、移植に伴う副作用が原因で死亡したのか、あるいは移植の技術が不十分なためにトラブルが発生するのか、それによって「移植が効果があるかないか」は確認することはできないはずである。

これについては誠にその通りです。
上記に上げられているほかにも、医療保険の金額上限設定によって免疫抑制剤を投与できずに亡くなった方も米国では少なくないようです。金銭的理由で生存をあきらめざるを得ない移植患者の心中を思ってみてください。
データを公表し移植の正当性を明らかにすることは移植を推進する側の責任ではありませんか?

全ての患者が移植を受けることが原理的に不可能である以上内科治療を進歩させるなどして患者全員が医学の恩恵を受けられることを考えることが患者のためと思いますが?

>上記に上げられているほかにも、医療保険の金額上限設定によって免疫抑制剤を投与できずに亡くなった方も米国では少なくないようです。金銭的理由で生存をあきらめざるを得ない移植患者の心中を思ってみてください。

それは移植の問題というよりは、医療保険と治療の問題でしょ。

>データを公表し移植の正当性を明らかにすることは移植を推進する側の責任ではありませんか?

話をすりかえるな。
私は、「早雲氏の批判について、そのデータは批判の根拠とならない」と述べたのであって、指摘を受けたのは君である。つまり、「早雲氏の批判が正当性を持つという証拠となるものを提示する」ことが君の義務であって、それができないならば、君が発言を撤回すること。

>全ての患者が移植を受けることが原理的に不可能である以上内科治療を進歩させるなどして患者全員が医学の恩恵を受けられることを考えることが患者のためと思いますが?

二者択一の愚かさを露呈しただけと知れ。
臓器移植があろうがなかろうが、内科治療の進歩は、それはそれで必要なことであり、患者全員が治療できる状態になるのが好ましいことは言うまでもない。
が、しかし、現状においては、臓器移植の代替となる内科治療は存在しない以上、反論としては成立していない。

>それは移植の問題というよりは、医療保険と治療の問題でしょ。

あなたは、移植の問題を技術的なものだけに矮小化しています。
現実の社会の中で生きている患者にとっては技術的に問題がないかどうかではなく、結果として生きられるかが問題です。その意味では先のデータは現実の社会を反映しており意味のあるデータといえます。

>現状においては、臓器移植の代替となる内科治療は存在しない

無根拠に無責任な発言はおやめなさい。
まさにこの件についてデータをもとに考察しているのではありませんか。

>あなたは、移植の問題を技術的なものだけに矮小化しています。

それは私ではなく、あなたがしたこと。
『医療保険の金額上限設定によって免疫抑制剤を投与できずに亡くなった方も米国では少なくないようです。金銭的理由で生存をあきらめざるを得ない移植患者の心中を思ってみてください。』と、経済的理由による治療の停止を君が発言したために、私は『それは医療保険と治療の問題だろ』と指摘したに過ぎない。

>現実の社会の中で生きている患者にとっては技術的に問題がないかどうかではなく、結果として生きられるかが問題です。その意味では先のデータは現実の社会を反映しており意味のあるデータといえます。

結果的に生きられるかどうかが問題ならば、余計に技術的な話にならざるを得ない。
特に「臓器移植」という、思い切り医療技術の分野の話をしてるんだから、それを避けて現実の社会を反映するもしないもない。
君のデータは、「誰がどれだけ死亡したか」ということしか示しておらず、死亡原因という重大な情報が抜けている。「移植自体が無意味」と「移植自体は意味があるが、ケアが足りない」のとでは話が違うだろ。また、移植自体も「疾病の進行度によって有効か無効かが分かれる」というのであれば、これも話は違ってくる。

>>現状においては、臓器移植の代替となる内科治療は存在しない
>無根拠に無責任な発言はおやめなさい。
>まさにこの件についてデータをもとに考察しているのではありませんか。

私の発言が無根拠で無責任ならば、臓器移植の代替となる内科治療はあるのかね?それを示さないことには、君の発言自体が無根拠で無責任になるんだが。

取り急ぎ2

> 他人の命を奪う行為であるからには

本人も家族も医者も、「死」と認めているから提供する。で、本人や家族が、死後の扱いを決めているのに、アカの他人である早雲さんが、「まだ生きている」「お前らは殺人者だ」と邪魔しているようなもの。人工呼吸器を外す行為にも、あなたは同様の事を言わないといけない。そっちはどうして問題にされないのです?

あと、あなたは、心臓死後の臓器移植(腎臓など)も否定するんですよね。「脳死」での移植が問題だというなら、どうして心臓死移植すら認めないのですか?で、あなたの倫理をどうして他人に強制するのですか?

> 全米臓器移植機構2003年8月公表の統計と
心臓移植を受けずに生き長らえる期間の平均と、受けて生き長らえる期間の平均とを比べることのできる統計調査が、1991 年にアメリカで行われた時のデータです。

で、そのデータをどう使ったかですよ。
移植技術は日進月歩です。特に2000年以降は免疫抑制剤の向上で劇的に予後は良くなっている。
1991年のデータや、2003年8月公表の統計(これも5年経過のデータは2000年以前のもの)は、以前の技術でもそれだけの結果が出ていたという資料としては使えるが、それで「移植に何の効果もない」という恣意的主張の根拠とするのは、真理の捏造です。

心臓移植などは、「拡張型心筋症」など、現在の内科的治療では治癒も延命も不可能だから、移植治療に踏み切ったという人がほとんど。それを、「移植の効果はない」「内科治療と同等」ですか?

しかも、私が指摘したように、大事なQOL(Quality of Life)のデータも無視している。

ここら
http://www.asas.or.jp/jst/pdf/fct2008.pdf
http://www.asas.or.jp/jst/factbook/2002/fact02_06.html
でも、読まれよ。
あなたの主張が嘘だとデータが明確に示しています。

ほんの一部だけ引用します。
>国内で心臓移植を受けた60人のうち、これまで移植後4カ月目に誤嚥性肺炎で1人、移植後4年に感染症で1人死亡されましたが、残りの58人は生存し、最近施行された1人を除いて57人が外来通院しています(2008年11月30日現在)。生存率は1年98.2%、3年98.2%、5年93.5%、9.5年93.5%です。

この数字をどう見るのです?

また、移植後の患者のQOLも改善し、移植を受けてよかったと答えた人が、腎臓 肝臓 心臓それぞれで、93.9% 94.4% 100%もいる。就職、結婚、出産など、多くの人が生を謳歌しているのがデータから見て取れる。

心臓移植しか治療法の無い方は、心臓の状態が悪化すれば、臓器提供までの間、人工心臓で延命を計ったりします。しかし、それでも、提供まで堪えきれずに待機中に亡くなるかたが大勢いる。

> 心臓移植が必要と考えられている、β遮断剤、ACE阻害剤などの薬剤に抵抗性の心不全患者さんの予後は不良で、1年生存率は50%前後しかありません(つまり1年以内に半数の患者さんが死亡します)。

で、この内科的治療のどこが、移植の生存率と対して変わらないのです?
移植学会のデータとはいえ、あなたの主張が嘘だと示すには十分でしょう。こうした議論は、データを恣意的に利用した嘘・捏造をベースにすることだけは、決してしてはいけない。賛成・反対に関わらず、この議論に関わる全ての人への冒涜で、最も恥ずべき行為です。

>この数字をどう見るのです?

これは、国内で受けた患者さんですね。この数字だけを見せればまるで心臓移植を受ければ全て解決するように思うでしょうね。

同資料によると同時期に国外で受けた方はた128人のうち、2007年6月末現在で20人が亡くなっています。生存率は1年94.4%、3年91.5%、5年86.8%、10年79.5%です。
国際心肺移植学会の統計によると、2002年から2006年までの3年間に心臓移植を受けた人の12,369人の生存率は3ヶ月90.6%、1年86.1%、3年79.1%、5年72.3%でした。

これらの資料からは移植適応で実際には移植を受けられなかった方と、移植を受けた方の病態、病状をそろえた比較がなされているわけでは有りませんから正確に移植治療の効果を判定することは出来ません。

また、内科治療については
1997年4月から2006年9月30日までに日本循環器学会心臓移植委員会に提出されたレシピエント申請者398症例について以下のデータがあります。

* 申請時のStatus分類では、申請時Status1であった症例が60%、Status2が34%を占め、Status1のうちLVADがすでに作動している症例は47%であり、申請時すでに非常に重篤な状態であることがわかる。

* 申請者全体の生存率は、国内外心臓移植済み症例を除いた症例でみると、(レシピエント適応)判定日より1年で75%、2年で64%と減少し、3年で57%にまで減少するが、その後はゆっくりと減少を続け、9年では47%にとどまっている。

(中略)Status1で申請された症例の生存率は、判定日より1年で68%、2年で56%と減少し、3年で50%にまで低下するが、以後は横ばいとなる。また、NYHAⅣ度で申請された症例の生存率も、判定日より1年で62%、2年で52%と減少し、3年で46%まで減少するが、以後横ばいとなる。

上記の結果より、わが国の心臓移植待機患者は移植申請後約2年間を乗り切れば比較的予後が改善してくる可能性があり、心臓移植の適応がありながら心臓移植が受けられない患者に対する循環器内科医の心不全治療能力は高いことがわかる 。

また、人工心臓については
2005年の報告では、VAS治療による2年生存率60%まで改善しており、近い将来LVAS治療成績が心臓移植成績に匹敵する可能性を予測させる。(中略)少なくとも2年以上の平均生存期間と在宅治療が可能なEVAHEART(サンメディカル社製)やDuraHeart(テルモ社製)などの植込型 LVASが保険償還となった暁には、DTとしてLVAS適応は拡大されていくものと予測される」という。

職場復帰された方もいるそうです。

このように移植だけが生存の条件とまではいえません。

つづきです

>申請者全体の生存率は、国内外心臓移植済み症例を除いた症例でみると、(レシピエント適応)判定日より1年で75%、2年で64%と減少し、3年で57%にまで減少するが、その後はゆっくりと減少を続け、9年では47%にとどまっている。

ここで、移植までの平均待機日数をかりに2年として、2年後に移植を受けなかった患者の生存率を推定してみます。
1年後 89% 3年後 84% 5年後 81% になります。

同様に平均待機日数を1年とすると
1年後 85% 3年後 76% 5年後 71% です。

これとお示しの資料記載の移植後の数字を比べてください。
日本国内での手術と外国での手術では国内での方が待機日数が長いことが推定されます。
また術後の延命効果は見かけの数字ほど無いことがお解りでしょう。

脳死判定

非破壊的方法では脳死と確定することが出来ません。
脳波を測定できるのは大脳上層部のみです。脳幹に電極を差し込むことは生きている患者に対しては出来ないので脳幹が機能しているかは直接知ることが出来ません。血流量測定も反射試験も精度は低く決め手ではありません。
脳死判定後脳を解剖して調査するしかないのですが、このデータも取られていないようです。

さらに脳死判定時には投与された薬物の影響が無いことが必須ですが、これも守られておりません。この基準をいれれば脳死者が極端に減ってしまうことが原因のようです。
========
脳死判定委員が来るのは、呼ばれて行くわけです。行ってまくら元に立って患者を診るわけですね。そうすると、本当は、その判定委員をもしだまそうと思えば、だますぐらいわけないわけです。例えば、大量のバルビタールでも打っておいたら反応はなくなってしまいますからね。だから、大事なのは、それまでの過程がきちっととらえられて、十分な治療をされてということが大前提なわけです。たくさんの人が集まってある時点をもって、ある基準に当てはめてセレモニーみたいなことをやったって、十分と本当は言えないわけです。
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脳死判定に疑問があっても対抗手段がありません。

脳死と判定され臓器を摘出されれば必ず死に至るわけですが、摘出前に生きていたことを証明することは不可能です。

和田教授の事件をご存じでしょう。
ドナーとされた山口さんは意識こそ回復していませんでしたが、自発呼吸をしていました。
レシピエントの宮崎さんは、弁を人工弁に取り替えれば良いだけの状態でした。
結果として2人は失う必要のない命を奪われてしまったのですが、検察は事件を立証できず不起訴に終わっています。
http://fps01.plala.or.jp/~brainx/wada_case.htm

同様の疑惑は幾度か起きていますが起訴に至っていません。我々の社会はこのような事件を防止する仕組みを持っていないのです。

利益を受ける人々がコストを支払うのではありません。

>本人も家族も医者も、「死」と認めているから提供する。で、本人や家族が、死後の扱いを決めているのに、アカの他人である早雲さんが、「まだ生きている」「お前らは殺人者だ」と邪魔しているようなもの。人工呼吸器を外す行為にも、あなたは同様の事を言わないといけない。そっちはどうして問題にされないのです?

>あと、あなたは、心臓死後の臓器移植(腎臓など)も否定するんですよね。「脳死」での移植が問題だというなら、どうして心臓死移植すら認めないのですか?で、あなたの倫理をどうして他人に強制するのですか?


“あなた方は移植医療の短期的利点――目の前の患者さんが何人救える、延命できる――よりも、それが倫理、社会秩序、人類の文化に与える長期的悪影響のほうが、遙かに大きいことを認識できないのですか?” と答えておきます。

あなたに言わせれば”アカの他人”であるはずの人々に取り返しの付かない長期的な被害を与え続けるからです。

大分上のコメントで医療関係者の発言を紹介していますので確認下さい。

利益を受ける人々がコストを支払うのではありません。コストはおそらくは決して利益を受けることのない人々によってのみ支払われることになるでしょう。
それでも”アカの他人”等といえるのですか。

早雲さん

あなたは、指摘された問題をすり替えている。
「現在、心臓移植に代る有効な治療法がない患者さんがいる」という話を、広く心臓病患者一般に広げ、見えないように意図的に隠そうとなさっているようにさえ見える。

現在でも、心臓移植しか治療法のない症例がある。その人達から心臓移植の道を今奪ったら、諦めて死んでくださいと言ってるのと同じです。

> このように移植だけが生存の条件とまではいえません。

当たり前です。内科的治療のほうが効果が高い人に移植するのは医療ミスです。
で、一方で、内科的治療が無効な人達がいることを無視してはいけません。

> 心臓移植が必要と考えられている、β遮断剤、ACE阻害剤などの薬剤に抵抗性の心不全患者さんの予後は不良で、1年生存率は50%前後しかありません(つまり1年以内に半数の患者さんが死亡します)。

これは、内科的治療が難しい方達です。内科的治療で延命効果がある場合をひっくるめたデータを出しても意味はありません。上記のような方には、心臓移植の延命効果は格段に高いのは既に示している。

あと人工心臓ですが、心臓の代わりに埋め込む「置換型」と、心臓の機能低下を補助する「補助人工心臓」の2種類がありますね。

で、まず置換型は、もちろんそれが心臓移植よりも有効なレベルに一日も早くなることを私も願っていますが、まだまだ問題も多く、やっと臨床試験が再開されたばかりで、到底そのレベルには至っていません。また、日本では認可すらされておらず現場ではまず使えません。また、補助人工心臓も、移植が必要だと言われている患者さんには、移植までのつなぎとして使われているのが現状です。

症例によっては、補助人工心臓を心機能改善の治療目的で使う場合も増えているが、それはそもそも移植でしか直らないという症例ではないから可能なのです。一時的に心臓の負担を軽くして回復を図る治療法です。どんどん心臓機能が失われていく拡張型心筋症などの治療効果はない。

http://www.nankodo.co.jp/yosyo/xforeign/nejm/351/351aug/xf351-09-0859.htm

そして、人工心臓が必要というのは、あなたの主張を否定していることと全く同じ事に気がつくべき。Status1の患者さんなどが、内科的治療だけではもやは生命を維持できないからこそ、人工心臓を付けている。そして、移植治療でしか直しようがないから、ドナーが現れるまで人工心臓の助けを借りて移植を待つのです。ちなみに、人工心臓を付けることは「内科的治療」とは言いません。

もし、あなたの主張をしたいなら、Status1に至った方達が、補助人工心臓も付けなかった場合と、移植した場合とを比較しないと意味がないのです。でも、残念ながらそんなことはお医者さんは選択できません。見殺しにするのと同じですからね。

将来的には、再生医療が発達すれば、他人の臓器を使わなくて済むようになるでしょう。だからといって、今は、その技術が無いのだから、現在使える最も有効な方法を選ぶのは当然の事です。

で、それ位の事実は前提にして、反対意見を述べるべきでしょう。
持論に有利なように事実を曲解し、「移植治療」に効果がないかのような印象操作をするのは、実に恥ずべき行為です。

ひとつだけ

>あなたは、指摘された問題をすり替えている。

========
>国内で心臓移植を受けた60人のうち、これまで移植後4カ月目に誤嚥性肺炎で1人、移植後4年に感染症で1人死亡されましたが、残りの58人は生存し、最近施行された1人を除いて57人が外来通院しています(2008年11月30日現在)。生存率は1年98.2%、3年98.2%、5年 93.5%、9.5年93.5%です。

この数字をどう見るのです?
========

への回答ですからすり替えてなどいません。
争点をずらさないでください。

もうひとつ

>「現在、心臓移植に代る有効な治療法がない患者さんがいる」という話を、広く心臓病患者一般に広げ、見えないように意図的に隠そうとなさっているようにさえ見える。

心臓移植が適応と判定された方だけに限って論じています。
もう一度読み返してください。

早雲さん、論があまりにも酷過ぎる。
あなたが出した根拠は、「A案賛成の立場」のデータじゃないか。そのデータが本当だとしても、それがありながらA案に賛成しているのだから、根拠として提示するときは、そこまで踏まえた上で示す必要がある。

それをしないで、臓器移植の批判や他の治療方法の評価を行うのは、その根拠を明示した方々へ失礼極まりないし、説得力もない。

自分に都合のいいように解釈しないように。

早雲さん、

> 心臓移植が適応と判定された方だけに限って論じています。

だから、誤魔化しだといっているのです。その方たちは、あなたの言うとおりなら内科的治療だけで生きていなくてはいけない。しかし、事実は違います。

実際には、多くの方が(補助)人工心臓を付けている。
人工心臓をつけるということは、もう内科的治療だけでは限界であり、臓器移植と同じ臓器置換治療を受けたということです。

>(レシピエント適応)判定日より1年で75%、2年で64%と減少し、3年で57%にまで減少するが、その後はゆっくりと減少を続け、9年では47%にとどまっている。

で、問題は、この数字のうち、(補助)人工心臓などの助けを借りて生存している方の割合がどれだけか?ということです。それを除いた数字が、あなたのいうように、純粋に内科的治療だけで延命できた事例です。

>Status1のうちLVADがすでに作動している症例は47%であり、

で、このように、申請時でも、すでにStatus1の半分近くがなんらかの人工心臓の助けを借りている。これは、あなたの数字に含まれる高い割合の方が、申請時から心臓移植の代替・つなぎ治療を受けないと延命できないことを意味している。まさに、臓器移植治療の必要性と有効性を示す数字そのものなのです。そして、その割合は、待機の長期化にしたがって当然上がっているでしょう。つまり、あなたが、移植なしに生存しているという数字の多くが、内科的治療だけでは限界となり、移植治療の代替・つなぎ治療を受けることで移植を待ちながらなんとか頑張って生きている。

それを、移植治療が必要ない、効果がないかの数字に読み換えるなどというのは、まさに「真実の捏造」「事実の曲解」です。

また、再生医療はまだまだ実用化には程遠い段階ですから、腎臓、肝臓、肺などは、臓器置換治療としては、臓器移植しか現在のところ選択肢はありませんよね。

あと、QOLについてはどうなんです?
ただ延命さえ出来れば、人は幸せになれるのですか?

この議論の前提となっている移植適応と判定されたということはどういう事か忘れていませんか?
余命が1年未満と想定されたと言うことですよ。

>だから、誤魔化しだといっているのです。その方たちは、あなたの言うとおりなら内科的治療だけで生きていなくてはいけない。しかし、事実は違います。

私は人からの臓器移植を問題にしているから議論をしています。
内科的治療の補助としてLVASを使用したりDVとしてVASを使用することに疑念を示していません。
他人の臓器を使用せずに生きられるかどうかです。

>ただ延命さえ出来れば、人は幸せになれるのですか?

これはそのままあなたへの質問としてお返しします。
良くお考え下さい。

QOL

>あと、QOLについてはどうなんです?

これに答える前に

>某野球選手のように通常の生活には支障が無くとも選手生命を延長するために心臓移植を受けるようなことを肯定なさいますか?

にお答え下さい。

究極の選択

>腎臓や、肝臓の死者からの臓器提供が少ないため、日本では家族などからの生体間移植が世界でも突出して多い。家族に、あなたの命を危険にさらしても臓器の一部を分けてあげたら助かるかもしれません、という究極の選択を強いる事を放置している事はどう考えるのです?

究極の選択を他人に押しつければそれでよいのですか?

レシピエントの家族でさえ家族関係を壊しかねないほどの葛藤があるのですよ。
ドナーの家族に無いと思いますか? 他人なら構わないのですか?

脳に重篤な疾患があり気も動転している家族が、家族の同意でドナーになれるとすると医者の説得をかんたんにに断り切れるでしょうか?

同意したことを一生後悔する遺族も少なくないはずです。

あなたは激怒するでしょうが、どうしても移植を認めろと言うのであれば家族間に限って認めても良いと思うくらいです。全ての問題は家族内の問題で収まるからです。

では、嘘を訂正してくださいね。

早雲さん、
>私は人からの臓器移植を問題にしているから議論をしています。
>内科的治療の補助としてLVASを使用したりDVとしてVASを使用することに疑念を示していません。

嘘をついてはいけません。

>(生存率が上昇しているのは、移植の必要宣告後に受けた内科的治療の効果と思われる。)
>『つまり、心臓移植の必要を言われて内科治療で6ヶ月間生きた者は、6ヶ月後に移植を受けようと受けまいと、その時点からの1年生存率には大差がないのである。』 
>さらに9ヶ月待機してその間内科治療を受けた人の1年生存率は88%で、延命効果はゼロであり、(待機日数が9ヶ月を越えた場合は)。
>待機患者とすでに心臓移植を受けた者の1年生存率は逆転し、移植手術を受けずに内科治療に専念した方が生き長らえる蓋然性が高くなる

では、これらの嘘分析は撤回・訂正していただきたいですね。いずれも「内科的治療」とはっきり書いていて、「臓器移植」vs「内科的治療」という比較であると明らかに読めますよ。しかし、どこに内科的治療のみでの生存率だと書いているのです。実際には、心臓移植よりは劣るが、心臓移植の一時的な繋ぎ・代替手段として使える人口補助心臓を付けていた人が多くいるのが事実。つまりこのデータは、心臓移植の効果と内科的治療の限界を示しているのに他ならないのですよ。

そもそもこの「臓器移植を受けていない」=「内科的治療のみ」というデマを最初に垂れ流したのはあなたではなさそうですが、そんなド素人の勘違い分析をそのまま無批判・無検証に引用し、印象操作をして事実をねじ曲げようとする行為が、許されざる事は同じです。

私の質問にも答えてください

>(生存率が上昇しているのは、移植の必要宣告後に受けた内科的治療の効果と思われる。)
>『つまり、心臓移植の必要を言われて内科治療で6ヶ月間生きた者は、6ヶ月後に移植を受けようと受けまいと、その時点からの1年生存率には大差がないのである。』 
>さらに9ヶ月待機してその間内科治療を受けた人の1年生存率は88%で、延命効果はゼロであり、(待機日数が9ヶ月を越えた場合は)。
>待機患者とすでに心臓移植を受けた者の1年生存率は逆転し、移植手術を受けずに内科治療に専念した方が生き長らえる蓋然性が高くなる。

これは「全米臓器移植機構2003年8月公表の統計」と断っているはずです。
米国のこの時点での統計結果ですから何の嘘もありません。

その後あなたが持ち出された

>生存率は1年98.2%、3年98.2%、5年93.5%、9.5年93.5%です。
というデータの妥当性を論じる中でLVAS使用の話題などが出てきました。

>「臓器移植を受けていない」=「内科的治療のみ」

話のすり替えはやめてください。臓器移植を行うことの是非を論じているのです。
あなたが外科的治療について反応することは想定していましたが、私の関心は他人の臓器を盗むかどうかだけですのであえて断りを入れなかっただけです。話題の本筋とは関係有りません。

それより、私の質問には何もお答えいただいていませんが、なぜですか?

とりあえず、こちらから。

では、こっちから先に片づけましょうか?

>それより、私の質問には何もお答えいただいていませんが、なぜですか?

それって、以下の質問の事ですか?

>某野球選手のように通常の生活には支障が無くとも選手生命を延長するために心臓移植を受けるようなことを肯定なさいますか?

で、本当に答えて欲しいのですか?そんな当たり前の質問に?で、移植推進者なら、そんなことを肯定するとでも思っているのですか?

では、きっちり答えましょう。
答え: 許されるはずがありません。

それは、ざっとかんがえただけでも、以下のような問題だらけだからです。

1. その人は病気ではない。臓器移植は病気の治療として、それが最も有効であるから選択するのであるのだから、それは医療行為ではない。

2. ドナーが足りていないのに、病気治療でもないことに貴重なドナーを使えない。

3.ドナー提供者は、病気治療に使うからこそ提供に応じているのである。それ以外の目的に使うのは、ドナーとその家族を裏切ることになる。

4.スポーツのフェア精神から言っても許されない。ドーピングが許されないのと同じ理屈。そんなことを許したら、プロスポーツは、改造人間の世界になります。

以上でよろしいですか?

こちらも

>これは「全米臓器移植機構2003年8月公表の統計」と断っているはずです。
>米国のこの時点での統計結果ですから何の嘘もありません。

でしたら、その統計とやらに内科的治療と書いてあると主張されるわけですね。では、まずはソースでそれを確認しますので、原ソースをお示し下さい。当然英文でしょうが、それで全く構いません。

生体ドナー問題

> 究極の選択を他人に押しつければそれでよいのですか?

生体ドナーの方が、死者からの移植よりも、はるかに倫理的に問題があると私は思いますが、あなたはそうは思わないのですか?

で、腎臓なんかは心臓死後でもOKなんですよ。なのに、生体間の移植が日本だけ突出して多い。心臓死後のドナー提供希望を家族に聞くことが、生体ドナーよりも究極の選択だというのでしょうか?

>全ての問題は家族内の問題で収まるからです。

話にならないね。
ドナーは、レシピアントがいるからドナーなんですよ。私のように積極的な提供意思のある人たち(日本でも少なくとも8%近くいるようだ)の希望を切り捨てるわけですか?

あなたは、私たちの希望も、患者の生きる希望も、両方切り捨てていることを自覚すべきです。そして、ご自分の倫理に、他人も従わせようとするのだけはお止めいただきたい。

生のありよう

そもそも社会的な死ってのは科学や政治が決めることなのか?

1. 臓器移植は病気の治療として、それが最も有効である

「現時点で」というのが抜けてるよね。それがあたしらの目には「科学」者の傲慢や不誠実に映るんだよ。Looperさんがこの点気にならない、ということならそれでもいいけど、傲慢と不誠実は「ニセ科学」や「カルト」の最も顕著な特質だよ。わたしは、それと本物の科学との区別はそこにある、と思ってる。

< 傲慢=「病気治療(というかこれはもともと「幼い命を救う」だったはずだよね。Looperさんはもうどっちでもいいみたいだからここではどっちでもいいことにするけど)」だからみんながこのルールに従うのが当たり前じゃないか、という態度のこと >


2. ドナーが足りていないのに、病気治療でもないことに貴重なドナーを使えない。

それが国際社会でコンセンサスを得られているのなら、各々の国の「臓器移植に関する法案」はそういう行いが「許されない」ようなシステムになってるはずだよね。どの国でも。どの病院でも。もちろん、日本でも。

で、実際にそれをする、してしまった、そんな人間はどんな法律で裁かれるの?

Looperさんの仰る「許されない」のは誰?
レシピエント?施術者?ドナー?


3.ドナー提供者は、病気治療に使うからこそ提供に応じているのである。

それこそ思い込みによる勝手な限定です。「病気治療に使うからこそ」あなたはそう思うかもしれないが、他の人はそう思わないかもしれない。そう思わない人が必ずいらっしゃる。たとえば「憧れのホームラン王の心臓として生き続けられるのならいいや」とか。

だいたいそもそものはじまりが「幼い命を救うため」だったのではなかったのか?

15歳以下の基準を取っ払い、なおかつ「本人の意思確認を必要としないで臓器を摘出できる法律」についてわたしらが注意深く議論してきた理由は。

< 上では「どっちでもいいことにする」と書いたけど、あれはあくまでもあそこ限定 >

ドナーやその家族にとってそれは「どっちでもいいことではない」。そんなことはいちいち説明するまでもなく「当たり前」のことだし、それを「わからない」はずはないよね。

この議論をここまで注意深く見守ってきたみなさんは。

それとも、ドナーや家族への説明やそこで確認された「意志」と違った使われ方をすることもある、という前提がおありなのか?

A案では。

Looperさん、

あなたは絶望の淵にいらっしゃる家族にどのような言葉で、今、それが必要であることを告げるのですか?

QOL?延命?幼い命を救う?

どっちですか?

解決策は移植医療ではない

>あなたは、私たちの希望も、患者の生きる希望も、両方切り捨てていることを自覚すべきです。そして、ご自分の倫理に、他人も従わせようとするのだけはお止めいただきたい。

>私たちの希望も、

はどうでも良いわがままだと申し上げます。わがままが悪いとは申しませんが。

あなたの言葉はそっくりお返しします。
理由はこれから説明します。

=============
>申請者全体の生存率は、国内外心臓移植済み症例を除いた症例でみると、(レシピエント適応)判定日より1年で75%、2年で64%と減少し、3年で57%にまで減少するが、その後はゆっくりと減少を続け、9年では47%にとどまっている。

ここで、移植までの平均待機日数をかりに2年として、2年後に移植を受けなかった患者の生存率を推定してみます。
1年後 89% 3年後 84% 5年後 81% になります。

同様に平均待機日数を1年とすると
1年後 85% 3年後 76% 5年後 71% です。

これとお示しの資料記載の移植後の数字を比べてください。
日本国内での手術と外国での手術では国内での方が待機日数が長いことが推定されます。
また術後の延命効果は見かけの数字ほど無いことがお解りでしょう。
=============
これは、あなたの提示された移植後の生存率データと、同じく移植学会に発表されたほぼ同時期の移植未実施の患者さんの生存率データから読み取れる推定値です。
国内での平均待機日数が500日、米国での平均待機日数が50日程度のようです。
日本から渡米して移植術を受ける患者の待機日数はおそらく半年から1年程度と仮定すると延命効果はほとんど見られません。
日本人で移植を受けた患者と受けていない患者には明かな違いがあります。
虚血性心疾患、60才以上の高齢者は移植を受けた患者に含まれていません。(平均37.8才±12才)
これを勘案すると延命効果は微妙です。

>国際心肺移植学会の統計によると、2002年から2006年までの3年間に心臓移植を受けた人の12,369人の生存率は3ヶ月90.6%、1年86.1%、3年79.1%、5年72.3%でした。

これに含まれるレシピエントの平均待機日数がさきのデータでは公表されていないので解りませんが、おそらく米国での実績50日程度と考えても大きな差はないと思われます。

移植適応と判定され未移植の患者の余命は数日から10数年です。
さらに余命の中央値は100-150日のようです。
医療現場にいれば、移植適応と判定されドナーを待ちながらも平均待機日数の500日を乗り切ることなく亡くなっていく方が一番目立つはずです。
平均待機日数の500日を乗り切る事が出来た患者は移植を受けてもうけなくても少なくとも余命は有意な差がありません。

冷たい言い方ですが、現在の日本では移植医療に延命効果はなかったことになります。

ここでもう一度考えてみましょう。
中央値の患者を救うためには何が必要でしょう?
待機日数を米国並みに50日を目指しますか?
原理的にはドナーを現在の10倍に増やせば出来そうです。
ドナーが2倍や3倍になっても中央値付近の患者は救われません。

現実の日本社会でドナーをが2倍、3倍確保することは困難でしょう。まして10倍などは。

本気で患者を救うつもりであれば解決策は移植医療のなかには無いと思いませんか?

つづきはまた

責任ある言論を

早雲さん、自己主張する前に、責任ある言論をしなさい。

1.移植済み患者の生存率と未移植患者の生存率を単純比較しているだけで、死亡『原因』という重要なファクターが欠如している。死亡に至るプロセスを説明していない以上、これでは「臓器移植が解決策とはならない」という君の説を正当化することはできない。

2.平均待機日数の違いを述べているが、これは「平均待機日数を短縮することができれば、臓器移植は解決策になる」という反論が成立するわけだが、それ以前に「臓器移植は有効な解決策かどうか」という命題は、あくまでも「医学的(理論的)にどうか」という問題であって、平均待機日数は「(仮に臓器移植が最も有効な治療方法だとしても)それが実現できるかどうか」という問題であり、そもそも話の次元が異なる。
これを混同して持説の正当化を図ろうとするのは、卑怯極まりない姿勢であって、他人の説を批判する資格などないことを認識する義務がある。


ごんさん、私にかつて「真面目に議論してくれ」といった割には、君は実に不真面目な発言をしていること、自覚ないでしょ?
君のは「反論」として成立していないものばかりだということを、もっと深く反省し、この件については、もっと勉強してから意見を持つように。

私の発言を無条件で受け入れる義務と責任が、ごんさんには発生しているが、その根拠は、たとえば、『ドナー提供者は、病気治療に使うからこそ提供に応じているのである。』というLooperさんの言葉に対して、『それこそ思い込みによる勝手な限定です。』と述べているところに表れている。
なお、Looperさんが「思いこみによる勝手な限定」ではない証拠を提示する義務は、私にもLooperさんにもない。なぜなら「公知の事実」であって、「この件で意見の表明を行うならば、最低限知っておかなければならないもの」だからであり、私に指摘されたことを調べて猛省するのは、唯一、ごんさんに責任がある。
何度も言うが、『表現の自由』は『嘘をつく自由』ではないし、『誤りを放置しておく自由』でもない。
そのことをわきまえてから、物事を思考し、感情を抱くように。

やあ、わくわくさん、

>私に指摘されたことを調べて猛省する

義務だなんだと言われても世の人々が「今」考えてることなんて調べようがないよ。

が、(だからこそ)

「ドナー提供者は、病気治療に使うからこそ提供に応じているのである」

これが間違いであることは明白なんだ。

====================
(承諾書にサインするとき)なんで、「目も皮も腎臓も肝臓も心臓の弁も、お母さんみなもらいますよ」と説明してくれはれへんかったんやろ。そしたら、私は、断われたかも知れません。
====================

そしたら、私は、断われたかも知れません。

あなたはこの言葉を信じないのか?

懲りない不屈のネット工作員(笑)

くわくわ88は自らの発言の責任を貫徹すべく速やかにレシピエントに全ての臓器を提供すること。そしたらアンタのいうことは誰もが頭をたれて素直にきくだろうよ。 死人に口なしということも唯物論的現実だけれど。

江戸時代末期幕府の「財政出動」とか「マネーサプライ」とか歴史の規定性を無視した無知蒙昧な大嘘発言を指摘されても屁のカッパはだ~れだ!
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1118994056

おいらはオマエがいつどこで何をいったかきっちり記録しているよ。


捏造は大変だね

わくわくさんも指摘していますが、

> ここで、移植までの平均待機日数をかりに2年として、2年後に移植を受けなかった患者の生存率を推定してみます。

笑)で、その数字がどんな意味があるのです?
科学論文でそんなおかしな論を展開したら、審査で即却下されますよ。

で、その2年以内に、移植を受けた方や、堪えきれずに亡くなった多くの方への移植の有効性評価はどこにいっちゃったんです?その人達が、移植を受けられることが出来ていたらどうなってたと予想するのです?

で、2年間以上待機できた人=補助心臓の助けを借りれば、まだ状態が安定している人だけを対象の数字を示して、「解決策は移植治療ではない」ですか?

では、その人達がそんなに移植なしで問題なく長生きできるのなら、どうしてそんなに長い間移植を希望し続けているのです?また、待機中に亡くなった方は、移植出来ていても同様に亡くなったはずなのですか?運良く移植できた方々は、移植しなくても同様に延命できたはずなのですか?
事実を捏造しなきゃいけないのは大変ですね。

で、あなたが「嘘じゃないことを証明できる」らしい一次ソースの提示はまだですか?

あなたの頭の悪さには感心します

>笑)で、その数字がどんな意味があるのです?

国内での平均待機日数と同等だからです。

>その人達が、移植を受けられることが出来ていたらどうなってたと予想するのです?

>国際心肺移植学会の統計によると、2002年から2006年までの3年間に心臓移植を受けた人の12,369人の生存率は3ヶ月90.6%、1年86.1%、3年79.1%、5年72.3%でした。

待機日数が50日程度ならこの数字に0.96を掛けた程度の生存が期待できます。

投稿態度からあなたが本気で患者の生存を望んでいるわけではないことが解りましたのでコメントはこれで終わりにします。

はじめまして。移植は難しい問題ですね。
個人的には再生医療に期待したいんです。ドナー必要ないし、自身の細胞を元に作るなら合わないことも少ないのではと思います。
献血してその血を手術用の輸血に使うということがありますが、あんな感じにもっていけると思うんですよね。
もしくはロボット工学が発達してるから補助する機能の人工的なものを変わりに使うという方法もあります。
どちらが良いかはわからないので両方発展してみるのが良いと思うんですよね。
心臓はこっちが、腎臓はこっちがって良いのが分かれるかもしれませんし。
製薬会社とこれらの研究を組み合わせれば実現出来ると思うんです。製薬会社も新たな儲けが見込めるし、研究者達の医学の発展に多大な功績がもたらされ歴史に残る(もしかしたらノーベル賞ものかもと思います)とも思います。
患者はドナー待つ必要ありませんし、海外に手術する必要もありません。怪我して脳死判定受けて殺されるというドナーに勝手に認定されたらという医者不信もなくなります。
社会的にも良い影響与えると思います。
以上の理由から移植は反対ですね。社会的にもその方が安定すると思うのです。

『薩摩長州』という馬鹿は、物を言う前に日本語を理解しないといかんね。

>江戸時代末期幕府の「財政出動」とか「マネーサプライ」とか歴史の規定性を無視した無知蒙昧な大嘘発言を指摘されても屁のカッパはだ~れだ!

やはり、この『薩摩長州』という馬鹿はブログを閉鎖する義務があるよ。

江戸時代は不十分だが貨幣経済が進んできており、当時の為政者に認識があったかなかったは別として、現代の「財政出動」に匹敵する政策も出していれば、貨幣の調整のために「金融政策」を行っている例もある。

徳川吉宗の倹約は、経済の流動性をストップさせたが、それに反抗した尾張藩主徳川宗春の「浪費」は、名古屋を好景気にしており、現代の評価としては「財政出動」の経済的効果とみなすことができる。(ただし、その財源がいい加減だったために、結局は失速することになるのだが。)

マネーサプライは、新井白石と萩原重秀の比較において語られることを、薩摩長州は知らないらしい。
萩原は元禄金銀や宝治金銀といった金の含有量を減らした通貨を大量発行したために、インフレを招いた。新井白石は金の含有量を増やした通貨を発行して、元禄金銀や宝治金銀の回収を行ったので、経済はデフレに傾いたわけ。
しかし、経済学的に言えば、貨幣経済が進行しつつある中では、萩原の政策が正解で、「マネーサプライを増やさないといけない時期にデフレ政策を行った」ということで新井が誤り。

従って、私を「無知蒙昧」と思考し、それを口にした時点で、『薩摩長州』なる馬鹿は、私に対して謝罪し、私の要求を全面的に受け入れる義務がある。

もっとも、このときの命題は、幕末の幕府の財政難の話であったが、幕末まで幕府が健全財政であったならばともかく、早い時期に財政難に陥っていたわけだから、「幕末限定」で幕末の江戸幕府の財政を論じるのは無理がある。
つまり、ベストアンサーに選ばれた人は、単に馬鹿であったことが明白なんだが、これが「民主主義は最悪の制度である」ということを証明している。

>おいらはオマエがいつどこで何をいったかきっちり記録しているよ。

記録しているのはいいが、私の話を理解する能力がないなら、薩摩長州を含め、私に対して反抗的な思考や感情を抱く馬鹿が、自分たちの愚かさを猛省するために使え。

ごんさん、残念だが、君は物事や人物を適切に評価する能力がないよ。

>(承諾書にサインするとき)なんで、「目も皮も腎臓も肝臓も心臓の弁も、お母さんみなもらいますよ」と説明してくれはれへんかったんやろ。そしたら、私は、断われたかも知れません。

これ、「ドナー提供者は、病気治療に使うからこそ提供に応じているのである」ことに対して、「これが間違いであることは明白なんだ。」と思考する権利が認められる根拠にはなってない。
なぜだかわかる?

献体ということで承諾したのに、ガンガン臓器移植をされたのだから、このおばあさんは『騙された』という話。言い換えれば、この話は、そもそも「ドナー提供者は、病気治療に使うからこそ提供に応じて」とかなんとか、そういうことが問われている話ではないのだから、臓器移植に反対するしないという理由として正当なものではない、ということなのだ。

念押ししておくと、君が出した話というのは、「A案」であっても認められない犯罪に匹敵する行為なのであって、A案に反対する理由としても成立などしていない。

はい、君の誤りが完全に証明されたのだから、私が述べたことを完全に実施しなさい。

知り合いのサイトから飛ばされたのですが、挨拶割愛させてもらって意見を・・・・

まず、A案E案の相違点は、法的にはありません。
E案では脳死移植に限ってという旧法を踏襲するだけのものですが、それはA案でも同じことで、明記されてないだけの話です。(明記されずとも、同法は臓器移植医療に限定することが法的に確定できるでしょう)

したがって、A案・E案の相違点を法曹界が議論すれば意味不明と言われるでしょう。
 正しいという問題ではなく、相違点を確認すると法的に意味を為さない改正案がE案と言えるでしょうか・・政治的にソフトになっただけというべきでしょう。

>何度も繰り返しているように、「善意」や「高い志」がデフォルトとして国が規定することを批判している。それは道徳基準を国が定めるのと同じことだからです。

 公共善は国権が規定するものでしょう。事実、司法権が公益性の判断を下すのですから、道徳規準の判定・規定は国が定めてるのが一般認識として妥当です。
 それに民意が参画することによって民主主義の完成系があるという参審制・陪審員制度の趣旨は分かりやすいものです。
 アナーキストの私からすれば、それが国家の本質的な欺瞞と強権力であって、それならば国権の制限の限界射程を論じる必要性がありますが、公益性判定を国権に委ねている以上は、公共善が国家が規定するのは回避できないでしょう。
 問題視するべきは、そこまでの主権を国権に付与している政治システムを批判するべきでしょう。

>その道徳的基準を国の標準とし、移植を望まない人は拒否の意思表示をせよとは、これはまったく民主主義的ではない。

よく意味が分かりません。
 同法は道徳規準を策定したものではなく、そのような道徳規準を持つ人間の行動を正当化する性格のものでしょう。
(ケルゼン的法理論で考えれば分かると思います)

そもそも、道徳規準は法定化できるものではありません。むしろ立法ではなく司法によって確認作業が行われるものであって、立法権が道徳を創造するような言説は、リアリティを感じられません。

>人は他人の命など救う義務はないのです。道徳的に他人の命を救う義務があるというのは正しい。
 しかし、道徳という限定を外したとき、人命救助を正しいとする根拠はなにもないのです。民主主義はその地平に打ち立てられなければならないものです。

 極論というよりも、自然法概念を無視した暴論ではないでしょうか?
 実定法において人は他者の人命を尊重する責務を負っています(緊急避難措置)し、これは理性法・自然法でも明白でしょう。
 
 そもそも道徳ではなく理性法は無視できる話なのでしょうか?
 道徳という極めて抽象的概念で持論を正当化できると思うのは自由ですが、理性法の領域を無視するのは近代人の政治理論としては疑問を感じます。

 民主主義の地平とは、主権在民・自由意思の尊重を第一義としますが、それは「他人の命を救おうとする」自由意思も尊重される予定があります。
 第一、民主主義が仲良しクラブではない、というのは断定できないでしょう。
 主権者が仲良しクラブに安住し、満足し、それに全会一致できれば民主主義としての正当性が確立するわけです。(立憲民主主義ならば別ですがね)
 民主主義は独裁政治ですら内包できる懐の深すぎる概念という歴史的事実を無視していませんか?
 
 道徳という言葉を安易に使用して、曲解しているように思えてなりませんが・・・それは私だけでしょうか?
(´・x・`)ニョモ

>E案では脳死移植に限ってという旧法を踏襲するだけのものですが、それはA案でも同じことで、明記されてないだけの話です。

なら、何故に明記しないのか。

だいたい法曹界ってのがどれだけ偉いのか知らんけど、そんなのに下界を生きるあたしらの死を決めて欲しくないからいろいろと注文をつけてるんだけどね。

>公共善は国権が規定するものでしょう。事実、司法権が公益性の判断を下すのですから、道徳規準の判定・規定は国が定めてるのが一般認識として妥当です。

むちゃくちゃな云いやなあ。

司法(権?)が「公益性の判断」をするから「道徳規準の判定・規定」は国が定めている。

と読めるけどそれでよろしおまんな?

「公益性の判断」が「道徳規準の判定・規定」に見事に着せ替えられてるけど、

「公益」ってのは「道徳基準」なのか。

それに三権分立がまったく無視されてるよ。

今度の法案が話し合われているのは立法府。国会は国権の一部だけど「道徳基準」を決める場所ではない。それはどの国でも同じ。

司法は自らの良心に従って職権を行う。この「良心」が「道徳規準」に近いのであって、それを「公益」に置き換えるのは、国による司法権の侵害。

第76条 すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。
2 特別裁判所は、これを設置することができない。行政機関は、終審として裁判を行ふことができない。
3 すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。

「道徳」という言葉を安易に曲解して、いつの間にか「公益性」として使用しているように思えてなりませんが・・・それは私だけでしょうか?
o(^-^)oキャハ

ごんさん・・・・。
あんたね、ちょっとは勉強してから言いなさいね。

冥王星氏の発言は、基本中の基本であって、これに反発すること自体、この問題について感情や思考を抱くな、という状況にあることを、謙虚になって受け止めな。
ごんさんの今の思考と感情は、ほぼ100%間違い。

どうも法律の意味を理解していないようですが

>何故に明記しないのか。

明記せずとも、法的に想定されるからです。
一番それを顕著の条文で明記しているのが、ほとんどの法律の前文・1条です。
旧法では
第一条 この法律は、臓器の移植についての基本的理念を定めるとともに、臓器の機能に障害がある者に対し臓器の機能の回復又は付与を目的として行なわれる臓器の移植術(以下単に「移植術」という。)に使用されるための臓器を死体から摘出すること、臓器売買等を禁止すること等につき必要な事項を規定することにより、移植医療の適正な実施に資することを目的とする。

とあり、法律の目的が宣言され、その法の有効射程が明記されます。
 従って、E案で盛り込まれたものは、法の有効射程を再確認しただけにすぎず、明記せずとも法的に盛り込まれている考えです。
第一、A案・E案は「人の死」を規定しているものではありません。人の死とは抽象概念であって、法定化できるものではありませんし、そのような法律はどこにも存在しません。報道でそのような曲解が流布されているにすぎません。
 法律は、権利の主体としての人格権は想定しますが、死という概念を支配する権限も必要性もないのが現実です。だから、人の死という極論も法的には無意味とも断定できるでしょう。
 具体的に法的な有効射程が限定されるのは明らかなのですから、A案・E案に相違点は法的にはないと明言できるでしょう。
 
 これは法律の基礎で、明記する必要性がないから明記しないだけなのです。
 ただし、意図的に明記されたことが政治的に意味がありえる、というだけの話です。

 もちろん、法律に背を向けて生きるのもご自由にですが、A案・E案の相違点は法的には無意味と断定してもいいでしょう。
(意味分かりますか?)

>「公益性の判断」が「道徳規準の判定・規定」に見事に着せ替えられてるけど、 「公益」ってのは「道徳基準」なのか。

そうでしょうね。道徳を社会規範と考えることも可能ですから、公益の射程に道徳規準は準用できるでしょう。それとも出来ないという実例があるのでしょうか?
 基準ではなく規範ですがね

>司法は自らの良心に従って職権を行う。この「良心」が「道徳規準」に近いのであって、それを「公益」に置き換えるのは、国による司法権の侵害。

良心と道徳規準は別物です。
例えば、良心というものは、自己発心に始点を見出せますが、良心は概ね、当人の価値観のみに依存します。
道徳規準は、基準である以上は、共有化・多様化の前提にありますが、個人の価値観が選別されてcommon化されたものでしょう。
ここらの捉え方は、ロールズを参考にされると分かりやすいとも思います。

 同じと思い込むのは結構ですが、言葉を精査されないと間違いを犯すだけですよ

 こちらの指摘を理解できているとは思えないのですが、言葉の意味をまず確認されることを希望します。

無意味な憲法条文を羅列されても、個人的には、何の根拠も見出せないのですが・・・それが説得力を持ちえるという根拠があるのですか?
そこらを説明してみてください。妄言でも貴方に意味がある主張ならば聞くくらいの度量はありますので

>明記せずとも、法的に想定されるからです。

なるほど。了解した。で、これは、

臓器移植以外の目的でそれ(現段階での脳死判定)を死とすることは、法的に認められていない。そのことについては明記されていなくとも想定されている。で、こういうことが仮に行われた場合は、

刑法に照らし合わせての「殺人」罪が適用される、という理解でいいんだね。

< と、ならないと「臓器移植」という条件が(ある不特定多数の)殺人行為に対する罰則の適用を無効化してしまう可能性があるからね >

>もちろん、法律に背を向けて生きるのもご自由にですが、A案・E案の相違点は法的には無意味と断定してもいいでしょう。

あたしは、犠牲を強いる神々を尊重することはできても、献身を強いる社会を首肯することはできない。自身の倫理としてね。もちろん、あなたの仰るような「それが法に背くことになるのだが、」という云いについては(今のところ)弱い個人としてしか対峙できないのだけど。残念ながら。

>道徳を社会規範と考えることも可能ですから、公益の射程に道徳規準は準用できるでしょう。それとも出来ないという実例があるのでしょうか?

わたしがいくら勉強しようが何を持ち出して来ようが、それが「出来ない」という例証に関しては「法的には想定されていない」という一言で終わりでしょう。あなたの場合。

それが「出来た」という実例なら枚挙に暇がないですが、

挙国一致。富国強兵。欲しがりません勝つまでは、

アウシュヴィッツ、そして、

原爆の投下、に至るまで、ね。

>良心と道徳規準は別物です。

もちろんです。

>同じと思い込むのは結構ですが、言葉を精査されないと間違いを犯すだけですよ

同じとは書いていないよ。勝手に決め付けなさんな。あなたが「良心に従って行われる司法権」を「司法による公益性の判断」と同じにしたんでしょうが。それにあたしはそのことについてわざわざ「それでよろしいか?」と確認までしているでしょ。人の文と自分の文をよくお読みなさいよ。

>司法は自らの良心に従って職権を行う。この「良心」が「道徳規準」に近いのであって、それを「公益」に置き換えるのは、国による司法権の侵害。

繰り返しになるけど、わたしが言っているのは、あなたの「道徳規準(ちなみにこれは規範とは全く別の言葉だよ。想定範囲がかぶる部分があるというだけで)」が「公益」もしくは「良心」のどちらに近いか、ということ。わたしは、それを国会が「道徳基準」として定めて、さらには司法による「公益性の判断」にする、というあなたのそのおかしな陳述に対して「それはヘンだ」と言ってるだけ。

ヘンだと思わないんならヘンでないといえばいいだけじゃないの。みんなそれでわかってくれるよ。あなたの陳述とあたしの思い、どちらが筋が通っているのか。

だいたい司法が「公益性」についての判断をするのはその案件が「公益性」について問われている場合にのみでしょう。法律の射程ってのはそういうことでしょう。ある法案についてのその判断を求められてもいないのに司法が判断するってのは立法権の侵害でしょう。

>無意味な憲法条文を羅列されても、個人的には、何の根拠も見出せないのですが・・・

あなたには無意味で何の根拠も見出せないものかもしれませんが、わたしにはこれで十分です。なのであなたの度量に甘えることは遠慮させていただきます。

ごんさん、再び横から言うけどね・・・。

>わたしは、それを国会が「道徳基準」として定めて、さらには司法による「公益性の判断」にする、というあなたのそのおかしな陳述に対して「それはヘンだ」と言ってるだけ。

あんた、マジで勉強しなおしてから投稿しな。法の基礎知識ゼロじゃないか。
君の発言が「正」とすると、臓器移植がどうこう以前にとんでもないことが起こることぐらい、法の基礎知識を学んだ人からすれば、容易に想像がつくよ。

君が個人的な「思い」を語るのはいいけど、批判や非難は別。君は、さんざん私に指摘され、論破されてきたんだから、少しは自分の思考と感情を是正するように。これ以上やらかしたら、君はただの嘘つきにしかならなくなるよ。

冥王星氏へ

批判ってわけじゃないけど、レベルを少し落とした方がいい。(汗)
法の基礎を知らない人に対して、そういう言い方をすれば、ますます誤解を招くだけのような気が・・・。

ははは。

愚樵さん、このわくわくさんて人、ホントに面白いね。

では、みなさんに問題です。以下の(甲・乙)ふたつの文は「同じ」ものですか?

例文(甲) この「良心」が「道徳基準」に近い

例文(乙) この「良心」と「道徳規準」が同じ


答え

同じと思い込むのは結構ですが、言葉を精査されないと間違いを犯すだけですよ


もう一度、ははは。

ついでにこれもどうぞ。

『権力が「道徳」と「公益」とを置き換えるのが、ファシズムのはじまりである』

これは誰の言葉でしょうか?



ははははは。

もうひとつ、

「道徳」と「公益」このふたつを同じと思い込むのは結構ですが、言葉を精査されないと

間違いを繰り返すだけですよ


人間が何度も何度も何度も、

同じ手でやられるのは、

この悪魔の法則から逃れられない理由は、

自分はあの人たちより賢いから騙されない

もっとうまくやるさ、と、そう思ってるからだよね。

< 人々の思考をそういうふうに導いたのは、大勢が同じことについて勉強すればするほど、前の人よりわかる、という、実に単純な科学の性質によるもの。もちろん、その科学自体に罪はないのだけど >

関係の無い話はやめましょう

実社会に忙殺されて、書きかけのお返事は沢山あるのですが投稿できないでいます。お返事待ちの皆さま、ご容赦下さい。

わくわくさんと薩摩長州さんに、過去どういう経緯があるのかは存じませんが・・・

>薩摩長州さん、
議論が散逸いたしますので、別所での関係ない話を持ち込むのは止めていただくようお願いいたします。あなたが挑発しなければ、わくわくさんも反応しないと思います。

>わくわくさん、
挑発には乗らず、議論に集中してくださいますようお願いします。まー、あなたもすぐに人を挑発する癖がありますが・・・

>ごんさん、
なんでも相手に反論したいというだけの論では、何も得るものはないですよ。
例えば、早雲さんの質問への私からの答えは、移植賛否以前の問題です。それに異論を述べると、「スポーツ改造人間を認めるべき」というトンデモ主張をあなたがしていることになっちゃいます。反論したいがためだけの論展開は、ご自身の首を絞めることにしかなりません。

>皆さま
本来、この臓器移植の問題は、ドナー側、レシピアント側で反目するような問題じゃないのです。実は、誰だってどちらにもなりえる問題です。
あなたやあなたの家族が、移植でしか生きられない病気になったとき、移植を望むかもしれないと思えるなら、同時に提供する事も考えないといけない。そういう想像力を働かせて議論をしないといけない、幸い、まだどちらでもない皆さんだからこその、冷静な議論をしないといけない、と私は信じます。

にもかかわらず、一方の視点だけで、とうとう「幼児ポルノ」とまで言い出して、実に品も、想像力の欠片もなく自爆をし続ける管理人。「臓器移植に延命効果はない」などとデマ・捏造まででっち上げて反対しようとする人。私が臓器移植反対派なら、こんな連中迷惑千万でしょうね。

疑念

>それに異論を述べると、「スポーツ改造人間を認めるべき」というトンデモ主張をあなたがしていることになっちゃいます。



「異論を述べるとトンデモ主張をしてることになる、」て、どんな「風吹くと桶屋が儲かる」やねん。

あほなこと言わんとき。


>なんでも相手に反論したいというだけの論では、

>反論したいがためだけの論展開は、

時間がないと仰る割には無意味な修辞をお使いになりまんな。

なるほど、あたしが「反論したいと言うだけの論」を展開している。Looperさんはそう「思い込み」になっていらっしゃる。で、みなさんそう思ってらっしゃる。Looperさんと同じように。Looperさんがそういうふうに「思い込み」になられるのやったら、そのまま放っときゃええやん。

Looperさん時間がないんやったらそんなんいちいち二回も書くことないで。

それとも、みなさんがそういうふうに「思い込む」ように印象操作したいの?

そやないんやろ。

なあ、Looperさん、

まずは、この質問に答えてくれへんか。

=======================

あなたは絶望の淵にいらっしゃる家族にどのような言葉で、今、それが必要であることを告げるのですか?

QOL?延命?幼い命を救う?

どっちですか?

========================

でないと、それ(=家族に対して臓器提供の意思確認をするための言葉)すらも用意せんと「臓器移植」を推進してる方々がおられるのかと、

ここにいらっしゃるみなさんがお疑いになるよってな。

たのむで。

的が外れています

ごんさん、
>あなたは絶望の淵にいらっしゃる家族にどのような言葉で、今、それが必要であることを告げるのですか?

そもそもその質問が的を外しているんです。今回の改正の意味を理解していない証拠でしょう。

「必要であることを告げる」必要などそもそも誰にもありません。誰もそんなことをする必要はありません。

「臓器提供を希望しますか?しませんか?」
と、選択肢を提示するだけです。
そして、その希望に従うだけです。

こちらはなされた質問には一応お応えしているつもりですが、私がしている質問には一向にお応え頂けていません。ある方なんか、ソースの要求にすら応えていただけませんしね。

で、ごんさん、
人工呼吸器を付けておきますか?外しますか?という選択肢の提示し、家族の希望を聞くのと、「臓器移植を希望しますか?」と聞くのと、何が違うのです?

で、あなたやあなたの家族が、臓器移植でしか生きられない病気になったときでも、あなたは移植を望まないと断言できますか?

必要性

>人工呼吸器を付けておきますか?外しますか?という選択肢を提示し、家族の希望を聞くのと、「臓器移植を希望しますか?」と聞くのと、何が違うのです?

(この子の)「人工呼吸器をはずしますか」

(この子の)「臓器を摘出しますか」

Looperさんには、これが「同じ」に感じられるのですね。

どちらもつらい問いかけですが、このふたつはわたしにはまったく違います。

で、わたしはその違いをあなたにわかるように筋道立てて説明できないといけませんか。

Looperさん、

あなたには、その「必要」があるのですか。

>あなたやあなたの家族が、臓器移植でしか生きられない病気になったときでも、あなたは移植を望まないと断言できますか?

自分自身は臓器移植を望みません。

ですが、自分の子どもには望みます。

そして、自分の子どもからの臓器摘出は拒みます。


たとえ強欲だ人でなしだ悪魔だと言われようとも。

わたしは人である前に、親です。

で、Looperさんがわたしにこの質問をする意図が、

わたしにはわかりません。

Looperさんは、どのような「必要性」があって、わたしにそれを聞いたのですか。

もちろん、Looperさんがこの質問にお答えになる「必要」はございませんが。

わたしには、先のLooperさんの質問によって、ある疑念が生じました。

この質問はその疑念を払拭するためになされたものだと、申し上げておきます。

どうぞ、お考えくださいませ。

全く理解力のない人ですね。
> (この子の)「人工呼吸器をはずしますか」
> (この子の)「臓器を摘出しますか」
> Looperさんには、これが「同じ」に感じられるのですね。

そうですよ。家族に選択肢を提供し、家族の選択を尊重して従うという意味では「同じ」だと言っています。で、質問内容は、違うに決まっています。

>あなたには、その「必要」があるのですか。

あります。
家族に選択肢を提供するという意味で同じなのですから、仮に一方が認められて、一方が認められないのなら、不整合が生じるからです。

>で、Looperさんがわたしにこの質問をする意図が、 わたしにはわかりません。

すでに説明していますが、移植を希望するなら、どこかにドナー提供者が必要です。移植はして欲しいが、ドナー提供は認められないというのは、我が儘としか言いようがありませんので、非難の対象とならざるをえないでしょう。

>ですが、自分の子どもには望みます。
>そして、自分の子どもからの臓器摘出は拒みます。

真偽のほどは確認していませんが、オーストラリアが日本人の子どもの臓器移植を拒否するようになった理由が、あなたのような親の存在があったからだという噂は耳にしています。
http://johnnys.tumblr.com/post/127907794

仮にも臓器移植反対を口にするなら、あなたの子どもへの移植も拒否する態度を求められるのは当然のことです。子どもへの移植を望む=他者の子どもの臓器提供が必要という構図を理解した上で、発言することを求められるのは当然でしょう。

>たとえ強欲だ人でなしだ悪魔だと言われようとも。
>わたしは人である前に、親です。

私は、あなたのような自己中の親の子どもに対して、自分の子どもの臓器が提供されることでも承諾するでしょうね。その親の気持ちを、あなたは理解しようとすらされていない。その事だけは、厳しく指摘しておきます。

疑念はなくなりました。疑念では、

>私は、あなたのような自己中の親の子どもに対して、自分の子どもの臓器が提供されることでも承諾するでしょうね。

「自己中」

ここで語られたわたしの人間性に対しての、これが、あなたの答えですね。

>我が儘としか言いようがありませんので、非難の対象とならざるをえないでしょう。

「非難の対象にする」

それがあなたにとって「必要」なことならば、どうぞお好きなようになされてください。たとえ強欲だ人でなしだ悪魔だと言われようとも、わたしは人である前に、親です。

もちろん、Looperさんには、わたし個人の意志を尊重する「必要」はありようもないことでしょうし。

> たとえ強欲だ人でなしだ悪魔だと言われようとも、わたしは人である前に、親です。

あほか。
親だったら、臓器提供してくれる他人の子どもとその親の事も同様に想像力を働かせて考えなさい。
自分の子どもに臓器移植して欲しいという親だと思うなら、臓器提供してくれる人たちに思いを馳せなさい。
そして、受け取るだけで、他人には提供できない自分はどうなのか?真剣に悩みなさい。
それも出来ないで、移植を望む人達になにかを言える資格すらないことを自覚しなさい。
それが出来ていないから非難されても当然なのです。

親以前の人としての問題です。
もし臓器移植という医療行為に反対するなら、あなたの子どもへの移植も拒否すべきです。それが出来ないなら、あなたには反対する資格はありません。

>「自己中」
他人の善意に依存しながら、自分はそれを拒否するというのは一般的に「自己中」と言うと思いますが、あなたにその自覚はないのですか?

降臨

どうやらネ申がここにいらしたようだ。

わたしには、自身の子どもの生きる権利を奪う、そんな選択はない、

わたしの前にそんな選択肢は存在しない。

それをそういうふうに「すべき」だと仰る。


>臓器移植という医療行為に反対するなら、あなたの子どもへの移植も拒否すべきです。


全体、これが人間の言葉だろうか。




>わたしの前にそんな選択肢は存在しない。

でしたら、他人が臓器移植治療を行うのにも反対しちゃいけない。他人が臓器提供することにも反対できない。
筈です。

でなければ、あなたの子どもへの臓器提供もありえないし、当然移植治療もしてもらえなくなる事になる。その矛盾に気がつかないなら、結果的に子どもを守れなくて後悔する親にあなたがなるだけです。まー、それもあなたの自由ですがね。

間違えた

こういう宣告をするのはネ申ではないですね。

>結果的に子どもを守れなくて後悔する親にあなたがなるだけです。まー、それもあなたの自由ですがね。

やはり人間離れしてはいますが。

自覚

あたしは、

「死んだら灰にしてもらって土に還りたい(かなうなら親しい人に弔ってもらって)」

なんて願いがある

本音を言えばそうなんだけど。

で、逆の立場を考えてみたときに思い悩む。
たとえば自身の子どものために、
どうしても「体を提供してくれる方の死生観」というかその善意が必要だ、という場合、
そんな立場に置かれたら、おそらく、今、自分で考えていること、この「欲」や「わがまま」を呪うだろうな、と思う。
そして、やっぱり子どもの命を救うための手だてとして、最も可能性が高い方法
(それが臓器移植ならそれ)を選ぶのだろう。

これは「わがまま」で都合のいい考えだよね。

でもやっぱり、ここにいるこの人が死んでしまったということ、
そしてその死をどのように受け入れるか、というのは、
そのことだけは、生前の本人と、
その死を悲しみとともに受け入れねばならない者の意志に任せて欲しい、

「わがまま」でも、こちら「死の受け入れ方の自由」を優先するんだ。

| 2009-06-24 | ごん #bLNrjBuk URL [ 編集 ] | コメント番号2878 |

はあ…

なぜこんな不毛な議論になるのでしょうね…。
臓器移植に賛成とか、反対とか、わたしにはとても言えない。

「脳死は人の死」と宣告されても、それだけなら心臓の動いている我が子の人工呼吸器をはずしても良いとは断じて考えない親もいる。当然のことです。
「以後、保険は適応されません」とか、「障害者認定はできません」といわれない限りは…。

一方、子の移植を待ち望む親にとっては、提供者が現れないかと願う気持ちもわかる。これもまた当然のこと。
国内で手術ができるなら、そしてそれに保険が適用されたらと願わないわけがない。

その二つの思いが交錯する世の中の重苦しさを回避する手段などどこにもないでしょう。
どちらも親として当然の‘想い’だからです。
その両者の間に立って移植をコーディネイトするのは、本当に並大抵のことではないはずです。
提供する側とされる側、互いの心のやり取り無しにシステマティックに実行できることではないし、またするべきでもないと思うのです。

これはある意味、本当に命のやりとりに限りなく近い行為だからです。

その辺、もう少し慎重に議論することは、できないものなのでしょうか?

善良な一般

>なぜこんな不毛な議論になるのでしょうね…。

「本当に命のやりとりに限りなく近い行為」こんな大事なことを「議論したことがない・議論したくない・議論できない」人のことまで勝手に決めようとしている(決めてしまった)国会の連中が救いようのないバカだから。

>その辺、もう少し慎重に議論することは、できないものなのでしょうか?

あなたは慎重に議論できるのか?

臓器移植に反対か賛成か今すぐ答えを出せと言われたら。

そもそも不毛ではない慎重な議論ってなんだ。

>臓器移植に賛成とか、反対とか、わたしにはとても言えない。

あなたは言わなくていいんだよ。

善良な一般はいつもそうすればいい。

この回答を要求されるのは、たった今、頼りにする医療から我が子の死の宣告を受けたばかりの、

親だ。



錬成

< naokoさんは、あたしに言ってるんじゃないかもしれないし、あたしだけに言ってるんじゃないかもしれない。でも >

自分らでも答えのでないことを、弱い個人である・はかないひとつの命でしかない、その当事者だけに、押しつける。

「個人の意志を尊重する」という言葉のもとに。

俺たちはいつもそうしてきた。俺たちはいつもそうされてきた。

これからもそうするのか?


そのことについてもう少し真面目にかんがえれ。


そうしていつまでも議論しろ、泥をかぶれ、家族と、隣人と、恋人と、

それが国会でそんなことを決めさせてしまった俺たちの中の、当事者でないものの、

つとめだ。

その中から、当事者たちに寄り添い、その選択を肯定し、支えていく言葉は、紡がれていく。

想像力が必要です

>「わがまま」でも、こちら「死の受け入れ方の自由」を優先するんだ。

「わがままです。それで良いんだ。」と開き直ってどうすんです?

自分の子どもの臓器提供を拒否するあなたと、他人の子どもの臓器提供を期待するあなたは同一人物です。その「わがまま」を通すには、他人に自分が拒否する事を要求をしている事をまず自覚すべきであると言うことです。そして、あなたのような人ばかりなら、ドナーは現れないのだから、あなたの要求は決して叶えられないことも自覚すべきなのです。

「わがままだから、認められない」と言っているのではない。「わがままだ」という事を自覚すべきなのです。そして、その自覚があれば、もっとドナーへもレシピアントへも、移植治療を求める人達にも、配慮した発言ができるはず。

その他者への配慮を示さず、「はい、わがままです。親なら当たり前だ」と、開き直っていたんでは、非難されても当然です。我が子大事のその態度が、同時にご自分のお子さんの命を救う機会をも狭めているかも知れないという事への想像力が足りないと思いますね。

ごんさん

>当事者たちに寄り添い、その選択を肯定し、支えていく言葉は、紡がれていく。

残念だが、君には無理。
客観的にみれば、君は、他の誰よりも「あなたは絶望の淵にいらっしゃる家族」を侮辱している。そんな君に寄り添う人などいない。

ただ、ごんさん、心配するな。
少なくとも、君の子どもに臓器を移植してくれ、という打診はないだろう。仮にあるとしても、最後の最後だと思う。
ただし、それは同時に、君の子どもが臓器移植なしで生きられない状態になろうとも、君の子どもにわが子の臓器を移植しても良いといわれる可能性を低めているということでもあるんだが。

Looperさん、

>「わがままです。それで良いんだ。」と開き直ってどうすんです?

「開き直り」

Looperさんの質問に対して答えただけです。

Looperさんは、この場で嘘をご所望なのですか?

それに、わたしが自分の考えを「わがまま」だと評したのは、わたしがこの議論に参加する最初のコメントです。


わくわくさん、

>客観的にみれば、君は、他の誰よりも「あなたは絶望の淵にいらっしゃる家族」を侮辱している。そんな君に寄り添う人などいない。

「客観的」

ここは主観を問題にしている場です。

この場でご自分の主観を客観と騙るような無意味な論述はおやめなさい。

わたしは、

国会で「意志の確認できない脳死者は死んだと見なす」A案に賛成した議員



「意志の確認できない脳死者は死んだと見なす」ことに何の抵抗も感じないかのごとく振る舞い、既成事実化しようとするメディア

を批判しているだけです。

だから、わたしの言葉でわくわくさん自身が侮辱された、とお感じになるのなら、それは、わくわくさん自身にそういう後ろめたさがあってのことでしょうね。

「意志の確認できない脳死者は死んだと見なす」
こと

に対する違和感が。

この感覚は表明すべきだと思いますよ。

わくわくさんが誠実にこの場での議論を続けるおつもりなら。


やはり無駄のようですね

>Looperさんの質問に対して答えただけです。
なんじゃそりゃ?
返答になってませんよ。

あなたの言ってることが「開き直り」だからそう評している。質問への返答でも、そうでなくても、あなたの語主張が「開き直り」だからそう評しているのです。

ここまで見ていて、ご自分で人に質問しておいて、人からの質問には「何でそんなことを聞くんだ?」とか言ってみたり、ひたすらいちゃもんを付けるのみで、相手の主張の中身への反論は全くなさらない。私の質問にも、ほとんど答えてません。

これ以上あなたと会話を続けても、なんら中身のある議論は出来なさそうですので、そろそろスルーする対象とさせていただきます。自分のわがままを自覚し、他人の善意に感謝する立場なら議論にもなったんでしょうが、残念なことです。

無駄だな、こりゃ

ごんさん

>ここは主観を問題にしている場です。

ここを主観の問題にしている場にしようがしまいが、それは私の自由。君がそんなことをのたまう権利も資格もない。

>>客観的にみれば、君は、他の誰よりも「あなたは絶望の淵にいらっしゃる家族」を侮辱している。そんな君に寄り添う人などいない。
>この場でご自分の主観を客観と騙るような無意味な論述はおやめなさい。

まず「おやめなさい」と、君ごときが私に上から目線で話す資格も権利もない、という事実を指摘した上で。

なぜ「客観的」だと断言できるのか、君にはわからんだろうね。
少しだけ教えてあげるけど、『ごんさん、君は、「絶望の淵にいらっしゃる家族」の気持ちを代弁できるほどの経験者なのか?人格者なのか?』ということ。
君は、「絶望の淵にいらっしゃる家族の気持ち」なるものを、自分自身の思い上がりを正当化するために、自分に都合良く解釈し、そして根拠(道具)としているに過ぎないのだよ。

そして、私は『そういう「状態」』を説明している。
わかるかね?私は君の「状態」を「説明」しているのであって、「私の思い」を述べているんじゃないのだよ。
だから「客観的」と断言しているわけで、これを「主観」と言ったら、逆に嘘になるわけだ。いい加減にしなさいね。

>わたしは、国会で「意志の確認できない脳死者は死んだと見なす」A案に賛成した議員と「意志の確認できない脳死者は死んだと見なす」ことに何の抵抗も感じないかのごとく振る舞い、既成事実化しようとするメディアを批判しているだけです。

君がやっているのは「批判」じゃなよ。気に食わないから騒いでいるだけ。
「批判」するというなら、「批判対象」についても、できるだけ正しい事実認識を持ち、肯定的側面と否定的側面を分析し、その上で自分自身の見解を述べるのが道理なのであって、君は事実認識すら誤っているんだから、はっきり言って話にならない。
(ただ単に「嫌だ」と叫ぶだけならば、ここまでのことは言わないけどね。)

>だから、わたしの言葉でわくわくさん自身が侮辱された、とお感じになるのなら、それは、わくわくさん自身にそういう後ろめたさがあってのことでしょうね。

「絶望の淵にいらっしゃる家族」ではない私は、別に侮辱なんて受けていないよ。というか、侮辱の受けようがない。
第一、「そういう後ろめたさ」って具体的にどんな後ろめたさなのか、私には想像もつかない。なにせ、私はA案に賛成ではないし、臓器移植の現場に立ち会ったこともないから、「後ろめたさ」なんて持ちようがないからね。

>「意志の確認できない脳死者は死んだと見なす」こと
に対する違和感が。この感覚は表明すべきだと思いますよ。
>わくわくさんが誠実にこの場での議論を続けるおつもりなら。

『意志の確認できない脳死者は死んだと見なすことへの「違和感」を表明すること』が、なぜに議論を続けることに影響してくるわけ?
このことを「客観的」に言えないなら、君の要求は不当であり不正だよ。これが言えないなら、君は「ごんさんの主観に合わせなければ、議論を続けることができない」と言っているようなものだからね。


そもそも、ごんさん、あなたは私に何を言われているのか、それを理解できてるのかい?

naokoさん

昨日は失礼した。

今、昨日naokoさんにあてたコメントを読み返してみて、傲慢になっている自分を発見した。

ごめんなさい。

ごんさんへ

大丈夫です。

わたしとしては最大の関心事は、『脳死』と判定された場合の保険と障害認定の継続についてなのです。
「もう死んでいるのだから…」と資格失効ではたまったものではありません。

その点では、ごんさんの感覚はわたしに近いものではないかと感じていますので。

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『“ヒトクローン胚”が描く未来社会』

クローン人間に限らず、“遺伝子”操作で生物の性質を変えたり、同質的なものを再生産していくことには反対である。 別に、“遺伝子”操作やクローン技術が「神の領域」に踏み込むものだとは思っていない。 それらは、自然である人が自然の論理を利用したこざかしい技術...

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Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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