愚慫空論

幸福な死、幸福な生

報道で時折「孤独死」という言葉を目にしたり耳にしたりすることがあります。

「死」にはどうしても暗いイメージがつきまとってしまいますが、「幸福な死」というものだってあることは誰もがよく識っていることだろうと思います。熟した果実が自然に枝から落ちるように...、という表現は「死」には似つかわしくないかもしれませんが、「死」は誰にとっても必然で不可避ですから、迎えるのは「自然な形」が好ましい。「自然な死の形」は「幸福な死」のイメージと、ごく自然に結びついていきます。

「孤独死」といったとき、私に湧き上がるイメージは「不幸な死」です。ひとりで誰にも知られず死を迎えたからといってそれが不自然な死であったとは言い切れないのですが、それでも私たちは、「孤独死」の響きの中に不幸な色合いを見てしまう。「孤独死」は、死に逝く人個人としては自然なものであったかもしれなくても、私たちが識っている「幸福な死」のかたちには、どうしても一致しない部分があるのですね。「ひとりで死ぬこと」そのものが「自然な形」ではないということを私たちは識っています。「死」は自分ひとりだけのものではないではないのです。
私は
大切な人を失った辛さと一緒に
「切実に欲しかった人に、持っているのにあげなかった」という辛さも持って
ずっと生きていかなければならないのでしょうか。

これは、とあるところで出会った文章をお借りしてきたものです。もうおわかりだろうと思いますが、「持っているのに上げなかった」とは、大切な人の身体の一部分、すなわち臓器のこと。

臓器移植についての議論が当ブログでは続いています。当エントリーは、その議論へ一石を投じることを意図したものです。上の「問いかけ」についても考えてもらいたいと思うのです。

私が上の文章と出会ったときに、すぐに思い浮かんだ言葉が「セカンドレイプ」です。臓器移植が想定される「死」が「自然な形」であることは考えられません。大切な人を失いつつある悲しみの中にある人に、臓器移植の提案は追い打ちをかけるものになりかねない。まだ温かい身体が、冷たい手術台の上で切り刻まれることになるのです。その光景が直視に耐えるものだとは、私には思えません。まして「喜び」が感じられるようになるなど、どこかが壊れでもしなければなれそうにない。

私は臓器移植を「強欲」だと表現しました。この表現に違和感と怒りを感じられる方も多いようです。ですがそれでも私はこのが不適切なものとも強すぎる表現だとも思いません。

臓器移植は、提供者遺族の感情に二次的な被害をもたらすことになります。それは提供者遺族が、移植を待ち望む人の切実さを想像できる人であればあるほど、深刻なものになっていく。強欲な臓器移植の救いがたさです。



臓器移植に賛成に人は、大切な人の生命の一部が他者のなかで生き続けるのだと言います。それは事実でしょう。しかし、私の空想力は考えます。「死」にも「幸福な死」と「不幸な死」とがあるように、「生」にだって両方あるのだ、と。他者のなかで生き続ける「生」が「幸福な生」だと、どうして断定出来るのか?

臓器移植を受けた患者は、終生、免疫抑制剤なしでは生きていくことが出来ないと言います。「わたし」と「あなた」とを区別し続ける免疫の作用は、生物が「喜び」や「悲しみ」といった感情を獲得するずっと以前からもっていたもの。その免疫の作用を抑制されつつ生きながらえることが「幸福な生」であるなどとは、私の空想力の及ばぬところです。

コメント

上の問いかけをされた方へ。
そんな風に思う必要はありません。どうかそんな風に思わないで下さい。
少なくともこの場所で「強欲」に違和感と怒りを表明した人たちは、わたしも含め、誰もシステムとしてのデフォルトの強制など望んではいません。それはコメントを読んでいただければ理解していただけると思います。

「臓器移植はそれに意義を見出す人たちだけがやっていたらいい」という意見があります。
Looperさんが言うように現行法では小さな子供への臓器移植の道はシャットアウトされている。
それを「意義を見出す人の間だけでも」ドアを開けてもらえないか、ということなのです。

システムの中のドアが開いたとしたら、次は、二次的な被害が起こらないようにするのは、社会の中で生きるわれわれ自身の問題です。おれは違うけど世の中には悪意が存在する、それは確かだろうけれど、悪意を永らえさせるのもまたわれわれです。
だからこのような議論がなされ、拒否したい人がどんどん意思表示をすることは、臓器移植に賛成、反対、いずれの立場に立つ人にとっても望ましいものだと考えます。

セカンドレイプの部分について

『すぐに思い浮かんだ言葉が「セカンドレイプ」です・・・』の部分について。

これは臓器提供を受ける(た)方やそのご親族・支援者、その関係医療に従事されている方に対して、余りにも配慮が欠けている(軽率すぎる)のではないか。
仰っているところの真意はどうあれ、それらの方々は二次的「暴力」の加害者となってしまうという解釈の可能性は避けられない。

或いは提供者ご遺族、また、性暴力被害者やその支援者の方々などに対しても、逆の立場として同じかもしれません。

それともう一点、ご遺族の感情を一様に捉えていいものだろうか。
「その時」と「その後」や、社会的な認知・理解(状況によっては支援)との関係など、様々ではないでしょうか。

言っていることが矛盾してませんか?

なめぴょんさん

それを「意義を見出す人の間だけでも」ドアを開けてもらえないか、ということなのです

だからこのような議論がなされ、拒否したい人がどんどん意思表示をすること

このふたつ、おかしくないですか? 「意義を見出す人の間だけでも」というのなら、「意義を見出す人」が意思表示をすればよい。そう考えるのが筋道です。そして意思表示のない人には問わない。そうすれば「そんなふうに思う必要」などなくなるのです。

少なくともこの場所で「強欲」に違和感と怒りを表明した人たちは、わたしも含め、誰もシステムとしてのデフォルトの強制など望んではいません。


個々人の意思は強勢など望んでいないでしょう。私が首尾一貫して主張してるのは、個人の意思ではないし、「強欲」も個人の意思を指して言っていない。皆さんそこを取り違えているんです。私が問題だと言っているのは無意思の〈システム〉が「高い意志」を持っていなければできないことを標準にしてしまう、そのことが問題だと言っているのです。

Re:セカンドレイプの部分について

札幌運転所隣人さん

ご批判の意図は理解できますが...、私としては臓器移植者に少しでも批判的なニュアンスの言葉を使うと、たちまち軽率だという脊髄反射的な反応が返ってくるといった印象です。私は、唐突に「セカンドレイプ」の言葉を持ち出したのではないのです。「別の場所で行われている議論に一石を投じるため」と明示したではないですか。

それにです。レイプ、つまり強姦罪は親告罪ですよね? これをもし親告罪ではなくする、つまり警察が被害者の意志と関係なく強制捜査できるとなるとしましょう。たちまち「セカンドレイプ」批判の声が渦巻くことになると私は予想しますが、いかがです?

臓器移植は、これまではいわば「親告罪」だったのです(「」をつけた意味を斟酌してくださいね)。此度のA案は、それを「親告罪」でなくするということ。「セカンドレイプ」批判は、的外れではないと考えます。

もうひとつ、なめぴょんさんに

お尋ねします。

まだ温かい身体が、冷たい手術台の上で切り刻まれることになるのです。その光景が直視に耐えるものだとは、私には思えません。

こう言ったことは想像する必要がないことでしょうか? それともしてはいけないことなのでしょうか?

お答えします

まず、矛盾しているとは考えません。
別記事へのレスになりますが、A案を国定道徳にしないようにするのは、臓器移植に賛成、反対いずれの立場を問わず、われわれ自身の問題です。(賛成する側により多くその責任はあると考えます)
それには議論と意思表示が重要であることは理解いただけると思います。
たとえば選挙権というものがあります。これを行使しない人を責める気はありませんが、なるべく行使した方が良いということにはほとんどの方が同意されるでしょう。
なにもかも意思表示を迫られるのはイヤだ、それはファシズムへの一歩ではないかという考え方もあるでしょうし、正直なところわたしもそう思うところは大いにあります。
ですが臓器移植というものは人の心と生き方に大きくかかわるものですから、意思表示はできるだけする方がよいと考えます。
問題となるのは子供、幼児ですが、わたしはさーどさんのニケさんへのコメントに同意します。

もうひとつの問いに対して。
ご質問の意図をはかりかねます。
わたしは「ご自分を責める必要はありません」と言ったのであって、「想像する必要はない」「してはいけない」とは言っておりません。
その想像はするべきでしょう。

ズバリ、脊髄反射です。

印象も何も、ズバリ脊髄反射です。
ですので、「・・・真意はどうあれ」、「・・・解釈の可能性は避けられない」と、やたら回りくどい言い方をさせていただきました。
更には、勝手ながら記事本論で仰っている事にどうのこうの言っている訳ではありません。
(むしろ、うーん、なるほどなあ、と思っている。)

『・・・私は予想しますが、いかがです? 』

これは、私にはわからない。
そもそも、私には被害者の意思を簡単には想定出来ませんし、その障害となっているものも、殆ど知らないに等しい。
親告罪であることとセカンドレイプは、今のところ関連せざるを得ないように思いますし、“警察が被害者の意志と関係なく強制捜査できる”となると、仰る通りかもしれないし、むしろ、各論(方法論)の話しとなるかもしれない。

さて、記事本論とは反れますが、ご容赦を。
私が「配慮が欠けている」と申し上げたのは、おおむね以下のニュアンスです。

次記事の「幼児ポルノ」の部分だけ(本当に“だけ”です)についてですが、こちらで。
ここでも暴力の問題と言えるものを引き合いに出していらっしゃいますが、ここの部分、被害当事者等、深刻な立場にある方々にとっては、多いに違和感が残るのではないか。
所有を含めた完全規制を求めるのは、反民主的?
そもそもこの問題を引き合いに権力者の「強欲」を説くという行為そのものが、この問題に距離を置くことのできる立場の者の「強欲」とは言えまいか。本論と関連付けて仰りたいことの真意とは、全く別の問題として。

まず、脳死での臓器移植問題に、全く別の生体間移植の問題を同列に持ち出して論ずるのは、卑怯な議論手法であると感じます。

>大切な人を失った辛さと一緒に
>「切実に欲しかった人に、持っているのにあげなかった」という辛さも持って
>ずっと生きていかなければならないのでしょうか。

この質問には、
「残念ですが、よくあることです。多くの人は、そういう辛さを抱えて生きています。」
と、私なら答えます。

たとえ移植をしてたとしても、それで延命できたとしても、それがその人にとって幸せかどうかは分らない。その結果、移植をしたという後悔を抱えて生きる事になるかもしれない。そんなことは、誰にも分らない。
生体間移植に限らず、肉親の死を前にして、もっとああしていれば助けられたのではないか、あの時、どうして気付いてあげられなかったのか、などなど、遺族には結局救えなかった命を前にして、多くの後悔の念にさいなまれるのは、ある意味当然です。残念ですが、何も特別なことではありません。

死だけではありません。何らかの事情で、障害を残してしまった我が子に対して、それを防げなかった自分を責めて涙する親は沢山います。

多くの人は、そういう辛い後悔を抱えながら生きているのです。
私にもあります。

>臓器移植に賛成に人は、大切な人の生命の一部が他者のなかで生き続けるのだと言います。

ちなみに私は違いますよ。
大切な人はもう死んだのです。それを心から納得しているから、他の生のために活かせる(生かせるではない)のです。本当に完全なる脳死だと納得出来ない間、僅かでも治療の可能性が残っていると思っている間は、私だって絶対に移植は望まない。

生物学的にも、遅い臓器でも大体1年で全ての細胞が入れ替わり、元の細胞は無くなります。つまり、臓器移植とは、臓器の型紙や設計図を移植すると捉えた方が科学的なのかもしれません。

発言者に聞くつもりはない。

>生物学的にも、遅い臓器でも大体1年で全ての細胞が入れ替わり、元の細胞は無くなります。つまり、臓器移植とは、臓器の型紙や設計図を移植すると捉えた方が科学的なのかもしれません。

これはよくわからない。

「元の細胞は無くなります。」という説明は
「遅い臓器でも大体1年で全ての細胞が入れ替わり、」
なのですが、「入れ替わ」った細胞は“元の細胞と同じ”ものと言っているのでしたら別にいいのだけれど

入れ替わることは細胞の寿命の話なのだから、わざわざ「捉えた方が科学的なのかもしれません。」とここで発言することの目的がわからない。

まさか元の細胞は、新しい細胞に入れ代わった後は、元の細胞の遺伝子情報などもって居なくて、移植された本人の細胞となってしまうということですか?
つまり同化のようなことかな?

私は移植された細胞は決して本人の細胞となるなんてことは「無い」と思ってましたのでね。
でなければ免疫抑制など遅くとも「大体1年」で必要が無くなる。
これはありがたい話だなあと感心したのですが、私は本人に聞きたくないのでどなたか居ませんか?説明してくださる方は。

これは「移植された方の身体で、あなたの臓器は生き続ける」との話と違って、そうではなくて「大体1年」で提供者の臓器は無くなってしまうと考えられることになる。

そしてそれはあらたな「カニバリズム」批判が出てくるのを懸念する。

遺伝子は設計図

補足が必要な方がいるようなので・・・

遺伝子は細胞の設計図です(厳密にはそれ以外もあるが・・・)。

ドナーの臓器は、その遺伝子情報に従い、新しい細胞を作り、元の細胞は死にます。そして、ドナーの臓器を構成していた細胞も、その細胞を構成していた分子も、約一年以内で新しい物と全て入れ替わります。引き継がれていくのは、設計図である遺伝子配列(ただし、遺伝子を作っている物質は入れ替わっている)です。

で、免疫抑制剤が必要なのは、細胞がドナーと同じ設計図で作られ続けるので、当然、レシピエントの免疫細胞が反応する物質も、同様に作り続けます。
だから、いくら細胞や細胞を構成する物質が、ドナーの物は何一つ無くなってしまったとしても、免疫細胞に反応する物質を作る遺伝子情報(設計図)が引き継がれている限り、免疫抑制剤が要らなくはならないのです。

以上のように、臓器の設計図を移植という表現は、いちいち突っ込まれるほど間違っていないと思いますね。

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