愚慫空論

「選択の限界」~好き嫌い

理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 (講談社現代新書)理性の限界
不可能性・不確定性・不完全性

高橋 昌一郎
『理性の限界』という新書本があります。

『理性の限界』というタイトルも堅いですが、副題の「不可能性・不確定性・不完全性」なんてのも堅い。目次を覗いてみますと、

序章:理性の限界とは何か
第1章:選択の限界
第2章:科学の限界
第3章:知識の限界


という感じで、これまた堅い。実際にページを開いていきますと、中身は架空の人物たちによる対談形式になっていて、柔らかくするように工夫が為されているのですが、それでも読み進めていくと、やっぱり堅いのですね。なかなか前へは進まない。

『理性の限界』で紹介されている内容は、どれもこれも重要なことなのですけれども、でも、この無味乾燥ともいうべき「堅さ」は、あまり好きになれないというのが正直なところです。この「堅さ」をバリバリ噛み砕いていくには、かなり特殊な才能――ふつう、それを“アタマガイイ”とか言いますが――が必要みたいです。

さて、当エントリーではアタマノヨクナイ愚樵が噛み砕けもしない「堅さ」を取り扱おうという試みですけれども、もとより噛み砕けないのですから、取り扱い方は自ずと限られてきます。すなわち、「堅さ」をペロッと舐めてみて、思いっきり「好き嫌い」で語ってみようというわけです(笑)


さて、取り扱うのは、ブログタイトルで示したように『理性の限界』のなかでも「選択の限界」ですが、この中には、以前少し触れたことのある「アロウの不可能性定理」というものも出てきます。このあたりの内容は、「投票のパラドックス」と呼ばれているもので、「コンドルセのパラドックス」とか他にも専門用語がいろいろと出てきたりするのですが、そこらはあっさりパスして、いきなり章の最後へと飛びます。

こんな具合です。
会社員 ・・・
 もしここに手榴弾が投げ込まれて、誰かが抱え込まなければ全員が死んでしまう場合、実際どうしますか? 率先して、手榴弾を抱える人はいるんでしょうか?
数理経済学者 その場合、「集団的合理性」は、誰かが犠牲になって抱えるよう命じますが、「個人的合理性」は自分以外の誰かが抱えることを命じます。囚人のジレンマから社会的チキンゲームに至る議論の根底にあるのが、この2つの合理性の衝突なのです。
この「堅い」数理経済学者のお答は実に理性的・論理的な「味付け」で正しいのでしょうけれども、この「味」は味気なくて私は嫌いです(笑)。この「味」を食べ続けることは、とてもじゃないが私には無理。
哲学史家 そのような極限状況においては、もはや合理性よりも人間性が試されているのでしょうな。
 古代ギリシャ時代の哲学者カルネアデスが、当時の船の遭難事件について述べています。海に投げ出された男が漂流していると、一枚の船板が流れていたので掴まろうとしました。ところが、ちょうどそこに別の男が流されてきて、同じように舟板に掴まろうとする・・・・・・。しかし、二人が掴まると、舟板も一緒に沈んでしまうのです。
映像評論家 それに類した極限状況は、これまでにも無数の映画に描かれていますね。
 たとえば、1997年の映画『タイタニック』では、主演のレオナルド・ディカプリオが、愛するケイト・ウィンスレットを舟板に乗せて、自分は・・・・・・。
哲学史家の話は数理経済学者の話よりも好きですが、映像評論家の話はもっと好き。哲学史家の「味」は例えれば、噛み締めればかすかによい味のする堅焼きパンみないなものかな? 数理経済学者ほどではないにしても、食べ続けるのはちょっと辛い。対して映像評論家は甘酸っぱい果物のような味で、食べやすい。でも、食べ続けると胸焼けがしそうではある。
司会者 映画の話はともかく、現実の事件では、どうなったのでしょうか?
哲学史家 「カルネデアスの舟板」の話では、2人の男が舟板をめぐって命がけで殴り合い、負けた男は溺死し、勝った男は舟板に乗って助かったわけです。その後、この男は殺人罪に問われて裁判にかけられましたが、その結果、無罪になりました。
法律学者 法的には「緊急避難」ですな。すなわち、自己の危難を避けるために、やむをえず他者の権利を侵害する行動に対しては、その違法性が阻却されるわけです。その事件ならば、仮に現在において生じたとしても、ほとんどの国の法律で無罪判決が下されるでしょう・・・・・・。
・・・・・・・。 ここの哲学史家の話は、嫌な「味」がします。法律学者の話も苦い。

というわけで、口直しに
ロマン主義者 そんな極限状況の問題を頭で考えたって、結論が出るはずがないじゃないか! ルソーの言うように、「考える人間は堕落した動物」なんだよ。このへんでこの話は終わりにして、冷えたビールでも飲むべきじゃないかね?




好き嫌いは色々ありますが、ここでは「カルネデアスの舟板」と『タイタニック』に的を絞りましょう。で、この2つ、どちらが好きか? 私は『タイタニック』だと答えましたが、大方の人も同じだろうと予想します。「カルネデアスの舟板」は苦くて、『タイタニック』は甘い。みんな甘いのが好きなんです。だから、この手の話は何度も文学やなんかに取り上げられる。

けれども、甘ければそれでいいかというと、当然のことながら違うわけです。法律学者が言うとおり、「カルネアデスの舟板」から生還した男は現在では、無罪です。苦いけれども無罪です。

彼は罪を犯さなかったわけではない。ひとりの人間を殺している。「苦さ」はここに由来します。でも、違法性には問えない。違法性に問うことが出来れば「苦さ」を洗い流すことができるでしょうが、それはしてはいけないことなんですね。

この「苦さ」は、他に例をあげると「疑わしきは罰せず」もそうです。ある容疑者が限りなくクロのように思えても、国家権力がクロであることを立証できなければ容疑者の利益となる。これもまた苦い。しかしこの「苦さ」が民主主義という〈システム〉の「味」なんだと私は思うわけです。

民主主義が「苦さ」に耐えることを忘れて「甘さ」を追い求めるとどうなるか? 人間だって「甘さ」ばかり追い求めると、メタボになって、やがては身体のいろいろなところに不具合が現れるようになる。民主主義でいうと、軽傷のメタボはポピュリズムでしょうが、重傷になるとファシズムです。ファシズムにまで症状が進行すると「感情の錬金術」という症状まで現れます。これは「甘さ」を追い求めるあまり感覚が麻痺して、本来「苦い」はずのものまで「甘い」と錯覚してしまう症状です。

『タイタニック』のヒーローのような自己犠牲は「甘い味」がします。この「甘さ」は、道徳といったものが求めるものでもある。無味乾燥な表現でいうと「集団的合理性」と「合理的個人性」が矛盾したときに、「集団的合理性」を個人が自分の意志で優先することです。この場合、自己犠牲を選択した個人にとってその選択は究極に「苦い」ものですが、それ以外の集団にとっては「甘い」。そしてその集団が、「強欲」に「甘さ」を追求し始めると起こるのが――かつての日本を例に取ると「靖国」です。

「靖国」を支えたのは、「甘さ」を追い求めた大衆でした。確かに「靖国」は仕掛けられたものであったかもしれないが、大衆が易々と仕掛けに乗ったのは、それがとても「甘い味」がしたからと考えるのが筋が通っていると思う。そして、「強欲」な「甘さ」追求が進行して変調を来すようになると、「苦さ」が「甘さ」に変質する。つまり、自己犠牲を強いられる「苦さ」が、進んで身を捧げる「甘さ」にすり替えられていく。もうこうなると“病膏肓に入る”、病状の進行は手の施しようがなくなってしまいます。

このようにならないためには、民主主義は「苦さ」が基本だということをよく知っておかなければならない、ということです。人は「甘さ」が大好きです。「甘さ」は生命力の味でもある。対して「理性」の味は「苦くて堅い」。「苦さ」だけでは人は生きていくことが辛いというのも、これまた真理だと思います。

締めは月並みになってしまいますが、“苦さを識って、甘さを楽しむ”といったところでしょうか? つまり「自在」です。好きだからとって「甘さ」ばかりを追い求めるのは「強欲」であり、身体にも良くないばかりか民主主義にも重大な病をもたらすのです。

と、まあ、本日はこのくらいで。

コメント

なるほどね~

愚樵さん、こんにちは。

「苦さ」と「甘さ」…、とても良く解りました。…たぶん(^^ゞ

そして錬金術の「甘さ」を知ってしまうと、術が解けて「甘さ」が消えてしまう事に恐怖感さえ覚えるのではないか?と言うことも考えました。
その恐怖感を否定するため、なきものにするため、人類は永きにわたり戦争を重ねてきたのでしょうね…

私自身もいつも自戒していないと、スグに錬金術に騙されそうです。(>_<)

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ä???????礦

市場への投網

 私の知り合いで、経営の研究者や水産物流通業者がいる。  その人たちと最近出会い、色々語り合った。  当然、研究者たちは実際に商売をしている人たちの状況を聞きたがる。  水産物を扱う業者:最近の漁民は大変だよ。採れるかどうか分からないのに投網をし、採れな

「選択の限界」から、構造主義からトランス・モダンまでを説明してみる。

 次の愚樵氏のブログに、 「選択の限界」~好き嫌い 2009-06-25 次のような問題が出ています。  会社員 ・・・  もしここに手榴弾が投げ込まれて、誰かが抱え込まなければ全員が死んでしまう場合、実際どうしますか? 率先して、手榴弾を抱える人はいるん...

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