愚慫空論

「私」でも「あなた」でもないものになる

要するに「死」です。死んでしまうと、「私」でも「あなた」でもないものになる。ただのモノになる。

これはなにも「私」とか「あなた」とかいう意識の問題のことを指しているわけではありません。脳死になっても、アルツハイマーが進行して自分で自分が分からなくなっても、はたまた精神が分裂して多重人格になってしまっても、身体は「私」は「私」。「あなた」は「あなた」です。

そもそも、「私」という意識には「私」が何かよく分かりません。「私」とは一体何なのでしょう? 「私」は「私」である意思を持っているから「私」なのでしょうか? では、母子の区別もつかなかった赤子の頃の「私」は「私」ではなかったのでしょうか? また「私」は「私でない」という意思を持つことが可能なのでしょうか? 

身体はそんな疑問を持つことはありません。ひたすら「私」と「あなた」を、自己と非自己とを区別します。

ただし、植物はわかりません。接ぎ木といったことしたりしますから、植物には動物のような自己と非自己の厳格な区別はないのかもしれない。また原始的な単細胞生物などもわかりません。しかし、動物といわれる存在では、自己と非自己を区別する能力こそが生命だと言ってしまってよいのではないか。そしてその能力は、生命が意識などという自己認識能力を持つずっと以前から備わっているものです。

今、脳死が人の死か否か、議論されています。脳が死ねば生き物としての人も死ぬ。当たり前の話です。けれども、現在は医療技術の進歩で、脳が死んでも身体は人工的に生かしておくことができるようになった。

脳死の人に取り付けられている生命維持装置を外すと、その人はいずれ死にます。だからといって、脳死は人の死なのか? 「いずれ死ぬ」ということと「今、ここで死んでいる」ということは、時間が経過すればやがて同じ状態になるとはいっても、大きく異なります。

「一時間後に間違いなく死ぬから、今、殺しても同じ」。 犯罪を犯す意志でもあるならともかく、通常、こんな論理を振り回す人はいないでしょう。

今ここに脳の機能が停止してしまって、やがて死にゆく人がいるとします。もちろん「死にゆく人」は「死んでいる人」ではありません。その身体はいまだ「私」と「あなた」の区別、自己と非自己の区別を続けている。すなわち、生き続けている。脳が機能を停止して、意識が「私」が「私」であることを認識出来なくても、身体は「私」が「私」であることを確認し続けている。

身体は、脳の機能の発露である意識が「私」を認識するよりずっと以前から「私」と「あなた」とを区別しています。また脳が「私」を認識出来なくなっても、身体は「私」を認識し続けている。これが正しいのなら、そして「私」でも「あなた」でもないものになることが「死」であるとするなら、脳に「死」を定める権利などないことになる。しかし脳死の概念は、「死」を定める権利を身体から奪うもの。

人間の肥大した脳は「強欲」な臓器です。胃や腸なら、食べられるだけ食べれば満足する。脳が求めるのは快感ですが、この臓器は満足ということを知らない。「支配の快感」を追い求めて倦むことを知らない。自分の身体を支配し、他者を支配し、モノの世界も支配し、生命の仕組みをも支配しようと目論んでいる。そしてついには自分の「死」までをも支配しようとしているのです。

コメント

人の行き着く先

>そしてついには自分の「死」までをも支配しようとしているのです。

それが可能ならばそうするでしょう。
人類と動物を隔絶した力とは、想像を現実にする力に他なりません。人間には思ったことを実現する力があるから人間なのです。

死を克服するというテーマは文学や科学で繰り返し想起されてきました。ならばなぜそれを目指すことが悪いのでしょうか?
それが不可能かどうか確定するまでは、それを目指す権利と義務が人間にはあるのです。

コメ欄TBですみません

相変わらずFC2にはTBが通りませんので、コメ欄にて失礼します。

「臓器移植のための脳死規定」…そも、“生”がよいってのは自明なの?
http://dr-stonefly.at.webry.info/200906/article_9.html

こんにちは。

愚樵さん、こんなコメントはどうかといわれそうですが
ここで毒多さんのTBを読みに行き、私もひとつエントリを上げてしまいました。

こちらが最初のきっかけなので、まことに勝手ながらTBをさせていただきました。

宜しくお願いいたします。<(_ _)>

こんにちは

臓器移植法案に絡んで考えなければならない問題が非常に多いので、そうそう簡単に見解を出すことができるトピックではないと感じ、少々途方に暮れている今日この頃です。 (^_^;)
そういう意味で、この問題は「不可能かつ不可避」問題。

純粋に僕の立ち位置から考えれば、愚樵さんがここで書かれている、
【身体はそんな疑問を持つことはありません。ひたすら「私」と「あなた」を、自己と非自己とを区別します。】
これが一番大事なところだとは思っています。
提供する側も、受ける側も。

KYさん

死を克服するというテーマは文学や科学で繰り返し想起されてきました。ならばなぜそれを目指すことが悪いのでしょうか?

それだけなら、悪いとはちっとも思いません。けれども私たちはすでに、「死を克服する」ことが「それだけではない」ことを知っているのではないですか? その2つを考え合わせることが求められているのだと私は考えます。

簡単な空想で、もし不老不死の薬が開発されたとしましょうか。人間は誰でも自分の好きな時点で不老不死の薬を飲んで永遠の若さを保つことができる、とします。

今の私たちに容易に想像がつくのは、死に逝く者がいない人類文明を地球環境が支えきれるのか? という疑問です。まず、無理でしょう。そう考えれば

それが不可能かどうか確定するまでは、それを目指す権利と義務が人間にはあるのです。

なんてことは簡単には言い切れない。私たちが住む世界は有限なんです。私たちの「強欲」な権利と義務を目指すうちに、私たちを支える環境が滅びてしまってはなんにもならない。私たちはすでに「それだけではない」ことも考えるべきところに来てしまっているのです。

*******

アキラさん

純粋に僕の立ち位置から考えれば、愚樵さんがここで書かれている、
【身体はそんな疑問を持つことはありません。ひたすら「私」と「あなた」を、自己と非自己とを区別します。】
これが一番大事なところだとは思っています。


アキラさんならそうだろうと、勝手に想像していました(笑)

そういう意味で、この問題は「不可能かつ不可避」問題。

「近代」の縮図のような問題だな、と思ってます。

環境限界

不老不死を実現するほどにも科学技術が発達したならば、資源問題ごとき克服できないわけはないと思いますが、まあそれはそれとして。

>私たちが住む世界は有限

<有限>の限界はしばしば更新されてきました。私たちは地下の資源を掘り出し科学技術を使って自然を酷使しその人口を増してきました。

明治5年の日本の人口は3480万です。これが2006年になると1億2700万人になります。
この巨大な9000万人もの差は何かと言えば、食料輸入と化石燃料・化学肥料による食糧増産の結果です。さて、これが<環境を維持し持続可能なレベル>の中にあるでしょうか?あるわけがありません。

人類の数はとうの昔に<環境の限界>を超えています。しかし日本で、「カーボンニュートラルを実現するために9000万人餓死させます!」などと宣言する政府が現れたとして、いったい誰がそれを支持するでしょう?

いくら<強欲>であろうが、私たちはもう<先に進む>しかないのです。<自然に帰る>ことはもはやできないのですから。

エコロジカル・フットプリント

というのをご存じないですか?

いくら<強欲>であろうが、私たちはもう<先に進む>しかないのです。<自然に帰る>ことはもはやできないのですから。

いや、ごめんなさい。そのパラダイムはもう古いと「決めつけ」させていただきます。

確かに時計に針は元を元に戻すことは出来ない。歴史は一方通行です。しかしその歴史も、直線的なものだとイメージするか、螺旋を描きながら上昇するものだとイメージするかでかなり在り方が違いますね。

これまで流布されてきた直線的歴史イメージが「強欲」を気づかなくさせていたのだと私は思いますし、そのイメージは古いパラダイムと共にあったとも思います。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/265-bfefd4af

臓器移植について

「生きてるだけで丸儲け!!」って言われたりしますが、生きることが良いことかどうかはさておき、「死んじまっちゃあ、オシマイよ!!」とも聞きます。 生きていることに意味を見出す人もいます。が、意味なんかなくっても生きていることを望む人もいます。私は後者の「意...

臓器移植は患者を救わない?

臓器移植に関して当ブログでは 生きたまま臓器摘出:中国での臓器移植  臓器移植医療と「脳死」判定 治療費を理由に臓器提供を要請 命を金儲けの道具としたアメリカ 臓器移植法改正の動き で臓器移植と脳死判定に纏わる問題を取り上げてきました。 ここまでの記事では被

「人体を有効利用」するための「脳死」

慢性的?「脳死」  の続編です。 「脳の機能の中でも、考える働きや自己意識や記憶が大事である」と考えている人は、「脳 の不可逆的機能停止」と言うと「昏睡患者は脳死と同じなんだ」という考えになりかねません。 いわゆる植物状態であっても、これはもう死体同然

海外渡航をして臓器移植

私は臓器移植医療に全面的に反対しているわけではありません。が、世界の臓器移植関係者はどう思っているのかと思うことがあります。たとえば私は、海外に渡航して他国の臓器提供者からの臓器移植医療を受けて帰ってくることに不快感はありません。仕方の無いことだ、国内...

ルドルフ・シェーンハイマー 機械でない生命 

日本では100万人以毎年死ぬが、『脳死』はこれまでの死の三兆候の心臓死に至るプロセスで、ごく稀(年間数千例)に起こる現象で、誰にでも必ず起こる話では有りません。 (心臓死なら全ての人が最期にはそうなる) この話には何とも違和感を感じざるを得ない。 『以...

臓器移植改正案(A案)の実施は戦争が出来る国づくりへの第一歩...

臓器移植改正案(A案)とは「ある人の死」によって「ある別の人の生」を確保するものである。ある人の死によって成立する医療行為とはずいぶんとおぞましい行為ではないか。冷静に考えれば、ずいぶんとおぞましく下品であり、真っ当な人間ならこの案には反対するのではな...

医術の進歩(野口先生語録)& 臓器移植のこととか

☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ 人間の体が健康を保つような構造になっている。それを呼びおこすのに、外科医で手術して切りとっても、それが治るのは体の中の力なのです。 ばんそうこうを貼って、つないでも、ぬっても傷口が治ったのではなくて、その体の力で....

今夜から考えを変える。

考えをどのように変えるのかは、ここに追記として書いていく。ではまた。 追記:2009/6/26 ふたつ前(?)のエントリを書くきっかけとなったのは、愚樵さんの「「私」でも「あなた」でもないものになる」へのdr.stonefly さんのコメントからだった。そこに貼り

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード