愚慫空論

「いのちは闇の中のまたたく光だ!」

闇の中を瞬く光 これ、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』のクライマックスのカットです。あ、これはよく知られている映画ではなくて、マンガの方です。マンガの『ナウシカ』は、ご存知の方にはいうまでもないことでしょうけど、そこに盛り込まれた中身は映画を遙かに凌ぐものです。

風の谷のナウシカ 7
風の谷のナウシカ 7

宮崎 駿


なぜ唐突に『ナウシカ』なのかは後で触れることにしまして、ご存じない方のために簡単に紹介しておきます。

極限まで発達した人類文明が「火の七日間」と呼ばれる最終戦争を引き起こした結果滅亡し、瘴気(有毒ガス)が充満する「腐海」と呼ばれる菌類の森や獰猛な蟲(むし)が発生した。それから千年余り、拡大を続ける腐海に脅かされながら、わずかに残った人類は、古の文明の遺物を発掘して利用しつつ生きていた。

腐海のほとりにある辺境の小国「風の谷」は、大国トルメキアの戦乱に巻き込まれる。風の谷の族長ジルの娘であるナウシカは、運命に翻弄されながらさまざまな人びとと出会い、自分自身と世界の運命、太古より繰り返されて来た人の営みに向き合い、大国と小国、そして腐海と人類との共生の道を探っていく。

以上、wikipediaにある『風の谷のナウシカ』のあらすじの記述です。「腐海と人類との共生の道を探っていく」と書いてありますが、これがなかなかに大層な話になりまして、物語の最終局面で、すべては予め仕組まれていたことが明らかになります。仕組んでいたのは「火の七日間」を引き起こした旧世界の科学者たち。上のカットでナウシカが応えていた相手、それは「墓の主」として物語の登場しますが、その主が仕組んだ首謀者です。で、何を仕組んでいたのかといいますと、「火の七日間」で汚染された星を浄化するための腐海、そして腐海と共に生きている蟲たちや人類も含め、あらゆるものが仕組まれていた、という話になるのです。

青文字は「墓の主」。赤文字はナウシカ。)

「・・・・・・・どの真実をだね?」
「あの時代 どれほどの憎悪と絶望が世界をみたしていたかを想像したことがあるかな?」
「数百億の人間が生き残るためにどんなことでもする世界だ」
「有毒の大気 凶暴な太陽光 枯渇した大地 次々と生まれる新しい病気 おびただしい死」
「ありとあらゆる宗教 ありとあらゆる正義 ありとあらゆる利害 調停のために神までつくってしまった」
「とるべき道はいくつもなかったのだよ」
「時間がなかった 私たちはすべてを未来へたくすことにした・・・・・・」
「これは旧世界のための墓標であり 同時に新しい世界への希望なのだ」
「正常な世界が回復したとき 汚染に適応した人間を元にもどす技術もここに記されてある」
「交代はゆるやかに行われるはずだ 永い浄化の時はすぎ去り 人類はおだやかな種族として新たな世界の一部となるだろう」
「私たちの知性も技術も役目をおえて 人間にとってもっとも大切なのは音楽と詩になろう」

「神というわけだ お前は千年の昔沢山つくられた神の中のひとつなんだ」
「そして千年の間に肉腫と汚物だらけになってしまった」
「絶望の時代に理想と使命感からお前がつくられたことは疑わない」
「その人たちはなぜ気づかなかったのだろう 清浄と汚濁こそ生命だということに」
「苦しみや悲劇やおろかさは正常な世界でもなくなりはしない それは人間の一部だから・・・・・・」
「だからこそ苦界にあっても喜びやかがやきももまたあるのに」
「あわれなヒドラ お前だっていきものなのに」
「浄化の神としてつくられたために 生きるとは何か知ることもなく 最もみにくい者になってしまった」

「お前にはみだらな闇のにおいがする」
「多少の問題の発生は予測の内にある」
「私は暗黒の中に唯一残された光だ」
「娘よ、お前は再生の努力を放棄して 人類を亡びるのにまかせるというのか?」

「その問いはこっけいだ 私たちは腐海と共に生きてきたのだ」
「亡びは私たちのくらしのすでに一部になっている」

「種としての人間についていっているのだ 生まれる子はますます少なく 石化の業病からも逃れられぬ」
「お前たちに未来はない」
「人類はわたしなしには亡びる」
「お前たちはその朝をむかえることはできない」

「それはこの星がきめること・・・・・・」

「虚無だ!! それは虚無だ!!」

「王蟲のいたわりと友愛は虚無の深淵から生まれた」

「お前は危険な闇だ 生命は光だ!!」

「ちがう いのちは闇の中のまたたく光だ!!」





さて、こんなものを持ち出して何を語りたいのかといいますと、「靖国」です。実はこのエントリーは、dr.stoneflyさんのところでの対話の続きなのです。アチラのコメント欄でお答えするには長すぎるので、コチラでエントリーを立ててのお答えというわけです。

「対話」の舞台はここ。

『「高橋哲哉リターンズ」(1)…vs福沢諭吉』(dr.stoneflyの戯れ言)

靖国問題 (ちくま新書)靖国問題
(ちくま新書)

高橋 哲哉
ここでの「対話」の概略をざっと述べてみますと、まず、dr.stoneflyさんの記事に「靖国」を指して「感情の錬金術」と呼んだ高橋哲哉の言葉がありました。 それに対して私は、「靖国」にも「一塊の真理」もあるのだと言った。その「一塊の真理」とは端的には「生命力」であり、「闇の中のまたたくいのち」である――という具合に当エントリーに繋がってくるわけです。

「靖国」が「感情の錬金術」であるということは、つまりは「靖国」は仕組まれたものであるということです。そのことは私も明らかだと思います。『ナウシカ』のストーリーにたとえれば、「靖国」は腐海のような存在、すなわち「仕組まれた闇」なのです。

『ナウシカ』では「仕組まれた闇」は「仕組まれた光」のためのものでもあった。最終場面でそのことは明らかになる。もしかしたら「靖国」を仕組んだ者たちもそんなふうに考えていたのかもしれませんし、今でもそうした考えを持つ者も一部にはいるようです。しかし、「光」であろうが「闇」であろうが、ナウシカの眼からみれば大切なのはそんなことではありません。「仕組まれたもの」は、それがたとえ希望から生み出されたものであろうと、「生きる」ということの意味を見失ってしまえば醜い汚物に堕してしまうのです。
蓮の花
私は「靖国」が希望から生まれたのだと思っています。遙かに進んだ技術を持った西洋列強と対峙していかねばならぬとと目的と覚悟を定めたとき、「靖国」はその目的を支える「希望の闇」だったのだと思う。そして実際に「靖国」 という「闇」のなかで「またたいたいのち」も数多くあったのです。

私が見据えなければならないと思うのは、「またたくいのち」です。そして見極めなければならないと思うのは、それが「光」か「闇」なのかといった判断ではなくて、「仕組み」の特性です。「仕組み」とは〈システム〉と言い換えても良いでしょう。「目的」をもった「仕組み」は必ず腐臭を放つようになります。「目的」を「闇」のために設定する人間もいるかもしれませんが、多くの「目的」は「光」のためであり希望のはず。しかし「目的」が「闇」か「光」かなど関係ない。「闇の中のまたたくいのち」を取りこぼす「仕組み」は、その「目的」が「闇」であろうが「光」であろうが必ず腐臭を放つ。その腐臭が「強欲」なのです。

『それもまた「強欲」なのではないだろうか?』(愚樵空論)



長くなりついでに、dr.stoneflyさんの問いかけにここでお答えしておきます。

>「ワープアのデモ」にしても、「生きさせろ行政闘争」にしても、「戦力を強大にしよう」にしても、「他民族排除」にしても、「敵国基地先制攻撃」にしても、はたまた「脳死、内臓移植」にしても、生命力ゆえのものと違いますか?
『「高橋哲哉リターンズ」(1)…vs福沢諭吉』(dr.stoneflyの戯れ言)のコメント欄より)

そうです。すべて生命力ゆえにです。ここに列記されたことはすべてその「目的」が「光」にあることは否定できないと思います。見極めるべきは、それが「強欲」に陥っていないのか、ということなのだろうと思います。すなわち「仕組み」〈システム〉となって「闇の中のまたたくいのち」を取りこぼしていないのか、というところです。

「戦力を強大にしよう」も「他民族排除」も、この堂々巡りの中に陥ってしまっていることは明らかでしょう。「脳死、臓器移植」も事の性質は少し異なりますが、堂々巡りという意味では同じ。また「ワープアのデモ」も「生きさせろ行政闘争」も、ワープアや新自由主義といった「闇」のなかでまたたくいのちというところを超えて、階級闘争、プロレタリアート独裁といった「目的」を持ったときは、同じく堂々巡りの中に陥るでしょう。

私たちが住む有限の世界では、なんらかの「目的」をもった「仕組み」〈システム〉を組み上げたとき、その「目的」が組み上げた者には「光」であっても、他者にとっては「闇」となってしまうことが不可避です。「闇」はいのちをまたたかせ、いのちのまたたちは「光」を生み出しますが、その「光」を「目的」とすると「仕組み」〈システム〉を作るとまた「闇」を生む。そうして「光」と「闇」は堂々巡りを繰り返すことになってしまいます。

この堂々巡りから抜け出すには、「仕組み」〈システム〉そのものから抜け出すか、もしくは「目的」を持たない「仕組み」〈システム〉を組み上げるほか選択肢はないだろうと私は考えています。

そのどちらも鍵は自然でしょう。「仕組み」〈システム〉を抜け出したとき、私たちが対峙しなければならないのは剥き出しの自然です。あるいは「目的」を持たない「仕組み」〈システム〉といえば、それは自然以外に私たちの周囲には存在していない。「目的」を持たない「仕組み」〈システム〉の手本は自然以外にありえないのです。

「目的」を持たない「仕組み」〈システム〉とは、別の表現の仕方をすれば「底が抜けた〈システム〉」「底のない〈システム〉」になります。「仕組み」〈システム〉が「目的」をもつことなく相対化されることで、〈生活世界〉は個人という「底」によって支えられることになる。〈システム〉に頼らずに〈生活世界〉を支える個人とは「常に加害者意識をもつエリート」です。この「エリート」はおそらくニーチェが示した「超人」に近い存在でしょう。

ツァラトゥストラはこう言った 上 岩波文庫 青 639-2ツァラトゥストラはこう言った

ニーチェ

コメント

混沌

わざわざエントリーしていただき恐縮です。
「またたく命」=光は闇がなければ確認できないのだろうか、光を確認するためにわざわざ闇を作り出さなければならないのか? それは違うだろう、とか、
誰かが光るとき、必ず闇は作り出されるのか?or現れるのか? など、次々に疑問は沸いてきます。

>「目的」を持たない「仕組み」〈システム〉の手本は自然以外にありえないのです。

つまり人間はやはり自然ではないのか?
自然でありたいと考えたとき、はじめて生きることができるのか? つまり、臓器移植は、本来的「生」ではない?……とか、、、

生命力、つまり「生」が真理であれば、「死」もまた真理なんだろうなぁ、とか……。

混沌としています。
せっかくTB頂いたのですが、いつレスできるか解らないので、とりあえず混沌のまま失礼。

ごめんなさい

dr.stoneflyさん、ごめんなさい。このエントリーにはさぞやコメントしづらいものがあったと思います。いささか飛ばしすぎてしまいましたねσ(^o^;

私だってこうした話は混沌として整理がついているわけではないのですが、逆にそれでいいのだとも思っているところがあって。つまり、無理矢理整合性をつけなくっても良いだろう、それが「生きる」ということだろう、なんてね。

人間は平等ではないのでしょう。
墓の主は、ナウシカを否定してはいけなかった。
強いもの賢いものは、弱いもの愚かなものを許さなければならない。
墓の主が光であるなら、闇をもまた包み込まなければならなかった。
それが出来なかったところを、墓の主もまた弱者であり闇であったと私は考える。

人間は闇です。あまりに愚かであり、すぐに弱い者いじめを始めてしまう。滅びるべきなのかもしれない。そうかもしれない。
それでいいと思う。人類は滅びていいと思う。私は許したい、人類の自殺を。
そして、私は自分にできる限りの力で滅びを止めたい。
愚かであり滅ぶことを認める、しかし私「が」できる範囲のことでこの滅びを抑える。

最初に子どもが殺された時、私はその報復に等価な暴力を行使したいと考えた。闇のために人類を管理したいと。強者を謀殺するのはさらなる強者の権利だと。
しかしこれは、墓の主と同じです。
私は自分が強者だと知っていたから、なりたくても弱者になれないと知ったから、金輪際「異議申し立て」も「悲鳴」もあげないと決めた。
強者は光は、弱者を闇をシステマティックに駆逐する。そういう<機能>だからそうする。そうやってきた。
だから噛み付かれたい。反撃されたい。呪われたい憎まれたい。弱者に、怨嗟の言葉をぶつけられたい。その義務が私にはある筈だ。

早く出て来い、ナウシカ。私はあなたを許し殺され共存する。そこに平等が生まれる。

闇の中にまたたく光

>この堂々巡りから抜け出すには

「堂々巡りから抜け出したい」という欲望そのものがすでに「醜悪なもの」なのではないかと、思うのです。

「墓の主」は絶望の時代に堂々巡りから抜け出すために作られた希望でした。しかし生きるということは堂々巡りを繰り返すことをあきらめないことそのものだから、「またたく光」なのではないでしょうか?

「幾多の者たちが祈りもないままにうち捨てられた世界」においても「小さき友の死に涙する」ことが「生きる」ことなのです。
堂々巡りを恐れる必要はありません。堂々巡りに飽きて「近道を探す」ことをこそ恐れるべきです。

混乱と絶望は恐るるに値しません。それは生命の本質だからです。死に瀕してそれを乗り越える経験こそ、生命を進化させてきた原動力なのですから。

血塗れの手

私たち人…否、あらゆる命は私たちが想像以上に血塗れだと気づきました。 草食の生き物は植物の、肉食の生き物は草食の生き物の、植物は死んだ肉食の生き物の命を糧にして生きている。                                       意識しても無くても、虫など足元の小さな生き物を殺している。 虚無が出てきたらあの台詞を言うでしょうね。                                  お前達そこは割れていて、手足は血塗れで汚れている。と…

7年ぶりの客人です

はじめまして。
「ナウシカ」漫画版は私も愛読しており、たまにネットの海に隠されたこちらのような「庭園」を訪れたりもしております笑。

ですので、あのクライマックスをいろんな方がそれそれの視点と立場から考察されているのをこれまで読んできました。
が、まさか靖國神社の存在と意義の正当化論拠として、ナウシカと墓所の主の対話を引き合いに出される方がいらっしゃるとは。いや、「ネットは広大だわ」。

若い頃それなりの理論書もかじった「心情的左翼」である私としては、墓所の心臓部でナウシカ(=宮崎氏)が披瀝したことばの数々には「マルクス主義的弁証法」に基づくと思しき世界観も多分に含まれている——と一読して感じたものですが…。
まったく、「左」から「右」までこぞって思い入れを持って論じようとする本作の懐の深さに、感慨を新たにせざるをえません。

特に反論じみた物言いをするつもりはありませんが、ひとつだけ。
靖國神社と相通ずるものを「ナウシカ」から見出すとすれば、私は「土鬼僧会」であり「墓所そのもの」ではなかろうかと愚考いたします。
それでは。

7年ぶりの客人です_2

ブログ主さん

連続投稿で失礼いたします。

>靖國神社の存在と意義の正当化論拠
>「左」から「右」まで

このあたりの私の発言(というか挑発的態度)は、ブログ主さんを「右の人」と考えた早とちりによる、礼を失した決め付けでしたね。
あなたは「保守」ではいらっしゃるようですが「ネット右翼」の類とは一線を画した方であることを、遅まきながら理解いたしました。
今さらではございますが、わたくしの非礼を謹んでお詫び申し上げます。

ではあるのですが——仮に「思考実験」であったとしても、本エントリであなたが提示された靖國観に対して感じた私の違和感に変わりはありません。
よって、前コメントの骨子となる部分については特に「撤回」のようなことはいたしません。

何卒ご理解いただけますようお願い申し上げます。

ブラウさん、ようこそ。

え~と、ぼくを保守とご認識のようですが、、、(^_^;)
どっちかというと、左です。
左から一周して右を向いているけど。
というか、アナーキストです。

>靖國神社と相通ずるものを「ナウシカ」から見出すとすれば、私は「土鬼僧会」であり「墓所そのもの」ではなかろうか

ぼくは墓所と靖国とを、共に「仕込まれたもの」として語ったつもりなんですけど。
それも善意によって仕込まれたもの。

違和感を持たれて表明していただくのは歓迎です。
でも、互いに共通項を見いだせたら、もっと嬉しいと感じます。

正常ではなく清浄では?

漫画からの引用のセリフ、正常ではなく清浄が正しいのではないかと思います。全くニュアンスが違うので、確認お願いします

・通りすがりさん

ご指摘、痛み入ります。
さっそく修正をしておきます。

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