愚慫空論

諸刃の剣

dr.stoneflyさんが怒っておられます。

『「ピアニスト辻井君へのインタビュー」…怒りを止めることができない』(dr.stoneflyの戯れ言)
生まれつき全盲のあのピアニストにむかって、

一度だけ見ることができたら何をみたいですか?
ピアニスト辻井君はご存知でしょうが、念のため紹介しておきます。動画です。

『ピアノで優勝の辻井伸行 全盲でも「心の目で見ているので満足」』

件の質問も最後の方に出てきます。 dr.stoneflyさんの怒りとは裏腹に、辻井君はにこやかに質問に答えています。また、この動画だけを見ると、dr.stoneflyさんがなぜ怒り狂っているのかは理解しづらいかもしれませんね。記者の質問に好意的な様子で答える辻井君しか映っていないので。



私も「一度だけ見ることができたら・・・」の質問にはdr.stoneflyさんと同じく好感を持ちません。こんな質問を発する記者と、それを堂々と放映するTV局の感性を疑う。しかし、ここが難しいところですが、辻井君は怒っていない。彼は怒っていないのに、dr.stoneflyさんは怒っている。では、辻井君も怒るべきだったのでしょうか? いや、そうとは言えないでしょう。彼には怒る自由もにこやかに答える自由もある。そして辻井君はにこやかに答える方を選んだ。ならばdr.stoneflyさんの怒りがおかしい? 質問を向けられた島の辻井君は怒っていないにもかかわらず、第三者が怒っている。これはおかしいか? それもそうとは言えないでしょう。dr.stoneflyさんにだって怒りを表明する自由と権利はあるでしょう。

このあたりのことを私は以前にエントリーとしてあげたことがあります。

『「文脈」と卑怯・人格攻撃のフレーム』(愚樵空論)

このとき取り上げたのは小向美奈子というアイドル(?)で、彼女に向かって発した記者の言葉を卑怯だと断じましたが、その判断の基準になったのは記者と非取材者の間の「非対称性」でした。辻井君に対する質問にも同じです。「非対称性」がある。つまり、辻井君は一方的に誠実な答えを要求されたと言うわけです。目の見えない人に「もし見えたら?」などと問うのは、相手の内面を抉ることに他ならない。記者と非取材者との間に互いに互いの内面に踏み込み踏み込まれるような関係性が成立しているのなら一方的ではないでしょうが、そんな関係が成立しているとは思えない。にもかかわらず、記者は平気で辻井君の内面に踏み込んでいく。

一方的な要求に誠実に答えるか否かはもちろん辻井君の自由ではあります。それは彼自身の度量の問題です。しかし、だからといって記者が当然のごとく振り回す「非対称性」を看過してよいかというと、それは別問題でしょう。たまたま度量の広い人によって事後的に許可されたからといって、赤の他人である記者が他者の内面を自由に踏み込むことができる権利を持ったことにはならないし、まして他者の内面を勝手に公にする権利を手にしているわけではない。件の記者とTV局にはそうした自覚は全くないように見受けられますが、この自覚の無さへの大しゃん者のを怒りは正当なものでしょう。記者も私たち自身と同じく辻井君にとっては第三者でしかない。それがいつの間にか、記者は自分は単なる第三者ではないと思い込んでいる。この思い込みは思い上がりです。



さらに続けます。

問題はメディアの特権意識に留まりません。そこで留めてしまっては問題を矮小化することになる。「一度だけ見ることができたら・・・」という質問の背景には、もっと大きな「非対称性」が潜んでいます。それは〔見ることができる者〕と〔見ることが出来ない者〕の「非対称性」、もっと正確に言うと、〔見ることができる者の幸福〕と〔見ることが出来ない者の不幸〕の「非対称性」です。

辻井君が全盲であるということは紛れもない事実で、そのことは誰にも否定しようがありません。彼は他の人間と比較したとき、機能に障害がある。この事実も明らかに非対称ではありますが、事実が幸福や不幸をもたらすわけではない。幸福や不幸は、その事実をどう解釈するかにかかっている。言うまでもないことでしょう。

となると、〔見ることができる者〕と〔見ることが出来ない者〕の事実としての「非対称性」が、〔見ることができる者の幸福〕と〔見ることが出来ない者の不幸〕の「非対称性」に変化するとき、そこには客観的ならざる「事実の解釈」がある。それは見えることが幸福であり、見えないことが不幸とする「解釈」です。件の質問が問題のなのは、この「解釈」を辻井君に押しつけたことにある。つまり言外に“あなたは不幸です”と指摘したことになるのですね。

この記者の発言が、辻井君の不幸を埋めようとする意志があってものであるなら、会見で辻井君は「嫁さん」のことに言及していましたが、もし件の女性記者が彼の伴侶にでもなる意志があってのことなら、この“あなたは不幸です”発言は正当なでしょう。しかし、記者にそんな意志があるはずもなく、記者にとっての辻井君は第三者でしかないはずです。関係のない第三者が“あなたは不幸です”と決めつける。この「非対称性」は甚だ不当なもので、この不当性に気が付かないようでは、記者として以前にひとりの人間として問題があると感じてしまいます。



ただ、この「非対称性」への感受性の鈍さの問題は、ひとりこの記者だけの問題ではありません。“自分が当たり前だと思っていることは、相手も当たり前だと思っているだろう”という思い込みは、誰もが持っている「思い上がり」です。この「思い上がり」を思い上がりと常に意識している者がどれほどいるか? そう問うと、問う私自身も含めて心許ありません。そうした「思い上がり」がないと断言できる自信などまったくありません。

そう考えれば、不当な質問をした記者を不当だと批判する資格は誰にあるのか? という疑問にも繋がっていきます。答えは、「誰にもない」か「誰にでもある」のどちらかでしょう。人間は、この2つのどちらかを自分の意志で選ぶしかない。

私が選ぶのはもちろん、後者です。ただ、こちらを選らぶ際には注意が必要でしょう。他人に向ける「思い上がり」批判の刃は、自分にも向けられなければならないということ。つまり、批判は諸刃の剣だということです。そこを忘れて片刃になってしまうと「非対称性」への批判が飛んできて、卑怯だといわれてしまうことになるのです。

コメント

はじめまして

いつも読ませて頂いている者ですが
今回思い切って、初めてコメントさせていただきます。

私もこの場面を見ていましたが、
ただただ辻井さんの、伸びやかな「健やかさ」に
心打たれて、怒りは全く感じませんでした。
彼は快く質問に答えていたように見えましたし
私も、質問者の言葉に悪意は感じ取れませんでした。

自分を健常者の立場に置いて、
こんな質問をしたらきっと(相手が)傷つくのではないか…
と思うことは、たぶん思いやりの一つだと思います。

でも、辻井さんに対しては、そんな危惧が不要と感じさせる
しなやかな強さを感じます。

dr.stoneflyさんの優しさも、辻井さんの健やかさ(優しさ)も
どちらも、私にはとても好ましく映りました。

まとまらないコメントで、申し訳ありません。

情報の遮断と代替品。

この話は、『優しさとか、思いやり』とかに解釈して『怒り』が生まれた例ですね。
しかしこの例は、遭難者や残された遺族に現在の感想(心境)を語らせる何時もの(数限りなくある)下世話なマスコミの延長線の話ですよ。

この話は、別の意味で興味を惹かれました。
果して、生まれつきの光を知らない全盲者に『見る』という言葉の意味が正確に理解できているのだろうか。?
全盲者は最大の光源である太陽が暖かいので、光(見ること)を暖かさと感じる(考える)そうです。
彼は見ることの代用品である『触る事』で親の顔を知っている。
そして親の顔は温かい。
ですから今回の答えが、『富士山の雄大な景観』とか『点滅する蛍の光』とか『海の水平線』にはならずに、普通の健常者にとってはありふれた『親の顔』になるのは有る意味で当然でもあったわけです。
全盲者は人間の最大の情報源である視覚情報を得る事が出来ない。
一般人にとっては一番正確で有ると思われている『見ること』が出来ないので、其の他の情報源でそれを補っている。
其の結果『其の他の情報源』の力が発達し、今回世界一にもなれた。

何か教訓的な話ですが、誰でもが全盲者(情報が遮断されている人)なら自動的に音楽的才能のような『遮断された情報』以外の能力が高いわけではない。
しかし能力を高めることは出来るし、みんな有る程度は努力するだろう。
そしてハンディを克服して普通の健常者以上の人も今回の様にたまには現れる。
しかし皆がそうなれる訳ではなく、音楽でも例えば楽譜が読めないので余程の努力が無い限り健常者には勝てない。
このことは、全ての人に当てはまりますよ。
我々が知っていると思っている情報は、果して全ての情報なのだろうか。?
日本に生まれた若者も、北朝鮮に生まれた若者も同じ様に、生まれた時からの与えられた情報が全ての情報量である。
それなら、それが世界全部だと思ってしまうだろう。
しかし年寄りは其れ以前には、まったく別の世界が有った事を覚えているし経験している。
持っている情報量に超えることの出来ない格差が出来るのは致し方ないことですね。

北朝鮮市民は情報が遮断だれているので『一方的な宣伝に騙されている何も知らない愚か者の集団』と日本のマスコミでは描かれているが、確かにそのように人々も当然いるだろう。
しかし(旧東欧やソ連の例を見ると)普通の市民は『政府マスコミの公式報道は、報道ではなく広報である』事実を良く知っている。
この様な(情報が遮断されている)場合には、それ以外の情報を取り入れる能力が格段に進歩するものです。
此れが其の後の改革解放に繋がった。
対して日本では政府広報までが正しい情報であるとされているしマスコミ情報を疑うものなど誰もいない。
『情報が遮断されているかもしれない』などとは思ったことさえない市民が大勢いる。
宣伝・広報と正しい情報の違いが理解できていない人が多い分、情報操作には簡単に嵌る危険性は北朝鮮よりも大きいと言わざるを得ない。

TB感謝

愚礁さん、エントリーまで挙げて頂いてありがとう。
今では、自分とこのエントリーに頂いた皆さんのコメントのお陰で、すっかり「怒り」がなくなり、いまでは件のインタビュアまで許容しようとする精神状態にまで達しています(笑)。もちろん愚礁さんにも感謝してます。

今回のワタシの怒りは、〔見ることができる者〕と〔見ることが出来ない者〕それぞれの世界のなかで、〔見ることができる者〕の世界のなかの怒りだと知りました。
辻井くんの大らかな応えは〔見ることができる者〕と〔見ることが出来ない者〕の両方を含む世界という認識できている者の応え、なんだろうと、今は思っています。

今回、怒りを表明したことの(ワタシのなかでは無意識だったのですが)「諸刃の剣」としての確認は、あの怒りのエントリーを重度知的障害者K君の母であるtomokoさんのブログへTBを送ったことです。(今のところレスはありませんが……)。ワタシの深層心理は、おそらく「ワタシの怒り」を否定して欲しかった、と思っていたのでしょう。

テレ朝だと思いますが、辻井さんのお父さんへのインタービューの中で、お父さんがしみじみと「1日でも目が見えたら、お母さんの顔を見てみたい」と辻井さんが話したエピソードを語っていました。それを知っていたから、かの質問者はあの質問をしたと思いますよ。

勘違いのヒューマニズム

記者の質問は、普通ならば「これ以上ない惨い質問」であり、怒りの念を禁じえないものであることは疑いない。
しかし、今回に関しては、記者やテレビに怒りを覚えた方は猛省してもらいたい。

「1番は両親の顔。あとは星や海、花火が見てみたい。でも、今は心の 目で見ているので十分満足しています」と笑顔を見せた。

この言葉を聞いて、記者の質問に怒りを覚えるのは、辻井さんに対する侮辱ですらある。

あなたが目の前にしている人は、「ハンデを抱えているのに、優勝を勝ち取った」なんていうレベルの人ではありません。
紛れもなく、「われわれが尊敬すべき若者」であり、「日本が生んだ、私たちが誇るべきピアニスト」です。それ以外に彼を語る言葉はありませんし、彼自身、それ以外に感じていることはないでしょう。

間違っているのは、辻井さんを「全盲のピアニスト」という前提で彼を見ること。
つまり、記者についてわれわれが抱くべき感情と思考は、『あの記者、辻井さんの偉大さを感じることができないんだな。』という憐れみです。それ以外に抱く感情はありません。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/261-c0283dcc

1945年の虚像

ベルリンの壁の崩壊。 世界地図から「西ドイツ」「東ドイツ」が消えた。 民族分裂の悲劇を学んでから数年も経たないうちの、「きっと、この...

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード