愚慫空論

コメントに代えて

当エントリーは、dr.stonefly さんのエントリー「SIDS? 子どもが殺される」…そしてどう生きるか』へのコメントに代えてアップするものです。
続きをクリックされる方は、その前に
dr.stoneflyのところへどうぞ。 dr.stonefly さん、こんにちは。コメントに代えて、当エントリーをアップします。とてもコメント欄に書ききれそうにないので。

 実は、dr.stonefly さんのこのエントリーを読んだ直後は、コメントを差し上げるのはやめておこうと思いました。何も書きたくなかったのです。
でも、「何も書きたくない」ということは伝えたいと思った。だから次に考えたのは、コメント欄に「...」か「沈黙」とでも書いて、その気分を表そうかと思いました。
この辺はブログという伝達手段の限界ですね。何も発信しないと、何も感じていないのと同じ。顔を見合わすことができれば、言葉はなくても何かを感じているということは伝わるのでしょうけど...
けれど、しばらく考えて、このエントリーを書くことにしました。「沈黙」に比べると、とても饒舌なものになりそうですけど、お許しください。

dr.stonefly さんはとうにご存知のことと思いますが、私は、“彼女が乗り越えたであろう「何か」”にとても関心があります。私がブログを書こう思う源泉はいくつかありますが、そうしたものへの関心はその大きな部分を占めています。

それにしても、その「何か」とは何なのでしょうか? 人はそれぞれに違った人生を歩み、違った経験をします。そうしてそれぞれ違った経験から、それぞれに違った「何か」を越えてきます。では、人それぞれの「何か」は、みなバラバラで共有不可能なものなのでしょうか?
そうではないと私は思います。もちろん100%共有することなど不可能ですが、けれど、まったく共有できないということもない。「何か」とはそのようなものだと思います。

そして、この「何か」は言い表すことがとても難しい。だから dr.stonefly さんも「何か」という表現の仕方をしているのでしょうけれど、この「何か」は饒舌に言い表そうとすればするほど、うまく言い表せなくなる。そのものズバリを衝くこともできなければ、遠まわしに周囲から埋めていこうとしても、いつの間にか蒸発してしまっている。そんな性質を備えています。(ですから、「沈黙」しようかと思ったんですけど)
ところがもし、彼女が復讐の権化と化していたなら、その「何か」は「何か」などと曖昧なものではなく、そのものスバリの表現となったでしょう。「子供を失った悲しみ」。「子供を殺された怒り」。これらの表現は明確な輪郭をもってダイレクトに周囲に者に届き、多くの共感を得られることでしょう。けれど、ここにはうまく言い表せないけれど、「何か」が欠けてしまっている。そう思わずにはいられません。

おそらくは、この「何か」は、この国においても少し前までは多くの人に共有されていたのではないでしょうか。現在は明らかに、明確でダイレクトな表現以外は共有されにく時代です。けれど、少し前まではそうではなかったように思います。
第二次世界大戦やそれ以前の戦争では、多くの人が死んでいきました。残された者たちが乗り越えてきた「何か」。こちらの「何か」が彼女の「何か」と同じだと断言はできません。また戦没遺族たちの「何か」がみな同じかどうかもわかりません。それを同じだと断言するこのは靖国に繋がっていく道かもしれません。思うに、同じだなどと「断言」する必要などなく、それはかえって危険なことで、ほんの少しでも共有できるということがわかりさえすればそれでよい。

そんな「何か」を共有する力が、今の日本には失われつつあるのではないでしょうか。そして、生きる希望を与え合うのではなく、奪い合っている。そんな風に思うのです。

コメント

当方へのコメント

 愚樵さん
 当方のブログへのコメント有難う御座います。
 長い間、放置してしまって失礼しました。返事は当方に書きましたのでご批判を宜しくお願い致します。
 これからも長いお付き合いを。

TB感謝。

愚樵さん、こんばんはTB感謝です。
 もし拙ブログのコメント欄に「・・・」とか「沈黙」とか書かれた日には、ワタシは揉んどりうって苦悩していたことだと思います。また拙ブログのコメント欄ではSIDSについての言及が盛んにされていますが、内心そちらがメインではなかった。痒いとこに手が届くようなTBに本当に感謝。
 で、「何か」が何か、なんてワタシには解りません。いや思うことはあるのですが、それが正しいかどうかは解りません。またまた愚樵さんが「沈黙」と書こうとした理由など、絶対に解りませんでした(笑)。

 最近池田晶子の本をよんでいて考えることが多くあります。
 そのなかに「ボクたちは生きていく」というような表現があります。この「ボクたち」の「たち」がポイントのようです。まず「体」と「心」が別であることを考え、「心」について「ワタシは私」ではなく、「私はあなた」であり「あなたは私」でもある、みたいなロジックが展開されるのですが、頭の悪いワタシにはどういうことか解りません。
 ただ、理論より肌感覚を得意とするワタシには、当該エントリーに登場する彼女がのりこえた「何か」(何であるかは解らないのだけど)を感じることができたことで、それは彼女だけの「何か」ではなく、ワタシにとっての「何か」でもある、と感じることができたきがします。
 「感情」を共有し、同情したり、反感をもったりというといった表層のレベルではなく、もっと根源的な「何か」です。
 彼女の体が消滅した子どもは生きていると感じる、生きて彼女と共に表現している。その彼女はワタシとともに生きている。「何か」を共有して生きている。と、感じるのです。さらに多くの人と「何か」を共有したくブログに書きました。「根源的な何か」は共有されるものとしてある。気がします。

 ただ、その「何か」が戦前、戦後とかこの国という括りで、表せるものかどうかはワタシには解りません。ワタシが感じている「何か」とは、強いているなら「『善く生きよう』とする何か」なのかもしれません。「善く生きる何か」であれば、靖国には繋がらないような気がします。

 分かりにくコメントですみません。

morichanさん

いえいえ、失礼でもなんでもありません。この程度の期間で「長期間」なら、私はどうなってしまうのか...

今後とも、よろしくお願いします。

dr.stoneflyさん

いえ、決してわかりにくいコメントではないと思います。少なくとも私には。

そうですよね、SIDSの話は前フリですよね。そんなことは皆さん承知だと思うのですが...。何か」というような曖昧なことは、確かに語り辛いですからね。

「ボクたち」の「たち」がポイントというお話、よくわかるような気がします。「自己」なんだと思います、たぶん。「たち」=「自己」。自分自身の肉体に宿る「自我」と他の個体に宿る「他我」との「関係性」が「自己」なんです、きっと。

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