愚慫空論

民主主義と紆余曲折

「民主主義とは、我々のような能力の劣る者達が大勢集まって色々迷いながら時間をかけて紆余曲折して行う無駄な制度なのですよ。 」

これは『新しい選挙制度の提案』にいただいた逝きし世の面影さんコメントの一部。この言葉は全く正しいと思います。ただ私は、この言葉は正しいと思いながらも、これでは足りないものもあると思っています。『政治家を増やせ』のエントリーも、それから『新しい選挙制度の提案』も、この「足りない部分」への認識から出発している。今回はそこのところに的を絞りたいと思います。


では、「足りない部分」とは何なのか? それは「紆余曲折」を行う場についてです。その「紆余曲折」をどこで行うのか? それが問題なのだと思うのです。

同じく『新しい選挙制度の提案』にいただいたわくわくさんコメント議員の質は、選挙民の質に比例するとあります。この指摘と「紆余曲折」とを結びつけて考えれば、「紆余曲折」が限定された場で行われるときに、議員の質の低下が起こるのではないか、と考えられるのです。つまり、選ばれた議会のみが「紆余曲折」の場になってしまったときに、まず「紆余曲折」の質の低下が起こり、そして議員の質の低下が起こる。議員の質が低下が先なのか紆余曲折の質の低下が先なのかは判断がつかないけれども、紆余曲折の質と議員の質とは比例関係あるのは間違いなさそうです。

ところで、いうまでもないことですが、民主主義という制度は、主権者である国民全体が「紆余曲折」することが大前提です。すなわち民主主義の本当のかたちは直接民主制にある。「紆余曲折」の場がそのまま生活空間であるような直接民主制です。

忘れられた日本人 (岩波文庫)忘れられた日本人

宮本 常一
私は幾度となく取り上げていますけれども、宮本常一の『忘れられた日本人』には、生活空間=「紆余曲折」の場である〔寄合い〕と呼ばれた直接民主制の形が描かれています。日本の文化と伝統の中には、もともとから民主主義の要素、それも西欧文明が模範とする古代ギリシアのポリスでの民主制のあり方よりもずっと純粋な民主制の形が、ほんの200年くらい前まで息づいていた。日本人はそのことをすっかり忘れてしまっていて、民主主義といえば西欧が先進だと思い込んでしまって、〔寄合い〕というと程度の低い談合くらいにしかイメージしない傾向が強い。しかしそれは明治維新以降にすり込まれた誤った印象でしかありません。

ただもちろん、〔寄合い〕が機能していたのは国家よりもずっと小さな共同体です。共同体の規模が大きくなるに従って「紆余曲折」が機能することが難しくなり、それゆえに民主主義の形態は直接民主制から代議士制へ移行していくことになる。これは情報伝達の物理的限界によるものだと言っていいでしょう。しかし、直接民主制から代議士制へと移行したからといって、「紆余曲折」の場が議会だけに限定されるような事態になると、「紆余曲折」の質の低下がおき、議員の質の低下が 起きる。そうして民主主義は衆愚政治に陥っていくのだろうと思うのです。

そう考えてきますと、物理的限界から代議士制度を採用せずにいられない現代の民主主義が採るべき方向性も見えてきます。まとめてみますと、

1.「紆余曲折」は議会の場を超えて、国全体に及ばなければならないこと。
2.議会は、国全体の「紆余曲折」をリードする良質の「紆余曲折」の場でなければならないこと。
3.政治家は「紆余曲折」を主導する者でなければならないこと。
4.「紆余曲折」には多大なコストを要することを覚悟すべきこと。

このまとめに従って『議員定数は削減すべき』の主張を改めて整理しますと、

多数の議員は民意の反映にはなるが、それは「紆余曲折」を得ない民意の反映となりやすく、結果、「紆余曲折」の場は議会に限定され、「紆余曲折」と議員の質の低下を招きやすい。

となります。議会が良質な「紆余曲折」の場になり国全体の「紆余曲折」をリードするようになるには、単に民意の反映ではなく、ある程度は「紆余曲折」を経た民意の反映でなければならない。「紆余曲折」とは言い換えれば意見の集約なのですから、ある程度数は絞り込まれるということになり、そうしますと議員の数は増加よりも減少という方向性になるのです。

『政治家を増やせ』についても改めて整理しますと、落選した者も政治家として認め国全体で活動を助成せよと主張するのは、落選政治家には上記3.の役割を議会外の場で担うことを期待するからです。

『新しい選挙制度の提案』も同様です。これは一見、有権者の「紆余曲折」を集約させずに多様化させる、つまり有権者の多様な要求を有権者個人内で「紆余曲折」させずに多様なまま意志を反映させる制度のように見えます。そうなると票の数が増えるだけで結果は衆愚政治となってしまい、またそうなる可能性がないわけでないのですが、私自身は国家の中にあるさまざまな問題を、有権者個人がまず意識することが「紆余曲折」のスタートラインになると考え、期待しています。多様な問題に曲がりなりにでも答えを出すことを要求する制度では、個人はどうしても多様な問題を意識せざるを得ないでしょうし、意識をすれば多かれ少なかれ「紆余曲折」は始まるでしょう。もし、多様な要求のまま「紆余曲折」が始まらないならば、もはや民主主義には意味がないことになる。民主主義はひとり一人への「紆余曲折」への「期待」があってこそのはずです。この「期待」を保持できないのなら、民主主義を支持することがそもそも矛盾です。

それに、「紆余曲折」は個人で答えを答えを出すべきものでもなく、また個人で出したとしてもどうなるものでもない。答えは全体で出さなければならず、そのための「紆余曲折」であり民主主義であり、良質な「紆余曲折」であり質の高い議員なのです。これらのことは必ずしも「議員定数」の問題に直接結びつくものではありませんが、結果としては定数は削減される方向へ進んでいくものと考えます。

コメント

国家権力の集中

愚樵さん。
最初に断定的に『議員縮小』を前提条件として先に言い出した手前、『無理やりの結論』を出していませんか。?
確かに今の与党自民党の世襲議員なんかを見ていれば『議員は少ない方が良い』とは、誰でも思います。
私も『あんな議員は少なければ少ないほど良い』とそう思う。
与野党逆転の参議院の捩れ国会になって少しは事情が変わりましたが、今までは、法案は十分に審議されずトコロテン式に議会を通過するだけ。
しかも政党(政権与党)が党議拘束をかけているので、法案の成否の行方は上程された段階で既に決着が付いている。
これでは(議員が多くても少なくても関係なく)マトモに審議するはずも無い。
其れで愚樵さんの政党よりも個人だとか、党議拘束の問題だとかの論が出ていたが、そもそもこの原因と結果とをはきちがえている。
其れは結果ではあるが、原因ではない。

西欧型民主主義の基本は三権分立で有り、其の中でも国民の直接選挙で選ばれる立法府(国会)が国権の最高機関であるとされていますが、実体との間に大きな乖離が生まれている。
国権の最高機関なら、国会議員は最高機関の一員のはずで其の議長(河野洋平衆議院議長)が最高権力者、最高責任者のはずですよね。
ところが日本では国会議長なんかは2流のポストですよ。
勿論最高権力者は総理大臣たる麻生太郎で、議院内閣制では議会過半数の与党総裁も兼務している。
国会独自(立法府議員)に自主的にが提出する外国とは違い、法案の全てではないが殆んどの法案は政府(行政府)提出となっている。
しかも政府提出法案は、政府や与党の事前審査に通たものだけであるし其れには党議拘束をかけるのが常である。
そして日本では与党議員(立法府)に対して外国では考えられないくらいに極めて強い拘束力のある『党議拘束』で行動を自由に操っているので、行政府は実質的に三権の内の二権を掌握している。
残りの司法権も最高裁判事や最高裁長官の人事権を行政府が握っているために自分に都合の良い人物を配置することによって実質的に三権を全て押さえている。
権力は腐敗するが、絶対権力は絶対腐敗するのは道理です。

日本の問題点ですが、議員の数などの枝葉末節な事ではなく、矢張り民主主義の基本の基本にに立ち返って、三権分立の最初のところから始めるべきではないでしょうか。

最初に断定的に『議員縮小』を前提条件として先に言い出した手前、『無理やりの結論』を出していませんか?

面影さん、これは違います。私が最初に断定的に言ったのは『政治家を増やせ』です。この時点では、まだ「議員が多過ぎる」は漠然とした“感じ”でした。それが断定的になったのは、村野瀬さんの「定数削減は民意削減」の意見を受けてのこと。村野瀬さんの意見は政党が前提だろう、指摘したのが『議員定数は削減すべき』というエントリーです。このエントリーについては村野瀬さんから内容とタイトルが違うとお叱りを受けましたが(苦笑)。

そして、議員定数の問題を脇に置いて考えたのが『新しい選挙制度の提案』です。ここではこう記してありまして、

議員定数は、各委員会が各々必要とする分だけを積み上げますから現在よりも多くなる可能性も少なくなる可能性もありますが、「定数削減は民意削減」といった論理で語られることはなくなるだろうと思われます。議員の専門性が増していけば、民意を汲み上げるのは議員の数よりも情報収集のあり方という方向性へおのずから変わっていくでしょう。

今回と結論は同じです。

ところが日本では国会議長なんかは2流のポストですよ。

「」付きの「名誉職」ですよね ホント、どうしようもない...(泣笑)

三権分立の基本に立ち返れとの意見は賛成ですが、どの国においても行政の肥大化は避けられない現象です。これは近代国家の宿命というものでしょう。〔行政が肥大化する=官僚組織が力を持つ〕ですが、日本の問題点は力を持った行政組織の中で力を持っているのが専門職ではなくて、行政組織を行政する総合職に力が集中してしまうことです。ここを解体しないと、いくら三権分立を唱えたところで実効性は低いと思われます。

そこを解決するには、ひとつは面影さんも仰っているように、地方分権を推し進めることです。そしてもうひとつは議会の専門性を高めることでしょう。議員定数の問題は、その専門性が要求するところに従って定めればよい。これが現時点での結論ですね。その結論から、議員の数は現在より少なくて済むだろうと思っている。これはまたしても“感じ”です。

代議員制度の限界

これ程直接選挙で選ばれたはずの議員が、選挙民の意思とかけ離れ行動をすれば『誰でも議員何か少なければ少ないほど良い』的な考えかが芽生えます。
しかしこの考え方はみすみす、産経新聞などの行っている悪質な反民主主義的議員削減キャンペーンに連動してしまうでしょう。
そして産経など右翼マスコミの議員削減運動は一定の効果を上げており地方議員なんかは半減していますよ。
その結果はどうなったでしょう。
単に住民の意見が通りにくくなったとか議員の質が低下しただけのマイナス面だけでプラス面はほんの僅かの経費の削減です。
産経のキャンペーンは公務員バッシング(公務員の削減)と対になった一つのもので新自由主義的な小さい政府を指向している。
『議員削減の民意』とはまさにプロパガンダにより『作られた民意』ですよ
議員は多ければ多いほど民意は反映されやすい。
少なければ其れだけ住民代表は少なくなる。

以前の記事『政治家を増やせ』の趣旨は、一言で言うと(表現を変えてみると)直接民主制ですね。
本来、住民みんなが政治家になるべきです。(直接民主制)これが本来の民主主義の姿で、今の代議制は次善の策で、最善であるとは到底いえない民主主義の紛い物です。
何故なら日本国に住む限り、誰であれ政治の影響を受けずに生活するわけには行かない。
好き嫌いとは別に住民は、すべからく政治家であるべきでしょう。
それなら直接民主制ですよ。
例えば私にも愚樵さんにも其の他誰にでも、直接民主制なら(国会審議の)一票の権利がある。



専門性が求められるのは立法府の議員よりも行政府の長ですよ。
例えば外国では、農水大臣なら農業大学とか獣医学科卒業の資格が必要だが、日本は何でもかんでも東大法学部卒が最良と看做されているが、法務省以外は法学部なんて外国では過疎の専門職ですよ。
法学なんてものは今ある法律(変わらないもの)で生きている(変わる)モノを判断するという不思議な学問です。
決まった事を守る役人(官僚)なら法学部卒でも何とか間に合うかも知れないが、変化する世界を考える事が仕事の政治家にとっては一番役に立たない学問ですね。

興味深い話ですね

ちょっと前にテレビで「サンマリノ共和国 」のことをやっていた。

驚いたね。
「元首は2名の執政で、任期は6ヶ月である。」
6ヶ月交代!

「サンマリノの政治(サンマリノのせいじ)は、憲法に基づいて統治される。」ウィキ

憲法で統治って当たり前なんだが、それが日本のように憲法無視が当たり前の国民から見ると新鮮です。(笑)

「立法機関は一院制の大評議会である。定数は60、任期は5年で、行政区を単位とする9選挙区から比例代表制で選出される。」
人口比で多いのか少ないのか?
日本では棄権する人が多いので単純比較も出来ない。

ちょっと「へえ~」と思ったのが、司法の項目に
「外国人判事により裁判を行う。」と

「町一つが主権国家になったも同然(都市国家)のサンマリノでは、国民全員が「顔見知り」であり、公平な裁判が出来ないという理由から、裁判官は全員外国人である。」

いろんな政治があるのだと思いました。
ま、現在のサンマリノの経済基盤について批判を持つ人もいるだろうが、政治を考えるには参考にはなった。
つまり、今の時点では「大連立」に否定的であるかもしれないが、政党政治だの二大政党政治というのが、人間社会に本当に利益をもたらすのかどうかが疑問になってはきましたね。

着眼点をずらせばいい

おそらく着眼点を少しずらせば、愚樵さんが望んでいることにより近付くと思う。
要するに「1人の政治家の機能を高める」ことが肝心なのであって、議員定数がどうこうというのは、その次の段階の話でいいんじゃないかな。

つまり、情報収集能力と政策立案能力の向上を行い、行政監視をさらに高いレベルで行う政治家を増やすことというのが、愚樵さんの求める目的になっているんだろうと感じる。

その上で『落選した者も政治家として認め国全体で活動を助成』という方向性を図ることが理想になるわけだから、方法としては、「公設秘書の増員」「政治家事務所の法人化」というのも一案になると思う。もちろん、これも、考えれば課題はあるんだろうが、一つの方向性として検討に値すると思うよ。


と、いいながらも、もし違っていたら、すまん。(汗)

いろいろな国のいろいろな政治

面影さん

『議員削減の民意』とはまさにプロパガンダにより『作られた民意』ですよ

そういった側面があることは承知しています。村野瀬さんから苦情を頂いたのも、そこを懸念してのこと。ですが、そのことと私が自分の考えを展開するのは別次元の話でしょう。

産経など右翼マスコミの議員削減運動は一定の効果を上げており地方議員なんかは半減していますよ。


話を地方にまで広げれば、議員の数の話は変わって来ます。現在進められているバカみたいな地方自治体の合併がそもそもおかしい。自治体なんて、もっと小さくてたくさんあった方が良いと思ってます。その方が住民の声が行き届く。

自治体の数が増えれば議員の数は増えるでしょうね。日本の地方自治体が持たなくなっていったのは、これも結局行政の肥大でコストがかかりすぎるようになったからでしょう。ここでも元凶は行政です。

本来、住民みんなが政治家になるべきです。

ええ、特に地方自治のレベルでは。議員の選挙なんかなくて、議会が定期的に開かれて、住民が望めばだれでも議員になって発言できる。もちろん議員は手弁当です。そんなやり方でも成り立つくらいの自治体の規模が望ましいと思います。

しかし、国となるとさすがにそうはいきませんよね。それでせめて、みずからを政治家だと思う人間は政治家だとせよ、ということです。そのあとは有権者の支持獲得競争。ルールを定めて自由に競争すればよい。そうすれば政党などといった既得権益に牛耳られることもないだろうと考えるわけです。

専門性が求められるのは立法府の議員よりも行政府の長ですよ。

行政は法律を扱うから法学部というのが一番良くないのでしょう。法律は、その分野専門家が作って運用すべきもの。で、作るのは議員、運用は行政ですから、どちらにも専門性は必要で、しかもそれが対立拮抗していなければならない。それが近代の民主主義の基本的な枠組みのはずですし、また議員は選挙で選出という枠組みも外すわけにはいきませんから、そう考えると「分野ごとの選挙が合理的」という判断にもなっていくのですね。

*******

ニケさん

サンマリノってどこかで聞いたことがあると思っていたらF1やってたんですね。wikiで知りました。

いろんな政治があるのだと思いました。

ええ、国の規模や歴史、文化の積み重ね、さまざまな要素がありますからね。他国の制度は、参考にはなっても基準にはなりません。二大政党制なんて、日本では絶対ダメですよ。政党制というのがダメだと思う。いえ、政党はあっても良いけれども、政党が議員より上というのは絶対ダメです。

*******

わくわくさん

議員定数がどうこうというのは、その次の段階の話でいいんじゃないかな。

はい、その通りですよ。これは議論の進め方で定数が焦点になってしまいましたけど、議員の質を高めれば数はそんなにいらないだろうという、私としてはごく単純な話のつもりなんですけれどもね。それを数の方から入ると話が難しくなる。

「公設秘書の増員」「政治家事務所の法人化」というのも一案になると思う

ええ、そしてこれらも一律で決める必要はないと思うんです。各々の政治家は、自分が有権者から得た支持によって得られる政治資金の枠内で秘書を確保し、事務所を運営したらよいと思う。議員や秘書の給与も、それぞれで決めたらよい。安い給料でも志(こころざし)高く働くスタッフを集められるかどうかも議員の資質という話になってくるわけです。秘書は給与がいくら何人まで、なんて法で決めるのはナンセンスですよ。この方面こそ規制緩和すればいい。

サンマリノの人口は3万人

60人の国会定数だと、5百人に一人の議員ですよ。
これを日本に当てはめたら24万人以上の国会議員数です。
因みにアメリカの国会定数は日本より30人少ない450人ですが普通の国家並みの権限を有する州が存在して其々独自のの政府や上下両院を持っている。
それ以上の大きい違いは、教育委員会なんかは当たり前、其れ以外の警察署長とか地方検事、判事など主要な公務員は45万人も住民の直接選挙で選ばれています。
権力を少しでも持っている役職は基本的に選挙で選ばれています。
これ等は全て日本では純粋の単なる公務員ですが、アメリカでは選挙で選ばれるので落選すれば『ただの人』で、ある種の専門職の『議員』とも考えられます。


3割自治などと揶揄される日本の市町村議会の(3万人の場合)定数は26人ですが、殆んどは削減されて20人以下の半数程度です。
サンマリノも一応は国家なので、日本の市町村以上の大きな権限があるはずだが、其の事を鑑みれば日本の市町村の議員定数はサンマリノの10分の一程度の少なさとも考えられる。

>『日本の地方自治体が持たなくなっていったのは、これも結局行政の肥大でコストがかかりすぎるようになったからでしょう』<
これは間違いです。
代表的な例として、夕張市が破綻したのは、報道では無駄な箱物行政の結果とされているが、大間違いで、夕張市は破綻の寸前まで国の後押しで行政を行い理想的な市政として国から表彰までされる有様で破綻以前は、今とは正反対にマスコミに描かれている。
破綻したの原因は簡単です。
小泉三位一体改革で地方交付税を半分以上も削減されたからです。
政府が市に流れ込むはずの上流の蛇口の閉めてしまって干上がったのです。

夕張の負債の真実と、マスコミ報道の嘘 (地方自治 / 2008年03月06日
http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/cb757b544c1a52679ef6fc6c8d47c38c

Re:サンマリノの人口は3万人

>60人の国会定数だと、5百人に一人の議員ですよ。
>これを日本に当てはめたら24万人以上の国会議員数です。

数字に弱いからと計算を怠けてましたが、「5百人に一人の議員」ということは、すぐ身近に議員さんが居る状態ですね。
よろず相談が出来る。(笑)

こうして割合を示していただけると日本の議員の少なさが判ります。よろず相談なんて政治じゃないといわれるかもしれませんが、私は政治を身近なものにするためには「各町内に一人の議員が居てもいい」と思いました。

いまの形では議員の周辺に居る人だけの要望が伝わっていくだろうけど、ほとんどの方は選挙で票を入れるだけの役割しかない。
これでは政治に無関心だと非難するほうがおかしいのかもしれませんね。

『情勢が不安になればなるほど、政治が機能する必要性が高まる。』
『公共サービスや福祉、人権というものは、人々が必要とせず、意識もしない状態が望ましい。』

と、言えば勘違いする人が多いようだが、かつての日本が「経済一流・政治三流」と揶揄されたのは、それだけ人々が政治を必要としなかった、つまり、公僕があまり機能しなくても、人々が幸福に暮せたということであって、「意識しない≠人権や福祉が不十分」ということではない。

では、国会議員の数はどうあるべきか??
法律がなくても、社会が健全に動き、公僕が介在する必要性が低下しているならば、国会議員も特にいらない、ということになる。

議員の定数は「数の論理」ではない。ましてや、人口対比で多いか少ないかを論ずるなどとは、はっきり言って意義がない。
国会議員が担うべき責務、その責務を果たすための権能や資質、それを持ちうる条件と体制、といった点から論じるべき。その上で、「民意の反映」の観点で数を論じるならば、ニケさんの発言には意味が出てくるだろう。

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