愚慫空論

議員定数は削減すべき

エントリー『政治家を増やせ』

衆参とも議員定数は多すぎると感じはどうしても否めませんし、・・・

と、曖昧に述べたことを明確にしておきます。衆参両院の議員定数は削減すべきです。

議員定数削減は民意の削減だという意見があるのは知っていますし、

『国会議員定数削減詐欺』(村野瀬玲奈の秘書課広報室)

それはそれで一理あると考えます。ただし、その「一理」はある前提があってものものです。その前提とは政党です。 上掲の村野瀬さんのエントリーを「政党が前提」という視点でご覧になってみてください。自民・民主が主張する定数削減が社民や国民新党、共産などの弱小政党には不利に働くことは間違いないでしょう。少数政党が少数であっても一定数以上の支持がある以上、民意の反映であることには間違いない。しかし、これは民意の反映が政党というチャンネルを通じて行われるという前提に立っての話です。しかし、その「前提」は本当に民意を反映しているのでしょうか? 私にはそうは思えないのです。

選挙制度というものは、そもそもが「底の抜けた」ものです。つまり、どういった制度が最も良いのか、理性的には定めることが出来ない。このことはかなり難しくて私も良くは理解できていませんが「アロウの不可能性定理」といったもので厳密に証明もなされているらしい。「アロウの不可能性定理」とは、民主主義社会を構成する個人が合理的な選択を行うときには、完全民主主義は実現しえないということを示したものです。

参考:「アロウの不可能性定理」(Wikipedia)

この定理は選挙制度というものが理性の限界、つまり「底が抜けたもの」であることを証明してるわけですけれども、「底が抜けた」ものであるという事実と、その事実が認知されることは別問題です。民主主義という〈システム〉の基盤として選挙制度は各国で実際に有効に機能しているのです。

選挙制度は「底が抜けている」という事実と、実際に選挙制度は機能しているという事実のギャップを埋めているのは、各国それぞれの「前提」です。アメリカやイギリスでは二大政党制という「前提」です。フランス・ドイツにもそれぞれの「前提」がある。その「前提」は各国の歴史と不可分であって、ある国の制度がそのまま別の国に適用できるといった単純なものではないのです。

日本の場合も、「底の抜けた」選挙制度を機能させていた政党でした。ただし日本の場合は欧米とはかなり違って、自民党が党内で疑似政権交代を行い野党は万年野党であるという、いわゆる「55年体制」が「前提」でした。

その日本の特殊な「前提」が崩れつつあることは、多くの人が感じとっていることだと思います。そしてその「前提」の崩壊ととも、政党という「前提」も崩れつつある。そういった風向きになっていると感じられるのです。多くの人が「議員の数が多過ぎる」と感じるのは、その風向きを背景にしてのことだと思われるのです。

政党というものは、いうなれば議会の中の議会です。民主主義の公式制度である議会で議論される前に政党内部で議論(根回し?)がなされ、議会では議論は単なるセレモニーに過ぎない。こうした状況は日本特殊のものでしょうが、民意はそうした状況に嫌気がさしているのでしょう。国民から見て議員とは政党の付属物でしかないし、実際制度としてもそのようになってしまっている。政党助成金などといったものは、その典型です。

こうした状況への嫌気は、政治への関心が高い者たちの関心のあり方にもあらわれているように感じます。つまり、政治への関心のあり方が政党本位ではなく、議員個人に向けられることが多いということです。

例えば小沢一郎です。好き嫌いがはっきりと別れる政治家ですが、小沢一郎に好意的な関心を寄せる者でも、民主党にはあまり感心しないという人は少なくない。少なくないどころか、そうした者が大半でしょう。何を隠そう私もその一人です。こうした傾向は他の議員にも見られます。同じく民主党では年金問題で名を馳せた長妻議員やブロガー出身の戸倉多香子さん。社民党の保坂議員などもそうです。ハッキリ言って社民党などどうでも良いけれども、保坂議員は応援したい。他にも鈴木宗男や亀井静香など。ここに挙げたのはいずれも好き嫌いがハッキリと別れるタイプの政治家であり、だから余計に関心が政治家個人へと集中しがちという傾向もあるでしょうが、顔の見えない政党よりも、個々人の議員へ関心がシフトしているという傾向は間違いなくあると感じます。

こうした傾向が示す民意は、政党の付属物に過ぎない議員の数を増やすことではない。政党所属の議員が何人当選するかで民意が示されると考えではないのです。有権者ひとり一人が自分の民意を顔の見える議員個人に託したいと考える。私が思うに、日本国民の政治意識で顕著になりつつあるのは、政党という「前提」が崩壊して、議会は民意を汲み取った議員たちによる公開議論の場であるという、民主主義本来のあり方への「志向」ではないのでしょうか? 質の高い少数の議員を求めるという民意は、その「志向」の現れであると考えます。

この「志向」が確かなものであるなら、私が提案した「政治家助成金」制度は、「志向」をより確実なものへと定着させる制度として機能すると考えます。選挙に当選して議員となった政治家だけではなく、落選した政治家も公式に政治家と認め助成することで、有権者は、顔の見える議員ひとり一人の理念や政策や信念を接することが出来るようになる。これは、自民党公認だから投票する、共産党だから支持するといった悪い意味での共同体意識を解体することになるでしょうし、また議員個人への「志向」が強くなってきたのも、〈システム〉によってバラバラにされた個人が悪しき共同体を信頼しなくなってというところも大きかろうと考えるのです。

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