愚慫空論

政治家を増やせ

“政治家を増やせ”などと主張すると、思い浮かぶのはこういった主張でしょうか。

民主主義破壊の暴論

志位委員長 議員定数削減を批判


 日本共産党の志位和夫委員長は二十八日の記者会見で、自民・民主両党が国会議員定数削減を競い合っている動きについて問われ、「民主主義を根底から覆すもので、厳しく反対する」と批判しました。

 なかでも比例定数の削減の動きについて、志位氏は「今の選挙制度のなかで唯一民意を正確に反映しているのが比例部分だ。これを削減するという考えは、国会には第一党、第二党以外はいらない、つまり、共産党も、公明党も、社民党も国民新党もいらないという立場だ。これは民主主義破壊の暴論だ」と強調。「一党一派の問題ではない。わが党は反対の論陣をはって、国民運動を起こしていく」と述べました。

 また、志位氏は自民・民主双方が定数削減の理由として「政治の側が率先して身を削らなければ増税を持ち出すことはできない」としていることについて、「この議論は二重に間違っている」と指摘。「『身を削る』というなら、政党助成金をなくすことが先決だ。国民と国会を結ぶパイプである国会議員の削減は、民意の削減といわなければならない」と述べ、「民意が届かなくなったうえに、待っているのは消費税の値上げということになれば、国民からすれば踏んだりけったりだ」と批判しました。


2009年5月29日(金)「しんぶん赤旗」
(http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2009-05-29/2009052901_03_1.html)


私は共産党のこの議論にはあまり感心できません。衆参とも議員定数は多すぎると感じはどうしても否めませんし、また国民の政治家の活動経費を負担はするのは当然のことです。共産党が政党助成金を受け取らないという態度は立派だと思っていますけれども、必ずしも長所だとも思いません。国民全体のために政治であるなら、国民全体から堂々と資金を受け取ればよいだけのことです。国民の一部から金を受け取っていることは、それは確かに個人の有志のものなのでしょうけれども、それでもやはり一部個人の願望を実現するためのものであることには間違いないでしょう。まあ、自党の強み(助成金を受け取っていない)ことを生かして上記のように主張したいのは、分からなくはないですが、議員定数削減が民主主義の破壊とまでは、さすがに言い過ぎだと感じてしまいます。

では、“政治家を増やせ”とはどういうことなのか? 議員定数を削減すべきとする一方で、“政治家を増やせ”とは矛盾してはいないのか? という問いかけがありそうです。確かに議員=政治家とするならば矛盾します。が、議員として当選しなかった政治家も政治家であることには変わりありません。私が主張したいのは、〔政治家=政治に志す人間〕を増やせ、というです。そして、そのための仕組みを作れということなのです。

政治活動をするのにはどうしても資金が必要です。現在、民間企業の政治献金の問題が騒がれて、政治家の政治資金に厳しい目が向けられていますが、政治に限らず、カネが仇のこの世の中では何をするにもカネは必要です。志が高く、立派な政策を掲げる優秀な政治家も、カネがないことには自分の政策を訴えて支持を広げることも適いません。今の政治資金の議論は、政治にまつわるカネを非難するばかりで、政治にはカネがかかるという現実には余り関心が無いように感じる。それではダメだと思うのです。

私が提案するのは、次のようなものです。まず、政党助成金は全廃。それに変わって、政治家助成金制度を設けること。で、この政治家の定義ですが、選挙に立候補した人を政治家とします。以下、政治家助成金制度の簡単な概略です。 政治家助成金

つまり、選挙区ごとに一定金額の政治家助成金の枠を設ける。そして、各候補者=政治家は、選挙で得た得票率に応じて助成金を受け取る。それだけの実にシンプルな仕組みです。

こういった制度が実現すれば、政治を志す個人にも政治資金が環流する仕組みが出来上がります。落選しても政治資金を受け取ることが出来たなら、“落選すればただの人”といったような選挙=サバイバルゲームの状況もいくらかは緩和されるでしょう。

今、自民・民主共に世襲議員の問題が取り上げられ議論されていますが、これはつまるところ既得権益の問題です。世襲議員には、親の代に築いた既得権益が譲り渡される。それが問題だというわけです。が、しかし、既得権益というならば、政治を志す個人からしてみれば、政党という組織だって既得権益なのです。民主主義の政治には政党が必要不可欠のように語られていますが、そもそも憲法には政党という規定は何もない。政治は国民ひとり一人のものであって、それは何も選挙権だけではないはず。被選挙権も同じく国民ひとり一人のもののなずなのです。が、実際の制度はそうはなっていなくて、政党という既得権益にだけ有利に働く制度になってしまっている。

そもそも政党とは、政治家がその志・政策の一致をもって自由に結成する団体のはず。ですから、政党が政治家個人の上に立つといった状況は、本末が転倒しているのです。その本末転倒を支えているのが政党助成金であり、またその意味では、政党助成金を受け取っていない共産党も同じ。政治は自由な個人が自由な志でもって行うのが民主主義の原理であるはずで、その原理と政治にはカネがかかるという現実を鑑みれば、国民が負担すべき政治家の活動資金は政党という既得権益にではなく個々の政治家のもとに届けらるのがスジというべきでしょう。

そして、民主主義の原理に沿った政治家を助成する制度が実現するなら、政治家の数は自ずから増えると私は考えますが、いかがなものでしょう?

コメント

だいたいが

「絶対数」が少ないから、「希少価値」で、センセイって、持ち上げられちゃう。

町内会長なんて、町内ごとにいるし、ありがたみがない。

参政権を、国民主権の行使の手段だ、って意識がないから「議員」と「国民」が、別物になって、
「我々も」という発想になる。(「我々=国民」だという意識がない)

そこいらじゅう議員だらけになったら、ありがたみがなくなって、
偉そうに出来なくなるのが議員というもの。

小選挙区ばかりになったら、ますます「地域のボス」を増長させるわ…。

ちなみに

いま、「供託金」というのは、選挙の得票によって返還されます。
比例区の場合、当選者数ごとに返還になりますから、
「2人」で(いま、10人の候補者が必要な要件を2人に下げて)立候補して、1人当選すれば、2人分返還。

 小沢一郎氏が「新生党」を作って「与党」にあったときも、「助成金」なんてものはなかった。
 そのころ出来たことが今出来ない、という前提をまず廃して、考えなくちゃ。

日本の国会議員数は多くありません

愚樵さん、コメントするのはひさしぶりです。

>衆参とも議員定数は多すぎると感じはどうしても否めません

事実として、実際には日本の議員定数は外国と比べて決して多くありません。むしろかなり少ないです。私もそういう記事を書いています。たとえば
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-808.html
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-1240.html
などです。
事実から出発するのではなくて、なぜ不確かな「感じ」から出発するのか、理由がわかりません。よろしければ説明をお願いします。

国会議員数の削減は民意の削減であり、国民が政治に自らの意思を反映させる仕組みである民主主義の削減だという考えは正しいと思います。

「政治に志す人間」を増やそうとすることに異議はありませんが、実際に法律を作り、国会で可決させるのは国会議員ですから、議員定数の削減は民意の削減であるということに変わりはないと思います。

愚樵さんの意見に賛成です

どうも、議員・公務員の削減や消費税値上げに絶対反対の共産党は、「金持ちや大企業の打出の小槌」から税金は幾らでも取り出せる、と考えているようです。

ちなみに、たとえ国会議員の定数が削減されたとしても、国民が選挙で良い政治家を選べば「民意の削減」は防ぐことができます。 問題なのは、国会議員の数ではなく質だと思います。

問題は民意の汲み取り方

第二迷信さん、村野瀬さん、もえおじさん、こんにちは。

基本的なことから考えますと、民主主義というのは本来なら直接民主制がもっとも好ましいわけです。国民=議員の直接民主制なら、議会の意志と民意とがズレるなんてことはありません。

けれども、現代の大規模な国家では直接民主制は無理。だから代議士制を採らざるを得ないわけですが、ここで問題になるのは民意の汲み取り方ですよね。私の考えの基本にあるのは、いかなる選挙制度であれ、当選した議員の理念なり政策なりだけが民意ではない、ということ。そうした民意はその時点では確かに多数でしょうが、民意は常に揺れ動くものでしょう。代議士制では、その「揺れ動き」が大切なのだと思うのですね。そして、その「揺れ動き」を大切にする実際的な制度が必要だろうと。そうした発想です。

事実から出発するのではなくて、なぜ不確かな「感じ」から出発するのか、理由がわかりません。よろしければ説明をお願いします。

簡単な話です。事実の単純比較に意味があるとは思えないから。例を出しましょう、たとえばイギリスです。

イギリスは国会議員定数1050人ということらしいですが、うち700人あまりは任命制の貴族院です。この貴族院は民意の繁栄なのでしょうか? イギリス人たちはそう「感じる」かもしれませんが、日本人はそう「感じる」ことはないでしょう。さすれば、それぞれの国民の感じ方によって、比較すべき数が変わってくるのですね。

また他に国会議員定数の多いのはフランスやイタリアですが、かの国では議会は比例代表制。比例代表だと議員の数が多いほどきめ細かに民意の反映ができるでしょうが、一方で大統領制も採用している。多様な意見の反映と意見の集約とのバランスを立法と行政のバランスにおいて反映させている。つまり議員の数の多さは、政治の制度そのものに裏打ちされているのでしょう。

そう考えていけば、ではドイツは、アメリカはということになりますが、つまるところは国民が議員の数も含めた政治の制度そのものが民意の反映になっているかどうかと「感じる」ところにならざるを得ないでしょう。それは決して単純な数の比較などで明らかになるものではないと考えるのです。

単純な話ではないが

国会議員の定数が多いか少ないか、これは、国会議員が担うべき責務の質と量、国会議員の存在理由から計る話であって、単純に言えるものではありません。
国際比較をするのもいいですが、その国の国会議員が何をしているのか、どういう存在意義があるのか、ということを踏まえた上で述べないと、頓珍漢な論になります。

愚樵さんの「政治家助成制度」について、助成制度の悪用が懸念されるので、その点に留意さえあれば、基本的には賛成ですし、反論するつもりはありません。
また、必要経費は、河村たかし名古屋市長が常々主張するように、領収書添付での請求が望ましいですが、これも、悪用が懸念されるので、しっかりとした監査制度も担保すべきですね。

あと「民意の反映」の点についてですが、これも単に国会議員の数で決まると思考するのは愚かなことです。
政党の党議拘束が強いときは、国会議員の数が多くても、ほとんど意味はなしません。同じ政党ならば同じ投票行動をし、そして、採決前に法案の成否がだいたいわかるからです。
アメリカのように、党議拘束がユルユルで、共和党議員が民主党議員と組んで共和党議員と戦うということが起こるような「個人単位での行動」が顕著なところでは、できる限り多くの定数を設定することが、望ましいということになります。

『国会議員の数の減少は、民意の減少である』というのは、国会議員が基本的に個人単位で動くときです。「命おとすな、自民おとせ」なんてことを言う人が、国会議員削減に反対する感情と思考を抱く権利も資格もありません。

この程度の人が、私のコメントをUPしないで「荒らし」と思考し、私に抗う思考、私を嫌悪する感情を抱いているうちは、国政の結果による苦しみを味わってもらうことが、民主主義が健全に機能するために必須です。

鍵コメさん

え~っと、コメントしていただいた内容からみるになぜ鍵コメになさったのかわかりませんが。もし手違いで鍵コメになさったのなら、公開させていただきます。連絡ください。

それで、ご提案の公設秘書増員ですが、私ももちろん賛成です。ですが、私のこの提案には、そのことも含まれているのです。

つまりですね、政治家の活動資金をすべて、あるいは大部分が公費で賄われるとしますと、「私設秘書」などといったものはなくなるのですね。政治家が「私設秘書」を雇えるのは、献金等の政治家個人への寄付行為があるからでしょう。政治家個人への寄付行為を全面的に禁止すべきかどうかはわかりませんが、政治家が使える公費の枠が増えるなら、それは当然政治家の手足となる人員の増員、つまり公設秘書の増員にもつながるわけです。そうしますと、公設秘書3人という規定は、現在の考え方では3人国から助成するという趣旨ですが、それが制限になってしまう。そんな制限はもちろん撤廃すべきです。

それともうひとつ大きな点は、落選した政治家も公設秘書を持つことができるということです。提案の制度は、「政治に志した者を政治家と認めようということ」と「政治家の実績を得票数で評価しよう」というところが軸ですから、たとえ当選しなくても、政治家は自分の実績=得票数に応じて助成される政治資金の枠内で公設秘書を雇えばいいのです。そうすれば、落選した政治家であっても秘書をつかって様々に情報収集ができるわけです。

こうした落選中の政治家の広範囲な政治活動は、落選中の者のみならず、当選した議員の質を高めることにも寄与するだろうと思います。

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