愚慫空論

政治家を選ぶ基準

昨日に続いて選挙がテーマだが、また昨日と同じく看板に偽りアリで、中身はあんまり選挙と関係ないかもしれません(笑)。

結論から先に書くと、私は政治家を選ぶ基準は、その政治家および政党への信頼感が第一だと思っている。昨今は、公約だのマニュフェストだのと政策を前面に打ち出した選挙宣伝を行っていて、それはそれで必要不可欠なことなのだけど、最終的には信頼感が決め手になると考える。

そういった中身のことを書こうと思って、書く前の準備運動とでもいうかか、気を入れるために my favorite brog を覗いていると、ピンと来るものがあった。それが『お玉おばさんでもわかる政治のお話』の最新エントリー(7.14時点)の『おかしいぞ、首相の理屈』。ピンときた部分を拝借すると

昔俳優と脚本家が演技力と台本とどっちが大事かって論争になったとき俳優が観客の前でレストランのメニューを読んで見せたそうな。それを聴いた観客は俳優があまりに悲しそうにメニューを読む姿に涙して、脚本家は負けたんだって・・・・・・・・・

演技と政治は違うぞ、って声も聞こえてきそうだけど、違うと言ったって人間はそういうもんでしょう。私は違うという人は、それでよし。でも違うと自信を持って断言できる人は少ないのではないかな? そのあたりが民主制が愚衆政治になってしまう原因なのだろうけれども。

お玉さんが『おかしいぞ、首相の理屈』でとりあげておられるテーマは、政治家への信頼感とは何かを考えるとてもいい材料だと思うので、ここでも便乗させてもらいます。(続きを読む前にお玉さんのところへどうぞ)

赤城大臣も安倍首相も、自殺した松岡さんも国会議員・立法府の一員としての資格がない。はっきり言ってこの一言である。彼らには法律を制定する資格など、ない。
彼らには疑惑をキッチリ晴らす義務がある。なぜなら彼らは他人を権利を制約する権限を持つ者だから。難しいことは何もない。

改正された政治資金規正法がザル法だということで問題にされているけれども、そうしたことは本質的な問題ではないと思う。というの、多かれ少なかれ法律には抜け穴があるからだ。変化の早い現代社会では法が時代の変化についていけないという現象が頻繁に起きる。法治主義国家では法に基づいてしか処罰はできないから、脱法行為を犯罪とするためには国会による立法が必要だ。この立法を行うのが国会と国会議員の役割である。こんなの常識。
では、国会議員は何に立脚して立法行為を為すのか? 憲法に制限されるのは当然だが、立法行為は彼らの価値観や倫理観に基づいて為される。裁判官については憲法76条で「すべて裁判官は、その良心に従ひ~」という良心条項があるが、憲法に規定がなくとも公僕たる議員や公務員は良心に基づいて、良心に裏打ちされた価値観や倫理観に基づいて各々の役割を果たさなければならないはずなのだ。

世の中には「人を見れば泥棒と思え」という諺がある。これは真理ではないが真理の反面はついていると思う。泥棒に泥棒を取り締まる法律を作らせるものはいない。泥棒かもしれないと思われるものに泥棒を取り締まる法律を制定する権限を委託する者もいない。私たちが国会議員に法律を制定する権限を委託するのは、彼らは泥棒ではないと思うからである。つまり信頼である。彼らの良心への信頼。

この良心に疑いの目が向けられた時、国会議員は自ら疑惑を晴らさなければならない。法律の問題ではない。法律を制定する根源になる良心への信頼の問題である。だから「前もって決めたルールに従うべき」などというのは全く的外れなのだ。そういうことが言えるのは、ルールを定めることができない人か、定めたルールが定めた人たち以外には適用されない場合だ。国会議員はいずれの場合にも当てはまらない。彼らの定めるルールは、彼ら以外の人間にも適用される。



少し話は逸れるかもしれないが、安倍総理が「前もって決めたルールに従うべき」と発言したその心について勘ぐってみたい。
結局、あの男は彼らの権限が国民から委託されたのだということを理解していないのだと思う。彼の目は国民には向いていない。仲間内にしか向いていない。だから、こんな発言が出てくるのだと思う。仲間内にの中で決めたルールで十分だなどと考えたのだと思う。
更に言うならば、その上に驕りがある。彼らの仲間内で決めたルールには、下々の者たちは文句を垂れずに従うべき、という感覚だ。皆が従うルールを定める者が皆に目を向けていないわけだから、そうなって当然といえば当然である。
そうした価値観・倫理観から派生してくるのが「教育三法」であり「共謀法」であり「憲法改正」なのである。彼らは自分たちの作ったルールだけでなく、彼らの価値観・倫理観にまで下々を従わせて当然だいう感覚を持っている。それが彼らの「良心」なのだ。



政治家や政党が掲げる政策や公約といったものも、言ってしまえば彼らの良心への信頼を獲得するひとつの手段でしかない。現実に他の信頼獲得手段もある。小泉劇場のもとで行われた衆院選でチルドレンたちは「これから勉強します」といって当選した(苦笑)。お涙頂戴も、土下座も、それはそれでありだ。信頼を獲得できればよい。だれもこれらの信頼獲得方法が間違いとはいえない。
ただ、数ある信頼獲得方法の中で、政策論争で信頼を築くのが民主制においては最も相応しいの手段であるとは思う。拙い方法だが。


と、ここまで断言的な調子で論じておいて、話をひっくり返すようで気が引けるのだが...。

私、前段では「信頼感」という言葉を使い後半は「信頼」という言葉を使った。これはミステークではなく意図したもの。というのも、本当は「信頼が第一」と書きたかったのだけど、この「信頼」というものをキッチリ捉まえるのが難しい。特に有権者と候補者の間の距離は遠いので、「信頼」とはっきり言えるほどの関係を醸成するのは困難だといえる(政策論争を拙い方法といったのは、この「距離」と関係してくる。政策論争を行い、またこれらを客観的に評価するには一定の「距離」が必要だ。ところが「信頼」は「距離」が縮まるほど醸成されやすい。「距離」を縮めるのに有効なのが「演技」である。だから前段で引用したお玉さんのお話は深い意味を持つ。お玉さんが怖いというのも当然である)。
だから、あいまいな「信頼感」止まりなのであり、あいまいであるから愚衆政治になってしまう可能性も高いのだろう。いや、「信頼」の方がその可能性は高いか。
「信頼」とは、いうなれば、裏切られても諦めがつく関係。「信頼感」は裏切られたら怒りを覚える関係、とでも区別しておこうか。そう考えると、やはり、政治家と有権者の間柄は「信頼」よりも「信頼感」の方が相応しい。



後段冒頭で、槍玉にあげた3人に立法府の一員たる「資格がない」と断言してしまったが、ここについて補則。国会議員の資格は法によって定められるもので、つまり選挙で当選したから資格があるので、ちょっとした失言等で一時的に失われる信頼に左右されるのではない。失われた信頼は次の選挙で取り戻せばよいのだ、という反論があろうかと思う。議員たちはこの論法を使うだろうし、実際こちらの方が通用するのだろう。
しかし、この論法で行くと、法を定める価値観・倫理観よりも法のほうが上位だということになってしまう。国会議員たる資格を定めるのが価値観・倫理観への信頼感ではなく法そのものであるというのは、明らかに法が上位だということだ。
けれど、これはおかしい。法はそれを生み出す精神の規定でしかない。精神そのものは規定できないから法という形式を採るだけのことだ。そういうことがあるから、形式から遡って精神を解釈しなおす「解釈改憲」などということが可能なはず。これがダメなら自衛隊はどう考えても違憲で直ちに廃止すべきということになる。ところが政府はそういう立場を採らない。
明らかに国会議員たる資格は選挙で信頼を得られたその議員の
価値観・倫理観への信頼に基づく委託が本質であり、選挙期間その他の規定は、いわば秩序を維持するため(あまり議員がころころ入れ替わると審議ができないから)の便法でしかない。この便法をあまり盾に使うと、今度は便法への信頼感が損なわれてしまう。

私はもうすでに国会議員の資格を定めた法規定そのものに不信感を抱いている。だから、現在の議員資格の規定のあり方をもう一度、議論し、修正すべきものは修正するべきだと考える。
地方議員と同様にリコール制度を設けるか。それよりも国会議員弾劾裁判所なんていいかもしれない。裁判員はもちろん有権者から無作為に選ばれる。ついでに公務員弾劾、いや行政訴訟も裁判員制度で取り扱うべきだ。犯罪者を裁く裁判員なんて選ばれたくないが、こちらなら是非やりたい。
どこかの政党が政策として掲げてくれないものか? 信頼感がぐっと増すと思うのだが。


コメント

>彼らには疑惑をキッチリ晴らす義務がある。

私人である私たちには無い権利が公人である彼らには存在する。
其れは疑惑をキッチリ晴らす「権利」です。
公の場で自身の弁明(説明)をみんなに聞いてもらえる。
こんな権利は普通、私たちにはありません。
しかし彼等はしない。
此れは問題になっているのが「疑惑」(疑い)ではなく、事実(犯罪)である何よりの証拠です。
『疑惑を晴らさない』のではなく『疑惑を晴らせない』のです。
より正確に言うと『政治家の疑惑』が存在するのではなく明らかに出来ない『政治家の犯罪行為』が行なわれていた。
限りなく国家警察(政治警察)化した日本では無理かもしれないが、後は検察警察が動くか動かないか、だけでしょう。

布引洋

私が長々と述べてまとめ切れなかったことを、キッチリ完結に述べてしまわれました。そうです。そういうことなんですよね。

それにしても、です。「権利」とお書きになったのは皮肉なんだろうと思いましたが、公人たる彼らの「義務」をキチンと履行させる方法はないものでしょうか? 結局、モラルにしか頼れないのなら、民主主義の未来は暗いですね。

民主主義の基本は直接民主主義

現在の日本は代議制民主主義ですが、代議制民主主義が『民主主義』といわれるためには公正な選挙制度が不可欠。
これが絶対条件です。
公職選挙法改正の度に選挙活動の自由が制限され現在日本では先進各国で自由に出来るほとんど全ての選挙活動が許されていません。
国民の選挙権被選挙権は考えられる限りすべては規制の対象です。
国民は目も口も耳も全てを塞がれた状態で、最後の投票権だけが僅かに許されている。
民主主義が瀕死状態なのは明らか。国民に自覚が無いのは残念ですが。
最後に残された権利の行使にいって来ましょう。

若かりし頃は選挙は億劫でしたが...

もうすでに投票は済ましてきました。最近、期日前投票が簡単にできるようになって、ホント助かります。この点だけは褒めてあげなければ。
タイトルにも書いたとおり、有権者となったばかりの若い頃は選挙は億劫で仕方なかったのですが(関心がなかったわけではない)、今は、「この一票、行使せずにはおくものか!」といった感じです。年齢を重ねて悪人になったのでしょうね(笑)。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/25-261eeaa4

憲法規定に違背して内閣(行政機構)優位の統治構造が維持されてきた日本

Q1:「衆議院が内閣を信任しないという意思表示をしてもいないのに、天皇の国事行為に関する条項(第7条)をダイレクトに使って衆議院を解散できるという“荒業”が通用してきたのが戦後日本の政治実態である。」において、あっしらさんは“荒業”が通用してきた原因を何

九条の会の現状分析映像

ずいぶん前からあったみたいですが、最近気がつきました。九条の会のオフィシャルサイトにも載っていますが、九条の会関係の映像がまとまり、編集されてライブラリーになっているところがありました。映像ドキュメント研究会という。去年の九条の会全国交流集会の映像や、..

エンジョイ選挙~気の毒なのは自衛隊員

 日本国民は「選挙権」を持っています。 投票行為は決して義務ではありません。1 これって,当たり前のように思われるかも知れません, しかし,そうでもないのです。 選挙は公務だとして,投票を義務

貨幣や共同体についてあれこれ 前編

「市場を司るものは神になる」のつづき です。【バルタン星人さん】「さすがにマルクスも当時のイギリスや世界を見ていたわけだしそこまで牧歌的だったかは保留しますが「生産共同組合の連合」と言っていますし、自然的条件も含めてやっぱり差異は残る、社会的必要労働に平

村野瀬玲奈・新防衛大臣 就任にあたって訓示(笑)

(人気blogランキング参加中。応援クリックお願いします。)ご列席のみなさま、今回任務に就きました新任の防衛庁長官、村野瀬玲奈でございます。「ディヴェルティメント」の和法さんからのここのコメント欄での指名を

孫子の兵法

「敵を知り己を知れば百戦危うからず」という孫子の言葉はすごく深い意味があるとわたしは思います

「飼い殺しにされる幸福より野良犬の自由の方が良い」という価値観が多数派になれば問題は解決できます

>経済の専門の方に向かって「素人考え」をぶつけるのは申し訳ないのですが。私も経済の素人ですが、その素人よりも専門家のほうが経済を理解していないように思えるので、書き込みを行っています。また、あらゆる疑問や主張の出発点は直感や感情だと思っていますので、臆せ

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード