愚慫空論

底が抜けた〈システム〉を

日本の難点 (幻冬舎新書)日本の難点
(幻冬舎新書)

宮台 真司

「光るナス」のアキラさんのお薦めで読んでみました、宮台真司著『日本の難点』。私はこれまでみやだいはほとんど読まずにきたのですが、なるほどアキラさんが仰るとおり、難解かつ複雑かつ濃密な問題が、極限にコンパクトに分かりやすく噛み砕いて表現されてあります。抽象度の加減もちょうどいい。おかげさまで私も、自分の思考をより明確にすることが出来たように思います。

というわけで、本エントリーは宮台氏の土俵に載っかりながら、なかでも〔世界の難点〕をコンパクトに記述したというべき「はじめに」の記述をお借りして、話を進めていきたいと思います。


宮台氏によると、現代は「社会の底が抜けた」状況なのだそうです。


 実は、どんな社会もその形をとるべき必然性はありません。つまりは恣意的で、その意味では「底が抜けて」います。その恣意性は消去できません。しかし、従来は恣意性を乗り越える、あるいはやり過ごす働きを、多くの社会が内蔵してきました。それが壊れてしまったのです。
 僕が専門にしている社会システム理論では、どんな社会も「底が抜けて」いることを、諸個人の意識に還元せずに、諸個人の意識の前提となる何ものかを、システムの概念で記述します。それとは別に「底が抜けて」いることをやり過ごすメカニズムが壊れていく過程を、〈システム〉の全域化による〈生活世界〉の空洞化と記述します。

 社会の「底が抜けている」という事実と、その事実に気づいてしまうということは、別の事柄です。「ポストモダン化」という場合には、後者を意味します。分かりやすく言えば、誰もが“社会の「底が抜けて」いること”に気づいてしまうことが、「ポストモダン」という概念の肝なのです。
非常に凝縮されたコンパクトな表現で付け加えるべきものは何もないのですが、敢えて蛇足を書き加えておきますと、“社会の「底が抜けて」いる”とは、別の表現では「ニヒリズム」とか「故郷の喪失」とか言ったりもします。つまり、道徳とか倫理とかいった“言わずもがなの前提”が崩壊して、何でもありになってしまう状態です。

たとえば、なぜ人を殺してはいけないのかがわからなくなる。こんな重大な問題は突き詰めるとホントにわからなくなるのですけれども――“実はどんな社会もとるべき必然性はない”ということ関連します――、社会には突き詰めなくてもなんとなくダメ、もしくは「ダメなものはダメ」という暗黙の合意がある。その暗黙の合意が消失していってしまうわけです。で、そういった状態が〈システム〉が全域化することによって生じる、というのです。

ここでいう〈システム〉とは〈「近代」というシステム〉だと言っていいでしょう。もう少し具体的にいうと、資本主義とか民主主義とか、社会主義とか共産主義もその仲間です。あるいは科学もそうでしょう。“産業革命、市民革命からスタートした進歩”といったイメージで括ることができる概念が、まず〈システム〉だと言っていい。そして、その「進歩」が進んで未開の闇を切り拓き、いまや全人類が「進歩」の成果を享受しようとしている。その象徴が「グローバリズム」です。

しかし、現在この「グローバリズム」にはあまり肯定的なイメージはありません。その理由はと問うてみると、「社会の底を抜いてしまった」からでしょう。つまり〈生活世界〉を空洞化させてしまった。そしてそういう時代を「ポストモダン」だというわけです。

宮台氏は、以上の認識を踏まえた上で「相対主義の時代はおわった」といいます。
・・・ 相対主義の時代が終わっただけではなく、相対主義に対抗して「絶対的」なものへのコミットメント(深い関わり)を推奨するような素朴な立場があり得た時代も、終わりました。
 相対主義の否定が不可能だと知りつつ相対主義を「あえて」否定するしかない――「普遍主義の不可能性と不可避性」とはそうしたことです。・・・・

 振り返ると、ポストモダン化を予兆して「境界線の恣意性」を問題にした20世紀的人文知(言語ゲーム論やシステム理論)から、1994年あたりから専門家に知られ2001年以降人口に膾炙した「コミットメントの恣意性」を問題にする21世紀的人文知へと、転向したことになります。
「境界線の恣意性」とは、「みんなとは誰か」「我々とは誰か」「日本人とは誰か」という線引きが偶発的で便宜的なものに過ぎないという認識で、先に述べた相対主義に当たります。かつて流行した「社会構築主義」や「脱アイデンティティ」といった物言いもこの系列に属します。「境界線の恣意性」はコミットメントの梯子外しをもたらします。
 これに対し、「コミットメントの恣意性」は、「境界線の恣意性」については百も承知の上で、以下にして境界線の内側へのコミットメントが可能になるかを探求することが大切だという認識です。認識が実践的には逆方向を向いていることが大事な点です。
 分かりやすく言えば、「境界線の恣意性」を問題にする段階が「素朴に信じてはいけない」という否定的メッセージだとすると、「コミットメントの恣意性」を問題にする段階は、対照的に、こうした否定性への自省や自覚を持ちつつ「コミットメントせよ」という肯定的メッセージなのです。
で、この「コミットメントせよ」という肯定的メッセージがどういうことを指すかというと、
分かりやすくまとめて言えば、「普遍主義の不可能性と不可避性」、もっと詳しく言えば「普遍主義の理論的不可能性と実践的不可避性」ということになります。不可避性と不可能性のギャップを、どう実践的=理論的に「橋渡し」するかが、現代政治哲学の最前線の課題だと断言できるわけです。
言い換えますと、現代政治哲学は不可避性と不可能性のギャップの実践的=理論的な「橋渡し」を肯定的メッセージとして発することが課題だ、ということになるのでしょう。



不可避性と不可能性のギャップの実践的=理論的な「橋渡し」。正直に私の感想を述べると、“なんじゃこりゃ??? ” です。言葉としては明快です。ですが意味は不明。といいますか、明確なイメージを結べそうに感じない。止揚不能の二項対立の間を行ったり来たり、彷徨うしかないという印象。私はこの結論には腑に落ちないものを感じるのですね。

けれども、こうした結論はないわけではないとも一方では思います。この結論の延長線上にあるのは、アリストテレスや孔子がいう「中庸」でしょうし、またプラトンが理想とした「哲人政治」もそうでしょう。また宮台氏は“本当にスゴイ奴は利他的”という個人的体験をミメーシスという言葉に託して述べていたりします。それはそれでアリだろうとは思いますが...。

“社会の底が抜けた”=〈システム〉の全域化による〈生活世界〉の空洞化というスタートラインの認識には、私も全く同意できます。となると、議論の途中で考えが異なることになったということになる。その地点はどこかと探れば、それは「相対主義の時代はおわった」というところです。私の考えではむしろ「本格的な相対主義の時代が始まる」。ここが大きく違うところです。



話を「ポストモダン」のところまで戻します。

「ポストモダン」とは〈システム〉が全域化して〈生活世界〉を空洞化してしまった時代です。これは〈システム〉の全域化が達成された時代ともいえます。では〈モダン〉とは何かと考えれば、全域化が可能な〈システム〉が生み出され、その〈モダン・システム〉が拡張していった――これを「進歩」と称する――時代だといえるでしょう。そして「モダン=近代」以前の中世・近世とかいった時代は、〈システム〉は存在したが、全域化するほどの〈システム〉を生み出し得なかった時代でしょう。 西欧文明発の〈モダン・システム〉は、世界各地のそれぞれ独自の〈生活世界〉を席巻しつつ全域化し、〈モダン・システム〉を生み出した西欧文明の〈生活世界〉すらをも空洞化させてしまった。

ここで問いたいのは、なぜ〈モダン・システム〉だけが全域化し、世界各地の〈生活世界〉を空洞化させる力を秘めていたのか? ということです。その答えを宮台氏の表現を借りていうならば、〈モダン・システム〉は「底が抜けていない」ということになるのではないか、と思うのです。

いえ、もう少し正確に言いましょう。〈システム〉にしろ〈生活世界〉にしろ「底の抜けていない」ものは原理的にありえない。けれども〈モダン・システム〉は他のどの〈システム〉や〈生活世界〉よりも「底が抜け難い」ものである。それが証拠に、昨年からの金融危機は、まさしく「社会の底が抜けた」が抜けたかのような状況を呈していますが、それでもまだ〈モダン・システム〉の「底は抜けていない」。〈モダン・システム〉に飲み込まれた〈生活世界〉の方は、〈モダン・システム〉の自爆ともいえる金融危機で致命的ともいえるダメージを喰らっていますが、〈モダン・システム〉の方は未だ機能停止には至っていません。機能停止に至るだろうという観測はあります。しかし、もし〈モダン・システム〉が機能停止に至れば、そこで出現するであろうアノミーの破壊力は未だかつてないものになることが予想され、全世界は〈モダン・システム〉が他の〈システム〉や〈生活世界〉を空洞化させる害悪を知りつつも、〈モダン・システム〉の修復に全力を挙げざるを得ない。これが「ポストモダン」の末期的状況でしょう。

そう考えれば、ポスト「ポストモダン」――これを海舌さんrenshiさんの表現を借りて「トランスモダン」とします――に求められる役割とは〈モダン・システム〉を機能停止に陥らせることなく、〈モダン・システム〉の「底を抜く」こととなる。そこで鍵となるのが「本格的な相対主義」です。つまり、異なる価値体系の衝突――差異共鳴であり、「近代の超克」です。

一旦全域化してしまった〈システム〉を、時計の針を逆に回して縮小させることはおそらく出来ないでしょう。そうすると残る選択は、全域化した〈モダン・システム〉の「底を抜く」しかない。異なる価値体系が衝突する〈トランスモダン・システム〉は、いずれの価値体系にも一本化することが妨げられますから、そもそもからして「底がない」〈システム〉でもあります。 また異なる価値体系の衝突は、「コミットメントの恣意性」とは矛盾しません。むしろ、異なる価値観が並立する〈トランスモダン・システム〉においてこそ「コミットメントの恣意性」は重要になると考えらます。そして、「底が抜けた」〈トランスモダン・システム〉が機能し始めれば、〈モダン・システム〉によって空洞化された〈生活世界〉が、各々の地域に生き残る歴史や伝統といった価値観に基づいて再編されていくことになるでしょう。私は『【即非】の社会へ』のエントリーで、精神的には保守、物質的には革新となると述べましたが、それは「底のない」〈トランスモダン・システム〉によって地域ごとの〈生活世界〉が再編されてくることを指しています。しかし、それが精神的にも革新的な〈生活世界〉を新設することを妨げるものではないことは、もちろんです。〈システム〉においてだけはなく〈生活世界〉においても「コミットメントの恣意性」が尊重されることになります。



追記:

「コミットメントの恣意性」とはおそらく、当空論で主張してきた【共感】にあたるものでしょう。私は自らを確信犯的共感派としてきましたが、そのことと

“「コミットメントの恣意性」は、「境界線の恣意性」については百も承知の上で、以下にして境界線の内側へのコミットメントが可能になるかを探求することが大切だという認識”

とは、整合性があると考えます。またそう捉えれば、

“「境界線の恣意性」を問題にする段階が「素朴に信じてはいけない」という否定的メッセージ”

が何に相当するかも明らかでしょう。

そしてもうひとつ手前味噌な言及をしておきますと、確信犯的共感派の私が「相対主義の時代が終わった」ことに同意できず「本格的な相対主義時代」がくると考えるのもまた、私自身の内的論理(?)あるいは感性からすれば、必然の流れだと自覚します。

コメント

おつかれさま

現在の「社会」を(構造主義的に)、文脈依存性を取捨して考察すれば、必然性が見えなくなることは当然のことです、恣意的にも見えるでしょう。

例えば文脈を捨て「社会」を必要な機能に最適化して新規設計すれば現在のシステムとはまるで違ったものになることは自明です。

逆に言えば

「 実は、どんな社会もその形をとるべき必然性はありません。つまりは恣意的で、その意味では「底が抜けて」います。その恣意性は消去できません。しかし、従来は恣意性を乗り越える、あるいはやり過ごす働きを、多くの社会が内蔵してきました。それが壊れてしまったのです。」

と言うような説が説得力を持つとすれば「社会」の構成員に取って文脈が失われた事を示しているといえます。

本格的な相対主義とは?

それはすなわち、個人対個人の衝突と共鳴(共感)、すなわち‘影響を与え合うこと’の重視ということ、ですか?

そう愚樵さんがおっしゃっているのだとすると、そういうことが重視される時代が本当に来るとしたなら、極めて大きな非効率性を許容する社会とならねばなりません。

互いの衝突する問題点について、夜を徹して話し合うのは日常茶飯という社会です。そうでなければ、容易に共鳴しうる個人同士が小規模に集まる‘カルト社会’になってしまう。
そして、むしろわたしはそうした風通しの悪い現実のほうが、ひどくリアルに感じてしまいます。

もちろん希望がないわけではありませんが…。

おっしゃるような意味での本格的な相対主義とは、つまるところ、言い換えれば『人を大切に思って、しっかり働きかける』ことのできる個人の構成する社会です。

そうなるとよいですね!

naokoさん

>極めて大きな非効率性を許容する社会とならねばなりません。

効率性の追求というのも、恣意的なのですよ。効率的あるいは合理的であること社会であることと、幸福な社会であることとはイコールではありません。私たちは非効率的非合理的=無秩序だと思い込んで、ずっと効率性合理性を追求してきたわけですけれども、その追求が社会を不幸にしてしまうことになっているときがつき始めた。それが「底が抜ける」ということなのですね。

つまり「非効率性を許容する」という捉え方自体が、もうすでに恣意的なんです。むしろ「非効率性が必要」だと認識されるようになると思っています。

容易に共鳴しうる個人同士が小規模に集まる‘カルト社会’になってしまう。

これはある意味、人類の歴史が振り出しに戻るということですね。そうかもしれません。もともと社会には定型はないわけですから、その可能性は否定できません。「社会の底抜けた」とき、振り出しに戻るしかないのか否か? 戻るしかないのであれば、もうどうしようもないですね。

私は戻るとは思っていませんけれど。

恣意的=自己中ということでよろしいですか?

そう考えると、けっこうしっくりきます、わたしは。
そして、この‘自己中’こそが、カルト社会の発生源と思ってます。

‘効率性’が社会の構成員を不幸にする面もあるとは思います。一方では効率性の追求によって救われる者もいるでしょう。
社会のシステムが効率的に動くためには、ある意味で、個々人の利他意識が発揮されないといけませんよね。
また、ある器官の効率の高さが、別の器官の効率を阻害することもある…。

それでですね、効率性そのものが悪で、非効率が善と考えてしまうと、それは個々人の‘自己中’が暴れだす契機となってしまう気がします。あるいは‘自己中’であることに錦の御旗を与える危険性もあります。そして、それはカルト社会形成に有利に働くのでは?

カルトは〈システム〉への反発

この‘自己中’こそが、カルト社会の発生源と思ってます。

私はちょっと意見が違います。‘自己中’がカルトの発生源という側面があることは否定しませんが、むしろ〈システム〉への反発という側面が強い。それを〈システム〉に居る側から見ると、‘自己中’だけが浮き上がってくる。〈システム〉の問題は、〈システム〉の中にいては見えないんですね。

で、今の「近代」という〈システム〉のなかで‘自己中’は何というかというと【自由】というんです。それは効率性を追求し、さまざまな「制約」から逃れようとしてきた〈システム〉の根本原理でもある。カルトは、そうした〈システム〉の根本原理に反発して、〈システム〉の側からみれば不自由な「制約」を敢えて自主的に選択することから発生する。

‘効率性’が社会の構成員を不幸にする面もあるとは思います。一方では効率性の追求によって救われる者もいるでしょう。

ええ、これは主に経済の問題ですが、その効率性の鍵になったのが資本=貨幣だったのです。ただし資本が効率的に機能し得たのは、社会のなかで資本が過小財だった時代のこと。現在でも最貧国など資本が過小財である地域では有効に機能していますよ。「マイクロクレジット」、ムハマド・ユヌスのグラミン銀行などがそうですね。

でも、資本が過剰となってしまった先進国などでは、効率性を推し進める資本が社会を歪めてしまっているわけです。

効率性そのものが悪で、非効率が善と考えてしまうと、それは個々人の‘自己中’が暴れだす契機となってしまう気がします。

‘自己中’が暴れているのは現代社会でしょう。グローバリズムといったものが、結局は〈システム〉を駆使できる一部人間の‘自己中’を最大化させているに過ぎないということは明かではないですか。

個々人が‘自己中’でいられるのは、それをバックアップする何かがあるからです。何の後ろ盾もなしに‘自己中’で居られる人は、ニーちゃが言うところの「超人」です。でもそんなひとはまず居ないですし、仮にいてもそんな人は俗に言う‘自己中’からは完全に超越しています。心配ありません。

底の抜けた〈システム〉とは、言い換えれば‘自己中’をバックアップしない〈システム〉だと言っていいでしょう。また〈システム〉への反発を生まない〈システム〉だと言ってもいい。そうした〈システム〉のなかではカルトはまず発生しないと私は考えます。楽観的予測に過ぎないのかもしれませんが。

底の抜けた〈システム〉においては‘自己中’は頼るべきものがなくなります。ですので消滅するとまではいかないまでも、極小化していくだろうと考えます。しかし、人は何かに頼りたい存在ですから、自然と寄り集まることになる。そのときに指針となるのが「身体知」だろうと考えている。『畑仕事の十二ヶ月』のような話ですね。そしてそのことは、『日本の難点』でミヤダイが示した「国土保全」という視点とも癸を同じくするものです。

ああ、そこなんですよ~

前半納得なんですけど、やっぱり底の抜けた<システム>というのが、うまくつかめていないんだと思います。
それでも愚樵さんの考えにいっしょうけんめいついていって、自分なりに考えてみると…。

現代社会においては、マネー資本主義のシステムを駆使できる勝ち組(?)と、そうした近代システムに対する反発・反逆から生まれ、現代肥大化しつつあるカルトの構成員、この両者において共に‘自己中’が増殖しつつある。

その上で、早晩、近代システムが(機能し続けるとしても)とうてい十分なみんな(市民)の頼りや後ろ盾にならなくなるとしたら、そして、そうなりつつあることにみんなが気づき始めたとすると、<超人>でもないかぎり、なんらかのカルトに属するか、さもなければ、‘反自己中’の生き方を模索せざるを得ないだろうという訳ですね。

この場合の反自己中とは、人とのつながりや共生に労を惜しまない生き方ということになるかと思います。あるいは、愚樵さんの言う「身体知」に拠った生き方、なのかな(←これも、あまりよく掴んでいない・汗)。

第一結論:<底の抜けた社会>においては、カルトに属するか反自己中で生きねば、そもそも生きていくことが出来なくなる。

さて、次ですが、今の時点でのカルトの急速な増殖は、過渡期的・一過性の現象なのか、どうか?
愚樵さんは、<底の抜けた社会>への過渡期的なものとする見方をとってますよね。

わたしとしては、この二つの生き方は、この先長く並存していく気がしてます。そして、両者の間にははっきりとした断絶があり、このカルト(自己中)と反カルト(反自己中)の対立は、南北問題の次にくる世界的問題として、やがて広く認知されるようになるでしょう、きっと。

よし、これで、なんとなく、問題の根幹がつかめたような気がするのは、単なる気のせい??
ああ、どうしてもしっかり把握しきれてる気がしない…。

カルト≒アレルギー

第一結論:<底の抜けた社会>においては、カルトに属するか反自己中で生きねば、そもそも生きていくことが出来なくなる。

う~ん、少し違うかな。カルトだって自己中だって反自己中だって、なにか拠り所を求めるというところでは同じ。で、何に拠り所を求めるかを整理しますと

自己中 → 〈システム〉
カルト → 反〈システム〉
反自己中 → 〈生活世界〉

になると考えています。つまり自己中とカルトでワンセットなんです。

ここはこんなふうにイメージしています。〈システム〉の構成要素、代表は貨幣ですが、貨幣を食べ物としての鶏卵だとします。

卵はいうまでもなく優良な食品です。卵があれば料理の幅も広がる。けれども、これが過剰になるとどうかと考えてみる。とにかく毎日毎食卵が欠かせない、卵なしでは料理ではない――と、そんな幻想に囚われた食生活を想像してみるんです。

鶏卵は優秀な食品ですけれども、食物アレルギーを引き起こすものでもある。みんなが卵付けの食生活を送るようになると、おそらくは鶏卵アレルギーを起こす人の割合が増えるでしょう。アレルギーを発症する人、それがカルトです。つまりカルトとは〈卵システム〉になってしまった食生活へのアレルギーだと。

卵アレルギーになってしまった人は、卵へ強く反発します。せざるを得ないですね。けれども〈卵システム〉の幻想に囚われている多くの者からすれば、反逆者のように映るでしょう。だからカルトだと認定される。

この喩えはバカバカしいと思うでしょう。いくら卵が優良な食品だとはいえ、〈卵システム〉になるほど偏った生活はバカバカしいと思えるから。私たちの常識とは異なっていますからね。

けれど、この常識がクセモノ。なぜか人間は、常識というものに囚われて、すぐに欺してしまう。何が何を欺すかといいますと、アタマがカラダを欺すんです。カラダがアタマに欺されて身体知が覆い隠されてしまうのですね。

やっぱり底の抜けた<システム>というのが、うまくつかめていないんだと思います。

底の抜けた<システム>がうまくイメージし難いには、まず〈システム〉についてのイメージが確立できていないからだと思います。〈卵システム〉はバカバカしいですけれども、私たちはそういったバカバカしい〈システム〉に飲み込まれやすい性質を持っている。それがヒトという生物種の特徴ではないかとも思うのですね。

「底が抜けている」とは、言い換えれば「バカバカしい」ということでもあります。別に卵じゃなくても良いんだから。〈卵システム〉なのは恣意的ということでしょう? それを常識だと囚われてしまうのは、バカバカしい話ですよね。

で、「底が抜けた」〈システム〉とは何かと言いますと、私たちの普段の食生活を支える〈システム〉です。卵ばっかり生産するようなシステムではないということですね。日本人なら日本の気候風土にあった食生活、欧米なら欧米で、それぞれあるわけです。それが〈生活世界〉です。風土にから収穫できる食物を中心に食生活を組み立てることで風土に適応していく。これが身体知です。

恣意性について

早雲氏の続きのようなコメントになりますが・・・

結局、ゲーデルの不完全性定理について問答していると感じます。

結局、不能なことに拘泥するだけ、時間の無駄ということだと思います。その意味での「オツカレサマ」でしょう。

むしろ、問題は、一般の文化人類学者の「不用意な恣意性強調」によって、それが、歴史修正主義を生んだことだと思います。宮台氏も、この歴史修正主義者の日本に於ける中心人物です。



ゲーデルの不完全性定理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ゲーデルの不完全性定理(ゲーデルのふかんぜんせいていり、独: Gödelsche Unvollständigkeitssatz)又は単に不完全性定理とは、数学基礎論における重要な定理の一つで、クルト・ゲーデルが1931年に発表したもの。

第1不完全性定理
自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が、ω無矛盾であれば、証明も反証もできない命題が存在する。
第2不完全性定理
自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない。

そうすると…

愚樵さんの言う卵システムからイメージすると、カルトシステムというのがリアルに感じられます。
例えば‘霊格システム’‘輪廻システム’‘功徳システム(お布施システム?)’などなど…。
つまり、反システム=システムですね。
これが、ワンセットなのかな?
無限に増殖するシステムという感じで、どんどん<システム>の個人に対する吸引力(取り込む力)が強まっていく。

一方の<生活世界>ですが…。
つまり、バランスの取れた現実感覚・生活感覚、そして鋭敏な身体知に人間知ということでしょうか?
わかる気がしますよ。

しかし、<風土>という言葉にまたひっかかりを感じます。
ローカルな事情とか特性ということかな。
いや、それよりも、風土=自然と解釈したい。人は<自然>に適応していく…。
恣意的とは‘不自然’ということですよね。

それから最後に、身体と心の関係もわかるようで難しいです。
特に、身体と心と世界との三角関係は…。
それこそ<生活世界>に生きる達人にならないと。

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