愚慫空論

【即非】の社会的意味

『【即非】の社会へ』のエントリーにせとさんから頂戴したコメントに、【あるがまま】の言葉がありました。せとさんは「鈴木大拙」をキーワードに【即非】と【あるがまま】を繋げられたのですけれど、どちらも東洋的仏教的な感じがします。同じ意味だとしてしまうのは乱暴ですけれども、片方を理解できればもう片方も理解しやすい。【即非】と【あるがまま】の間には密接な関係があると思われます。

【あるがまま】については、せとさんもご案内の通り、私は以前エントリーを挙げています。

『“あるがまま”を観ること』(愚樵空論)

そこでこんなことを書いています。

“あるがまま”は、客観的とは異なります。客観的は、誰もが 共通に認識できることが追及された事実・現象ですから、そこからは事実を観ている「私」は排除されています。けれども“あるがまま”の中には「私」が入っ ている。事実とそれを観ている「私」。双方あって“あるがまま”なのです。

事実とそれを観ている「私」の双方があって【あるがまま】。一方、せとさんは、同じく【あるがまま】について取り上げたエントリーで次のようの語っておられます。

『ありのままについて考えてみたが、、、』(瀬戸智子の枕草子)
私の中では「あるがまま」は「受け入れる」ことと同義であったりします。

「受け入れる」あるいは「赦す」とかまたまた或いは「放つ」とか。

そして、そんな言葉の裏には、やはり強烈な感情が潜んでいなければ本物にはならないのだろうと、思っています。



“事実と「私」の双方がある”ということと、“「あるがまま」は「受け入れる」ことと同義”ということは一見異なったことを述べているようですが、矛盾するものではありません。“あるがままを観る”には、事実や他者を「私」が受け入れたときに「私」自身が変容する、その「変容」をも「受け入れる」あるいは「赦す」ことも含まれている。だから「双方」なのであり、自身の「変容」を含むが故に“強烈な感情が潜んでいなければ本物にはならない”のです。

では、この【あるがまま】が「A=非A」であると【即非】とどう関係してくるのか? それは、やはり「私」と「非私=客観的事実・他者」の「双方」ということです。「私」が「非私」を「受け入れる」ことで「非私」は「私」の一部となるわけです。

ちなみに
【あるがまま】や【即非】という考え方は、これまた東洋的仏教的な【空】の超論理と関連が深い。【空】については、手抜きで申し訳ないのですけれども、「光るナス」のアキラさんの解説がわかりやすいと思いますので、そちらをご覧になってください。

『「蠱惑的」とか「判断的」とか その2 ~ 超論理学の「空」の基本 ~』(光るナス)
~ ひきよせて むすべば柴の 庵(いおり)にて とくればもとの 野はらなりけり ~
【空】もまた、「双方」あってのものなのです。



ここまで述べてきた【即非】や【あるがまま】や【空】について、理解できるように説明できているか、また本当にこの説明で正しいのか甚だ心許ないのですけれども、仮に理解していただいたとしても、それらはあくまで個人的なものの味方の問題であって、タイトルで示したような社会的な意味などないのではないか、と思われる方も多いのではないかと想像します。

これはある意味では、その通りです。【即非】といったものの見方は、現在では個人に限定されたものの見方となってしまっている。なので人生を達観するかいったような、個人の内的な部分に限定された哲学的あるいは宗教的なレッテルが貼り付けられてしまっている観があるのですね。鈴木大拙や禅というファクターも、その「観」を助長しています。

しかし、だからといって【即非】が社会的意味を持ち得ないとは言い切れません。よく知られているように、資本主義という社会的となった思想も、元はといえばプロテスタント信者の内面的な倫理観から出たものだったのです。その倫理観が社会的な意味を持ち得た。というのは、労働を天命と見たところから出立した勤勉革命が、当時起こりつつあった産業革命とうまく組み合わさったために、物質の豊かさという外的・社会的な意味を持つに至った。そうみれば【即非】という東洋的な内的視点も、社会的意味を持つことがないとは言えない。問題は、プロテスタント勤勉革命と組み合わさった産業革命のような技術的な革新があるのかということになる。そう、情報革命がそれに当たります。

では、【即非】と情報革命とが組み合わされば、どういった可能性が見えてくるのか? そこを考えてみるために「二人零和有限確定完全情報ゲーム」というものを見てみたいと思います。これがほぼそのまま【即非】なのです。

『「二人零和有限確定完全情報ゲーム』(Wikipedia)
二人零和有限確定完全情報ゲーム(ふたり れいわ ゆうげん かくてい かんぜんじょうほう ゲーム)は、ゲーム理論で扱われるゲームの分類のひとつである。チェス・将棋[1]・オセロ・石取りゲーム(ニム)・囲碁・囲連星・連珠・五目並べ・三目並べ(○×ゲーム)などが該当し、偶然に左右されない読みの深さを競う。

概要
これに分類されるゲームの特徴は、理論上は完全な先読みが可能であり、双方のプレーヤーが最善手を打てば、必ず先手必勝か後手必勝か引き分けかが決まるという点である。実際には完全な先読みを人間が行う事は困難であるため、ゲームとして成立するが、初期ルールの五目並べは先手必勝、三目並べとチェッカーは引き分けになることがすでに知られている。

「二人零和有限確定完全情報ゲーム」という言葉は以下のように分解できる。

二人
ゲームを行うプレーヤーが二人のゲーム。
ゲーム理論でいうプレーヤーとはゲームを行う際にゲームの着手を決定する、意思決定する主体を指す。コンピュータであっても良く、また、最終的に意思決定が一つに定まるのであれば、二人以上のチームであっても良い。
ダイヤモンドゲーム、麻雀など、三人以上のプレーヤーが対戦するゲームは含まれない。・・・・

零和
ゲーム上、プレーしている全プレーヤーの利得の合計が常にゼロ、または個々のプレーヤーの差す手の組合せに対する利得の合計が全て一定の数値(零和)となるゲーム。利得とはプレーヤーがゲーム終了時(あるいはターンの終了時)に獲得する状況に対する評価である。
・・・

有限
そのゲームにおける各プレーヤーの可能な手の組み合わせの総数が有限であるゲーム。一般に各種ボードゲームや、カードゲームはゲームの途中の状態が理論上有限であるため、ある状態から別の状態に変わり、そこからまた元の状態に戻るといった反復が無限に繰り返されない限り有限のゲームとなる。
・・・

確定
プレーヤーの着手以外にゲームに影響を与える偶然の要素が入り込まないという意味。
ポーカー等のカードゲームの一部や麻雀のように、ランダムに積み上げられた山から何かを引くようなゲーム、あるいはバックギャモンなどのサイコロでランダムにコマを進める双六系のゲームは、不確定ゲームに分類される。人生ゲームもルーレットで確率要素が介在するので不確定ゲームである。

完全情報
各プレイヤーが自分の手番において、これまでの各プレイヤーの行った選択(あるいは意思決定)について知ることができる(完全情報)ゲーム。
将棋や囲碁、囲連星、チェス等のボードゲームの多くでは、各プレーヤーが他のプレーヤーの状況を常に把握でき、また、どのような手を差したのかも明確にわかるため完全情報ゲームといえる。
・・・

ただ、この説明では「二人零和有限確定完全情報ゲーム」と【即非】とが同じものだというイメージは喚起し難いでしょう。その理由は、「ゲーム」というところにあります。「ゲーム」とはつまり、プレーヤーが勝ち抜き競争を行うというもの。プレーヤーが2人のゲームなら、1人が勝者、もう1人が敗者となって、ここから連想されるイメージは2人から1人への運動、つまり「単独」、自我的なイメージなる。そこが「双方」が前提の【即非】のイメージと食い違うのです。しかし、このゲームが永遠に続くゲーム、勝ち抜きでない「双方共生のための営為」とみればどうでしょうか? これは【即非】そのものであり、また「共生のための営為」とは「経世済民」、すなわち経済の原点でもある。ここで【即非】と経済との接点が出来る。すなわち【即非】が社会的な意味を帯びてくるわけです。

「二人零和有限確定完全情報ゲーム」は、プレーヤーが2人という設定は外さずに、【即非】=「共生のための営為」という視点で書き換えてみると、次のように言うことができるでしょう。

「二人零和永続確定完全情報共生ゲーム」

二人
この要素は「二人零和有限確定完全情報ゲーム」と同じです。

零和
あるいはゼロサム。「共生のための営為」=経済は、基本的にはゼロサムです。「二人零和有限確定完全情報ゲーム」と同じです。

永続
この要素は、「二人零和有限確定完全情報ゲーム」における「有限」が「永続」に変化したもの。勝者を求める「ゲーム」ではその目的故に過程は有限でなければなりませんが、共生が目的の「共生ゲーム」では終わらないことが目的となりますから、ここは「永続」になります。

確定
「二人零和有限確定完全情報ゲーム」と同じ。

完全情報
「二人零和有限確定完全情報ゲーム」と同じ。

さて、この「二人零和永続確定完全情報共生ゲーム」ですが、実は私、つい最近このモデルについての考察を行っています。

『貨幣の「垂直性」』(愚樵空論)

簡単なモデルで考えてみます。PとQの2人だけが住む経済世界で、PとQは最初にそれぞれ100円ずつの貨幣を所持しているとします。つまりこの世界の貨幣量は200円です。そして、2人はこの世界で貨幣による財・サービスの交換を行います。

まず、PがQからある財を5円で購入するとしましょう。通常の決済ですと、PはQから5円の価格の財を受け取るのと交換に5円分の貨幣を渡すことになる。しかしこの世界では、紙幣や硬貨など貨幣としての情報を体現する現金は必要ありません。通帳さえあればよいのです。

最初、PとQの通帳にはそれぞれ100円という情報の記述があります。Pが5円でQから財を購入し、その決済が行われるとP、Q100円ずつという情報は抹消、Pの通帳には95円、Qの通帳には105円という情報がそれぞれ記載される。この情報処理で決済は終了です。現金交換の必要はありません。

PとQの二人だけの経済世界では〔貨幣情報の伝達範囲=貨幣による経済流通範囲〕です。Pは自分の通帳を見ることでQの通帳に記載されているはずの情報を知ることが出来る。こうした世界では、相手に知られることなしに情報を偽造することは出来ません。例えばPが95円しかないはずの通帳残高を100円と書き換えたとしましょう。5円ゴマカシたわけです。しかしこのゴマカシはなんの意味もありません。もし、Pが95円を遣いきってQの残高が200円になったとしましょう。そこでPが私の通帳にはまだ5円の残高が残っていると主張しても、Qは受け入れるはずがない。2人だけの経済世界では、その健全性は自ずから保たれることになります。


この考察モデルを「二人零和永続確定完全情報共生ゲーム」の各要素と対応させてみましょう。「二人」というのは設定ですからいいとして、「零和」は貨幣量が200円で固定であることと対応します。「永続」については、このモデルが共生ゲーム=経済であるという設定から、その目的そのものが永続であるということで対応していると考えてよいでしょう。「確定」および「完全情報」については、2人だけの経済世界では互いの通帳が相補関係にあることが、その対応となります。つまり、このPとQ2人だけの経済モデルは、【即非】なのです。「零和」で「確定」「完全情報」であるがゆえに、QはPの鏡像であり、Q=非P=Pの【即非】の状態が成立するのです。

ここで「永続」について付言しておきます。「永続」こそが共生ゲームの目的であるとは先に述べたとおりですが、私は『「水平性」の貨幣』において提案した個人通貨と減価する自然通貨との組み合わせは、この目的の達成をさらに強化するものとなります。零和で確定完全情報というだけではゲームは終了してしまう蓋然性がが高い。ゲームが終了してしまうということは熱死状態であり、経済でいうと格差の固定になる。そこを避けるためには「確定」の条件を外す、つまり政府の規制等プレーヤーの着手以外の要素を入れることも考えられますが、これでは【即非】の状態が保てません。【即非】を保つには、つねに発生→消滅を繰り返す循環過程がよい。ゲームに発生→消滅の循環過程を組み入れることで、「永続」の目的は「確定」の条件を外すことなく確保されるのです。

さて、ここまで見てくれば次は情報革命の効果です。情報革命からはどういった成果がもたらされるのか? それは【即非】を保つのに「二人」という設定を外すことが出来るところにある。

【即非】を保つに当たって、「二人」は必要条件ではありません。いえ、それどころか、【即非】が社会的意味をもつためには「二人」は外すことが出来なければならない。二人だけの世界などといったものは脳内にしかあり得ませんから、もし、「二人」の設定を外すことが不可能であるなら、【即非】が社会的意味を持つこともあり得ない。情報革命は「二人」を外す効果があるのです。

もう一度、【即非】を保つことができる条件をおさらいしておきますと、「零和」「永続」「確定」「完全情報」です。「零和」は、貨幣経済においては通貨量を一定とすることで達成できます。「永続」は上で見た通り、個人通貨と減価する自然通貨との組み合わせで達成できます。「確定」は経済活動に規制を設けない自由競争がそれに当たる。となると残るは「完全情報」。情報革命以前は「二人」という条件が「完全情報」を実現させる要件でしたが、情報革命はこの「二人」を外すことができる。情報革命によって

「多数零和永続確定完全情報共生ゲーム」

がプレーされる可能性が生まれてくるというわけです。このことはとりもなおさず、【即非】の思想が個々人の内面世界の枠を飛び出して、物理的・社会的な意味をもつ可能性があることを示唆するものです。

コメント

こんにちは。
ご紹介&TB、ありがとうございました。

う~ん、「多数零和永続確定完全情報共生ゲーム」を現実的に考えたときに、「確定」・「完全情報」といった要素が成立可能なのかどうなのか、よく分かりません。

大拙が世界宗教会議かなんかで(193?年頃の話)ヨーロッパで講演をした時彼に会ったアランワッツと言う名の英国の若者は(16歳で仏教の論文を書いた変わり者)後にキリスト教従軍牧師となりアメリカに渡りサンフランシスコを中心に東洋哲学宗教をアメリカ人に広めた人ですが、彼は大拙との行き来も多かった様で、ある時ハワイ大学の授業で大拙が『仏教では“八正道”と言う物が在って一番目は“正しく見る事”二番目は“正しい心構え”でエーット3番目はエーット............兎に角、本に書いてるから読んで置きなさい!』と言う様な授業をしていたと笑いながら懐かしそうに昔話をしている録音を聞いた事があります。ワッツも70年代に癌で亡くなってしまいましたが未だにパシフィカと言う市民ラジオ局で彼の講演は聞けます。
処で此の“即非”の出ている原典は“金剛般若波羅蜜経”なのでしょうかねえ?鳩摩羅什の翻訳が一般的だと聞きましたが、英訳では“形のあるものは実は無で、無である事は存在すると言う事で”とか“最高の悟りなんて物は言葉で説明出切る様な代物ではなく説明出来ると言う奴とか悟ったとか言う奴は実は何も解ってない”とか“自己とか個性とか、世界とかなどは全て存在しない”とか“実は終局的には四諦とか八正道なんて物も実は意味が無く”等と最後の方にあった様に思うんですよ。面白いストラで、“ダイヤモンドストラ”と呼ばれている様です。アヤフヤでホントかどうか自信が無いのですが………………………もう一度読み返しておきます。
で,アラン ワッツは人生をよくダンスに例えていました。『人生はよーいどん!で地点Aから地点Bまで誰が速く辿り着くかと言う様なゲームではなく、ダンスをしている相手と自分をダンスを通して十分に楽しむ事だ。』等と。まあ人生は人それぞれですが、道家では人生を旅に例えて『本当の旅上手は目的地等の計画を立てない人で、最高の旅人は元々目的地に辿り着く気もサラサラ無い人だ。』と言う様なのがあったと思いますが、此れもアヤフヤです。
 処で、此の前の合成の誤謬(ごうせいのごびゅう、fallacy of composition)はやはりギリシャ古典哲学の論理学の言葉ですが現在では経済学に良く使われるのだそうです。たぶん経済は心理学の分野なのに数学の様に公式で理解出来るとの勘違いから論理的な間違い、勘違い、の集まりが現在の経済学ですからfallacy of composition等の根本的な論理的説明が必要なのでしょう................................とは私の勝手な意見です。

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