愚慫空論

裁判とエリート

一昨日からスタートした裁判員制度について。この制度については政府の公報部と化したマスメディアからいろいろとプロパガンダが為されていますが...、私もこの制度には反対です。裁判員制度はどうにも胡散臭い制度のように思えて仕方がない。

人を裁く裁判は“神聖な行為”ともいえるものですから、そこを胡散臭いなどと言ってしまうのは気が引ける部分はあります。また裁判員としてあるいは裁判官として、実際に人を裁かなければならない立場に立った人、制度の運用の現場にいる人に胡散臭いという言葉は適切ではない。私が胡散臭いと感じるのは、制度設計の動機。裁判員制度は、他の国の制度と同じく誰かが考え出して国の法律として定め運用が開始されたものです。その考え出した誰か、ひとりではなく複数でしょうが、そういった人たちが考え出した動機が、国民の司法参加だとか庶民の感覚を生かすとかいったきれいごとではなくて、エリートたちの責任逃れにあるような印象を拭い去れない。私は最初に裁判員制度というものを知ったときから胡散臭いと思っていましたが、次々に明らかになる制度の欠陥を知るにつれて、その思いは解消するどころかむしろ強化されていった。今回は、そのあたりのところの話をしてみたいと思います。


死の壁 (新潮新書)死の壁 (新潮新書)

養老 孟司

私が裁判員制度ということで思い起こすのが、養老孟司の『死の壁』という本の中で出会った記述、“エリートは加害者”というもの。エリートは“選良”ともいわれますが、要するに社会の中の撰ばれた存在、指導的支配的な立場に立つ人。エリートは社会を指導していくのですけれども、その過程でどうしても被害者が出てしまうことが避けられない現実がわけです。“エリートは加害者”だというのは、その否応のない現実から出てくるものであり、エリートは社会を指導する使命と共に自らが加害者になり得るという重荷を持たなければならない。今般エリートというと、「使命」だけが都合の良いように取り出されて「重荷」の方はすっかり忘れ去られているような印象を受けますし、また“エリート意識”というと「使命」をハナに掛けた優越感といった感じですが、本来のエリートはそうではなくて、単に頭脳が優秀だからといったことだけではとても引き受けられない、非常に気が重い役割だったはずなのです。

『死の壁』では、エリートのその「重荷」を深沢七郎の『みちのくの人形たち』という小説のストーリーを借りて表現しています。「みちのくの人形」というのは東北地方の文化財ともいうべき小芥子(こけし)のことなのですが、両の腕のないその姿は、罪の重さ故に自ら腕を切り落とした産婆の姿と重なる。産婆の役割は出産の手助けだけではなかったのですね。いわゆる“間引き”も産婆の仕事だった。産婆は、貧しい農村を秩序を維持するために加害者としての役割も背負わされていたのです。

この話はかつての村落共同体での話ですが、民主主義の社会でも当然エリートは存在します。今の日本でエリートといえばまず思い浮かぶのは国家公務員、それもⅠ種試験合格者でしょうか。俗に“エリート官僚”とも言われたりしますし、国民に対する加害者という意味ではいちばんそれらしいのがエリート官僚でしょうが、国家しての制度上いちばんのエリートではない。では、選良ということから選挙を通じて選ばれた政治家がそうかというと、それも違う。いちばんのエリートは裁判官なんです。

これは実は、日本国の最高法規たる憲法にも記述があること。いえ、憲法に“裁判官がいちばんのエリート”といった露骨な記述があるどうりはないのですが、憲法においてその身分がもっとも具体的に保証されているのが裁判官なんです。というのも、公務員の行為(行政)や、国会議員の活動の成果(立法)を裁くのは司法だから。裁くときには裁かれる対象よりも一段と上の存在でなければならない。裁判官の身分が最高法規である憲法で保証されるのは、裁判官がいちばん上なんだということを示すためでもあるんです。

立憲主義は「神の前では平等」から出発して「法の下の平等」へ進化したわけですが、平等であるはずの法の下で争いが起こったとき、もともと神の権威から出発した思想では、争いに判定をつけるのは、第一に神、次に神の代理人となる。裁判官は神の代理人。だから最高の選良、エリートなんです。

ところが日本では、もともと「神の前では平等」という思想がない。そこへ「法の下の平等」を持ってきたものだから、裁判官が最高のエリートだというふうには思わない。最高の選良は、国民が選んだ議会の代表ということになってしまう。でも、それでは議員は裁判官には裁けない。

そんなことをいっても現実に議員を裁判官が裁いているじゃないかといわれるでしょう。それは紛れもない事実で、法がそのようになっているから裁判官が裁く。でも、その裁判官の背後にある権威は神じゃなくて、国民。だから裁判官だけでなくて国民、というよりも世間、世論というヤツも裁いてしまう事態が起こってしまうのです。

また近代の裁判のルールには“疑わしきは罰せず”“容疑者は犯罪者にあらず”というのがあるのはご存知の通りですが、これがなかなか日本では機能しないのもまたよく知られている。この理由も「世間が裁く」ところに求めることが出来ます。神もしくは神の代理人が裁くなら、その裁きが下るまで犯罪者ではないというはとてもわかりやすいのですが、「世間が裁く」となるとそのルールはわかりづらい。「世間が裁く」場合、疑われた時点ですでに裁きが下ってしまっている。検察に起訴されたら有罪率ほぼ100%という現象も、「世間が裁く」ということと深く関連しているように思われます。

ここで日本の裁判員制度の引き合いに良く出されるアメリカの陪審員制度をみてましょう。制度の体裁はよく似ていますが、陪審員制度は「神が裁く」です。行われた犯罪が、誰も目撃者がいないし物的証拠も乏しい、容疑者の自白に頼るしかないといった場合、本当にその容疑者が犯罪を犯したかどうは“神のみぞ知る”ということになってしまいます。そうしたとき、神の意志を代弁するのが陪審員による多数決だ、という信仰あるいは迷信があって、それが陪審員制度の精神的基盤になっている。だから、陪審員に選ばれたりするのも有罪か無罪かの意思表示をするのも、偶然とか独立した自己の見解ではない。神の意志の現れだとみる。陪審員は一種の預言者です。まただから、陪審員の評決で行われるのは“神のみぞ知る”はずの有罪か無罪かだけになる。そして「神の裁き」で有罪となった後、どのような刑に処するかは人間のルールで決めることになるから、ここから先は専門家の仕事になる。つまり裁判官が量刑を決めるわけです。

こうしてみると、日本の裁判員制度がアメリカの陪審員制度とは精神的基盤が大きく異なっていることはがよくわかると思います。日本の場合はやはり「世間が裁く」なんです。量刑の決定にまで裁判員が関与するというのは、「世間が裁く」からです。また「世間が裁く」という視点で見ると、裁判官は世間の代表という意味でのエリートであることがわかります。上で例を引いた産婆と同じポジションです。欧米のように神の代理人としてのエリートではないのです。

このようにして比較してくると、「世間が裁く」というのは非常にあやふやで未開で野蛮な精神のように思えてしまいますが、それは必ずしもそうではないのです。野蛮という意味では「神が裁く」方がずっと野蛮になり得る。というのも、エリートの意志は神の意志だからです。神の意志を背景にすれば、他の精神基盤を持つものからすれば野蛮としか感じない行為でも良心に呵責を感じることなく行うことができる。一方世間代表のエリートは世間に対する加害者意識がありますから、無制限一方通行の行為に走るにはどうしても抵抗が出てきてしまう。毅然としているのは欧米型でしょうが、私は曖昧な日本型の方をどうしても好ましく思える。これは私が日本人だからでしょうけれども。

ただ好ましい日本型エリートも、その精神が腐るとどうしようもなくなる。その腐臭を私は裁判員制度に嗅ぎ取るわけです。死刑の可能性がある裁判を世間の代表として引き受けるのを忌避して、世間そのものに返してしまおうというのが裁判員制度。この制度が世間から要望があったのならいいのですが、そうではない。エリートの方から提案され、世間の反対にもかかわらず強行された制度です。この提案の動機を考えると、どう考えても加害者としての「重荷」から逃れようとしてのものとしか思えない。もし動機が本当に国民の司法参加であったなら、エリートとしての「重荷」を非エリートの裁判員に背負わすことになるようなしなかったはず。つまり、もっと軽微な案件から裁判に参加させるようにしたはずなんです。それがいきなり重大犯罪とは、どう考えても責任放棄としか思えない。だから胡散臭いというのです。

社会の秩序を維持するためには、裁きを下すということはどうしても必要です。そうなると、裁く存在と裁かれる存在とが分けられる必要がどうしても出てきて、そこの裁く役割を担う指導者としてのエリートの存在が必要になる。これは、社会を維持するためには避けることが出来ない構図です。そしてエリートには気の毒だけれども「重荷」を背負ってもらわなければならない。

エリートといえども人間ですから、誤りを犯す。エリートが誤りを犯すと加害者になってしまう。その加害性をあまり厳しく糾弾すると、エリートのなり手がいなくなる。そうした現象が現れているのが医療、とくに産科医の問題でしょうが、だからといって糾弾しないで野放しでいると悪い意味でのエリート意識を助長してしまう。エリートの問題は、バランスをとるのが非常に難しい問題です。

そのエリート問題を解決するのに裁判員制度という制度は、有効かもしれません。というのも、裁判員制度は世間そのものに裁きを委ねる制度であるから。エリートを裁くのは、非エリート集団の世間が行う。その裁きが厳しすぎるとエリートは存在できなくなって世間が困る。緩すぎてもまたエリートがのさばって世間は困るわけです。いずれにしても世間そのものも裁きの結果を背負うことになる。

この方向性は、医療過誤の他にも行政訴訟などを裁判員制度でという方向でしょう。医師や公務員などのエリートを非エリートが裁く。こちらなら私は裁判員制度の導入には賛成です。けれども、非エリートを非エリートが裁く方向性の裁判員制度導入には賛成できません。直ちに制度を撤廃すべきだと考えますし、また導入を強行したところで上手く機能しないでしょう。この現行裁判員制度の利点といえば、司法エリートたちの腐敗が世間に明らかになるといったことくらいしか思い浮かびません。

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