愚慫空論

「生きるためではない経済」

PS理論の花鳥風月庵さん経由で面白い記事を大変面白い記事を見つけました。

関 曠野 講演録

今回は前エントリー『貨幣の「垂直性」』の続きの予定でしたが、変更してさきにこちらのほうに触れることにします。続ける予定だったエントリーの内容と重なる部分も大きいですし、先にこちらに触れておいた方が順序として適切だと判断しました。


「生きるための経済」。これが関氏の講演のタイトルですが、このタイトルは少し考えてみると、妙なタイトルです。というのも、そもそも経済というものは生きるためのものであるはずで、“生きるため”だなどと敢えて注釈をつける必要はありません。「生きるための経済」があるということは、裏を返せば「生きるためではない経済」があるということになる。では、そんな経済はあるのかといえば、あるのですね。私たちの暮らしを支えているはずの経済は「生きるためではない経済」です。

実は私たちは、そのことを意識はしなくても識っているはずです。識っているから「生きるための経済」という言葉にすぐに違和感を覚えない。少し立ち止まって考えてみなければそのおかしさに気が付かない。ということは、私たちは無意識のうちに経済は必ずしも生きるためのものではないと思っているということになる。

けれども、経済は生きるためのものではないからといって、私たち自身が生きていかなくてよいと考えているわけではありません。俗にいう「新自由主義」を信奉する人たちなら、生きるためではない経済で生きていけない人間は生きていかなくてよいと考えているのかもしれませんが、それはやはりおかしいでしょう。ほとんどの人は生きていきたいし、みんなが出来るだけ生きていける社会が良い社会だと考えているはずです。

そうだとすると、社会のなかで対立点が浮かびかがってくることになります。経済の目的は必ずしも生きていくためのものではないが、良い社会とは生きていくためのものでなければならない。すると経済と良い社会の間には目的の違いがあることになるが、この違いを埋めるのが国家の役割ということになる。社会とは、経済と国家とが対立する構造であるべき、ということになるわけです。

良い社会は経済と国家とが対立する構造であるべきだという考えは、これは良識的市民の社会観そのものでしょう。その社会観の根底には「生きていくためのではない経済」という考えがある。「生きていくためのではない経済」というのは、つまりは資本主義経済です。資本主義が自由気ままに振る舞うことを許したら、社会そのものも「生きていくためでない社会」になってしまう。ですから生存権という概念を持ちだして資本主義経済の自由な振る舞いに規制の網を掛けるべきだと考えるわけです。また資本主義とは財産権を基盤とした「自生的秩序」ですから、ここに生存権vs財産権という対立が生まれる。このどちらもが近代社会の中心原理である基本的人権から派生するものですが、基本的人権の内部で対立構造が出来てしまうというのが良い社会でもあるという矛盾した構造にもなっているのです。

前置きが長くなりましたが、「生きるための経済」とは、生存権vs財産権という対立構図で見ると、生存権を基盤とした経済です。関曠野氏の講演もこの対立構図でいえば、財産権から生存権へという内容だと見ることが出来る。以下、この視点に立って関氏の講演内容を読み解いていきたいと思います。



関氏は、まず講演内容のポイントを示します。

まず第一に、私たちの置かれている状況は不況ではなくて恐慌だということ
恐慌は資本主義の原理的な矛盾や欠陥に起因するもので、その矛盾や欠陥にラディカルに取り組むことなしにはどうにも解決しないもの


そして

第二にそのような資本主義の矛盾や欠陥を正せる方策は、ベーシック・インカムと信用を社会化すること

第1点は、財産権基盤の社会が抱える欠陥が限界に達しているということです。それで

メルトダウンに向かう経済

だといいます。そして第2点は、そこを解決するには財産権から生存権に経済の基盤となる概念を転換しなければならないということ。ベーシック・インカムは貨幣経済における生存権だと考えるのに違和感はないでしょう。信用の社会化については後で触れます。

次に関氏はケインズの言葉を引きます。

1930年代の大恐慌のさなか、ケインズはスペインのマドリードで珍しく一般人相手の講演を行いました。「我々の孫たちの経済的諸可能性」という講演です。その中で彼はどういうことを言っているかと言うと、まず人間のニーズ、欲求を2種類に分けます。一つは絶対的欲求、つまり衣食住などの基本的な要求です。もう一つは相対的欲求。これは基本的に人に差を付けたい欲求。
(§ケインズ「我々の孫たちの経済的諸可能性」とリッチマン革命)

絶対的欲求は生存権、相対的欲求は財産権にそれぞれ相当すると考えればよいでしょう。

ただこの区分けは正確ではなくて、絶対的欲求の担保が生存権に相当するのは間違いありませんが、財産権はそのまま相対的欲求に相当するわけではない。貨幣経済においては、生存権も貨幣という財産で担保される――カネがなければメシが食えない――ことになりますから、財産権の中には絶対的欲求の担保も入ることになってしまう。実はこの点が貨幣経済最大の問題で、生存権も財産権も同じく貨幣を主軸に価値が測定される。そして貨幣とは紛れもなく財産なのです。ここで生存権が財産権に飲み込まれてしまうという事態が生じてしまう。ですから、経済を貨幣経済であると前提してしまうと、経済は「生きるためではない経済」になってしまいますし、またこの「前提」は「近代」そのものでもあります。

ケインズは、この欠点を十分に理解したようです。生存権が財産権に飲み込まれてしまう事態を“貨幣愛が社会を腐敗させる”といって警告を発していました。しかし、だからといってケインズは資本主義経済に否定的だったわけではない。

そして1930年代においては、未だに産業革命は完了していないと彼は考えていた。ですから彼は今しばらく貪欲というものはそれなりの役目を果たすであろうと言っています。しかし我々の孫たちの時代においては、人間は経済というものに関心がなくなるだろう、基本的(絶対的)欲求の充足はもう何ら問題でなくなって、おそらく我々の孫たちは経済には関心がなくなり、芸術や学問など文化的な活動に忙しいだろうと言っています。
(§ケインズ「我々の孫たちの経済的諸可能性」とリッチマン革命)

ケインズは、絶対的欲求を満たすのには資本主義は有効だと考えていたがそれ以上は社会するからダメだ、と考えていたわけです。資本主義と産業革命の役割を絶対的欲求を満たすこと、言い換えると絶対的貧困の解消にあると見ていたのです。

資本主義とは要するに資本が貴重なものである経済システムのことです。資本がありふれたいくらでもあるものだったら、それは資本主義ではなくなってしまう。資本が貴重ということは、それが常に不足気味だということですね。どんどん拡大する市場があり斬新な技術革新があって一攫千金の素晴らしい投資のチャンスがあるのに、それに比して資本が乏しい。経済学用語風にいえば、資本の希少性(scarcity)ということになりますが、それが資本主義を成立させている。産業革命期には資本家はやたらに儲かった。儲かる以上は誰でも資本が欲しいので、資本の希少性、不足が生じていた。
(§現代は過剰資本の時代)

資本家がやたらと儲かったということはそれだけ労働者が搾取されていたということで、ここで有名な階級闘争という話が出てくるわけですが、それはここでは脇に置くとして、大きな流れとしてとは、絶対的貧困が解消されるまでは資本主義は「生きるための経済」であるとケインズは見ていた。マルクスだって資本主義を否定したわけではありませんから、このあたりの認識に変わりはないでしょう。ケインズもマルクスも資本主義は終演すると予想していた。ただ資本主義の次にくる経済体制の予想が違ったのですね。そして2人とも予想は外してしまった。ケインズが懸念したように貨幣愛が世の中を腐敗させてしまいました。

ケインズは、自分たちの孫の代には資本主義は老衰で安楽死するだろうと考えていたわけですが、実際資本主義の安楽死を予感させるような状況が生まれてきました。

つまり市場の飽和、技術革新の停滞、資源と環境の危機と言う形で、資本主義の成長の限界がはっきり表面化してきた。そして思想家としてもイリッチやシューマッハーのような人の著作が熱心に読まれました。さらに70年代から全世界的に先進国の企業の収益が低下し始め、今なおこの収益低下が続いております。かつての活力を企業は二度と取り戻せないように見えます。それが現在の恐慌まで行き着いてしまったと言える。しかし資本主義がこのまま安楽死するかと思ったらあにはからんや、1980年以降、レーガンとサッチャーによってこの資本主義の停滞と混迷に対する悪あがき的な富裕層の反撃が始まりました。

この反撃については、新自由主義とか市場原理主義とか、サプライサイド経済とか、いろんな言葉が使われていますが、一番わかりやすい言い方はリッチマン革命でしょう。

金持ちの贅沢と安楽への要求を突破口、経済の刺激剤にし、それで経済を活性化する。庶民にはいわゆるトリクルダウンで少しは富裕層のおこぼれが滴り落ちるはずだというレトリックで富裕層や大企業に対する優遇を正当化した。ところがこのリッチマン革命は見事に挫折しました。・・・

(§ケインズ「我々の孫たちの経済的諸可能性」とリッチマン革命)

トリクルダウンという言葉が出てきますが、この理論でいくと生存権はもはや財産権のおこぼれでしかない。それでもケインズがいう“資本主義の安楽死を予感させるような状況”であった先進国はまだ良かったのです。それまでの「生きるための経済」として作用してた資本主義の成果を享受して十分に生存権は確保され、絶対的貧困は解消されていましたから。まただからこそ、生存権から逸脱した財産権の獲得が次のステップだと先進国では考えてしまったわけですが、不運だったのはいまだ十分に絶対的貧困の解消が進んでいない途上国でした。生存権がいまだ十分に担保されていないにもかかわらず、生存権が財産権のおこぼれとなってしなうとどのような事態になるか? 絶対的貧困は解消されるどころかますます広がるという結果になってしまいます。その結果起こったのがニューヨークの9.11の同時多発テロでしょう。

リッチマン革命は貨幣を測定基準とする経済成長を金科玉条とし、GDPといった数値を増大させることを目指しました。そのためにガラクタ、贅沢品、挙げ句の果てには危険な兵器の製造に走り、それらを盛大に消費してはまた消費のための生産を行う。戦争は忌まわしき行為であると同時にもともとから人類社会最大の消費行為でしたが、アメリカを筆頭にその忌まわしき行為に走るようになったわけです。ベトナム戦争、湾岸戦争、イラクやアフガンでの対テロ戦争が何のための戦争だったのかを考えてみれば、資本主義の腐敗とこれらの戦争が根の深いところで繋がっているのではないかと察しがつくはずです。9.11以降の対テロ戦争の進展と経済格差の増大は、同じ原因から発する病の別々の症状に過ぎません。戦争は生存権に対する最大の敵対行為ですが、現代の戦争は財産権の際限なき拡張行動の延長線上にある。生存権はもはや財産権のおこぼれですらなくて、財産権のエサになりはてています。



長くなりそうなので、ここらで一度区切りをつけて次のエントリーに回すことにします。次は、リッチマン革命の主役(主犯)の話から始めたいと思います。今度は予定変更はしないつもりですが、予定はあくまで予定ですので(笑)。

コメント

よくできた詐欺

ベーシックインカム系の話は何度聞いても「良くできたネズミ講」のように思えてなりません。

基本的には「呪物」である貨幣から、「苦役の対価」という呪いを解いてしまえば、貨幣の魔力は消え失せて紙切れ(ハイパーインフレ)になってしまうのではないか、としか思えないのです。

貨幣はハナから「苦役の対価」などではありません

KYさん、こんにちは。

基本的には「呪物」である貨幣

この認識には同意。ですが、

「苦役の対価」という呪い

これは違うでしょう。この呪いは労働力が商品に成り下がったときに掛けられてしまった呪い。生産物が「苦役の対価」というのなら分かるのですがね。貨幣は、分業によって様々な種類の生産物を効率的に生産し社会を豊かにするための道具でしかない。その基本に立ち戻れば、ベーシック・インカムも十分にありえるということが理解できるはずです。

ただし、現行の貨幣制度では財源の問題がつきまといますから不十分な制度にしかならない。ま、そもそもベーシック・インカム=基本所得という呼称そのものが現行の貨幣制度に寄り添った呼称なのですが。

詳しくはリンク先をお読みください。

空論

貨幣のはじまりは物々交換の利便性を図るものだったかもしれませんが、そのために「何とでも交換できる」という属性が貨幣に与えられた段階で既に「それ自身から価値を生み出す魔力」が貨幣には宿ったのだと理解しています。

なにせ「何とでも交換できる」のですから、信用という<空手形>と交換して帳尻を合わせる輩が出てくるのは当然のことなのではないでしょうか?

リンク先の講演録は読んだのですが、共産主義のように理屈としては成り立つが、現実の運用は決して成功しない空論のように感じました。
行き着く先だけが見えていて、途中の状態がわからないのでは、ハッブル宇宙望遠鏡で見える遠くの星雲と同じで、見ることはできても触れることはできないのではないでしょうか?

ご無沙汰してます

トラックバックありがとうございました。

リンク先の記事を読みましたが、概ね賛同できる内容でした。
なるべく「最低限」という部分を探って、ベーシック・インカムの導入へ向けた運動を展開していきたいですね(その場合は、ネットが大きな役割を演じるのではないか、と思っていますが)。

それはさておき、税金をなくす(公共通貨の融資の利子で賄う)というアイデアには、正直ベーシック・インカムと同程度のショックを受けました。
これは凄いですね。

ベーシック・インカムに税の廃止が加われば、まさに国民のための政治と言えるのではないでしょうか?
共産主義とは違って、現実的な道筋も描けそうですし。

KYさん

「何とでも交換できる」という属性が貨幣に与えられた段階で既に「それ自身から価値を生み出す魔力」が貨幣には宿ったのだと理解しています。

その理解は要するに「利息の肯定」ということでしょうが、この利息を正当化する論理的根拠は、貨幣が「呪物」であるということ以外のどこにも見い出せないと考えます。

リンク先の講演録は読んだのですが、共産主義のように理屈としては成り立つが、現実の運用は決して成功しない空論のように感じました

貨幣が「呪物」であるのなら、現在とは別の形での「呪い」のありかたも可能なはずです。リンク先で出てくるクリフォード・ヒュー・ダグラスのパブリック・カレンシー(公共通貨)も、私の個人通貨(パーソナル・カレンシー)も、「別の形の呪い」なのです。失礼ながらKYさんは、貨幣の「呪い」とまで認識していながら、呪いの呪縛からいまだに逃れられずにいるように私には見えます。現代の銀行通貨が「呪い」であるという理解の平面に立てば、どちらの「呪い」も成り立ち得るということは理解できると思います。

それに共産主義は実現不可能ではありません。実際に不完全な形ながらも実現したのです。共産主義が実現不可能だというレッテルは思考停止を招くだけでしょう。

*****

quine10さん

quine10さんにはきっと関心をもって頂けるだろうと期待していました。

ベーシック・インカムに税の廃止が加われば、まさに国民のための政治と言えるのではないでしょうか?

結局のところ、税というのも貨幣という「呪物」の性質からでてくる副産物のようなものなのだと思います。ですので、「呪い」の性質が変わると副産物の性質も変わる。国家というものを運営する以上、何らかの形での税負担は免れませんが、現在の貨幣の形ですとどうしても国家への依存度が高くなって、税負担も大きくなってしまう。「高負担高福祉」なんてのがそれですね。

ということは、国家への依存度を少なくするように貨幣を設計できれば、少ない負担で手厚い福祉が可能になる。ダグラスの「国民配当」という考えも、私の個人通貨も、そういった制度になるだろうと思っています。

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