愚慫空論

選挙が始まった

とうとう参議院選挙が始まった。今度こそ天下分け目の戦いになる。確かこないだの衆院選のときもそういう声が飛び交っていたような気がするが(笑)、いや、間違いなく天下分け目の戦いであったわけだけど、今度も間違いなくこの国の進路を定める選挙になる。
この戦いで与党が勝利すれば、彼らは自分たちの思い描く通りにこの国の形を変えていこうとするだろう。仮にそうなったとしても彼らの思う通りがそう長く続くとも思えないが、当座はそうなるだろう。
当座の間にせよ彼らの思う通りのこの国が動かされてしまえば、多くもものが失われることになる。取り返しのつかなくなることも多かろう。取り返しがついたとしても多大な犠牲を払うことになるだろう。だから、彼らの思うとおりにさせてはならない。
では、どうすればよいかというと、答えは簡単。選挙で投票すればいい。それだけではない。ほかにできることもある。彼らの思う通りにこの国を動かされてしまうと大変なことになる、と周囲の人に訴えるのもいい。直接話をするのも良いし、ブログという手段だってある(なんでも、特定の候補者を応援してはいけないらしいけど。おかしなことだ)。

そんなことはわかっている。幸運なことに今回の戦いは彼らのほうで墓穴を掘ってくれている。千載一遇のチャンスだ...。
そんなことはわかっている。けれど、選挙、ああ、うるさいな、放っておいて欲しいな、という気持ちもある。かなり大きくある。
私の住居が過疎地であること、それに先日からの大雨のためでもあるだろう。まだ今のところ、外から騒々しい声は聞こえてこない。このまま、静かなままでいてくれ、と思う。

自分の中のそうした気持ちに気がつくと、片方からそんなことではいけないと叱咤する声がする。正論だ。その声の大切さはわかっているつもりだから、無視はしない。投票には必ず行く。周囲の者にだって話はする。
だが、放っておいてくれという気持ちを無視するのも、これまた良くないことだと思う。私だけでなく、おそらくは多くの人が持っている。だが、正論を意識して、なかなか共有できない、そんな気持ち。

放っておいてくれ、なんてのは、例えば安物の青春ドラマなんぞに出てきそうなセリフだ。困難な状況に陥り、拗ねて自棄になったキャラあたりがこうしたセリフを吐く。ここには逃避のイメージがある。
私の中の「放っておいてくれ」も、逃避ではない、とは言わない。だが、拗ねてなんかはいない。自棄にもなっていない。自分の為すべきことは果たして行きたいと思う。それはまずは、自分とその家族が平穏に暮らしていけるようすること、次は社会と関わっていくことである。

自分と家族を守るためには、社会と関わっていくことは不可欠だ。生活の糧を得るために、まずは職場。ここと良好な関係が築けなければ自分たちの生活を支えるのは困難。現代はそうした時代である。その他直接的なところでは地域・親類などのコミュニティーとの関わり、納税などの公との関わり。
そして間接的ながらそうした「時代」にコミットしていくことも大切だ。間接とはいいながら、「時代」は私たちの生活に大きな影響を及ぼす。経済が不景気になれば真面目に働いても暮らしは厳しくなるし、時には本人に何の咎がなくとも解雇の憂き目に遭わされたりする。直接に関わりはなくとも、個人と社会との直接的な関わりの中に介入してくる、とても重大な「時代」との関わり。民主主義、参政権とは、そうした「時代」と個人との関わりを間接ではなく直接なものにしようとする理念であり、制度である。

だが、ここで疑問が湧いてくる。直接的なものなら、なぜ放っておいてくれと思う気持ちがこんなにも大きいのか? 直接的なものだと本気で思っているのなら、金を稼ぐための労働を厭わないように、参政権を行使すること、行使するために各政治政党の政策等を自分の頭で吟味すること、これらは厭わしくはないはず。たとえ厭わしいという感情が残っていたとしても、それを越える動機が生まれるはずである。
ところが、どうも動機に乏しい。厭わしい、放っておいてくれという気持ちを抑えこむことができない。

つまりはこういうことだ。私はさほど理性的な人間ではないのだ。民主主義の理念はたぶん理解はできていると思う。100点満点ではないにしたって、まあ、なんとか合格点をもらえるくらいの理解には達していると思う。けど、感情の方はまったく失格だ。
いや、そんなのでは理解できてなどいない。理解度においても失格だと思われる方もおられようか。そうかもしれない。そう厳しく言われた認めざるを得ないかもしれない。それは正論だ。
だが、たぶん私は、そう言われたところで納得はしないだろう。反論はできずとも納得はしない。そして、厳しく主張する人を疎ましく思うだろう。そんな自分を卑屈だと思う一方で、だからといってこの気持ちをかき消すことなどできないだろう。

以下、卑屈ないい訳だとは思いながら続ける。

けれども、私のような庶民がそう感じるのも致し方ないような状況もある。その最もたるものが、政治家、公務員たちの態度だ。
彼らは国民のための公僕という定義づけがなされている。なされているだけではなく実際にそういう立場で仕事をし、彼らの生活の糧を得ている。直接間接という言葉を用いて言うと、彼らは大部分の国民(納税者)にとっては間接的であることを、直接的な仕事としているわけである。
ところが、どうだ。彼らが直接的だとしているのは、仕事という行為の2つの側面、ひとつは社会に関わること、もうひとつは社会に関わることから糧を得ることのうち、後者のみである。大部分の労働者はこのふたつに直接的に関わらなければならない。気分的には公僕たちと同じく後者にだけ直接的に関わりあいたいのだが、そうはいかない。そんなのは社会が許してくれない。直接的に関わっている職場が許してくれない。そのことをよく納得しているから、私たちは仕事の双方の面を自分たちにとって直接的なものだと捉えていく。
政治家、公務員がみなそうではない、
理性的な人もいるという反論もあるかもしれない。だが、それは一般の国民にだってそういう人はいるから、公務員にだっているのだいうだけのことではないのか。そもそも、彼らはその仕事を志し、試験あるいは選挙によって選ばれた人ではなかったのか。彼らは多くの人にとっては間接的であることも、自らの理念で直接的としなければならない人たちのはずである。何より自ら志したのだ。
だが、実態はどう見てもそうではない。志のあるはずの彼らとて、間接的なことはやはり間接的なのである。ならば、私のような人間が間接的だと思うことの、何がいけないのか。そもそも人間とはそうした存在ではないのか。

そんな思いとは裏腹に、時代はますます間接的であるはずのものが重くのしかかってくるようになってきている。時代の進みようによっては、自分の家族を間接的なものに差し出さなければならないかもしれない。そんなところに時代は進みつつある。今は、直接、間接などとゴタクを並べているときではないのかもしれない。たぶんこれは正論なのだろう。

しかし、近頃思っているのは、なにもかにもを直接的に取り扱い放っておいてくれないこの状況、この状況を作り出す理念と制度こそが問題なのではないか、ということだ。

放っておいてくれない状況の典型的が例は戦争である。いったん、戦争状態に陥ってしまうと、戦争に積極的に関わるような圧力がより強く働く。放っておいてくれ、などと言おうものなら命を失いかねない。逃げ出すのも難しい。
互いが互いに放っておくならば、戦争などという事態になりようはない。欲をもって関わろうとするから戦争になる。
私たちの生活する時代の行方を左右する天下分け目の参議院選挙も、武力は用いないにせよ戦争である。参政権など行使したくない、放っておいてくれといったところで直ちに命を失う危険に晒されるとはないが、逃げ出せない。戦いの行方は否応なしに私たちを巻き込んでいく。

またしても正論が吐く。本物の戦争にしたくなかったら、民主主義的な戦争に積極的に関わるべきだ、と。それはそうだ。
これ以上は何度やっても堂々巡りにしかならないだろうから、もうやめよう。
 
あと一言。
各党の政策なるものを眺めてみたけど、どれを見ても放っておいてくれそうなものがない。どれもこれも、積極的に関わっていきます、なんてものばかりでため息が出る。
念のために言っておくが、規制緩和は私が言いたいところの放っておいてくれ、ではない。経済は権力よりも始末が悪い。動かしている人間が勤勉である分だけ、余計に放っておいてくれない。

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抜け出す第一歩は「隷属の認識」

国際寄生者は、巧妙に「知的謀略」を駆使して、宿主構成員(我々)が奴隷であることや隷属していることを感じたり認識しないようにしてきた。 「自分と家族が共同体のなかで自立して生存できる条件を保有していないこと」を、土地に縛られない自由の獲得だと説明している。

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