愚慫空論

分解の誤謬 ~ “出産は義務”

「合成の誤謬」という経済学の用語があります。意味は
ミクロの視点では正しいことでも、それが合成されたマクロの世界では、意図しない結果が生じてしまうこと
ウィキペディア「合成の誤謬」より)


では、ミクロとマクロが入れ替わった「分解の誤謬」、すなわち“マクロの視点では正しいことでも、それが分解されたミクロの世界では、意図しない結果が生じてしまうこと”といったことがあるかというと、どうも経済学ではないらしい。また、ないのかと思って“分解の誤謬”で検索してみても、それらしき解説は見当たらない様子。

けれども、政治の世界では「分解の誤謬」はあるのかもしれないと思わされたのが、麻生太郎内閣総理大臣の“出産は義務”発言です。
私は43(歳)で結婚して、ちゃんと子供が2人いましたから、(夫婦としての)一応最低限の義務を果たしたことになるのかもしれませんよ
首相自身、この発言を自ら不適切として撤回しています。確かに不適切でしょう。けれども、必ずしも不適切と言えないという意見もおそらく出てくると思われるし、それはそれで間違いとは言い切れない部分もある。では、適切と不適切を線引きするラインはどこにあるのか? そこを考えてみたいと思うわけです。その切り口がミクロとマクロの線引きになります。

まず、マクロの視点で“出産は義務”を見てみます。例えば日本というマクロな視点において、人口は減少傾向にあると言われている。私は人口減少は環境問題の観点から好ましいことだと考えている人間ですが、それでも新たに子どもが生まれてこないのがよいとは思いません。つまりマクロの視点では「出産は義務」は不適切とは言えない、と考えます。ただし、積極的に適切と評価すべきかというと、そうではない。夫婦になれば、また別に制度的に認められた夫婦でなくても、成熟した男女が自然な交わりをすれば子どもは生まれてくるものですから、それを義務だというのはどこか的を外した観があります。ただ“子孫を残すのは生物の義務”といった言い回しを不適切だとは感じない、といったレベルのもので、ことさら義務と言い立てる必要はない。適切かと尋ねられれば首をひねるが、不適切かと聞かれれば“そうとはいえない”と消極的ですが答えることになります。

そうなると積極的に不適切なのは、ミクロの視点で「出産は義務」をみたとき、ということになるでしょう。マクロで人口を維持するなら夫婦一組あたり(ミクロ)2人の子どもが必要という「分解」は、初歩の算数の問題ですから、誰でも容易に理解できます。しかし、その「分解」をそのまま各々の夫婦に適用してしまうと、誤謬が生じる。マクロでは義務ということはできても、ミクロで義務としてしまうことはおかしい。ミクロのレベルでは、身体的あるいは経済的理由で子どもを持つことが出来ない、また夫婦の意志として子供は持たない、といったことは容認されなければなりません。ここは積極的に義務とすることは許されません。

では、次に見るべきは、麻生発言がマクロレベルであったか、それともミクロレベルであったか、ということになります。そう見ると、“私は~、~義務を果たした”という表現は限定的と受け止めざるを得ませんから、ミクロであるということになる。ならば、やはり麻生発言は、ご自身が撤回したとおりに不適切だ、ということになるでしょう。

ただし私は、首相にも弁解の余地はあるのではないかとは思います。というのも、首相という立場上、マクロの代表だという弁解も成り立ちえるからです。また最近、麻生首相は、そのマクロの代表として野党側から攻撃を浴びていたということもある。定額給付金を受け取るかのか否かの問題です。首相が受け取らないならば経済的弱者救済、受け取れば金融危機対策の経済振興策と、首相の行動のミクロな行動でマクロな政策の意味を決定づけようとした。そうした見方からすれば、今回の“義務を果たした”発言は、マクロ代表としては必ずしも不適切は言えない、と言えなくもないと思うのです。とはいうののの、さほど大きな余地とは言い難いですが。

コメント

珍しくコメントの無い話題でしたね。
処で、此の“fallacy of composition” と言う言葉は経済用語ですか?私は“全体の特質は必ずしも全体を構成する個の特質と言う訳ではない。”と言う古代ギリシャ哲学のアリストテレスの頃から存在する文章の論理的なトリックの事だと思っていました。
 私の間違いかも知れないので調べて見て下さい。
compositionは“構成”とかの意味がありますよね。其れと英語の授業でコンポジションと言うクラスも高校で受けた方もいられるかと思いますが“文章を構成する能力”と言う様な意味もあります。
 だから語源は文章を操る哲学的論法に関係するのか単に前記で説明したように全体と個の違いか、それとも両意義のあるものか、単に経済学の用語か..........?

ejnewsさん

そういえば、「誤謬」というのはもともとは論理学でしたね。一般にはあまり使われることのないこの言葉、私も知ったのは論理学の本だったと、思い返しました。論理学というとまずアリストテレスですから、ejnewsさんのご指摘は正しいと思います。

ただ「合成の誤謬」となると、経済学の用語として受け取られるのが一般的なところでしょう。日本でアリストテレスをまず思い浮かべる人は少ないのでは? 語源から離れて、経済学の用語として定着しているという印象です。

英語圏では“fallacy of composition” というと、やはりアリストテレスが連想されるのが一般的なのでしょうか?

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