愚慫空論

言葉と他者

何の前置きも脈絡もなく、話を始めます。

私の中にある表現のイメージは、下図のようなごくごく単純なものでしかありません。
言葉と他者

まず世界があります。世界は何の区切りもない連続したところです。そこのAという人物がいる。そのAが何らかの表現をした。表現とは“世界を切り取ること”だとしましょう。するとAの表現とは、Aによる“世界の切り取り”です。図では、Aの「切り取り」を赤い楕円で表わしてあります。

また世界には、Aにとっての他者Bもいます。BもAと同様に表現を為す。図の青い楕円は、Bの「切り取り」を表わしています。

Aの「切り取り」はAの主観です。またBの「切り取り」はBの主観です。つまり赤い楕円は主観Aでもあります。同様に青い楕円は主観B。

主観Aと主観Bは重なります。その重なりが客観。

世界にはAとB以外にもたくさんの人がいて、それぞれがそれぞれに世界を切り取って表現し、主観を展開している。主観は重なるから客観が生じる。ふつう客観とは、世界中の誰とでも重なるところを指して呼称するものでしょうが、世界にAとBの2人しかいないと想定すれば、主観Aと主観Bの重なりを客観と呼んで差し支えないはずです。


では次に、言葉とは何か? 私は言葉を“表現のための道具”と断言してしまってよいと考えます。ただし道具といってもふつうの道具とは異なるところがある。

その異なるところ。まず言葉は本質的に概念的な道具であるということ。

例えばです。私の家の外には、4つ足でワンと鳴く動物がいます。これを「犬」と表現します。もう少し詳しくいうと、私は連続している世界の中から“4つ足でワンと鳴く動物”という現象を感じ取り、その現象を表現するのに「犬」という言葉を用いる。「犬」の他にも表現法はたくさんあって、「い」「ぬ」と書き表してもあるいは「イ」「ヌ」としてもよい。手記してもキーボードを叩いても良い。また“いぬ”と発音してもよい。他にも点字で表現する方法もあるだろうし、手話でも表現できる。その他“dog”としても、大方の日本人に通じるでしょう(ここではとりあえず、日本語だけを言葉として考えることにします)。

これらさまざまな表現は、文字や手話なら視覚に、発音なら聴覚に、点字ならば触覚に依存している。けれども、そのいずれもが言葉であることには違いない。つまり言葉は、一旦認識されてしまえば、どの感覚器官から伝えられるかは関係ない。なにか物質的な部分(感覚器官経由で知覚される)に依存しなければ伝達は不可能だけれども、その本質は物質的なところに依存しない概念的なもの。

そうした概念的な性質を持つ言葉がなぜ生まれたかといえば、これは表現のため以外には考えられません。であるなら、言葉は表現のための道具だと断言できることになります。

道具としての言葉が、他の道具と大きく異なる部分は他にもあります。それは共有が前提の道具ということ。これは言葉が本質的に概念的であることと深く関連があります。

通常の道具は、だれかに専有されることが前提です。道具にはかならず使用者がいる。それは言葉も同じですが、同じ道具を同時に他者と共有することはできない。いえ、共同作業で使用される道具もありますけれども、それとて共有できる数には限界がある。それが道具と呼ばれるものの通常の性質です。ですから通常の道具では、専有が前提と考えて良い。

ところが言葉は、専有されてしまっては役に立たない。表現は伝わらなければ意味がありませんが、その表現が伝わるのは、表現の道具であるところの言葉が共有されるから。言葉は共有されなければ道具として役に立たない。

こうした性格の道具は、言葉の他には貨幣があるくらいでしょう。言葉も貨幣も、概念的で共有が前提。そうでなければ役に立たない道具です。これらはどちらも情報そのものだということもできるでしょう。表現とは情報発信に他なりませんし、また情報の原理は共有です。

情報を扱うといえば、技術の進歩によって最近になってめざましい発達を遂げたインターネットも挙げておかなければなりません。インターネットも共有が前提の道具です。しかし、言葉や貨幣と同様に概念的とは言い切れない。言葉や貨幣は情報そのものですが、ネットは情報そのものではなく情報を処理する物質的な技術を指しますから、概念的ではないのです。ですが、共有されなければ意味のない技術であることは間違いない。だとすれば、インターネットとは、概念的でないにもかかわらず共有が前提ということになる。インターネットが革命的だということをいまさら強調する必要はないでしょうが、そのどこが革命的かということはあまり言われていないような印象もあります。インターネットが革命的なのは、〔共有=情報の原理〕に沿うことが可能は物質的な技術である、というところにあります。



貨幣やインターネットについては別の機会に回すとして、話を言葉に絞ります。

言葉は表現のための道具です。表現とは“世界を切り取る”ことですから、言葉は“切り取り”のための道具だともいえます。しかし、切り取っただけでは主観に過ぎません。主観は必ずしも共有されることを前提とはしていない。

ここに矛盾が出てきます。言葉は“切り取り”のための道具である。と同時に共有が前提の道具でもある。この2つがピタリと一致するなら、言葉によって“切り取り”された主観は即客観です。図でいうならば、主観A=主観B=客観となり、赤と青の楕円は一致するはず。ところが現実はそうではない。だから、図のように重なり合うけれども、ズレたものになってしまう。そして、このズレが矛盾を生み出します。

このズレた部分、ここがふつうは主観と呼称されるところです。私はAが世界から切り取ったところをすべて主観Aとしましたが、これは一般的ではない。一般的に主観Aとは、Aの「切り取り」のなかからBと共有される客観を除いた部分、数学の集合の記号を借用して表記すると〔A∩補集合B〕の部分です。ここを主観A’としましょう。客観と主観A’はともに主観Aの部分集合であり、客観と主観A’の積は空集合です。つまり一般的に想起される主観と客観の対立は、当エントリーの表記では主観A’(あるいは主観B’)と客観との対立になります。

主観A’あるいは主観B’は、AあるいはBの感情を多く含む部分です。世界は区切りのない連続したところだと上で述べましたが、その連続は当然のことながら私たち自身にも及んでいる。つまり、世界を切り取る私たち自身もまた、連続して世界と繋がっているということです。私たちは感情で世界と繋がっている。そして私たちが世界を切り取るときには、どうしても世界と繋がっている私たち自身をも切り取ることになる。それが主観A・主観Bであり、そのなかでも私たち自身が色濃く残っている部分が主観A’・主観B’です。

主観A’・主観B’は、言葉で切り取られていながら、共有することが難しい部分です。言い換えれば言葉に出来ない部分。というのも主観A’・主観B’にあるのは、切り取ろうとした意志、目的、動機、あるいは価値観とその基盤になる精神世界といった部分だから。こうした部分はたとえ言葉にしても、核心部分はどうしても言葉の外へ逃げてしまいます。その逃げてしまう部分が主観A’であり主観B’です。

もともと価値観を共有している者同士、情緒的に深く繋がっている者同士の間では客観の部分が大きく、主観A’・主観B’は小さい。対して、感情的に反発する者同士では、どうしても主観A’・主観B’は大きくなってしまいます。このように主観A’・主観B’はA・Bそれぞれの関係性のなかで大きくなったり小さくなったりするわけですけれども、この大小の差異を言葉で埋めるのは大変に難しい。差異を言葉で広げることは容易だけれども、縮めるのは難しい。縮めるのは言葉そのものよりもむしろ、感情的な距離であることの方が圧倒的に多いというのが現実でしょう。

また、この差異は縮まることがあったとしても、なくなってしまうことはありえないと言ってもいい。つまり主観A=主観B=客観とはなりえない。ここには、AとBは連続しつつも個別の存在で、それぞれに意志を持っているという現実が立ちはだかります。

それぞれに意志を持った存在、AもBも意志を持っているということは、AにとってBは他者、BにとってAは他者であるということです。AとBが互いに言葉を通じての意思疎通を希求するにもかかわらず、伝わらない主観A’・主観B’が存在するということは、それはそのままお互いにとってお互いは他者だという現実を意味します。ならば、伝わらない主観A’・主観B’を認めるということは、他者を認めるということになる。つまり言葉で言い表せない部分主観A’・主観B’が、それぞれにあるということを認めることが、他者A・他者Bを認めることになる。

言葉は、ここに至ってはじめて他者を認めるための道具になります。言葉は共有されることが前提の道具です。共有されなければ道具として役に立たない。しかし、他者はその前提の外側にいる。また外側にいるからこそ、言葉を道具として扱えるともいえます。

言葉という道具は、たとえ共有物であるにせよ、やはり道具である以上私たち自身とは別個の存在です。つまり私たち自身を言葉で表現し尽くすことは不可能だということです。同様に他者も言葉で表現し尽くすことは不可能です。連続した世界を言葉で切り取るとき、その「切り取り」のなかに私たち自身の一部は紛れ込んでしまいます。が、やはりそれは一部にしか過ぎないし、その一部ですら共有するのは難しい。全部となると全く不可能です。これはつまり、私たち自身も他者も、言葉の外にあることを意味します。

コメント

目的(根拠)の違い

こんにちは♪
生活は落ち着きましたか? (^o^)

人間同士の関係性において、出来る限りのことを言葉として言い表しながら共有をはかっていくという作業は、すごく大事なことだと僕は思っています。
それは、愚樵さんが仰るように、そのことの外側にどうしても残ってしまう「主観A’や主観B’」を、逆に浮き彫りに出来ると思われるからです。
そうして、そのような「主観A’・主観B’」こそ、その人らしさだと思う。
そこが残るということをこそ知りたいわけですし、その分からないところをこそ大事にしたい。
ですから愚樵さんの論に同意。

同じように「言語化して共有する作業」を非常に大事だと思っている人でも、その「共有すること」自体をこそ大事にしたいと思っている人もいると思います。
しかしそうなると、同じように「共有する作業」を大事だと思っていても、僕とはそれを大事にする根拠が違ってきますよね。
で、こちらは「主観A’・主観B’」のエリアに入っている事柄なわけですが、しかしこれらも相手が受けとれるように言語化することは可能です。
問題は、その「差異」について「共有できる」かどうかということになって・・・。
このへんのところで、あっちこっちでワアワアなっちゃう感じですね。 (^o^)

言葉はツールだからこそ

なかなか面白い話ですね。
言葉はツールであるからこそ
バベルの塔の話も含め、含蓄があるんでしょうね。

もっと一般的な話で
自分の好きな音楽って生まれながらに好きなわけではないわけで、なんらかのきっかけ つまり他人の影響を受けたときに初めて好きになる(というか そも前段階で、初めて聴いて 知るということになるわけですが)
というようなところでも 他者を認めることで自分の音楽観ができてくるような感じがありますね。

『蠱物~』やっと届きました

アキラさん、こんにちは。

当エントリーは、おわかり頂いているでしょうけれども、TB頂いた「蠱惑的」「判断的」シリーズがその動機となっています。そのネタ本となる『蠱物~』が、つい先ほどやっと届きまして、これからボチボチとページを開いてみようというところ。amazonに注文してもなかなか届かず、yahoo!のオークションで入手したような次第です。

言葉についてのエントリーは、引き続きいくつか挙げてみようと思ってます。これから読む『蠱物~』に従って、「蠱惑的」「判断的」という線引きに近づく方向で出来ればと考えていますけれども、さて、それが思いどうりにいくのか、自分でもよく分からない(苦笑)。要するに、出たとこ勝負、なわけですが。

そのような「主観A’・主観B’」こそ、その人らしさだと思う。
そこが残るということをこそ知りたいわけですし、その分からないところをこそ大事にしたい。

はい。こうした言葉に対する態度は、私とアキラさんとの共通点だと思っています。そして「蠱惑的」「判断的」の区分けでいうと、「蠱惑的」になるのだろう。当エントリーも「蠱惑的」な見地に立ったものだと言うことができると思うのですね。

同じように「言語化して共有する作業」を非常に大事だと思っている人でも、その「共有すること」自体をこそ大事にしたいと思っている人もいると思います。

こちらは「判断的」であり、理知的と言えばコチラがデフォルトなのでしょう。ただ、私はやはりコチラには批判的なのです。言葉に対する態度が異なり、その態度をとる根拠が異なる、という論理が分からないわけではないつもりではいるのですが、疑義は捨てきれない。

そのあたりのことも、近いうちにエントリーとして挙げてみようと思っています。その折には、どうかまたご意見ください。

ろーりんぐそばっとさん

ようこそ。はじめまして。

もっと一般的な話で
・・・・
他者を認めることで自分の音楽観ができてくるような感じがありますね。


私もそう思い、そう感じます。

ある人にとって最初の音楽観が確立される場合において、生まれ育った環境といった要因も大きいでしょうが、それ以上に誰かの影響を受けるということも大きいように思われます。慕っている他者、尊敬している他者が好きな音楽だから私も好きになったといった、音楽そのものよりも音楽を取り巻く情緒的な部分が大きく作用するように思うのです。

一旦音楽観が確立されてしまうと、その後は音楽そのものへの関心は深まり、音楽周辺の情緒的要素が占める部分は少なくなるのでしょうけれども、それでも、他者を認めることは自らの音楽観を多様化させていくことに繋がる。このときの「他者を認める」は音楽の場合だと、やはり情緒的なことが多いようです。

このようなことは音楽に限らず、“世界を切り取ること”、すなわち表現全般に見られる傾向だと思います。ただ言葉に関しては、情緒的に他者を認めることから価値観を多様化させることは、あくまで文学的・情緒的であって理知的な営為とは見なされない傾向があるように思うのですね。音楽に代表される言葉以外の表現においては、情緒的と理知的(これは別の表現をすると「蠱惑的」「判断的」になるのでしょうが)な区分けが、言葉ほど強調されない印象を受ける。そのあたりが言葉というツールの特殊性なのかなと思っていたりします。

『蠱物~』

お手数かけさせてしまいましたね。
楽しんでいただけるとよいのですが。。。

>言葉に対する態度が異なり、その態度をとる根拠が異なる、という論理が分からないわけではないつもりではいるのですが、疑義は捨てきれない。
<

この疑義、興味があります。
楽しみにしてますね♪

前提が間違いでは?

矢張り話の前提の『主観Aと主観Bの重なった部分が客観』には無理があるでしょう。
基本的には『客観的事実』と其々の『主観』は重なるか重ならないかには関係有りません。
主観の重なった部分は客観ではなく『主観の共有部分』でしか有りません。
『主観の共有』は親しい間では重用かも知れませんが、『共有された主観』が、其れが幾等多人数でも『客観的事実』に変化することは無いと思いますよ。
個々の主観と完全に独立した客観的な存在が『客観』のはずでは有りませんか。?
NHKなどの巨大なマスメディアを使えば殆んど全ての主観を一定方向に誘導する事は可能ですが、国民全部が同じ主観(主観の共有部分)を持ったとしても矢張り『主観』にすぎず『客観』ではない。
主観とは『何をどの様に認識するか』に密接に関係するが、客観は『個人個人が認識する或いは認識しない』とはまったく関係ない。
幾等多くの『主観』の共有部分を集めても、正しいことは正しいし間違いは間違いで、『客観的』な事実は何ら影響されない。

「連続した世界」という大前提

逝きし世の面影さん、どうもです。

『主観の共有』は親しい間では重用かも知れませんが、『共有された主観』が、其れが幾等多人数でも『客観的事実』に変化することは無いと思いますよ。

面影さんのご意見も「前提」ですよね。そうした見方もありだと思うし、コチラの方が一般的な見方であるかと思います。こちらは世界を不連続なモノとする見方です。“『客観的事実』は変化しない”という発想は、世界が断絶のある客観的事実の集合体だ、という大前提から生まれてきます。この発想の行き着く先は「原子論」になるでしょうか。

私たちが世界を切り取るときには、どうしても世界と繋がっている私たち自身をも切り取ることになる。それが主観A・主観Bであり、そのなかでも私たち自身が色濃く残っている部分が主観A’・主観B’です。

こういった見方は面影さんの大前提からは生まれてこないもので、それはそれでよいと思います。

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