愚慫空論

番頭の世襲はよくないだろう

久しぶりの更新です。

引越しのドタバタのなかで更新する時間がなかったというよりも、どちらかというと意欲がなかったのですが、とりあえず紀州から甲州への移動は終了して、片付くのにはまだまだ時間がかかりそうな状況ではありますけれども、意欲の方はなんとか湧いてきたので、とにかく何でもいいから更新してみよう、という次第。とはいえ、時間がないのは相変わらずなので、軽く短くいきたいと思います。

取り上げたいのは議員の世襲問題。民主党は以前から議員の世襲禁止を掲げていますが、最近になって自民党にもそうした動きが出てきて、またその動きに対する反発も出てきてと、まあ、つまり、議員の世襲問題がまた話題になっているというわけです。

私は以前にこの問題について、村野瀬さんのところで意見を表明したことがあります。

『政治家の世襲の「法による禁止」は是か非か』(村野瀬玲奈の秘書課広報室)

その意見を簡単に述べますと“法による禁止は有権者の権利を侵害するからダメ”ということで、その考えには今も基本的に変わりはないのですけれども、今日はもう少し違った角度から考えてみようと思うわけです。


話は少し変わりますが、日本は長寿企業大国なのだそうです。このことを知ったのはNHKスペシャル『長寿企業大国にっぽん』というTV番組でしたが、それによると、日本には創業100年を越す企業が数万社あるという。これら歴史の長い企業は当然のごとく同族経営のところが多いのでしょう。そうした事実を見て“実は同族経営は強い”などといったことも言われたりするようですが、番組で強調されていたのは、企業を長く維持するには“番頭の存在が大切”ということだったように記憶しています。

同族経営の企業が代々受け継がれていくということは、企業の主人は世襲であるということです。そうした企業では、いわゆる家訓としていろいろな「知恵」が受け継がれていく。そのなかに番頭を尊重するといったことも含まれるわけですが、その番頭とは使用人の筆頭という意味です。現在企業形態の主流を占める株式会社という制度では番頭に相当する役職は見当たりませんけれども、例えば社長が創業家の家系の者であったなら、副社長や専務あたりが番頭と呼ばれたりすることは今でもよくあることのようです。

企業が同族経営で世襲されていく場合、跡を継ぐ者の数は当然限定されていきます。けれども、使用人筆頭である番頭は違います。多くの使用人の中から競争で勝ち残った者が番頭と呼ばれる役職に就く。番頭は、だからこそ尊重されるのでしょう。日本に数多い世襲企業のなかでも番頭と呼ばれるような者を抱えている大きな企業となるとその数はぐっと少なくなるのでしょうが、それでも相当数存在するのでしょう。では、それらの企業のなかで番頭が世襲になっているところは? 番頭の世襲制などといった話は聞いたこともありませんし、現在にも過去にも番頭が世襲するといった例は、ないとは言い切れませんが、主人が世襲するほどには存在しないといって間違いなかろうと思われます。

そうしたことから考えると、企業が長く存続するに当たっては〔主人=世襲-番頭=競争勝者〕というカップリングは、相当に有効な組み合わせであると考えられます。それは実績からも言えることですし、理に適っているとすらいえるかもしれない。血の繋がりによる裏打ちは企業存続への意志をより強くするでしょうし、企業存続のための実際的な経営には番頭を尊重することによって対処できます。



国家で主人というと、古くは王とか皇帝とかいった支配者ですが、現在の民主主義体制下では、国民がその主人。番頭にあたるのは政治家ということになるでしょう。そう捉えると、政治家の世襲というのは番頭が世襲していくということになる。

国家というレベルでは、過去ずっと番頭の世襲ということは行われてきました。貴族といった階級がその代表例なわけですが、議員の世襲問題が話題になるときには必ず国家の近代化云々といった話が出てくる。これは前近代-貴族政治という図式が想定されているせいなのでしょうけれども、企業というレベルでは近代化する以前からずっと番頭は世襲されていくものではなかったようです。国家は国土と国民が存在する限りいかなる形にせよ存続するものですが、企業はそうはいかない。経営がよくないと潰れて存在しなくなる。そうした厳しさから企業のほうがより早く近代化したのだといえるのかもしれませんし、近代化といった限られた枠を越えたところにある“知恵”なのかもしれません。

血筋というものは、引き継がれ存続していこうとする意志を強く持つ。これは人類普遍の原理といってよいでしょう。地位・財産の世襲は、その原理が強く表れたものと思われる。この原理を社会がどう扱うかというのは難しい問題で、それをうまく制御してきたのが「知恵」というものだったのでしょう。主人が世襲であることは、血筋がもつ存続しようとする原理と企業存続の方向性とがうまくかみ合うことになった。ところが番頭までも世襲になり血筋を存続させようとする意志が働くようになると、これは企業の利益とバッティングするようになる。血筋存続が優先されて、番頭は企業に寄生する存在に堕ちてしまう。

厳しいところで生き抜いていかなければならない企業には、当然のことながら寄生虫を養っていく余裕などないわけです。また寄生虫に取り付かれていった企業があったとしたら、それは淘汰されていったことでしょう。そうしたなかで〔主人=世襲-番頭=競争勝者〕といった「知恵」が自然と育まれていった。長きにわたって厳しい環境を生き抜いてきた長寿企業に共通してそうした“知恵”が備わっているのは、決して不思議なことではないのでしょう。

国家は企業に比べれば規模の大きな存在で、しかも潰れる心配がない。なので「寄生虫」を養っていく余裕もあったのでしょう。歴史には「寄生虫」に養分を横取りされていた史実がたくさんあります。国家が近代化していく出発点となった市民革命とは、そうした「寄生虫」を退治しようとするものだったのかもしれません。またそう見ると、最も早く市民革命が成し遂げられたイギリスでいまだ王制が存続している理由も理解できようというものです。つまり君主は国民からみて必ずしも「寄生虫」ではないということ。君主の血筋の存続が国(≠国家)の存続と重ね合わされることで、国民にある種の求心力が働く効果もある。その効果は、国民ひとり一人に主権が存する民主主義国家においても、かならずしも悪というわけではなさそうです。

日本もイギリスと同じく、天皇という君主の血筋が代々受け継がれていく体制です。大方の国民はこの体制に異を唱えてはいませんが、なかには民主主義の理念からしておかしいと考えている人もいる。確かに民主主義の理念からいえば、最も相応しいのは共和制でしょう。国家元首も国民の意思を反映させる契機である選挙で選ばれる。このかたちが民主主義の理念といちばん相性がよい。けれども、国のかたちといったものは理念だけでは組み上がらない。国民が国家を組み上げる理念を支持しなければ意味がないわけです。その支持という次元においては君主制も共和制も同じレベルのものですし、またどちらかにはっきりと色分けできるものでもない。立憲君主制などは君主制と民主主義との妥協点とでもいうべきものでしょうが、その妥協のありかたも国によって様々。みな、各国国民の支持に拠るわけです。

“番頭(≒政治家)の世襲は良くない”といった「知恵」も、君主の存続が必ずしも悪ではないと言ったことと同様、民主主義の原理からはうまく計測できない問題なのでしょう。この問題を民主主義の原理から見ると、最終的には有権者の選択だということになるのだけれども、その選択に際して世襲議員はどうしても有利な部分が出てきてしまう。いわゆる“ジバン・カンバン・カバン”というやつです。その結果として世襲議員の弊害が言われるようになるのだけれども、だからといってそこを法でもって規制するということになると有権者の選択の幅を狭めることになる。今、民主党あたりからは親族が同一選挙区から立候補することを禁じるといった構想が出ていますけれども、親の地盤を継いで子が政治家として立つということを望んでいる有権者もいることを考えると、不当ともいえる有権者の権利制限になる。たとえ世襲議員による弊害という実害はあるにせよ、民主主義の根幹をなす有権者の権利を制限してしまうことは、今後に大きな禍根を残すことになるのではないかと思うのです。



また少し話は飛びますが、昔、オウム真理教が世間を大きく騒がせたことがありました。あのとき世論は実害を与えたオウムという宗教団体の構成員を世間から隔離することを望んだ。警察はその世論の支持を受けて、信者を次々と逮捕していったわけです。今も草薙君の逮捕・家宅捜索で警察の行き過ぎが一部で非難されていますけれども、そのときの警察の行き過ぎはそれどころではなかった。わずかばかりのスピード違反といったような、通常ならば身柄を拘束するのに十分とは言えない理由で逮捕された。それを世論は実害があったという理由でもって「支持」したわけです。しかし、その警察の権利濫用と世論の「支持」は民主国家の原則を大きく踏み外したのですね。もし、あのオウムの事件の時に、私たちが警察の権利濫用を批判していたら? おそらく草薙君の逮捕はなかっただろうと思うし、また小沢氏秘書の不当逮捕もなかったかもしれない。

ここから言えるのは、いかなる理由があろうとも民主主義の原理原則は守らなければならない、ということでしょう。その時点ではいかに実益があろうとも、一度原理原則を歪めてしまうと将来に大きな禍根を残すことになりかねない。今の時点で議員の世襲を制限することには、少なからぬ実益があるとは考えられる。しかしその制限は、有権者の権利を規制することなしにはできないわけです。今ここでそれを許すと、「正当な理由」があれば有権者の権利を国家が制限できると実績を作ってしまうことになる。そして、「正当な理由」などといったものは、国家はいかようにデッチ上げられるのですね。そのことは常日頃権力者を批判的に眺めている者はよく知っているはずなんです。

つまりはこういうことだと思うのです。民主主義の原理で上手く計測できない他の原理があるということを認めた上で、それを民主主義の手続きで制限する方向に持っていってはいけない。民主主義という制度は非常に高コストな制度ですが、そのコストは何のために支払われるのか、支払わなければならないのかを考える必要がある。法で制限するというのは、短期的には最もコストのかからない方法です。が、そのコストは後々、様々な形に姿を変えて私たちの所へ帰ってくる。そしてたいていの場合、より大きなコストになってしまっている。これは必ずそうなるといった物理法則のようなものではなく、そのようになりがちといういわば「知恵」のレベルの認識でしかありませんが、決して軽く見てはならないものでしょう。

そう考えれば、議員世襲問題を考える方向性はみえてくるでしょう。選挙にかかるコストを国民がより多く負担する方向で考えればよい。ここでは触れませんが、企業献金についても、私は同様に考えるべきだと思っています。

コメント

旧民法では世襲制が基本だが

咸臨丸でアメリカに渡った日本の使節団が、アメリカ人に建国時の大統領ワシントンの子孫の話を聞いても誰も知らなかったので大変驚いたらしい。
民主主義と封建制の道徳や常識に対する認識の違いですね。
民法も旧明治憲法では全ての財産・権利の長子相続が決められていましたが、これは明治政府の中心だった薩長の(家禄を分割できない)下級武士の道徳『儒教』(朱子学)を法律化したからで、徳川時代でも町人の間では(旧民法の様に)実力の無いかもしれない長子相続の世襲制では家業が持たなかったようです。
長い間続いているところは例外なく、主人が自分の息子ではなく、これはと見込んだ番頭を娘の婿として迎え後を継がせた。(長子相続の家は同業者の間の信用が低かったようです。)
商家では、自分の子供は分家させて、本家は実力本意で跡継ぎを選んでいたので長い間続く事が出来た。(実力本意の民主主義は何も西欧だけにあったわけではない。)
ところがそんな町人文化など全く知らない田舎の下級武士は、自分の知っている道徳こそが全てだと思っていたので、(本来武士等の特定なものだけに通用する)世襲などの考え方を法律(旧民法)にしてしまう。
もともと、サムライなどは日本人全体の5%程度の少数で本来はマイナーな道徳だったが、法律化することによってメジャ-な道徳として今では思われるようになって今日に至っている。
しかし矢張り実力を無視した身分制であるバーチャルな仮想空間の『世襲制』では、実力がものを言うリアルな現実社会に適応できず色々な『無理な要素』が多く難問続出する様です。
昨今問題となっている政治家の世襲制などは元々の『先祖がえり』で、この支配階級だった武士の根性(心象風景)が垣間見れて興味深い現象ですね。

世襲制は百姓道の道徳でもあったのでは?

面影さん、どうもです。

>これは明治政府の中心だった薩長の(家禄を分割できない)下級武士の道徳『儒教』(朱子学)を法律化したからで、

ええ、法制化はその通りなのでしょうけれども、日本に世襲制の道徳が広がったのは、当時の人口の9割を占めた農民たちの道徳に合致していたからだということが大きいと思います。農民たちにとって、田畑の占有権は血筋に従って相続されていくのが自然な形だったでしょうし。

これは日本に限らずでしょうが、民主に根付いた道徳は法制化程度では簡単に覆るものではない。例えば商法(会社法)ですが、ずっと以前から株式会社は株主の所有物という規定が為されてあった。けれども、日本では長らく会社は従業員のものという意識が支配的だった。その意識は日本人の共同体意識の反映ですけれども、これは商法を組み上げる元になった近代的所有の理念とは異なるものです。最近でこそ共同体意識が希薄になって近代的所有の理念の方が浸透しつつありますけれども、そのお陰で今度は「国のかたち」そのものが混乱に陥りつつある。

また昨今では、「サムライ」といった言葉が随分ともてはやされています。これは実力本位といった意味での「サムライ」、江戸時代の官僚化した武士ではなくて、それ以前の下克上だった時代の「サムライ」であるはずで、むしろその精神から商家に近い、世襲など潔しとしないもののはずなのですが...。TVなど眺めていると、実力本位の精神を持ち上げるときには「サムライ」を使う一方で、政治家世襲の話題の時には長年庶民に支持され続けてきた老舗を取り上げたりして、まあ、その節操の無さには呆れる他はないと言ったところです。

状況によりけり

政治も企業も、混乱したときは実力主義、平和な時は世襲制ですね。

混乱期に無能な人が舵取りをしたら、発展どころか生き残りすらできません。なので、最低限生き残るためだけでも、実力主義が適切となってきます。

平和な時に最も必要なのは「混乱を起こさないで、まとまっている」ことです。まとまるときは、何らかの共通目標なりシンボルが必要です。
実力主義に公平性を期するといっても、そもそも評価の基準が統一されているわけではないので、混乱を起こすリスクを抱えています。となれば、「まぁ、あの人の子だから」という消極的な動機でシンボルに祀り上げた方が混乱を起こしにくい。なので、平和時には世襲制が最も効率的となります。

>民主主義という制度は非常に高コストな制度ですが、そのコストは何のために支払われるのか、支払わなければならないのかを考える必要がある。

その前に「なぜ、非常に高コストな制度である民主主義を採用したのか」ということを考える必要があります。
民主主義も「手段」であって「目的」ではありません。民主主義を採用した方が良いから、民主主義を採用したのです。「民主主義は適当ではない」というケースについては、民主主義を採用してはならないのです。

状況ではないでしょう

わくわくさん

> 政治も企業も、混乱したときは実力主義、平和な時は世襲制ですね。

ええ、主人はそうでしょうけれどもね。混乱期は力のある番頭がのし上がって、主人に取って代わる。下克上というやつですね。

しかし、いつの時代も番頭の世襲というのは良くないと思うのですよね。番頭の世襲は腐敗の発生源でしょう。多くの国民が日本の政治が劣化していると感じているはずですが、その一因に「番頭の世襲」があるはずです。

> 混乱期に無能な人が舵取りをしたら、発展どころか生き残りすらできません。なので、最低限生き残るためだけでも、実力主義が適切となってきます。
> 平和な時に最も必要なのは「混乱を起こさないで、まとまっている」ことです。まとまるときは、何らかの共通目標なりシンボルが必要です。

> 実力主義に公平性を期するといっても、そもそも評価の基準が統一されているわけではないので、混乱を起こすリスクを抱えています。となれば、「まぁ、あの人の子だから」という消極的な動機でシンボルに祀り上げた方が混乱を起こしにくい。なので、平和時には世襲制が最も効率的となります。

はい。ですから、〔主人=世襲-番頭=競争勝者〕のカップリングは有効だろうと。しかし、今の政治家に、自らは番頭だという意識がどれほどあるのでしょう? また、国民にも主人だという意識は希薄のようですね。

> >民主主義という制度は非常に高コストな制度ですが、そのコストは何のために支払われるのか、支払わなければならないのかを考える必要がある。
>その前に「なぜ、非常に高コストな制度である民主主義を採用したのか」ということを考える必要があります。

それは、国民という多数が主人であるため、でしょう。主人は事前にコストを負担するから主人なんです。コストを負担しない者は「寄生虫」であって、排除される。

ところでコストには、短期的な(事前の)コストと長期的な(最終的な)コストがあって、長期的なコストを負担するのは国家の主人がだれであれ、必ず国民です。で、短期的にコストを負担するのが主人です。民主主義は、短期・長期のコスト負担者が同じという点で優れている、というわけですよね。

> 民主主義も「手段」であって「目的」ではありません。民主主義を採用した方が良いから、民主主義を採用したのです。「民主主義は適当ではない」というケースについては、民主主義を採用してはならないのです。


御意。

状況によりけりです

まず、愚樵さんに反論をしているのではない、ということを踏まえて読んでもらいたいと思います。「国会議員は番頭」という以外は、概ね愚樵さんと同じ意見ですので。
(こういう考え方もできる、という程度で)

>ええ、主人はそうでしょうけれどもね。混乱期は力のある番頭がのし上がって、主人に取って代わる。下克上というやつですね。
>しかし、いつの時代も番頭の世襲というのは良くないと思うのですよね。番頭の世襲は腐敗の発生源でしょう。

国会議員が番頭かどうかは別としても、腐敗の根絶を言うなら、実は世襲の方が都合がいいんです。
なぜなら、「実力でのし上がる」も「不正行為を働く」のも、『目的』が「より多くの利益を得たい、新たな権益を得たい、現有の権益を保持したい」というものであって、実力も不正も、ともに『方法論』でしかないからです。
つまり、腐敗を根絶したいのであれば、「世襲=地位や権益が移動しない、利益の増減が少ない」という、それこそ『目的の達成』の部分にメスを入れるのが最も有効ということです。

また、下剋上は、必ずしも有能な人がなし得るものではありませんから、ちょっと違うかなって思います。
混乱期の実力主義は、ステークホルダーが推戴する形でのリーダーの選出となるのが多いですから、「敵対的」ではなく「友好的」ということになろうかと思います。

>多くの国民が日本の政治が劣化していると感じているはずですが、その一因に「番頭の世襲」があるはずです。

「なきにしもあらず」という程度ですね。「あるはず」とまでは断言できません。
ちょっと視点をずらしていえば、日本の政治が劣化したことを、否定的に捉えるばかりでは問題解決を遠のかせると思います。
「強い政治」が必要となるのは、「民衆だけでは克服できない混乱」が発生したときであり、「強い暴力を必要とするとき」です。かつて日本は「経済一流・政治二流」という言葉で評されていました。世界第二位の経済力を誇りながらも政治が劣化していたのは、それだけ政治の必要性が高くない、いわば、国民が概ね安定して生活を営むことができていたことを意味するのであって、必ずしも悪いことではないと、私は考えています。
(もちろん、今は、政治にしっかりしてもらわないと困るんですけどね。)

>はい。ですから、〔主人=世襲-番頭=競争勝者〕のカップリングは有効だろうと。

立場た地位に関係なく、「競争」が発生している時点で「安定」ではありませんよ。

>しかし、今の政治家に、自らは番頭だという意識がどれほどあるのでしょう?また、国民にも主人だという意識は希薄のようですね。

おそらく国民主権からの発想なのだろうと思いますが、政治家も国民の1人であって、一般国民との対立概念で説明するのは、本来は不適切ですだと思いますね。明治からの名残で、衆議院議員は「代議士」とも呼ばれるように、国会議員はそもそも国民の「代表」ですから。
まぁ、それは置いておくにしても、有権者自身に「日本国の国家権力の発露は、日本国民である」という意識が低いのは、私も問題だとは思っています。

>>その前に「なぜ、非常に高コストな制度である民主主義を採用したのか」ということを考える必要があります。
>それは、国民という多数が主人であるため、でしょう。主人は事前にコストを負担するから主人なんです。コストを負担しない者は「寄生虫」であって、排除される。
>ところでコストには、短期的な(事前の)コストと長期的な(最終的な)コストがあって、長期的なコストを負担するのは国家の主人がだれであれ、必ず国民です。で、短期的にコストを負担するのが主人です。民主主義は、短期・長期のコスト負担者が同じという点で優れている、というわけですよね。

これは動機の中でもネガティブな部分ですね。
それを否定するつもりはありませんが、ポジティブな動機も見出された方が、より国民の意識も高まるかと思います。
経済活動に例えると、愚樵さんの発想は「経費削減」に相当します。それも重要ですが、「売上向上」の発想を展開すれば、もっと前向きに民主主義を考えられると思いますね。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/232-e153c772

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード