愚慫空論

官僚専制国家

現在の日本国は、国民主権の立憲主義による民主主義国家だと言われます。

本来ならば上の文章は、“言われています”ではなくて“です”と断定したいところなのですけれども、断定するには少し心許ないところがあります。形式的には十分断定出来るのでしょうけれども、その内実はと考えると、果たして本当に国民主権なのかと少し首を傾げたくなるところはあります。そのあたりのところはよく“日本の民主主義は成熟していない”といったような文言で批判されたりしています。

少し昔のことを考えると、日本は明治時代から昭和の敗戦までは主権在君の立憲君主国家でした。明治22年に大日本帝国憲法という日本で初めての憲法が発布されて、日本は一応近代国家としての形を整えるわけですが、ここでもその内実はと問うてみますと、本当に主権在君であったかどうか疑問がでてくる。天皇主権とはいいながら、実は天皇には何らの決定権もなかったとも言われています。

もう少し遡って明治初期はどうかというと、これは君主独裁の専制国家でした。日本的にいえば天皇親政でしょう。幕府から大政奉還、つまり統治権の委譲があって天皇は名実ともに日本の統治者となった――と、これは歴史の教科書あたりで教わることですが、ここも本当に天皇が名実ともに統治者であったかと問うと、疑問が出てきます。教科書で教わる重要項目に板垣退助らの「民選議員設立建白書」というものがありますが、これは天皇の統治を批判したものではなくて、明治政府の藩閥官僚中心主義を批判したものでした。「有司専制」といった言葉もこの建白書に由来して生まれてきています。


「有司」とはすなわち官僚のことです。学校での歴史の学習では、この官僚専制批判が立憲の大きな要因になったように思い込まされてしまいますが、実際の所はどうか? 明治憲法を立案したのは伊藤博文ら「有司」でしたし、その「有司」たちが作った憲法は天皇を玉として頂きながらも、実質的には権限を与えない有司専制国家を形作るものだったと言っていいかもしれません。帝国議会という国政機関が設けられはしましたが、選挙で選ばれる衆議院より貴族院の方が上位にあったのは学習したとおりですし、さらには枢密院などいった機関もありました。

明治憲法が昭和の敗戦を経て現行憲法に替わり、日本の体制は大きく変わりました。日本は主権在民の民主主義国家となった。天皇は象徴となり、国権の最高機関は国民から選挙で選ばれた議員から構成される国会にあるとされ、制度的には国民が自らを統治する体制は整いました。が、ここでも問わなければなりません。内実はどうなのか? 日本は名実とも民主主義国家と言えるのか?

日本の政治に問題意識を持っている者で、この問いに「Yes」と答える者は少ないでしょう。日本はいまだ民主主義国家としての内実を伴っていない。多くの人がそのように考えているでしょうし、私もその考えには賛成ではあります。そして、この認識からは“内実が充実していないのは第一に国民の政治への参加意識が低いからで、もっと国民自身の統治者としての意識を高めなければならない”といった問題意識が生まれてくることになり、その問題意識は選挙によって選ばれる政治家への批判となって現れることになります。政治家の金権体質への批判などが、その典型ということになるでしょう。

しかし私は、この問題意識は是としながらも、別の問題意識も併せて持たなければならないと考えます。それは“ならば、国民に足りない内実を補っているのは誰か?”という問いから発して“現に日本を統治しているのは誰か”という次の問いへ繋がるもの。そしてそこから生まれる問題意識は、“日本は内実は、いまだ「有司専制」国家ではないのか”という疑義につながっていくものになります。つまり“主権在民の名の下に、官僚が専制的に権力を行使できるように権力機構が整備されているのではないか?”という疑義です。



この疑義はしかし、裏付けることがなかなか難しい疑義でもあります。というのも、それは上で述べたとおり、名目上はすべて主権在民になっているから。明治憲法下の枢密院のような、わかりやすいものがない。けれども、だからといって、「有司専制」が完全に排されているかというと、そうとも言い切れません。個別の「現象」を眺めていくと“それはいったい誰のため?”と疑問を抱かざるを得ないような事例が山とある。先に議論になったカルデロン一家の強制退去問題もそうでした。“あの処分で利益を得たのは誰か?”というところに問題意識を置くと、具体的な「誰」というのは全く分からなくなってしまいます。

死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う死刑

森達也

このような「現象」の代表例は、死刑制度ではないかと私は思っています。この制度も、具体的な「誰」のための制度であるのかが見えてこない制度です。凶悪犯罪の増加(というのはウソで、データとしては増えていない)や裁判員制度の導入などで再び議論が活発になりそうな死刑ですが、死刑存続を求める意見の中心は遺族感情です。では、現行の死刑制度が、その執行まで含めて遺族のためのものであるのかというと、それは必ずしもそうではない。遺族は死刑を望む個別具体的な加害者が、いつ、どこで、どのような形で死に臨むことになるのか、一切知らされることはない。それは法という形で規制されて、情報を与えてはいけないことになっている。いや、正確に言うと、情報公開してはならないという法規などなくて、ただ情報公開しなければならないという法がないという理由で情報公開が阻まれている。そんな状態のようです。

刑事訴訟法477条
死刑は、検察官、検察事務官および刑事施設の長またはその代理者の立ち会いの上、これを執行しなければならない。
二 検察官または刑事施設の長の許可を受けた者でなければ、刑場に入ることはできない。

この規定は、ただ死刑を執行するに当たっての必要要件を定めているだけであって、別に被害者遺族の立ち会いを拒否するものではない。それどころか別にメディアがはいってTVカメラで実況中継したって構わないはずだけれども、そうしたことは許可にはならない。誰が許可しないのか、許可しない権限は誰にあるのか、私などにはよく分からないし、また主権者が国民であるなら、その主権者が望めば実現されてもよいはずなのだけども、そうはならない。その事情は主権者の代表であるはずの国会議員でも事情は同じのようで、いったい官僚たちは何を根拠に誰のために法を運用しているのか、本当によく分かりません。

死刑に関する情報公開は、日本と同じく死刑大国であるアメリカでは大きく事情が異なります。彼の地では死刑といえども情報公開が為されているらしい。これは国民のための制度であるなら当然の処置でしょう。死刑も情報公開が為されるべきかについては議論はあるでしょうが、それは主権者が議論すべきことであって公務員に決定権があるわけがない。ところが日本では、実態としては、官僚がその権限を握っているようなのです。そして、こうした状態は死刑制度に限ったことではない。この状態は、国の様々な制度のそこかしこに見られる普遍的な状態であり、しかも厄介なことに、それが明確に定義することができないような状態で普遍的になってしまっている。



第15条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。

これはご存知の通り、日本国憲法の規定です。ここには公務員の任命権者は主権者である国民だとはっきり書かれてある。けれども、これは額面通りではない。通常、この規定は、「国民主権であるという原理」が規定されていると解されて、具体的な国民ひとり一人に公務員の選定罷免権があるわけではないとされます。公務員の中には選挙で選ばれる者たちもいて、それは衆参両院の国会議員を筆頭に、地方自治体の首長、地方議会の議員などがそうなのですが、これらの人達は、一応、選挙という制度を通じて国民ひとり一人に選択の権限が与えられている。その他選挙で選ばれるわけではない公務員は、選挙で選ばれた公務員が任命権者ということになり、それで間接的に国民はすべての公務員の選定罷免権を行使できるという形になっているわけです。

ここで問うてみなければならないのは“その原理が果たして健全に機能しているか?”ということです。特に高級官僚やキャリア組など言われる一部の国家公務員、つまりは固有名詞としてに「官僚」と言ったときに言い表される人達については、その原理が健全に機能していると感じている人は少ないでしょう。そう感じるのならば、次に問うてみなければならないのは“その原理を阻んでいるのは何か?”ということになる。答えはいろいろとあるでしょうが、私が答えるとするなら「根拠不明の法治主義」といったようなことになります。

「根拠不明」とは、上で死刑制度について述べたように、“法を何を根拠に誰のために運用しているのか、よくわからない”ということです。にもかかわらず、法は厳として存在する。選挙で選ばれようがそうでなかろうが、公務員は法に縛られる存在であり同時に法によって守られる存在でもある。縛られるか守られるかは法の運用に拠るわけですが、その運用の権限はなぜか、選挙で選ばれたわけではない公務員によって握られていることが多いのです。

公務員の選定罷免に関した事柄で、昔からずっと問題になっているのが公務員改革です。天下りであるとか、特殊法人の存在であるとか、問題はいろいろあって、しかも過去からずっと問題のままです。けれども、この問題は、上記「原理」が健全に機能しているのならば、起こりえない問題のはずなんですね。主権者である国民は、官僚の天下りはおかしいと考えている。国民が選挙で選んだ公務員=政治家も、国民の意を受けて、公務員改革に取り組もうとする。でも、改革は進まない。これは結局、法とその運用が官僚の側に有利になるように働いているということでしょう。法に守られている官僚をどうかしようと思えば、法制度の設計と運用に手を加えなければならないのですけれども、なかなか上手くいかないわけです。

官僚は法制度の多くを設計します。その設計が実際の法となるには、一度法を政治家の手に委ねなければなりませんが、その後の運用はまた再び官僚の手の内に握られる。これでは当の官僚たちをどうにかしようとする法制度がなかなか上手くいかないのも当然の理でしょう。しかもこの官僚たちは、政治家とは違って国民が直接任命も罷免もできない。官僚を国民がどうにかしようと思えば、官僚をどうにかしようと考え行動する政治家を選ばなければならない。そして、政治家自身が制度の設計を行い、しかもその運用を官僚に委ねないように、あるいは運用する官僚を政治家が意のままに動かせるような制度にしなければならない。けれども、そうした制度には官僚は反対するし、現在までの所その反対が功を奏しています。そしてその原因は、長年にわたる自民党政権にあるというのが大方の見方でしょうし、私もその見方に賛成です。



さて、ここで話を小沢一郎の違法献金疑惑に移します。

私はこの疑惑は、検察が小沢一郎を陥れようと仕掛けたものと見ています。権力の濫用であり、敢えて言うなら犯罪です。

犯罪だと見ると、検察にはその動機は十分。小沢民主党は、政権を握ったら官僚を政治家が意のままに動かせる制度を設けよう、つまり「有司専制」を打ち崩そうと考えていた。その手始めに、民主党が政権を取ったら各省庁の局長クラス以上に一度辞表を出すことを求めるという発言もあった。この発言など、政権交代があって政策変更があるなら当然と受け止められても良いはずですが、「有司専制」を守るためには許してはならない「暴挙」と映るでしょう。ならば官僚機構の一部である検察が反撃に出たとみても、犯罪の論理としてはスジが通ります。

また、検察には犯罪を実行する手段もあった。政治資金規正法の運用の変更というのがその手段です。これまでは報告書の訂正で済まされていた事案を、いきなり秘書の逮捕というところまでに踏み切った。これなど、法の運用を自在に行える官僚でなければできない芸当であるわけです。そして、その犯罪の目くらましを行うために都合の良い情報をメディアにリークする。これが疑惑といわれているものの中身でしょう。

小沢一郎に続いて検察に追究されているのが二階俊博ですが、これも例の漆間発言がなければ為されていたかどうか。それに小沢と同じく田中角栄の流れを汲んでいるというあたりは、果たして偶然なのでしょうか?

『田中良紹の「国会探検」』というブログに気になる記事があります。『政治とカネの本当の話(3)』という記事ですが、ここでは岸信介と田中角栄とを取り上げて、岸が数々の金権スキャンダルを噂されながら結局一度も司直の手にかかることはなかったのは、官僚組織を「濾過器」として使ったからだ、といったようなことが記されてある。一方の角栄は「濾過器」を使わず自分の手で政治資金を集めたし、それが角栄の矜持でもあったという。その対照的なふたりの顛末はご存知の通りですが、それにしても官僚組織が「濾過器」になるなんて、法の運用を自在に行えるから可能となるものでしょう。その他、この記事には政治資金がなぜ悪と見なされるようになったかについても触れられています。



政治というのは、良くも悪くも力の行使です。そして力とは、具体的には暴力とカネと、そして人々の「信」の3つ。私はその中でも「信」に重きを置き、暴力とカネとを「信」によって解体していかなければならないという立場ですけれども、だからといって暴力とカネとを軽んじて良いというものではない。これら2つを軽んじる「信」は、これら2つの力に易々と踏みにじられてしまいます。

近代国家というものは、暴力とカネと「信」のうち、特に暴力を「信」の下にコントロールしようとする試みのなかで打ち立てられてきたものだと考えられます。その反面カネに素朴に「信」を置きすぎるようになったのが「近代」の大きな欠点だと考えますが、これは話がまた違ってきますのでここでは触れないことにして、近代国家が暴力を「信」の下でコントロールする、その典型的なものが軍隊のシビリアンコントロールというものでしょう。

シビリアンコントロールとは、ごく大ざっぱに言ってしまえば、暴力には「信」を置かないというものです。暴力装置である軍隊から「信」を切り離し、軍隊をコントロールする側に「信」を置く。しかし、ここで考えねばならないのは、暴力装置は軍隊だけではない、ということです。警察だって立派な暴力装置。ですが日本においては、なぜか警察権力には「信」を置いてしまう傾向がある。これは民主主義を支える精神としては、実に危ういものです。

近代国家において、暴力を支配するのは官僚組織です。軍隊と警察こそは、最も典型的な官僚組織。政治家が直接暴力に関わることは許されません。国民の「信」を得た政治家が官僚組織をコントロールして、暴力を「信」の制御下に置く。これが近代民主主義国家の根幹であるはずです。

暴力に関われない政治家が、その政治活動において使える力はカネのみです。政治家は「信」で支えられるのが理想ですが、現実の政治活動が「信」のみで成り立つというのなら、それは寝言にしか過ぎません。政治家が国民の「信」を得る為の政治活動は、カネという力なしには成り立たない。

今回の小沢違法献金疑惑の本質は、政治家が唯一使えるカネという力に対して、暴力を支配する官僚組織が暴力を持って踏み込んだというものです。小沢という政治家に対して「信」を置かない有権者が多く存在することは私も知っています。しかし、政治家に対する「信」はあくまで有権者の審判によってのみ与えられるもの。暴力装置がいかなる形であるにせよ、踏み込んではならないはずものです。

政治資金規正法という法律がザル法であるといった指摘は昔からよく為されますが、この指摘は私は的外れではないかと思っています。というのも、ザル法すなわち抜け穴だらけという発想は、政治資金は「規制」するという意識から生まれるものだろうと思われるからです。政治資金「規正」法は、カネを使わざるを得ない政治家が国民の「信」を得る為の指針として捉えられるべきであって、そうした見地から私は、政治資金規正法そのものに罰則、つまり暴力装置が介入できる余地があること自体が問題だとすら考えます。

小沢や二階といった政治家に「信」を置かないのは、各々の有権者の自由な判断でしょう。それはそれでかまわないし、有権者の権利でもある。しかし、だからといって、暴力装置の「信」への介入を見過ごして良いという話にはならない。まして暴力装置が「信」の指針を勝手に変更するなど、もってのほかの暴挙だと言わざるを得ない。政治家が各々の「信」を得る為に有権者に対して説明責任を果たすことは重要なことです。しかし、それはあくまで民主主義という枠内でのこと。検察の暴挙は、その民主主義という枠を大きく逸脱するものです。重要度という点では、まるで重さが違います。その重さの違いを認識することは、民主主義の根幹を理解することであると私は考えますが、いかがなものでしょう?

コメント

どこから書いているんですか?

こんなにうまく書けたらいいのに。
私には文才がないので・・・
ありがとうございます。

これは保存版決定です。

scottiさんが驚きの気持ちも含めて賞賛のコメントを出されました。
私も同じ気持ちで居ます。

愚樵さん
ブログタイトルから「愚」という文字を外して欲しい。

そして「本当の愚かな奴」に投げつけてやってください。

scottiさん、ニケさん

愚樵さんのこの文は、熱い気持ちが入っている力作という点では、おもしろいと思う。
が、内容でいえば、感動していないで、批判的見地で読みなさい、と言いたい。その理由は客観性の欠如

愚樵さんに限らず、私が批判したり指摘している人の特徴は、主観があまりにも多いこと。
単に主観が多いだけならば、私も、批判や指摘は「一応、押さえておいてください」という程度で済むが、私が徹底してコメントしている人は、「単なる主観・思いこみを、さも客観的・真理・事実とし、私のコメントに反抗的思考および感情を抱くこと」という、まさに『嘘を根拠に、私を非難する』という、道義的犯罪に匹敵する大問題を起こしているのである。

今回のこのエントリーに関しても、その傾向はみられている。特に、カルデロンさんの件や小沢代表秘書事件の検察批判は、「反省の色がまるでなく、その認識と感情でいる限り、お仲間だけのマスターベーションでしかないよ」としか言えないほどの酷さである。

と、私が良識を持って理性的なことを書いても、私を嫌悪し、愚樵さんを称賛するという思考や感情を抱く人が多いのが、日本の現状なのだろう。
つまり、私に対する思考や感情こそが、「有司専制」国家の最大の理由であり、また、それから抜け出せない原因だということに気づかないといけないのです。

またか。

 客観的なものを「思い込み・主観」というアホが認識を改める謙虚さを持たないから、「有司専制」国家の最大の理由であり、また、それから抜け出せない原因だということに気づかないといけないのです。

小沢氏の起訴、公判について。

 この問題は、まず、政権交代、政治論でみれば、国民のほとんどは、企業・団体献金の全面禁止をする民主党へ生まれ変わることを期待しているでしょう。財界のひも付き政党なんて禄でもないないですからね。民主党は企業・団体献金の全面禁止を打ち出すということを今回の事件の教訓とし、政権交代を目指して反転攻勢することが議会制民主主義、官僚政治打破への責任でしょう。

 ところが、他方の検察の問題です。司法問題です。これは、三権分立の原理から言えば、検察が政治家を起訴することは、むしろ、憲法の原則に沿っていると言えます。チェックアンドバランスです。

 ところが、批判が集中しているのは、今までなら修正報告すれば、逮捕・起訴されることがない問題であったにもかわらず、何故、逮捕・起訴か?民主党への政権交代が現実となりつつある情勢に対する検察機関の暴力行使、いわば、クーデター的なものではないか?という批判があります。

 起訴事実については、政治資金規正法違反で、最高刑は収賄罪と同じ禁固5年だそうです。こうしてみると、決して軽微な犯罪というものではない。

 では、禁固5年を法定している犯罪について、すべてを刑罰で処断する必要があるのか?ここが最大の眼目でしょう。

 つまり、犯罪の悪質性が問われる。刑罰を持って処断する必要がある程度の悪質性の立証の問題になる。

 この点が、報道でも明らかにされているとおり、西松建設からの政治献金であるにもかかわらず、政治団体からの寄付であるというような記載をし、国民の目から、金がどこから出ているか?という点を覆い隠した。政治資金規正法が資金の収支の透明性であるから、虚偽記載は最大の犯罪になる。

 そこで、どの程度の悪質性がるかについての立証となる。
悪質性の程度が、軽微であれば修正報告で足りるのであるが、重大であれば、刑罰問題にならざるをえない。

 どのような経緯で、西松建設から企業・団体献金を貰い続けてきたのか?その経緯の事実関係によっては、有罪を免れないように思う。

 しかし、推定無罪が原則であるので、国民としては、冷静な目を持って、民主党が企業・団体献金に対して、どのような態度で総選挙に臨むのか?その1点を注視し、企業・団体献金の全面禁止に至る道筋として、もっとも手堅い政治行動とは何か?と考え、総選挙を迎えるべきであろう。

 確実に言えることは、自公政権は、今まで政権を担当してきたが、企業・団体献金を全面禁止にしないで、出鱈目な法案ばかりを3分の2強行再議決を繰り返してきた実績があるということであり、野党共同提出の公共事業受注企業からの企業献金禁止法案にも反対し、それすら実現する気がなかったのが自民党・公明党だということを忘れてはならない。
 

「言論の自由」を冒涜するな

東西南北というのは、本当に自己中心主義だね。
怖ろしいほど、自分勝手なロジックで「科学」を論じている。科学者の全員を敵に回すね、こんなのは。

>要するに、国家が起こす戦争の原因として、そもそも、人類そのものの肉体・身体、もっといえば、遺伝子に組み込まれている「宿命」「運命」なのかもしれない、というオカルトを批判しているのが東西です。
>戦争の原因は国家にあるのであって、人類そのものにあるのではない、という当たり前の真理・真実

「国家」は、独立した物理的存在ではなく、『人類が集まって組織されるもの』であるにも関わらず、『人類そのものの肉体・身体、もっといえば、遺伝子に組み込まれている「宿命」「運命」なのかもしれない』というのが、なぜオカルトとなり、批判対象となるのか、そのロジックがまったく説明されていないにも関わらず、これを「科学」と発言しているのが東西南北。

>家は現在のような家にはどれだけの人の手が使われているでしょう? 鉄の加工や火薬の製造などを一人で全て行う事が現在の現実で可能かどうかを考えれば自ずと答えは出ます。 「人は一人では生きれない」「生き抜くことが難しい」と言うのは真理・真実です。

これは、『人類は「家」がなければ生きていけない、鉄や火薬がなければ生きていけない』という前提条件がなければ成立しない「真理・真実」であって、まずは、これを証明しなければならないが、それは説明されていない。
ところが、これは完全否定される。なぜなら『では、「家」がなく、「道具の加工」をしてこなかった時期は、人類は生きていない』というロジックを成立させなければならないが、人類の歴史において、「進歩」「進化」というのは、道具の加工や製造等の発展も含まれているわけで、逆に言えば、「家」も「道具」もなかった時代であっても、人類はそれなりに生存してきたという事実がある以上、このロジックは成立しないのである。

>殺す動機・目的ななくて戦争なんて起こりようがない。ころ動機がないなら、平和的に外交手段で解決すればいいんですよ。戦争は国家による殺意のある殺し合いの行為である。

この理論を正当化したいのであれば、「戦争は、殺す目的・動機がある」ということを証明しなければならない。
しかし、実際のところは、「敵の死傷者がゼロであっても、戦争目的は達成される。なぜなら、戦争の目的は『自方の要求を最大限に相手側に受け入れさせること』にあって、敵人員を何人殺傷しようが、それは問題にならないからである」という、国際政治における当たり前のことを述べているわけであり、もっといえば、戦争にせよ話し合いにせよ、「外交目的の達成のための手段」でしかないのであるが、この東西南北という馬鹿は、「結果として、人員を殺傷する」ということにのみ着目して、『目的は敵人員の殺傷である』という、「目的の変更」がいつの間にか行われているという、とんでもないバカを信奉し、身勝手な信仰心を根拠に私を批判している。
これほど学問を馬鹿にした話は、私は見たことがない。

『客観的なものを「思い込み・主観」というアホが認識を改める謙虚さを持たないから、「有司専制」国家の最大の理由であり、また、それから抜け出せない原因だということに気づかないといけないのです。』というのは、私には微塵も当てはまることはないが、東西南北という人格を認めること自体が、人類への冒涜という生命体に当てはまり、そして、何人たりとも否定しえない真理・真実であることを、見事に私は証明したのである。

よって、東西南北は、実名で私に謝罪し、無条件降伏する義務がある。



と、書けば、また怒涛のようにコメントしてくるんだろうね。理由は「東西南北だから」。これが科学です。(嘲笑)

世界各国の政治問題を見ると其の国々の歴史的環境が影響しているようですが、政府が特定の利権によって操られる事が在ると言うのは程度の差の違いこそあれどの国も同じ様です。日本の場合は武士階級が利用した儒教が現在でも悪影響を及ぼしていて日本人の間で権威に対する信仰が非常に強く、未だに殿様に面倒を見てもらっている様な感覚の日本人が多いのではないでしょうか?天皇制も問題で民主主義にとっては非常に意味のない存在なのですが(単に特定の家系に生まれる事によって社会での特定の地位が保証されると言う事は非民主的な事の典型なのです。天皇制、王制、貴族制等が認められる国家では潜在的に市民が“民主主義や平等なんて実は表面上のプロパガンダで実は影の支配階級が常に社会を支配しているのだ”と言うメッセージを受け取っているのです。)この儒教の悪影響はお隣の国韓国でもっと顕著に見られ、年上の人とお酒を飲む場合、失礼だから年上の人から顔を背けて飲まなければならない等と言う習慣が未だ残っているようです。日常の生活で此れですから政治になると御想像していただけると思います。
 兎に角、官僚が力を持つのもこの様な権威的社会に多く儒教の発祥の地、中国も其の典型ですよね。アメリカの場合も同様で保守的、権威主義的なブッシュ時代には似た様な事が起こり或る民主党の州知事が司法権力により冤罪で刑務所に2年ほど入れられ彼の問題は今も続いています。(カールローブが指示したとされていて事件は現在進行形です)
 アメリカではこの様な政府が特定の利権により乗っ取られる事を防ぐにはジャーナリズムが自由に機能する事が重要であるとされています。ジャーナリズムは立法、司法、行政に次ぐ第4の政府の枝と理解されていています。建国の父と称される人々の時代に既に“国民が事実を知らされていないと民主主義は機能しない。”と言われていました。日本のジャーナリズムは外から見ると非常にお粗末で官僚がのさばるのも当然だと思います。
 どの様な形態の政府でも民主国家と言っている国ではジャーナリズムが健全に機能している事によって市民が政府を支配出来るのですが完全な国はないようですね。
 兎に角、市民自身が主権者であると言う自覚をすれば民主主義は機能すると言う事ではないでしょうか?其の自覚のない国には本当のジャーナリズムも育たないのでは?
 暴力と政治については戦後でもヤクザがGHQによって利用された経緯から日本の自民党政治家はヤクザとの関係が強いのでは?確か去年?或るヤクザのボスがシーダースサイナイ病院と言うロスでも一番とされる病院の肝臓移植手術を普通のアメリカ人が何年も待たなければいけない順番を無視して移植手術を受け問題になっていました。ニュースによるとこのヤクザのボスは米中央情報局の為日本で活動していたからこの様な特別待遇を受けたそうでした。アメリカでよく言われている事ですが『若し国民が本当に政府のしている事を知らされたらどの国家でも革命が起こる。』と言うのがあります。
 結局の所、我々市民が自分自身の事をどれだけ大切にしているかと言う事が民主主義の一番大切な事なのではないでしょうか?其の例としてフランスは国王をギロチンに掛けるほど市民自身が主権を主張している伝統があり、彼等は何か政府が気に入らない事をするとデモンストレーションで意思表示するので、日本と違い労働者、市民の権利は保守的サルコジ政権下でも守られていているのです。面白い話は彼の保守主義でフランス人の半分から嫌われているサルコジ大統領はオバマ大統領の金融危機対策が保守的過ぎると言う意見を持っている様でG20会議を脱退しそうになったと言うニュースが或る様です。

理解力がない君へ。

 1:国家と人類を同列視している時点で、論外。そのような嘘を平然とつくから、あほ扱いされるのである。人類は企業であり、人類は株式会社というエラーを犯すのと同じであって、悲惨としかいいようがない。

 2:人類は共に生きていく存在であって、1人では生きていけない。この真理・真実を懐疑し、肯定も否定もできないのであれば、フルチンでアフリカのジャングルにでも飛び込んで1人で生きてみなさい。ジャングルの中心で妄言を叫んでいなさい。自己完結するだけです。

 3:殺す動機がないのであれば、平和的な外交手段を尽くしなさい。殺す動機・目的を持って、脅しつける点に軍隊の本質がある。いい加減しなさい。

 以上、謙虚な道徳・倫理を培い、自主的に真理・真実に対して誠実になって、その倣岸不遜な誤魔化しと虚偽の態度を改めなさい。これは道徳教育的な指導です。

 

理解力がない君へ。

>国家と人類を同列視している時点で、論外。そのような嘘を平然とつくから、あほ扱いされるのである。人類は企業であり、人類は株式会社というエラーを犯すのと同じであって、悲惨としかいいようがない。

「人類は企業であり、人類は株式会社」と思考するのは、単に日本語がわからないだけである。
『人類が集まって組織されるもの』
これは、組織や集団の意思決定、集団や組織の行動は、「人」によってなされるということであるのだが、これを理解できれば、このバカの言説は論破されるのである。


>人類は共に生きていく存在であって、1人では生きていけない。この真理・真実を懐疑し、肯定も否定もできないのであれば、フルチンでアフリカのジャングルにでも飛び込んで1人で生きてみなさい。ジャングルの中心で妄言を叫んでいなさい。自己完結するだけです。

このバカは、『では、「家」がなく、「道具の加工」をしてこなかった時期は、人類は生きていない』というロジックを成立させないままに、「フルチンでアフリカのジャングルにでも飛び込んで1人で生きてみなさい。」とのたまっている。どこが「科学」なのか、抱腹絶倒するしかないバカな言動である。


>殺す動機がないのであれば、平和的な外交手段を尽くしなさい。殺す動機・目的を持って、脅しつける点に軍隊の本質がある。

またしても、この日本語がわかっていないことを露呈しただけである。
「武力の行使や武力による威嚇が、殺す動機・目的がなければ行わない。」というロジックが成立しているのであれば、「相手が白旗をあげようが、当方の要求を全面的に受け入れようが、必ず殺傷行為を行う」ことを証明しなければならない。
動機や目的が「殺傷」であるならば、相手がどうであれ、殺傷行為を行うものだが、相手が当方の要求を受け入れる意思を見せれば、武力の行使は全面手停止されるし、前線でも、敵兵力が抵抗の中止を表明して実行すれば、自陣営の殺傷行為も停止される。

>これは道徳教育的な指導です。

嘘しかつけない人格破綻の人間が、他人を「道徳」「教育」「指導」など思考する権利もない。とっとと、無条件降伏すること。

>以上、謙虚な道徳・倫理を培い、自主的に真理・真実に対して誠実になって、その倣岸不遜な誤魔化しと虚偽の態度を改めなさい。

それは私が、この「東西南北」という人格を認めるに値しない生命体に対して命令し、「東西南北」が無条件かつ全面的に恭順する責任と義務を有することである。
東西南北は、早急に自分の実名と顔写真を公表した上で、私に対して誠実に謝罪し、無条件降伏するように。

“有志”専制

日本の政治に特徴的だな、と思うのは、政治に関わる人は悉く他人を信頼していないのだな、ということです。

カネを渡さなければ政治家になれない、役人の利益にならなければ政治はやっていられない、○○は愚かすぎて我々の思想は理解できない、××は苦労していないから我々庶民の役には立たない、等々。

アメリカの大統領が、本心はどうあれ国民を信じるというのとは逆に、日本の政治家は国民はマスコミに踊らされているとか、カネをばらまいてやらなければダメだとか・・・とにかく国民は説得可能な対象だとは見なされていない、まったく信用されていないように思うのです。

国民の側も政治家をまったく信用していない、詐欺師の親玉くらいにしか考えていないのではないかと思います。

そして面白いのは、それだけ国民を、政治家を油断ならないものと重いながら、自分が「信用できる」と見なした相手の言うことは無批判で聞く、ということです。

よく、「有志」と言いますが、同じ有志の仲間であればそちらの言うことを無条件に聞く、法律も道徳も関係無い、という感触を私は持っています。

そういう意味で、政治を実際に動かしている人たちも、自分の「有志」の言うことだけを聞いている、「有志専制」なのではないでしょうか?
官僚であれ、政治家であれ、それが誰であっても、自分と志を一にする、と信じているものたちだけで、有志だけで物事を決めている、それが日本社会の本質なのではないかと思うのです。

「有志」でなくても、納得できるものは受け入れる。「有志」であっても、納得できないものは拒否する、そういう単純な論理さえ成り立てば、もう少し日本社会の理不尽は減るように思うのですが、いかがでしょうか?

KYさん

よく、「有志」と言いますが、同じ有志の仲間であればそちらの言うことを無条件に聞く、法律も道徳も関係無い、という感触を私は持っています。

その感触は大いにありますね。「法律も道徳も関係無い」というか、都合の良いようにだけ解釈する。

>官僚であれ、政治家であれ、それが誰であっても、自分と志を一にする、と信じているものたちだけで、有志だけで物事を決めている、それが日本社会の本質なのではないかと思うのです

ようするに「村社会」だ、と。

>「有志」でなくても、納得できるものは受け入れる。「有志」であっても、納得できないものは拒否する、そういう単純な論理さえ成り立てば、もう少し日本社会の理不尽は減るように思うのですが、いかがでしょうか?

これは「大きな社会」ということでしょうか。

これは一見理に適っている思えるですが、私が思っているのは「単純な論理」というのが実はそれほど単純ではないぞ、ということなんですね。「有志」の間では単純ですが、それゆえに「有志」でない者には理解できない。複雑怪奇で理解できないのではなくて、ごく単純なことが理解できないということがある。

たとえ話で行くとですね、虹は日本では七色でしょう? でも、アチラへいくと6色だという。6と7の区別は偶然でありかつ恣意的なのですけれども、それゆえに6色だと思い込んでいる人には7色だということが理解できない。

そんな状態が「有志」とそうでない者との間にある。だから互いに理解不能で闘争状態になるのではないか、と。

私思うに、「大きな社会」とはいっても結局は「大きな村社会」でしかない。「大きな社会」といえばグローバリズムでしょうが、グローバリズムはアメリカナイゼ―ションだということはもはや常識ですよね。これはアメリカ村が闘争に勝って、そのルールが広がっていったということですよね、単純に考えると。

官僚専制も同じかもしれません。官僚たちは闘争に勝利した者たちなんですね。今は必ずしもそうといえないかもしれないが、一昔前までは間違いなく官僚といえば勝者だった。で、官僚が勝者であるというのも、これはこれで暗黙のルールだったわけでしょう。そういった意味では日本は「大きな村社会」だったということですよね。明治維新以降、いつの間にかそうした「大きな村社会」に日本はなってしまっていた、ということでしょう。で、これは体裁は民主主義でも、本当の意味での民主主義村社会ではなかったと。

村社会

有志とそうでない者の間にある差異として、常識の問題や知識の問題があるならまだマシなように思うのです。
もしズレがあるなら修正すればいいのですから。

しかし日本に乱立する『有志』とそうでない者は同じコトバと同じ常識を持っていて、同じことを語っていて、それでもなお敵対しているというところに救いようのなさを感じざるを得ないのです。

自民党左派と民主党の言うことにほとんど変わりはありません。しかし彼らは自分たちは違うものだと主張する。同じことを言っていることくらい分かるはずなのに、それでも「同志」ではない、違う、協力できない、と言うのです。

官僚も同じです。官僚OBの言うことは聞く。官僚の人脈ではない人の言うことは同じことでも聞かない。説得する気もされる気も無い、ただ敵対していると。

中国なら賄賂が効くし、欧米なら説得も可能ですが、日本の対立構造は賄賂も説得も効きません。
村社会なら村のきまりがありますが、そもそも敵対しているだけで社会ですらないから、きまりもない。

信仰が異なるだとか、人種が違うだとか、そういう根源的な対立をあまり経験してこなかった日本社会にはそういう対立を回収するきまりが成立してこなかったように思うのです。

再度KYさん

村社会なら村のきまりがありますが、そもそも敵対しているだけで社会ですらないから、きまりもない。

社会ですらない、とはどうでしょう? 今の日本社会はだんだん社会の体をなさなくなりつつあると感じますが、でもまだまだ社会として機能はしています。不満はたくさんあって国民の多くは忍耐を強いられていますけど、「万人の万人に対する闘争」という状態にまでは至っていません。

それどころか日会は、つい最近まで世界に類を見ないほど国民の等質性が高い社会でした。そうした部分も考え合わせるべきだと思います。

信仰が異なるだとか、人種が違うだとか、そういう根源的な対立をあまり経験してこなかった日本社会にはそういう対立を回収するきまりが成立してこなかったように思うのです。

私には、そうした発想がそもそも日本的ではないと思えるのですね。日本に根源的な対立がなかったとはわけではない。日本には根源的な対立をやり過ごして、いつの間にか融合させてしまう体質があると言いましょうか。

根源的な対立をやり過ごせるというのは、多神教的と言えましょう。逆にやり過ごせないのが一神教ですよね。

しかし日本に乱立する『有志』とそうでない者は同じコトバと同じ常識を持っていて、同じことを語っていて、それでもなお敵対しているというところに救いようのなさを感じざるを得ないのです。

この救いのなさは、一神教内での神学論争と似ているのかもしれませんね。ちょっとした教義の解釈を巡って対立してしまう。

もともと多神教的な精神風土を育んできた日本が、一神教的になったのは明治以降でしょう。一神教的天皇教が日本の国教とされて国民は教化されてきた。それを支えたのが「有司専制」だった。戦後、天皇は人間に成り下がりましたが、それでもなぜか一神教的体質は解消されずにむしろ強化されてきた。KYさんの指摘された“有志”専制は、日本のもともとの村社会体質と、一神教的な体質とのキメラみたいなものなのかもしれませんね。

愚樵さん、横から失礼

>日本に根源的な対立がなかったとはわけではない。

これについて、少し疑問。
愚樵さんが思う「日本における根源的な対立」とは、具体的にどんなものですか?

前からでも横からでも(笑)

ただ、後ろからは止めて欲しいですが。揚げ足取りとか、ね。

>>日本に根源的な対立がなかったとはわけではない。
>これについて、少し疑問。

いえ、ですから(苦笑)。私は「なかったわけではない」と言いながら「根源的な対立をやり過ごして、いつの間にか融合させてしまう」としています。これは、「根源的な対立の元はあったが、根源的な対立には至っていない」という意味です。言い換えれば「大陸では根源的対立に至ったのが、日本では至らなかった」ということですね。

「なかった」と断定せずに「なかったわけではない」とぼかした意味合いを汲み取ってください。

>信仰が異なるだとか、人種が違うだとか、そういう根源的な対立

これはKYさんのコメントからですが、人種の違いはさすがになかったとしても、異なる信仰を抱えた人が日本にやってきたことはこれまでもあったわけです。ただし、それが根源的対立になってしまうほどの量にはならなかった。根源的とは質的なことを指しますが、質的対立がそのまま量的対立にはならなかったということです。

質的対立が量的対立になるときには2つの場合があって、ひとつは対立する双方の量的な差が大きい場合。これは多い側が少ない方を排除するということになる。日本ではこの現象はほとんど見られませんよね。
もうひとつは量的に差が少ないという場合ですが、これだと紛争になるわけです。このケースは、日本が四方を海で囲まれていて、かつては海上輸送は大量にはできなかったという地政学的・技術的問題が関係していると考えられる。

ところでわくわくさん、質的対立と量的対立に関連して先のカルデロン一家の問題に言及すると、あれは質的対立を量的対立に変換させるか否かの問題でもあったと捉えられないでしょうか? 

退去を求めた側は、質的対立を直ちに量的対立に変換してしまったんです。一方、一家の残留を求めた側は、質的対立を量的対立に変換させずに、すなわち排除をさせずに、質的融合を求めたし融合していると考えた。私は保守の立場から彼らの残留を求めましたけれども、それは質的対立を量的対立に変換しないのが日本的情緒だと感じるからなんですね。少数者を排除しようとする傾向は大陸的なのではないですか?

もっともわくわくさんが、そうした情緒的な立場から発言していたわけではないことは了解していますが。ただ結果としてわくわくさんの主張は、大陸的感情を助長することに繋がることは間違いないのですね。私は、いくら日本国という主権国家が立派に成立していようとも、その文化が日本的なものでなくなってしまえば意味がないと考える者です。ですから、日本的情緒を守る存在としての国家は是認するけれども、そこを排除しようとする国家は亡国的だと思ってしまうわけです。

日本的というと

私は何故か芥川龍之介の「神神の微笑」を思い出す。
結構影響を受けてます。(笑)

http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/68_15177.html

日本的とは、対立より和合を好むような気がしてます。

何が言いたいの?

愚樵さん

>「根源的な対立の元はあったが、根源的な対立には至っていない」という意味です。言い換えれば「大陸では根源的対立に至ったのが、日本では至らなかった」ということですね。
>「なかった」と断定せずに「なかったわけではない」とぼかした意味合いを汲み取ってください。

ある程度の具体例を出して、その具体例が「なかった」「あった」いずれの結論に対する根拠として成立するかどうかを検証することで「なかったわけではない」と言えるのであって、残念ながら、これでは汲み取ることはできません。
その後に続く『人種の違いはさすがになかったとしても、異なる信仰を抱えた人が日本にやってきたことはこれまでもあったわけです。ただし、それが根源的対立になってしまうほどの量にはならなかった。根源的とは質的なことを指しますが、質的対立がそのまま量的対立にはならなかったということです。』『質的対立が量的対立になるときには2つの場合があって、ひとつは対立する双方の量的な差が大きい場合。これは多い側が少ない方を排除するということになる。日本ではこの現象はほとんど見られませんよね。』『もうひとつは量的に差が少ないという場合ですが、これだと紛争になるわけです。このケースは、日本が四方を海で囲まれていて、かつては海上輸送は大量にはできなかったという地政学的・技術的問題が関係していると考えられる。 』という、せっかくの長文説明に関して、「それ、本当なの?」という反応しかできない、というのが率直なところです。
つまり「論として成り立っていない」という、実にもったいないことになっています。なので、逃げずにきちんと具体例を示すべきです。
願わくば、それをまとめることができてからエントリーにして欲しいです。じゃないと、せっかくの論文がもったいないことになります。

>ところでわくわくさん、質的対立と量的対立に関連して先のカルデロン一家の問題に言及すると、あれは質的対立を量的対立に変換させるか否かの問題でもあったと捉えられないでしょうか? 
>退去を求めた側は、質的対立を直ちに量的対立に変換してしまったんです。一方、一家の残留を求めた側は、質的対立を量的対立に変換させずに、すなわち排除をさせずに、質的融合を求めたし融合していると考えた。私は保守の立場から彼らの残留を求めましたけれども、それは質的対立を量的対立に変換しないのが日本的情緒だと感じるからなんですね。少数者を排除しようとする傾向は大陸的なのではないですか?

これについて、今回はあえて私の見解は述べません。
それは、まず愚樵さんが、「日本における根源的な対立」を具体的に示すことが肝要です。でないと、『退去を求めた側は、質的対立を直ちに量的対立に変換してしまったんです。一方、一家の残留を求めた側は、質的対立を量的対立に変換させずに、すなわち排除をさせずに、質的融合を求めたし融合していると考えた。』という前提が正しいか誤りかを判定できないので、その後の論を組み立てることはできません。

>もっともわくわくさんが、そうした情緒的な立場から発言していたわけではないことは了解していますが。ただ結果としてわくわくさんの主張は、大陸的感情を助長することに繋がることは間違いないのですね。私は、いくら日本国という主権国家が立派に成立していようとも、その文化が日本的なものでなくなってしまえば意味がないと考える者です。ですから、日本的情緒を守る存在としての国家は是認するけれども、そこを排除しようとする国家は亡国的だと思ってしまうわけです。

残念ながら、現段階では、『愚樵さんは、愚樵さんの主観的な思いを根拠にして、そう信じ込んでいるにすぎない』ということしか言えませんし、それ以外の評価を行うことは、客観的になればなるほど不可能です。

ご無沙汰しています

どうもお久しぶりです。
引越しで忙しそうだな、と思いきや素晴らしいエントリーを挙げられて恐れ入ります。
内容にはほとんど全面的に賛同いたします。
多くの国民の間でこの問題意識が共有されれば、と甘い(?)希望を抱いてしまいます。

自分のブログでも官僚主義の問題についていくつかエントリーで触れましたので、トラックバックをさせていただきます(愚樵さんのエントリーと比較するとチト恥ずかしい気もしますが)。

では。

日本という幻想

>社会ですらない、とはどうでしょう?

社会、というより「コミュニティ」でしょうか? 互いを信頼できるものとして見なす範囲が狭いように思うのです。
同じ信仰を持つものを同胞と見なす西欧とは違い、日本の『同胞』は同じ村の者だけではないか、他の村の者を信頼などしていないのではないか、と。

>つい最近まで世界に類を見ないほど国民の等質性が高い社会でした。

かつて地主と小作農の差は同じ人とも言えないほどに過酷だったと聞きます。日本人の等質性というのは、戦後の農地解放と財閥解体と貴族制度廃止によってもたらされた一過性のものだったのではないでしょうか?
この平等はうたたかの奇跡のようなもので、二度とは戻らないのではないか、とさえ思います。

>もともと多神教的な精神風土を育んできた日本が、一神教的になったのは明治以降でしょう。一神教的天皇教が日本の国教とされて国民は教化されてきた。

日本の文化融合親和性の高さは宗教にあるのではなく、地理的な要因ではないかと思っています。
西欧でもイタリアのようにアラブ・アフリカとの接点にあった国家では多様な文化が花開いていますから。
日本は中国文明の影響を適度に受けつつも、西欧の文明を取り込むことができるくらいには離れていたからこそ、このような状態になっているのではないでしょうか?

>戦後、天皇は人間に成り下がりましたが、それでもなぜか一神教的体質は解消されずにむしろ強化されてきた。

戦後、農地解放などにより日本人は均質化しました。
貴族に武人に地主に成金と重層化した社会なら、社会のある一面にだけ力を加えれば動くでしょう。バラバラなのだから一部から徐々に動かせばいいのですから。
しかし均質化された大衆を動かすには分かりやすいメッセージが必要です。昭和天皇はその「分かりやすいメッセージ」として、あえて人形のようにあることを選択したのだと思います。
だから天皇制を批判するのはタブーだったのでしょう。だってそもそもそんなものは「無い」のに、仕方なく「有る」ことにしているのですから。王様は裸だと言ったって、着るものが無いのだから、裸だ裸だとわめくお子様には退場願うしかなかったのでしょう。

そういう意味では、格差社会の誕生は天皇制を弱めるかもしれません。少なくとも昭和の時代のように聖人としてはもう扱われないでしょう。もう国民の象徴が無くても、社会は重層化して「柔軟に」動くようになるのですから。

>日本のもともとの村社会体質と、一神教的な体質とのキメラみたいなものなのかもしれませんね。

私が考えていたのは、それぞれのムラ社会どうしがお互いを信頼することなく、日本という箱の中でぶつかり合っている、というイメージです。
あるときは大きなムラのように振る舞い、あるときは小さなムラの論理を向きだしにしていがみ合い、またあるときには法律を持ち出して原則を盾にする。なあなあのよそ行きの大人しい面の皮の下に隠された般若の面。

日本という国家を2000年近く独立させてきた日本人のメンタリティは、優しい顔だけではないでしょう。
最近の「新自由主義」はこの裏の顔を表にしようとして失敗したように思います。彼らは西洋の「怖い顔」を見て、日本にもある「裏の顔」でもってそれに対抗させようと思ったのではないでしょうか?
結局のところ彼らを失脚させたのは、日本人の「タテマエの力」ではなかったのかと、思うのです。

非常に興味深い議論が続いているようですが、この様な議論は余り現実社会には利益をもたらさないのではないかと思うのですが。
 私はノームチョムスキー的なアナキスト(当たり障りのない言い方をすればリバタリアンソシャリズム)の立場に立って考えるのですが、皆、民主主義が大切だと思っているのでしょう?だったら日本とか中国とかアメリカとか、国家、村等と言う抽象的な幻影(マックス シュティルナーの言う“国家は幻影だ”)ではなく個人的繋がりを真面目に考えるべきではないでしょうか?
 私は抽象的な議論はコケインやヘロインと同じでマルクスの言う“宗教は民衆のオピウムだ!”と似通っていると思うのですが?
 私の言っている事解りますか?
 

人々が公平さを求めることについて

愚樵さんがカルデロン氏問題にこだわりがあるようなのでこの点だけ。

四枚カード問題という「pならばq」を理解できるかを試す問題があるのですが、抽象的な命題では1割ほどしかない正答率が、不正を見分ける社会正義の問題に置き換えて出題すると正答率が8割に跳ね上がります。

この傾向を詳しく調べるための「独裁者ゲーム」の1バリエーションでは、自分に不利益になったとしても公平さを選ぶ人が75%ほどになるそうです。

また、この傾向は、被験者の住む地域の仕事において、どの程度協力行動が必須であるかということと相関がある(協力が必要なほど公平になる)そうです。

国外退去が厳しすぎるとは思うのですが、退去と事実上の不問との間の中間的処置が国内法だけでは取れないとなると、公平さを求める人が退去を求めるのは仕方ないことなのかなぁとも思います。

最悪だな

蕨市の「追い出しデモ」
もはや人間の所業とは思えない。
鬼畜のなせる業だ。それとも妖怪か?
国家・法律偏重の諸氏もああならないことを祈りたい。


相変わらずTB不通につき、コメ欄にて失礼。
http://dr-stonefly.at.webry.info/200904/article_6.html

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/231-610ba0e5

続、新興カルト宗教化した『ニセ科学批判』(4)

この、きくちと名乗る人物は9・11陰謀論退治で名高い大阪大学の菊池教授と同一人物なのか。? 自称きくち氏は何度も(聞かれてもいないのに)保留の重要性に言及。 自称きくち氏は何かを『保留している』らしい。 しかも、その『何にか』に対しての中身の質問に

ブログゴロ

はい、お待ちかねのコメント集、第3弾です。 今回も愚樵さんのとこから、 こちら「内山節と内田樹」のコメント欄にて http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-223.html <え、誰も待ってないって?そんなこと言ってないで、さあさあ寄ってらっしゃい見てらっしゃいだ

続、新興カルト宗教化した『ニセ科学批判』(5)

これは突然閉鎖された『科学教』にコメントする為に昨日書いたものですが、こちらに投稿します。 poohさん。 反省いただく為に、一日待つ事にしましたが少しは冷静になれましたか。? 御自分のブログなのですから、pooh さんがブログ環境の維持に努力しないと、私一人努

菊池誠に見る論理破綻と討論からの逃亡(資料)

菊池誠大阪大学物理学教授?の8000字に近い膨大な量の、変遷する矛盾に満ち満ちたコメントを収録。 有名ブログkikulog管理人のHNきくち氏は、果たして阪大教授である菊池誠と同一人物なのだろうか。? きくちさんに対しては其の余りの論理性のなさや品性の問題

「国民の生命・財産を守る」という言葉の意味を考える。 (朝日新聞北東北版から)

2009年4月6日の朝日新聞の北東北3県版に載った、むのたけじさんの言葉をabi.abiさんの「クリームな日々」から転載して、できるだけ多くの方に...

官僚主義社会について(1)

えー、こちらのエントリーのコメント欄での逝きし世の面影さんのコメントに対するお答えですが、自分の官僚主義社会に対する考えを表明する...

官僚主義社会について(2)

えー、官僚主義社会について(1)では、官僚主義社会の大まかな定義(官僚が社会の意思決定の大部分を左右する社会)を提示し、立法における...

官僚主義社会について(3) (逝きし世の面影さんへの応答)

逝きし世の面影様、コメントへの返信エントリーになります。 エントリーとして上げたのは、自分の官僚主義社会に対するスタンスを明らかにし...

科学教批判

Chromeplated Ratの新規エントリー歩くか、泳ぐか、グライダーに乗るか。 [よしなしごと] へのコメントが(何かの手違いだと思いますが)何十回行っても成功しませんので、仕方なく当方に記事として掲載いたします。(当該記事に掲載していただける事を期待しています。) ...

景気予測と関係性

 経営者にとって最も重要なことは、市場変化や景気変動を素早く読み取り、それに対応することである。それによって、被害を最小限に抑えるもしくは販売の機会損失がないように会社を稼動するのである。  言うまでもなく、素材仕入れから完成品の生産までにそれなりの時

北野誠の無期限追放と北九州市選挙違反事件

YAHOO知恵袋の回答から、月光仮面ライダーさん 学会にたてつくと北野誠のように・・ 朝日放送のラジオでこのような発言をしました 大分抜粋していて、自分の記憶の差異が沢山ありますのでご了承ください 北野「派遣社員って今何人いるのかい?」 アナ「ちょっと分

昨年の気温、21世紀で最低 (資料)

地球の気候当面は「寒冷化」 日経新聞2009年2月2日 地球の平均気温の上昇が頭打ちとなり、専門家の間で気候は当分寒冷化に向かうとの見方が強まってきた。 地球温暖化の主因とされる二酸化炭素(CO2)の排出は増え続け長期的には温暖化が続きそうだが、自然の変動が気温を...

「北朝鮮非難」安保理議長声明の腰くだけ

国連安全保障理事会は13日午後、北朝鮮のミサイル発射を非難する議長声明案を全会一致で採択した。 麻生首相は「強いメッセージが出せた」と自画自賛していたが、肝心の中身は“もうひとつ”だ。 声明には「北朝鮮による発射を非難する」「北朝鮮がさらなる発射を行わない...

韓国初の人工衛星搭載ロケット日本上空通過か(資料)

2009/04/18 16:24 【共同通信】 韓国が今年7月末、南部の「羅老宇宙センター」から打ち上げる予定の初めての人工衛星搭載ロケットについて、日本の領海上空を通過する経路設定で最終調整していることが18日、分かった。複数の日韓関係筋が明らかにした。 計画してい

『悪魔の碾き臼』だった新自由主義

『落語の花見酒』アメリカの金融工学 酒飲みが2人で商売をしようと酒樽を担いで、花見客で賑わうお花見の場所に行く話。 後棒が、酒の誘惑に負けて『有り金』の10文で酒を湯飲みで一杯飲んでしまう。 その後、受け取った先棒がその10文で自分も一杯だけ飲む。 そ...

アメリカの医療改革

今日のクローズアップ現代の「オバマの100日(2)医療保険制度改革のゆくえ」を見た。

28年ぶりの貿易赤字

 ここのところ、職業安定所に相談しに行くことが急に増えている。経理・総務を経費節減で休ませている間、零細な会社は全て社長がしなければならないからだ。  「雇用調整助成金・中小企業緊急雇用安定助成金」の支給申請についての問い合わせである。社員を一定期間(

たかが海賊で騒ぎ過ぎ

ニューズウィーク日本版の4月29日号にソマリア海賊という特集があった。

対兵力攻撃(資料)

米科学者連盟など新提言 米政権に核軍縮迫る 現政策は先制攻撃可能に 米科学者連盟(FAS)と天然資源防衛評議会(NRDC)は4月8日、核兵器廃絶に向け、米国の政策転換を迫る新たな核政策提言を発表しました。 「対兵力攻撃から最小限抑止へ」と題したこの報告は...

2009年啄木祭の案内

夭折の歌人「石川啄木」生誕123年を記念し、啄木祭が開催されます。

「遥かなる絆」第一回を観た (車至山前必有路)

「遥かなる絆」第二回を観た 父城戸幹(加藤健一)から中国に留学中の娘城戸久枝(鈴

「日米犯罪者引き渡し条約」で被害を受けた女性のこと

今日のサンデープロジェクトにお会いしたことのある人が登場した。 無実の罪で米国に

『裸になって何が悪い』

注文殺到!「裸になって何が悪い」Tシャツ 逮捕直前の草?さんが警官に言い放ったとされる「裸になって何が悪い」という言葉をプリントしたTシャツが登場した。オリジナルのTシャツなどを販売するオンラインショップ「ClubT」が事件直後の23日午後から販売。 同...

豚インフルエンザ問題で気になる事とグーグル・マップ

豚インフルエンザ問題は現在こういう状況です。

>2009年啄木祭参加記

2009年啄木祭の案内 でご案内しました啄木祭に参加しました。 啄木を記念する会

ついに豚インフル日本上陸か?

ついに豚インフル日本上陸か? 新型インフル:成田乗客「A型」陽性 ニュースを紹介します。 そしてとむ丸さんの新型インフルへの疑問と「メキシコにもうひとつ感染を重くしたファクターがあるんじゃないか」 とお玉さんの豚インフルエンザ 備えておくこと、忘れてはい...

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード