愚慫空論

科学と民主主義

ブログを運営して世の中で起こる様々な現象に自分の意見を述べていたりしますと、論理vs共感、もしくは理性vs感性といった対立構図の中に落ち込んでいってしまうことがよくあります。

理性も感性もともに知性の一部であり、本来は対立するものではないはずなのですけれども、それでも対立する要素は間違いなくなります。よく“理性的に話をしよう”などと言ったりしますが、これはものごとを筋道立てて話をするという意味と、感情を抑えて話をするという意味との双方の意味を含みます。感性=感情ではもちろんないのですが、しかし同じ「感」という文字を使うことから見てもわかるとおり、感性と感情は近い位置にある。理性は感情を抑制するものと捉えられていますから、感性と理性とは、そもそもは対立関係にあるものではないといいながら、往々にして対立の構図に堕ちてしまうのですね。

理性と感性が対立するものだと線引きをされたとき、ご存知の方も多いと思いますが、私は断固として共感・感性の側に立ちます。もちろん、論理・理性を軽んじるというわけではないのですが、どちらかと言われれば、どちらも軽重とつけがたいという選択肢まで含めて、感性の側に立ちます。


感性の側に立つ理由の一部を、私はすでに示しています。

『知識』(愚樵空論)

ここで私は、〔知る〕ことと〔識る〕こととを区別して示しましたが、〔知る〕は理性の側であり、〔識る〕ことは感性の側ということになります。樹木を伐倒する手順を示して、理性で手順を理解することは出来るが、それだけでは足らない。働きかける対象との【対話】がないと上手く作業が出来ない。そして、この【対話】こそが感性の働きによるものになります。

ここで、樹木伐倒の手順とは、論理に相当するでしょう。そして、手順を〔知る〕だけでは足らないということは、その論理は実践の場面においては隙間だらけのスカスカのものであるに過ぎない、ということを意味します。もちろん手順-論理は必要だけども、その隙間は感性で埋められなければなりません。

ただ科学技術の発達は、論理の隙間を埋める必要性を薄めさせてしまった面がある。手順さえ〔知る〕ことをすれば、あとは機械がこなしてくれるという場面が増えました。科学技術は決して論理の隙間を埋めたのではなくて、剥き出しの論理を遂行する強力な力を発揮することが出来るようになっただけのことなのですが、事実として感性を働かせる場面は減少した。今日、感性よりも理性が重んじられる傾向にあるのは、この「事実」と深い関係にあるように思います。



〔科学の発達-強力な力-剥き出しの論理遂行〕という図式は、なにやら別のものも連想させます。連想されるものはいろいろあるでしょうけれども、私が思い浮かぶのはまず国民国家といわれる組織です。それも民主主義体制を敷く国民国家。

この連想は、いさかさ的を外していると感じられる方も多いかもしれません。〔強力な力-剥き出しの論理遂行〕という図式に当てはまるのは、独裁者が実験を握る国家であり、主権在民の民主主義国家では、そう簡単に剥き出しの論理を遂行することなどできないのではないか。また実際、国家による剥き出しの論理を遂行させないように活動しておられる「市民」の方々もおられるわけですし。

それは確かにそうなのですが、しかし、とはいっても「剥き出しの論理」が剥き出しでなくなっただけのことで、いくら「市民」が議論を喚起し、また実際議論が行われたとしてもひとたび結論が出れば、「強力な力」で「論理が遂行」される事実に違いはありません。そして、その議論という「手続き」を経ることこそが、私には科学を連想させる。というのも、科学もある種の「手続き」と考えられるからです。

科学の「手続き」といっても実態は一筋縄ではいかないものでしょうが、ごく簡単に言ってしまえば〔仮説-検証〕の「手続き」の繰り返しでしょう。この「手続き」で絞り込まれていく法則が科学法則として認知される。科学の場合、認知された法則は再現されますから、〔仮説-検証〕の「手続き」は、「手続き」というよりも“真実発見への営為”という具合に映る。が、それは“映る”だけのことであって、為す行為としては「手続き」に変わりなく、その「手続き」で絞り込まれた論理(仮説も十分に論理ではある)のみが論理と認められる。

「手続き」で絞り込まれた論理のみが論理と認められ、それが強力な力――議論を経たがゆえに国民すべての合意のものだと見なされる――によって、論理が遂行される。民主主義国家の場合は科学と違って、「手続き」で絞り込まれた論理が時空に関係なく再現されるということはあり得ませんけれども、その大きな違いを除けば、両者には類似点があるのですね。



不法入国したカルデロン一家の強制退去問題について、私は【自生的秩序】という概念をもって、夫妻を擁護する側に回りました。

『法と秩序~カルデロン家について』
『続・カルデロン家について~自生的秩序とは』

この議論は今もって続いているわけですが、【自生的秩序】――日本人であるか否かの判定は、地域の住民が下すべき――という考えは、〔科学の発達-強力な力-剥き出しの論理遂行〕に類似する民主主義国民国家権力行使の在り方に異議を唱えるものなのです。「手続き」は経てはいるけれども、論理としてはスカスカで、単に強力な力で遂行しているだけのような統治の在り方はではなく、論理の隙間を感性で埋めていくような、そうした統治の在り方。科学技術に頼るのではなく、等身大の技術でもって仕事に当たるような、そうした方法が相応しいのではないか、という趣旨。

カルデロン夫妻は、強力な力を発揮する民主主義国民国家を支える法――出入国管理法――においては、間違いなく犯罪者です。しかし、地域に暮らす住民としては犯罪者とは認識されていない。彼らの処遇を巡る対立は、「手続きを侵した」ことを重く見るか、「地域住民として暮らした」ことを重く見るのか、この論拠の違いに尽きます。「手続きを侵した」ので強力な力を発揮させなければない――法務省の論理――のか、「地域住民として暮らした」ので日本人と認定するのか。論拠が異なると大きく結論が違ってしまう。

しかし、私たちはここで民主主義の原点に立ち返って考えなければなりません。なにゆえ民主主義が生まれてきたのか? それは「強力な力」を制御するシステムとして生まれてきたのではなかったか? 民主主義において「手続き」が重視されるのは、住民の側ではなくて、権力を行使する側の方ではなかったのか? そして権力を行使する側が厳重に「手続き」を踏まなければならない、とするのが立憲主義なのではなかったか?

日本国憲法第99条
 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。


憲法を尊重し擁護する義務を負う者のなかに、国民が入っていないという事実。この事実は、国民に対しては、科学技術が生み出すような強力な力で粗雑な論理を遂行してはならない、ということではないのでしょうか? また日本国憲法は、日本国を統治する基準であるのみならず、諸外国に対しての日本国の在り方の宣言でもあるはずです。



国家権力は住民に対しては、剥き出しの論理を行使してはならない。この原則は、例えば警察においては民事不介入という形になって現れています。警察が国家権力を背景に介入することが許されるのは、住民による平穏な生活を脅かす刑事事件に関してのみです。

その原則からみれば、カルデロン一家は、住民による平穏な生活を脅かす何ほどの犯罪も為していない。つまり彼らの犯罪は、住民への犯罪ではなく、権力を行使する国家権力が定める「手続き」を侵しただけの者に過ぎませんし、「手続き」を侵したことの罪を厳正に問われなければならない立場の人間でもない。彼らは権力者ではないのです。「手続き」を侵すことによって他の人間にいかほどの害も与えない、力なき一市民に過ぎません。

コメント

ズレ

> 理性と感性が対立するものだと線引きをされたとき

私は、自分の「理性」が正しいということを支持する「感性」を持っています。

感性の人が、感性で語ると、他者には何が言いたいのか分らないというフラストレーションが溜まる事が多い。
愚樵さんの文章も、私にとってはそうした傾向がある。
特に、何らかの前提を元に論展開を良くされるが、そもそもその前提に同意できない事が多い。

例えば、
>理性で手順を理解することは出来るが、それだけでは足らない。働きかける対象との【対話】がないと上手く作業が出来ない。そして、この【対話】こそが感性の働きによるものになります。

これなんかも、私が使う「理性」とはかなり違うように思う。
どうも、「マニュアル的な知識」を「理性」と呼んでいるらしい。
で、実地訓練の経験は「感性の働き」によって得られるらしい。

しかし、様々な成功・失敗などの実地経験の積み重ねを整理し、全面的な技術の向上に繋げていけるのも、私の解釈では、これまた「理性」の働きである。手の感触、音、匂いなど、全ての五感を駆使して実地訓練は行われますが、例えばこの時にこうした音がするの順調だとか、この匂いは異常が起きているとかの判断が出来るのは、過去の経験の意味を「理性」が整理できているからだと考えます。

ですから、私の理解には、愚樵さんが言うような対立構造はない。
だから、そうした前提認識に大きなズレがあるため、

>ただ科学技術の発達は、論理の隙間を埋める必要性を薄めさせてしまった面がある。手順さえ〔知る〕ことをすれば、あとは機械がこなしてくれるという場面が増えました。

という論理展開には、正直ついて行けない。
「論理の隙間」とやらの意味も、「それを感性が埋める」とかいう事も、私には理解できない。
その上で、

> ただ科学技術の発達は、論理の隙間を埋める必要性を薄めさせてしまった面がある。手順さえ〔知る〕ことをすれば、あとは機械がこなしてくれるという場面が増えました。科学技術は決して論理の隙間を埋めたのではなくて、剥き出しの論理を遂行する強力な力を発揮することが出来るようになっただけのことなのですが、事実として感性を働かせる場面は減少した。今日、感性よりも理性が重んじられる傾向にあるのは、この「事実」と深い関係にあるように思います。

と書かれても、我田引水で、最初に結論ありきとしか読めなくなる。

とりわけ、「感性とは、生まれながらにその人が持っているもの」で、経験や学習と対立関係にあると捉えられているように思える。

しかし、私の理解では、経験なしに感性は生まれない。母親のお腹にいるときから、五感の全てを使って得、蓄積してきた経験の積み重ねが、その人の「感性」を育むと理解している。そうした認識のズレが、そもそも根底にあるような気がする。

>理性と感性が対立するものだと線引きをされたとき

ここでの対話は、まずは、この

理性と感性が対立するという線引き、その「不自然な前提」を押し付けてくるもの

これに対する互いの立場の表明をすることと、お互いのその認識について自覚し、双方の認識を確認すること、そのことからはじめないといけないでしょうね。

特に「事実」の集約が大切だと感じている側にとって。

もちろん、わたしも「事実」の集約が大切だと感じているひとりとして、それを言うわけですが。

バスに乗れば道端の花は見えない。

トンネルを行けば山道は通れない。

水道があれば井戸端会議もできない。

失われたものに対する科学的探求心です。

失われようとするものへの想像力です。

未来への道をよいものにしていきたいと願う感性です。

核心

Looperさん

いや、ありがとうございます。当エントリーの範囲を超えて、わが『愚樵空論』の核心部分へのコメントになっていると思います。そうしたLooperさんの「感性」には敬意を表します。

>しかし、様々な成功・失敗などの実地経験の積み重ねを整理し、全面的な技術の向上に繋げていけるのも、私の解釈では、これまた「理性」の働きである。手の感触、音、匂いなど、全ての五感を駆使して実地訓練は行われますが、例えばこの時にこうした音がするの順調だとか、この匂いは異常が起きているとかの判断が出来るのは、過去の経験の意味を「理性」が整理できているからだと考えます。

私は、その精神作用を(言葉遊びかもしれないと思いつつ)「知性」と呼びたいと思うのですね。そして、理性・感性は知性を構成するパーツとでも言うべきもので、本来両者は同じ知性のパーツですから対立構造にあるものではないはずなのですが、ときにごんさんの仰るように不自然な対立構造として提示されることもあるし、また、そのことは感性・理性の特性上からやむを得ないと言えない面もある、ということです。構成するパーツが時に矛盾するという現象は、人間にはあるものですからね。

(いま、気がつきましたが、エントリー冒頭で“知性vs感性”となっているところがありました。これは最初、「理性」の部分を「知性」としていて、あとで「理性」に書き直したのですが、訂正漏れがあったようです)

>>ただ科学技術の発達は、論理の隙間を埋める必要性を薄めさせてしまった面がある。手順さえ〔知る〕ことをすれば、あとは機械がこなしてくれるという場面が増えました。

>という論理展開には、正直ついて行けない。

でしょうね(笑)。この部分は、受け入れられる人とそうでない人とはかなり明瞭に分かれると思います。それこそ、

>五感の全てを使って得、蓄積してきた経験の積み重ね

によるもので、私とて先天的にこのような「感性」を持っていたわけではありません。「経験の積み重ね」がなければ、このような論理展開は決してしなかっただろうということへの自覚もあります。

>特に、何らかの前提を元に論展開を良くされるが、そもそもその前提に同意できない事が多い。

これもそうだろうと思います。というより、私のエントリーは大抵、この「そもそもの前提」を逆算して理解していただきたいがためのものであることが多いのです。「そもそもの前提」は、端的に言葉に表わすのは非常に困難なものです。それはその「前提」を共有しない者からしてみれば奇異にしか感じられない論理のなかから感得してもらうしかないものだと私は思っているのですね。「感性」を重んじるとわざわざ書くのも、それがゆえにです。

価値観

 あるモノサシをもって、きちんと判断するのは、科学の命題ではあります。

 ただし、「どのモノサシ」を採用するか、が価値観の問題なんだ、と思います。
 
たとえば、
 「死刑の是非」は、「価値観の問題」ですが、
「強盗」が死刑になって、「強盗殺人」が執行猶予、
 の判決では、死刑制度を是とする価値観のモノサシにおいても、
「そりゃ、非合理なんじゃ?」
というツッコミはできます。

そのへんをごっちゃにして、「対立」を騒ぎ立てるほうの問題も大きいと思いますね。

合理性が非合理性の源泉

Looperさんへのコメントが第二迷信さんへのお答えになっていると思います。
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-228.html#comment2411

これは言い換えれば、科学の合理性・普遍性が科学の不合理性の源泉になっている、というものです。

科学の営為とはあるモノサシでもって合理的に判断することでありますから、その積み重ねは合理的な体系そのものです。そこに異議はないのです。ところがその体系を非合理な人間が利用する(科学も道具のひとつですから)と、どうしても不合理性が生まれてしまう。それは第二迷信さんが仰るように価値観の違いなのでしょうが、科学から生まれる不合理性は科学という合理的な体系を背景にしているがために、極めて強力だ――と、そういう話(のつもり)です。

結局、何が?

愚樵さん、

>科学の営為とはあるモノサシでもって合理的に判断することでありますから、その積み重ねは合理的な体系そのものです。そこに異議はないのです。ところがその体系を非合理な人間が利用する(科学も道具のひとつですから)と、どうしても不合理性が生まれてしまう。それは第二迷信さんが仰るように価値観の違いなのでしょうが、科学から生まれる不合理性は科学という合理的な体系を背景にしているがために、極めて強力だ――と、そういう話(のつもり)です。

やはり、「それで?何が言いたいの?」という感想が出てきてしまいます。

強力な道具は、使い方を誤れば甚大な被害が発生するというのは、科学に限らず、何にでも当てはまる事ですよね。「民主主義」、「武器」、「薬」、「信仰」などなど他にも沢山あります。

それで?何を言いたいのでしょう?

もし、「だから、使い方にはよく注意しましょう」という話なら、すでに私は言ってますよね。

うーん

私も、Looperさん同様、

「モノサシの使い方」に気をつけよう、
ぐらいのことは、多くの皆さんは承知なんだと思います。

「科学ぎらい」の人たちにとっては、
「科学を語った非合理」というのが、判断以前にプッツンきちゃう…
というレベルのもので、
数学が苦手な人、古典文学が苦手な人、宗教が苦手な人、
それぞれ立場は同じことだと思います。

よう、わからんのですが

>科学から生まれる不合理性は科学という合理的な体系を背景にしているがために、極めて強力だ

「科学から生まれる不合理性」というのは、どういうものを指すのでしょう。

単に「科学を名乗る」という意味でしょうか?
或いは「科学の中で発生する」という意味でしょうか?

鶉の死

複雑なんだよね。
別にここにいる人に言うのじゃない。

あの鶉の大量殺戮ってなんだろうと思う。
TV観てて、「俺が食うからそんなに殺すな」という気持ちになった。

でも現代の科学の「お告げ」には逆らえない。

鳥インフルエンザが・・・

人間に感染するウイルスに
変異する可能性は・・・

   ある!  あるのだ! 文句あるか!

こうして鶉は

私の腹に入らないまま、地中に葬られる。

南無阿弥陀仏。。。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事へのトラックバックURL
http://gushou.blog51.fc2.com/tb.php/229-e6261180

『SPA!』(2009年3月17日号)に私のコメントが載っています

 ブログの更新サボっていてまことに申し訳ございません。書かなきゃいけない論文に追われたりしている内に、ブログに時間を割く精神的余裕がまったくなくなっておりました(もうしばらくこの状態は続きそう)。    手前ミソで恐縮ですが、一つ宣伝させていただきます。...

「無罪推定」を知らない人が総理?!

「最悪の時期に最悪の人間がトップの悲喜劇」とゲンダイネットで笑われたアソウ太郎氏(どうもこの方を首相と呼ぶ気がしない)。  昨日の...

こっちの「基準」は・・・ 強制退去

 埼玉の、フィリピン人夫妻強制退去(帰国)処分。(2009/3/12毎日.jp) たとえば、「カブレラの名前をかたったウッズ」だったら、「入国したのがカブレラではない」のだから、入国無効で即刻退去。「ちゃんと『本物のカブレラ』を入国させなさい」、という理屈はわかる...

小沢一郎と西松建設とマスコミの官報化

秘書逮捕まで、首相に相応しい人ランキングで小沢一郎は麻生太郎にダブルスコアで勝っていたが、しかし、相手があの麻生さんです。 勝っても自慢にはならない。 民主党の勝利(政権交代)の為には、『小沢辞任しかない』 総選挙で民主党が勝ちたいなら、自民党と体質が同じ...

目が離せない北朝鮮

ミサイル、早急に対処方針=北朝鮮発射なら迎撃含め検討-浜田防衛相   浜田靖一防衛相は19日、北朝鮮が長距離弾道ミサイルとみられる「人工衛星」を発射した場合の対応について、「各省庁からの意見も含めて官房長官の下で整理をした上で決める。 そう時間をかけよう

貨幣のガウス平面による理解⇒紙幣価値崩壊と硬貨価値高騰の説明

一、貨幣構造の垂直性と水平性  貨幣は、交換手段としての「水平性」「非同一性」と、権威・権力・物質価値による独占性・特異性・超越性を基礎にする権力関係としての「垂直性」を持っている。 二、 a) 紙幣貨幣の「交換性と超越性」」の分析  貨幣の持

 | HOME | 

 
プロフィール

愚慫

Author:愚慫
“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

最近の記事+コメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

QRコード
QRコード