愚慫空論

内山節と内田樹

最初のおふたりの「絵」を掲げておきましょう。

内山節 内田樹

左が内山氏。右が内田氏。おふたりとも、私にとって注目に値する人。本ブログでは、今年に入って内山氏は立て続けに取り上げているが、以前は内田氏についても好意的に取り上げていたし、その「好意」は今も変わりはありません。


これは偶然でしょうけれども、このおふたりは、なぜか共通点が多いのです。まず、お名前。内山節と内田樹。姓が「内○」で名が漢字ひと文字。それも、「節」を「たかし」と読み「樹」を「たつる」と読む、珍しい読み方。生まれはともに1950年。生まれがどこかは分かりませんが、お若い頃は共に東京暮らしだったでしょう。内山氏は都立新宿高校卒。内田氏は日比谷高校。

新宿高校も日比谷高校も、現在では“かつての名門校”と化してしまっている感がありますが、内山氏・内田氏が在学した当時は押しも押されもせぬ文字通りの名門校だったはずです。私が若き頃暮らした大阪でいうと、北野と天王寺に相当する感じでしょう。

そんなおふたりですが、ここから先は大きく異なります。内田氏は東大へ。一方の内山氏の学歴に大学はありません。最終学歴都立新宿高校卒。もしかしたら、どこかへ進学して中退なさったのかもしれませんが、それならば、慣例からいけば、「○×大学中退」と紹介されるのが普通でしょう。ところが内山氏の場合は、新宿高校卒。少し奇異な感じがしないでもありません。

少し考えてみると、1950年生まれといえば、大学入試は1968年頃になります。1968年といえば、大学紛争のあおりで東大の入試が中止されたのが1968年。生まれ月によっては「中止」に重なった可能性もあるわけで、もしかしたら、そのあたりが「新宿高校卒」に影響しているのかもしれない...とまあ、これはあくまで憶測ですので、このくらいにしておきましょう。



おふたりの共通点は、名前とプロフィールだけではありません。その思考法にも共通点が見られるように思います。いうなれば「逆立ちの論理」。

まず、内田氏の方から見てみましょう。養老孟司氏との対談『逆立ち日本人論』の、養老氏の言葉から。
内田さんは、最初に「ユダヤ人」の定義についての疑問を出している。こう書いていますね。
「『国民』というのは、原理的には、地理的に集住し、単一の政治単位に帰属し、同一言語を用い、伝統的文科を共有する成員のことだと私たちが信じているからである。だから、そのうちのどれか1つでも条件が欠ければ、国民的連帯感が損なわれるのは当然」と。そして、「外国に定住する日本人、日本国籍を持たない日本人、日本語を理解せず日本の伝統文化に愛着を示さない日本人、そのようなものを私たちは『日本のフルメンバー』にカウントする習慣をもたない。それが私たちのとっての『自明』である」と。
ここまでは「逆立ち」ではなく、いわば「順立ち」。「自明」=「順立ち」です。
ところが、同じ条件をユダヤ人に当てはめると、「自明」ではなくなってしまう。世界の多くがこれを「自明」としても、この条件にとらわれる限り、ユダヤ人のことはわからない。それは「ユダヤ人とは○○である」といえるユダヤ人の一義的な定義は、存在しないからだと。「『ユダヤ人』というのは日本語の既存の語彙には対応するものが存在しない概念であるということ、そして、この概念を理解するためには、私たちを骨がらみにしている民族史的偏見を部分的に解除することが必要であるということ」という二点を重要視される。
つまり、「順立ち」ではダメだ、と。では、「逆立ち」はどうなるか。同書の内田氏の発言。
ユダヤ人論というのはたくさん書かれているんですけど、どれを読んでも、結局「ユダヤ人とは誰のことか」についての一義的な定義には行き着けないのです。みんなそれぞれ勝手にユダヤ人を定義しておいてそれぞれ勝手にユダヤ人を論じている。そして、その議論がけっこう具体的で、個別的には妥当性があったりする。定義できない社会集団であるにもかかわらず、現実には存在するし、定義できない社会集団であるはずのユダヤ人論のはずなのに、聞いているとけっこう説得力があって、「そうそう、ユダヤ人って、そうなんだよ」と頷いたりする。変な話ですよね。
そうやって恣意的に定義された当のユダヤ人たちも、自分たちが何に基づいて定義されたか根拠を明示されないままに、現実に差別されたり、迫害されたりする。しかたがないから、それから逃れようとしたり、それに反発したりする。そうやってみずからをユダヤ人として引き受けてしまう。
「ユダヤ人は殺せ」という声が上がったときには、「あなたはどのような根拠によって私を『ユダヤ人』だと定義するのか」というような悠長な問いを発している暇はない。とりあえず逃げ出すしかない。そして、「ユダヤ人を殺せ」と言ったらあいつは逃げ出したという事実が、彼は紛れもなくユダヤ人であるという根拠に登録される。話が逆立ちしているんです。
内田氏は大学院でユダヤ人論を研究することで「逆立ち論理」を鍛えたのでしょう。他にも例を挙げましょう。同じく『逆立ち日本人論』から個人情報保護法について。
このあいだブログで日記を書いている人が、「自分も公的な発言はしたけれど、プライバシーを守りたいから匿名で書く」と書いていた。それを読んで、なんか変だなと思いました。「プライバシー」というのは公的なものでしょう。ぼくは自分のブログ日記にいろいろなことを書きますけど、書かないこともある。書かないことはぼくの私生活にかかわることじゃなくて、誰かに関係があって、書くとその人が困るとか、そのことはブログに書かないでくださいねと頼まれたことだけです。ある情報が秘匿されるのは、それは僕の私有物だからじゃなくて、すでに他人と共有されているからなんです。つまりプライバシーというのはすでに公共的な出来事なわけですよ。プライバシーというのは、その状況を共有した他者がいてはじめてプライバシーなんです。「きのうセックスしました」といったことを書けないのは、相手の立場というものに配慮するからですよね。「きのう誰それに一億円の賄賂を贈った」と書けないのと同じことです。
個人に関わることがプライベートで、他人に関わることがパブリックというのではないんです。むしろ、かなり多くの人間がすでに知っていることで、かつそれ以上の範囲には情報を広げない方が当事者にとって得なことが秘匿されている。
だから、個人情報保護法って本質的にナンセンスだと思うんです。情報は個人に属するものじゃないから。ぼくの名前にしても住所にしても電話番号にしても、そんなものにぼくは用はない。用があるのは他人だけです。それを他人に秘匿してどうするんです。
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このような「内田節」(内山節ではありません、ご注意)は、「順立ち」論理からみればツッコミどころ満載に見えます。しかし、それをしていては「内田節」の「逆立ち論理」は見えてきません。「順立ち」論理のままでは、「プライバシーは公的なもの」という指摘を「おもしろい」と感じることはできても、内田氏の「逆立ち論理」を共有できないので、「楽しむ」ところにまで至れない。「内田節」を「楽しむ」に至るには、みずからの中の『自明』という「知的フレーム」を壊さないことには無理なのです。つまり

「私たちを骨がらみにしている○○的偏見を部分的に解除することが必要」

ということになります。



次に内山氏。こちらも引用によって例示します。以前、当ブログにて引用した『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』から再び引用。「山川草木悉皆成仏」、専門用語「天台本覚思想」と言われている部分。
宗教の研究者たちは、教義を中心にして宗教を考察する傾向が強い。「大般涅槃経」に記された「一切衆生 悉有仏性」が中国で、人間が成仏で着るなら、その人間を支え関わりをもっている自然の生命も成仏できる、という思想を芽生えさせ、それが日本では、草木それ自身が仏性をもち、成仏を約束されていると、つまり人との関わりがあろうがなかろうが成仏すると変った。さらに石や岩も成仏を約束されているとなっていく過程に、最澄を経て中世に確立していく天台本覚思想をみるのである。そしてここに仏教がひとつの極限にまで深化した姿と仏教の自己否定を見る。なぜ自己否定なのかといえば、もしも現実にあるすべてのものが仏性をもち、成仏が約束されているとするなら、あるがままに生きればよいのであって仏教もまた必要ではなくなる可能性があるからである。
(少し注釈しておくと、仏教もまた必要ではなくなる可能性があるからこそ、あるがまま=「自然(じねん)」は仏教では「外道(げどう)」とされました。)
ここは「順立ち」です。「逆立ち」は
 しかし、このような考察はあくまで研究者のものである。私が重視するのは本覚思想をきいたとき、「なるほど、そのとおりだ」と思った民衆の側の精神である。この精神がなければ、中世にこれほど本覚思想がひろまるはずがない。そして宗教とは、つねに民衆の側にあるのであって、民衆のいだいていた信仰的思いが教義によって言葉を与えられたとき、宗教は宗教として誕生する。
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内山氏の「逆立ち」は、同じ「逆立ち」でありながら、内田氏の「逆立ち」の在り方とは異なります。この差異は両者の個性の差であるのでしょうが、それは両者の経歴の差と似通ってもいる。つまり、内田氏の場合はアカデミックな追究のなかで鍛えられた「逆立ち」であるのに対し、内山氏の場合はアカデミックをうち捨てたところにある「逆立ち」。内山氏は、アカデミックな追究そのものに対して「逆立ち」しているということもできるでしょう。

もちろんアカデミックな追究の動きの中にも、それまでのアカデミックな在り方を覆そうという動きはあります。その動きがこそがアカデミックな追究が前進する原動力なのでしょう。内田氏の「逆立ち」は、「逆立ち」でありながら、それでも辛うじてアカデミックの範囲内に収まっていると感じられる。生臭坊主であっても、坊主であることには変わりはないのです。

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ところが内山氏は、プロフィールでは哲学者として紹介され、現在は大学でのポジションも確保されているようですが、基本的にはアカデミックなところから外れた在野の哲学者。「哲学」が自明とされた枠そのものを再検証する営為であるとするなら、内山氏はその「生き方」も含めて、もっともラディカルな意味での哲学者でもあります。ですから、その思想――思想とは本質的にローカルなものである――は、私たちが通常イメージしている思想そのものへの「逆立ち」になっていますし、「偏見の部分的解除」では済まず、「全面的解除」を求められることにもなります。

その「逆立ち」がこのような方向へ向かうのは、ごく自然なことでしょう。

『新たな多数派の思想の形成をめざす100人委員会』(三人委員会哲学塾ネットワーク)



最後にもうひとつだけ、内山氏と内田氏の共通点を指摘して本エントリーの締めくくりとします。その共通点とは「身体性」です。内田氏は武道家として、内山氏は農民として、頭脳のみならず身体も使役する思想家です。おふたりの「逆立ち」は、差異はあれども、どちらも「身体性」の上に立脚し思考であることが感じられます。そのことは、同じく身私――同じく身体を使役する樵――が共感することと、深く関連があるように思われます。

そして、「身体性」という視点から見れば「逆立ち」はむしろ、「身体性」と相反する「頭脳性」の方なのです。内山氏が批判する「近代」とは、本来「逆立ち」であったはずの「頭脳性」を「順立ち」と勘違いしてしまったところにその根源があるのではないか。そのように感じずにはいられません。

コメント

自己レス

内田氏がユダヤ人論で示した「逆立ち」。すなわち、一義的にユダヤ人の定義はできない、との指摘は、「メロドラマ」(http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-217.html)にて提示した「プロレタリアート」にも同じ構造が当てはまるのではないかと考えています。

つまり「プロレタリアート」とは、実は一義的に定義できる存在ではないのではないか? 実態はただ「資本家」という概念(こちらは明確に定義できるでしょう)でないものを、論理的に純化しようとしたものにすぎないではないか、という疑念です。

また、こうした「逆立ち」を他にも適用すると「人権」といった概念も、本来は明確に定義できないものであるにもかかわらず、「国権」の対概念としてあるがために明確に定義できるものと「自明」にされてしまっているのではないか? と疑念をもつことになってしまいます。

つり

どこかの笑い話で、料理を食べている客に「これは平目かね?」と聞かれたウエイターが「食べてわからないのなら聞いてもしょうがないでしょう」と答えるというのがあって、それを思い出しました。

あと、水を張った風呂桶に釣り糸をたらしている人のお話しとか。病院にいるその人に医者が声をかけます。「釣れますか?」。そうしたらその人は答える。「何を仰る。これは風呂桶だ」。

人権というのと、自殺、死刑、の問題を重ねて考えて、突き詰めてみると、あたしらは何か壮大な釣りに引っ掛けられて居るんじゃないか、と思うことはありますね。(「自殺」「死刑」のほかに、外国では「戦争」も入ってくるかな)

自殺や死刑や戦争が権利として主張されうるか、ということですね。あまりにも壮大なので手も足も出そうにないのですが。気が狂ったふりでもして、病院で釣り糸を垂らしつつ、考えてみたいテーマではあります。

(頭で、じゃなくて)身体的にはたらきかけてくる何かを待ちながら。

ひとつの答えとしては、(風呂桶に釣り糸を垂れている人が居たら)その人を堤や湖に誘うのが自然かな、という気にはなっています。ここで要らぬ世話を焼いて病院につれて行くというのは明らかな間違いですね。ただ、何を求めているのかというのは人それぞれですので、(その人のことが気になるのなら)やはり対話が必要です。「病院につれてっ行って欲しい」とは、言うかもしれないし。その時は一緒についてってやればいい。

病院は、病人を隔離するためにあるわけではないのだから
料理が、金持ちを隔離するわけではないのと同じように
人権が、人間を隔離するものではないのと同じように

失礼しました。

ja e w ckです。
昨日は、トラックバックありがとうございました。

トラックバックのお返しをしようとして、操作ミスをしてしまい、昨日お送りしたものをこちらにも送信してしまいました。

この件については、お詫びいたします。

「投げつけられた問いかけは、いまも、そのこにありつづける。」の方のトラックバックは削除していただくことを希望しますが、こちらのミスによるものなので、愚樵さんの判断で、削除いただいても、いただかなくても結構です。

ちなみに、このコメントについても当然、愚樵さんの判断で、削除いただいても、いただかなくても結構です。

この件については、あらためてお詫びいたします。
申しわけありませんでした。

どの程度まで掘り下げたユダヤ文化について話をしているのか分かりませんが、ユダヤ人は人種ではないのです。昔はセメティックとか言う特徴の有る所謂人種と言われるユダヤ人集団が在ったかもしれませんが、現在では宗教に基いた文化圏がユダヤです。アジア人と言う言葉と概念は別に不思議ではないでしょう。アジアには色々な文化や言葉がありますがアジア人と言う一つの言葉で言い表す事が出来る概念です。アジア人は地域を基準にした“~人”と言う言い方ですが、ユダヤの場合は人種、地域ではなく文化圏の名前なのです。“日本人”等の様に民族国家を当てはめると訳の分からない言葉になります。アメリカの黒人のエンターティナーだったサミーディヴィスJrもユダヤ人になったのですから。

横から失礼

ejnewsさん

>アメリカの黒人のエンターティナーだったサミーディヴィスJrもユダヤ人になったのですから。

早速他をさがして読んでみて成程と思いました。

>ユダヤ人は人種ではないのです。昔はセメティックとか言う特徴の有る所謂人種と言われるユダヤ人集団が在ったかもしれませんが、現在では宗教に基いた文化圏がユダヤです。アジア人と言う言葉と概念は別に不思議ではないでしょう。アジアには色々な文化や言葉がありますがアジア人と言う一つの言葉で言い表す事が出来る概念です。

そうなんだ。そうだったんだ。と思いました。
ありがとうございます。どのような見方をすればいいのかが分かりました。<(_ _)>

サミー・デイヴィスJrは好きなのでびっくりしました。

つりつられ(笑)

ごんさん

>どこかの笑い話で、料理を食べている客に「これは平目かね?」と聞かれた...

そういうのを「普通は」(←なんだかクセになってしまいました(苦笑))イジワルといいますね。内田氏と養老氏の対談は、イジワル同士のものです。当人達がそう自認している。だから、ごんさんの連想は的を射ていると思われます。

>人権というのと、自殺、死刑、の問題を重ねて考えて...

個々の人間に人権は確かにある。それは間違いない。けれども個々の人間から離れたところに人権はない。それは国権と同様の「虚構」。

国家、それに経済もそうですけれどもいわゆる「システム」というやつは「虚構」がなけば駆動しません。なので「システム」の中にいる人間は「虚構」を「現実」だと勘違いするのでしょう。

>病院は、病人を隔離するためにあるわけではないのだから
>料理が、金持ちを隔離するわけではないのと同じように
>人権が、人間を隔離するものではないのと同じように

そう、国籍もですね。

ja e w ckさん

ご丁寧に、恐れ入ります。

お言葉どうり、誤操作によるTBは削除させていただきました。

場違いですが、ついでひとこと。

「投げつけられた問いかけは、いまも、そのこにありつづける。」

よいタイトルです。内容もザッと目を通させていただきました。私のことも取り上げていただいているようですが、特にこちらから申し上げることもなさそうです。

ただ、「投げつけられた問いかけは、いまも、そのこにありつづける。」だけのこと。それでいいのではありませんか? そして各々で答えを出せばいい。私たちは独立した別人格なのですから。

ejnewsさん

>どの程度まで掘り下げたユダヤ文化について話をしているのか分かりませんが

いえ、文化の話ではありません。ユダヤ人の定義の問題です。

>ユダヤ人は人種ではないのです

そのようですね。

>“日本人”等の様に民族国家を当てはめると訳の分からない言葉になります。

まさにそのことです。ですが、日本人はどうしても、その前提でものでユダヤ人を見てしまう、暗黙の了解になっている、という話です。そのことは「日本」という「システム」にどっぷり漬かっていると、なかなかわからないものです。

長くてゴメンよ(その1)

当たり屋というしのぎがあります。(多くの場合、自分の)子どもを走っている車にぶつけておいて、そのドライバーから法外な金をふんだくるというものです。これは、車社会というシステムを的にした極めて悪質な行為といえるでしょう。

運転手は常に事故を起こす可能性を持った存在で、誰かが飛び出してくるという偶然に対して抗うことはできません。そうして、飛び出してきた子どもをはねてしまったら、自分の責任で事故を処理(しようと)しなければなりません。これは法理としても、倫理としても、間違いのないことです。だから、実際のところ、当たり屋的な、そういうのに付け狙われたら(普通は不特定多数の人を狙うのですが、仮にそういうことがあったとして)その人は車の運転をやめるほかなくなります。

これが実は、わたしたちを取り巻くシステムの息苦しさ、にほかならないのです。社会というシステムを生きる限り逃れられない責任。村上春樹のいう壁です。

そうして、その「いきぐるしさ」が社会全体を覆い、人々が自分の車の運転をほかの人に頼むようになるのがファシズムの萌芽です。そうしてそれはやがて、人々の心に「~の資格がない」という言語形態をとって、人間をムラ社会的な集団にわけ(ここでは運転手と客として)社会全体を排除と差別の論理で蝕んでいきます。そのようになってしまった社会に生かされている個人は、互いに隣人の監視をし、すきあらば「当たり屋」をするようになります。これでファシズムの完成です。そんな社会では平気で「~のくせに」(ここでは「運転手のくせに、飛び出してきた子どものせいにするのか」とか)という言葉が散見されるようになります。いえ、散見されるようになるのは問題ではありません。ジャイアンやスネ夫が「のび太のくせに」とか言っても。子どもたちにはそれを言う権利があるのですから。そして子どもたちには、それを言って大人たちに窘められる権利があるのだから、です。

そう、一番の問題はそんなこと「~のくせに」を口にしてはばからない大人が増えたところにあるのですね。

長くてゴメンよ(その2)

さて、今、日本というシステムは非常に息苦しくなっています。これは、各人が犯した過ちに対しての寛容性がなくなったきたことに起因しています。寛容性とは「人間だもの」という「節」と言い換えてもいい。もともと人が犯す過誤とその罰則は相応の妥当性という節をもって施行されたもので、その節をもって維持されてきたはずです。だから、そこから考えると「当たり屋に狙われるのなら運転はしない」というところに人が追い込まれるというのは、法制度自体がその節を侵しているということになるのです。当たり屋は子どもがぶつかってきたときに運転者が被る罰則というシステムに狙いを付けてきているわけですから。(ことわっておきますが、わたしは運転者を擁護しているわけではありません。ここでわたしが問題にしているのは、唯ひとつ、当たり屋の反社会性です)。「当たり屋に狙われるのなら運転はしない」というのは法治国家の観点から見れば理のない話しなのです。当たり屋が横行するのは、その当たり屋の行為自体を(システムを利用して他人から利益や権利をむしり取る)を国なり裁判所なりが厳しく戒めないからです。ちなみに、今もっともその行為が横行しているのはマスコミですね。

そして、日本語というシステムの必要性を認めるのなら、当たり屋的な物言いをやめることです。やめさせることです。わかりやすい当たり屋的行為というのは、人を犯罪者扱いすることです。それをやられると「普通」の人は「もうしゃべるのをやめよう」と思うからです。法律は個人に人を裁く権利を与えてはいません。だから、当たり屋的な物言いは越権行為です。人を犯罪者扱いするのは、(そのことが事実だと確定すれば)犯罪です。法治国家に生きるわたしたちは、その行為が犯罪だと確定する前に、そのことをきつく戒めていくべきでしょう。

日本というシステムをここに生きる我々に有用なものとして維持していくために。

「こんなこと言われるんなら日本で子どもなんか産まない方がよかった」

こんなことを人に言わせる国に住みたいと思いますか?

「日本に生まれたのがいけなかったんだ」

こんな日本語を聞きたいですか?

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しぃ~(人差し指)3編と、

閑話休題、10年前の、絨毯爆撃 歴史歴史歴史 そのころの俺が、何を考えてたかなんて 俺に聞いても無意味だぜ 現にこの俺が 今もこの俺が 問い続けてるんだから ここで既出かどうかは、確認していない そんなこと無意味だし ==============...

「内田樹」って、なぁんかイヤっ!

印象批判をいたします。

母国語は下手でも英語は上手い麻生首相

『初めての日米首脳会談』 得意のはずが。麻生さんの喋る英語に困惑する米側、『何を言っているのかが聞き取れない』。 『共同会見空振り、米メディアも反応冷ややか』 2月24日のオバマ米大統領と麻生太郎首相との初めての首脳会談は予定を約20分超過して約1時間

愚樵空論コメント欄での寛大な措置に感謝するとともに、コメントする。

愚樵空論に送信すべきトラックバックをミスしたことに対する、愚樵氏の寛大な措置に関して、感謝するとともに、コメントをしようと思ったが、あまりに長文になったので、エントリーとし、トラックバックさせていただく。

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