愚慫空論

メロドラマ作家~水村早苗とマルクス

昨日の『お玉おばさんでもわかる 政治のお話』で、マルクスが取り上げられていました。

取り上げると言ってもそれはお玉さんらしく、
別にお玉共産党員じゃないのに、そんな記事書いたら誤解されちゃう・・なんて、思ってた。それにね、よくわかりもしないのに書いちゃうことで、党員の方々に怒られないかなあなんてね・・ちょっと怖かったりして・・気軽に出せないテーマというか、そんな感じがしててね・・すごい偏見・・・・でも、実際みんなもあまり書かないもんなあ・・
つまり、気軽にマルクスを語ってみない? お玉さん一流の問題提起でしょうね。とはいうものの、やっぱりマルクスは気軽にと言うわけにはなかなかいかない。内容はウルトラ・ヘビーですからね。資本主義が躓いてしまった時代の流れもあって、そうした試みはさまざまに行われてはいるようですけれども。

当エントリーは、お玉さんの誘いに乗ったわけではないのですが、素人の気軽なマルクス論――ではなくて、マルクス観です。いや、マルクス“感”か(笑) もとより私にはマルクスを噛み砕くだけの咀嚼力はありませんから、まともにマルクスを論じたものではない。ただ、私には素人ながらもマルクスを良しと「嗅覚」みたいなものがあって、その「嗅覚」を少し言葉に載せてみようと思った。まあ、要するに“愚樵空論”というわけです(笑)


日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で日本語が亡びるとき
水村 美苗

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話を、マルクスではなくて、まずここから始めたいと思います。

私がこの本を知ったのは、昨年の終わり頃。おそらくこれだったと記憶しています。

『今世紀最重要の一冊 - 書評 - 日本語が亡びるとき』(404 Blog Not Found)
日本語を護る最良の方法は、何か。

日本語以外の言語、すなわち英語以外の言語も共に護る、という方法である。
実は私、ここを読んで連想したのが戦前の「八紘一宇」「大東亜共栄圏」といったもの。列強の侵略から、日本を守る。日本だけではなくて、アジアも守る。端的に言うとエリート主義です。「守る」というときに、守る「私」を想定している。水村早苗氏も小飼弾氏にもそういう「臭い」が嗅ぎ取ることが出来るような気がしました。エリートのヒロイズムとでも言いますか。

もちろん、書評だけで決めつけてしまってはいけないので、本を購入して読んでみました。買ってまで読みたいとは思わなかったけど、図書館になかったので。読後の感想は、最初に抱いてしまった先入観から抜け出せなかっただけかもしれないけど、やはり変わりませんでした。

今年になってから、こちらが『日本語が亡びるとき』を取り上げました。

『日本語が亡びるとき憂国のバイリンガル文士は宣ふ』(BLOG BLUES)

私はBLOG BLUESさんに以下のようなコメントを投稿しました。
「日本文学の末裔として、偽らざる憂国の真情を吐露」はホンモノだと思いますし、他言語を尊重する態度も伺えます。しかし私は、水村氏が日本語を滅ぼす側か守る側かと問われたら、滅ぼす側だと答えます。彼女の真情とは別に。
どうしても、水村氏と日本の戦前のエリートたちとが被ってしまうのですね。戦前エリートたちの「憂国の真情」を、中にはニセモノが混じっていたとは思いますが、そのすべてがニセモノだとは思わない。全体としては真情であった。けれど、結果として彼らが導いたのは亡国一歩手前の状況だった。
その心は、水村氏の視点が「普遍」という観点に偏りすぎているところにあります。彼女は日本語への愛着を吐露しながらも、読後に受ける印象は「普遍語はとても大切」ということなんです。普遍語の大切さがよく理解できるからこそ、彼女の真情が浮き彫りになる。そういう構造になっています。
「普遍語の大切さがよく理解できるからこそ、彼女の真情が浮き彫りになる」、その構造。この構造のことを「メロドラマ」と表現できる。そのことを教えてくれたのがこちらです。

「日本語」を主人公としたメロドラマとしての『日本語が亡びるとき』(海難記)

『海難記』で引用されている文芸評論家・池田雄一氏の文章を孫引きさせてもらいます。
まず、美徳を体現するものとして、理念としての「日本語」が主人公の位置に立っている。これはいまここで実際に流通している日本語ではない。そうではなく、かつて美徳そのものとして存在し、現在によって汚染される危機に瀕し、そしてこれから亡びようとしている「日本語」のことである。


『海難記』のこの文章を読んだのが、昨夜。池田雄一氏の文章そのものは未だ読んでいないけど、これは私の「嗅覚」に引っかかった「臭い」を見事に表現してくれているものだと思いました。そして、今朝。いつもの定期巡回でお玉さんの所を覗くと、マルクスが...。

そこで、あっと思った訳です。水村早苗氏がメロドラマ作家なら、マルクスもまた同じなのではないか、と。「日本語」の場所に「プロレタリアート」を入れると、ピッタリくるのではないかのか、と。



まず、美徳を体現するものとして、理念としての「プロレタリアート」。
これはいまここで実際に存在している労働者ではない。


ピッタリきますね。

かつて美徳そのものとして存在し、現在によって汚染される危機に瀕し、そしてこれから亡びようとしている「プロレタリアート」。

「現在」を資本主義体制、「かつて」はマルクスがヘーゲルの進歩史観から「発展」させた唯物史観における原始共産制。「これから」は革命後の共産主義。

さらに『海難記』の記述を借りつつ続けましょう。

『資本論』という本は、論旨をまともに追おうとすると、あちこちで道に迷わされる。個別の記述としては正しいところも多いのだが、全体としてはとてつもなく間違っている、という印象を与える。そして、その「間違っている」という感じの理由を説明しようとすると、さらにとてつもない労力がいるのだ。

だが、そうは感じず、この本をきわめて説得力のある、感動的なテキストだと思う読者も多い。なぜ、そのような二種類の読みが生まれてくるのか。


それは「メロドラマ」だから。

メロドラマである以上、この物語には当然「悪役」も登場する。このメロドラマのなかで「悪」を体現する存在は二つある、・・・。ひとつは「資本」であり、もうひとつが「ブルジョア」である。

(『資本論』では、資本主義)が普遍的な制度としてプロレタリア―トとしての「上位に」位置する以上、悪役としての資本はプロレタリアートにたいして直接的に攻撃を仕掛けるわけではない。プロレタリアート、とくに美徳を担うべき特権的な知識人を「誘惑」するものとして登場する。

知識人は『資本論』に誘惑される。またその一方で『資本論』に誘惑されない者がいる。前提から判断するに、その者は知識人ではない。この単純な三段論法によって、ふたつめの悪の存在が示唆される。それは資本を駆使しつつ『資本論』を知らないブルジョアである。


こんな情景、日本でも昔、猛威をふるったような。

ここは『海難記』をそのまま引用。
「語り手」自身は決して「幼稚化した日本文学」の具体名を挙げないこと。池田はこれこそが「この本の書き手が仕掛けたプロットのなかでも最大のもの」だと指摘する。それはなぜか。何も語らないからこそ、「語り手」だけは無垢なままで、現在によって「汚染された日本語」に汚染されずにいられるからだ。
この記述からは、マルクスがプルードンやヴァイトリングなどを権謀術数まで弄して排除しようとしたことが思い起こされます。私はこれまでそのことが不思議で仕方なかったのですが、マルクスが「プロレタリアート」という理念を“無垢なまま”に保持しようとしていたと「想像」するなら、腑に落ちるものがあります。
逆に、現在の日本語の文章を擁護しようとする論者は、「語り手」であるこの本の論者がいったい何の作品を「幼稚」だと考えているのか、ということについての自分の想像を、逐一「自己申告」しながら反論しなければならない。

皮肉なことに、そのような「自己申告」の作業をつうじて、本書に対して批判的な立場をとろうとする読者の側こそが、「みずからの想像力によって汚染される」ことになる(村上春樹までは認めるが、ケータイ小説はさすがに認められない、等々)。そのような(無意識の場合をふくむ)自問自答によって、水村の論は、『ユリイカ』の寄稿者の多くが感じたように、「大筋において正しい」ように思われてくるのだ。池田が「詐術」と呼んでいるのは、このことである。
そして、この「想像」が正しいとすると、共産主義を具体的な制度としようとするいかなる試みも、“自分の想像を、逐一「自己申告」しながら反論しなければならない”し“みずからの想像力によって汚染される”ことになる。

また「みずからの想像力」とは、資本主義を駆動させるエンジンであるところの「欲望」と考えてもいいでしょう。共産主義を具体的な制度として設計すれば、必ずや「欲望」という「個人の想像力」と立ち向かわざるを得ません。マルクスは「万国の労働者よ、団結せよ!」と言いましたが、これが現実になるには「個人の想像力」は捨て去らなければならないし、そんなことは現実問題として不可能です。あくまで“無垢なまま”としての理念の状態でのみ可能であるだけです。

また一面、“無垢”なものほど“汚染”されやすいということもあります。壮大な実験国家としてのソ連の顛末。無垢な日本の左翼思想を穢した内ゲバ。最近では『戦争は希望』のキャッチフレーズで特権化した労働運動への批判が記憶に新しいところです。



マルクスが「プロレタリアート」を“無垢なまま”に保持しようとしていたと「想像」は、あくまで私の勝手な想像です。そして、無責任なことに、私にはこの「想像」をみずから論証するだけの能力がない。冒頭に述べたとおり「嗅覚」を言葉に載せただけのものに過ぎません。

それはオマエのハナが曲がっているだけだろ! との批判はあるでしょう。その批判は甘んじて受けます。

ですが、もし私の「嗅覚」が正しかったとしたら? その証明は、膨大なマルクスの著作を分析するよりも、マルクスの実生活や活動を解析した方が早いかもしれません。また「嗅覚」の話で恐縮ですけれど、伝え聞くマルクスの人柄からは、“無垢な”思想家あるいは革命家の姿を私は想像できません。レーニンがその実像(と思われるもの)に接するほどに、思想家としても革命家としても“無垢な存在”であったと感じさせるのとは正反対に。

コメント

感想には感想で

こんにちは。ご紹介、ありがとうございます。感だ、嗅覚だ、無責任なことだ、と、さんざん予防線を張りながらの言いたい放題は、卑怯でありましょう。史上最も有名なマルクスの箴言「文は人なり」。あなたの文章からは、自分は浅学非才で、上手く説明できないのですが、どうしてもそのように感じてしまうのです。っていう謙虚はおよそ感じられず、どうだ自分の直観は凄いだろうってな夜郎自大ぶりが、それこそプンプン臭って来ます。ね、こういう物言いが卑怯だってことが得心行くでしょ。臭いで感じるなんて言われた日にゃ反論できないもん。それってファッショでしょ。人として、いま少し修業を積まれよ。

Re: 感想には感想で

BLOG BLUESさん、早速のコメントありがとうございます。

>どうだ自分の直観は凄いだろうってな夜郎自大ぶりが、それこそプンプン臭って来ます。

そう受け取られても仕方がないでしょう。実際のところ、これが今の私の限界です。

>人として、いま少し修業を積まれよ。

はい。ですが出来ましたら、この記事もその修行の過程と捉えていただけるとありがたいのですが。

> さんざん予防線を張りながらの言いたい放題は、卑怯でありましょう。

その卑怯という指摘は甘んじて受けると致しまして、BLOG BLUESさんは、こうした卑怯な言説は展開すべきでないとお考えでしょうか? だとしたら、自分の考えを展開できるのは、アカデミズムの住民にしか出来ないことになりはしませんでしょうか? 樵がマルクスを語るのは不釣り合いという「ファッショ」になりはしませんでしょうか?

私が予防線を張るのは、そうした意見に対する予防からです。浅学非才な樵がバカなことを言っていると見られても構いはしません。けれども、自分の感じたことは堂々と述べたい。ただそれだけのことですし、ネット上に咲いたブログという花には、それが許されるところだと私は思っています。

そのことはもちろん、感想・批判も自由に述べてよいということも意味します。ですので、BLOG BLUESさんが私の感想にどのような感想を持ち、どのように表現なされようともそれは自由。ただ、その自由は「人として云々」といった類のことへの言及は控えることで辛うじて保持される自由ではないかと考えます。

この禁を双方が破るとどのような事態になるのか、私たちは「水伝騒動」でさんざん見てきたのではないでしょうか?

天に唾する

こんにちは。あなたは、僕に対して直接人格攻撃したわけではない。それに対して僕は、あなたに直接人格攻撃した。これは、僕の言葉が過ぎました。この点は、あやまります。ごめんなさい。しかし、あなたは、僕が推奨した著書の著者に対して、「エリートのヒロイズム」云々の人格攻撃を仕掛け、「八紘一宇」等の皇国史観を持ち出し、著者があたかもファシストであるかのような印象を記している。何ら根拠もなく、自分の嗅覚のみに依ってだ。それでいて今度は、僕の人格攻撃を詰る。まったくフェアじゃない。さらに、「樵がマルクスを語るのは不釣り合い」誰も言ってないことを勝手に解釈して誹る。それはないだろう。卑怯に過ぎる。批判封じの予防線を張った上で「自分の感じたことは堂々述べ」られては、真っ当な反論ができないのです。次回からは予防線なしで頼みます。で、つい、人格攻撃になってしまった。この点については、重ねてお詫びする。

反論します

>あなたは、僕が推奨した著書の著者に対して、「エリートのヒロイズム」云々の人格攻撃を仕掛け、「八紘一宇」等の皇国史観を持ち出し、著者があたかもファシストであるかのような印象を記している。

私は水村氏の真情はホンモノだと書いています。これは人格攻撃でしょうか? 

また、皇国史観=人格攻撃というロジックは、私のものではなくて、BLOG BLUESさんのものです。私は彼らもホンモノだとしています。

私やBLOG BLUESさんも含め、人間は過ちを犯すものです。真情に支えられているからと言って、自分の行動や表現が正しいとは限りません。真情が正しいから行動も正しいという思い込みがいかに危険なものか、LOG BLUESさんともあろう方がご存じないのでしょうか?

ただし、私はマルクスに対してだけは人格攻撃をしていることは認めます。正直申しまして、私はマルクスの真情は疑っています。そして、マルクスの人格から彼が打ち立てた理論を検証すべきではないかと思っている。もっとも、その検証のための時間・力量とも私に欠けていることも認めなければなりませんが。

>批判封じの予防線を張った上で「自分の感じたことは堂々述べ」られては、真っ当な反論ができないのです。

指摘するまでもないことですが、この記事を読んでいるのはBLOG BLUESさんだけではありません。他の人も読んでいます。私のこれまでの記事も同様です。私が予防線を張る必要があったのは、BLOG BLUESさんにではなく、その他の人に対してです。要するに、予防線を張る実績と理由があるということです。そのあたりは汲んで頂けませんでしょうか? 

>次回からは予防線なしで頼みます。

いいえ。記事を書く私が必要であると考えば、予防線を今後も張ります。その判断は私の専権事項です。

それに、お気づきになっていただけませんか? 当ブログはタイトルからして「愚樵空論=愚かな樵の戯言」です。タイトルがすでに予防線です。つまり、予防線は当ブログのスタイルでもある。

その心は、私がこの場で展開する話を戯言と読んでいただいても結構、それは読み手にお任せしますということです。そうした上で、堂々と自分の思うことを述べてみる。卑怯でしょうか、このスタイルは?

これっきりです

こんにちは。自明のことを一々説明しなければ通じないのでは消耗するばかりですので、これっきりにしますね。1つ、反論する以上、再反論は覚悟されたい。本エントリーは僕のエントリーに対する反論でもある。そんなつもりはなかったなんて言わないでね。他者に石を投げつけておいて、自分には投げないででは、そりゃ道理が通らない。2つ、ブログは極小とはいえ公的メディアだ。お仲間だけでなく一面識のない人々の目にも触れる。何をどう感じ、どう表現しようと個人の自由、私的な茶飲み話なら「ねえねえ水村美苗の本読んだ。何だか『エリートのヒロイズム』がプンプンして嫌な感じ。皇国史観のファシストと同じ臭いがしたわ」「うわー、愚樵さんの嗅覚って鋭いわ」と盛り上がるのもいいでしょう。しかし、公的メディアの書評で著者をファシスト扱いする以上、相応の論拠が必要でしょう。因みに、皇国史観は天皇制ファシズムを支えたイデオロギーであり、「八紘一宇」はその核心である。著者をファシスト扱いした覚えはないなんて、みっともない逃げ口上はお止めなさい。3つ、2に関連するが、あなたは、水村美苗に対してもマルクスに対しても「~側の人」という論拠なき臭覚に依ってレッテルを貼付け、批難している。そのようなレッテル貼りはファシズムに特徴的なものだ。自戒すべきでしょう。

批評というフレーム

愚樵さん、毎度どうもです

BLUESさん、お久しぶりです

>私は水村氏の真情はホンモノだと書いています。これは人格攻撃でしょうか?

まあ、少なくとも、池田雄一氏のものすところの「水村氏の『メロドラマ』ロジック」を肯定してはいますね。だから「文は人なり」とするBLUESさまにおかれましては、「人格攻撃だ」とのお受け取りをなさるわけでしょう。

愚樵さんが仰るところをあたしなりに咀嚼してみれば、

>水村氏の真情はホンモノで
>池田氏の言う「メロドラマ」のにおいを嗅ぎ取る

ということだから、こんなふうに解釈してみました(でいいですかね?)

水村氏は、その論評するところにおいて、その方法(批評としてはかなり卑怯な部類に属する)を取っている自覚は(おそらく)なく、自らの真情を語るために、散々手垢の付いた「メロドラマのロジック」をつかっている。

< ここでの「自覚は(おそらく)ない」というのは、わたしなりの好意的な解釈です。この場合、水村氏が自覚があってそれをやっているとしたら、「真情」の方が疑われますので >

だから、「『メロドラマ』のロジック」ではない、と思う方がいらしたのなら、その意見に青筋立てたりせずに、そうではないということをごく冷静に、筋立ててお話しすれば済むことです。詰まるところ、ためしにご自分がお思いになる「『幼稚化した日本文学』の具体名」をここであげてみれば判然とするわけです。

わたしとしては、それが批評であれ何であれ人が言葉を発するときに情を込める(というか情が籠もる)のは当たり前だと思います。ですが、「日本語」を憂えたりはしないな、というのが正直なところですね。

 草の戸も住み替はる代ぞ雛の家  芭蕉

わたしはこういう言葉がいつまでも生き続けられる日本であって欲しい(欲しかった)と思ってはいます。だから、今の日本を憂えてはいますね。こう言うといささか夜郎自大なきらいはありますが(事実そうでしょうけど)、もちろんそれは「憂国」ではありません。

卑怯というクレーム

ああ、ごめんなさい、マルクスの話でしたね。

万人受けするような恋愛観がベースにあるから、個別具体的な情愛が「かけがえのないもの」として価値を持ってくるわけで。もしそれが、何のモデルもない百人百色だ、あるいはみんな同じだ、などと言ってしまうと、情熱を込めて追い求めたり、育んだりするものがなくなるのですよね。そういうふうに個別具体性の価値を担保する、それがメロドラマの役割です。その中には面白いものもあればくだらないのもある。

だから愛にしろ哲学にしろ生活する人々と切り離されてしまった「思想」は、モデル(=象徴)として利用するのがいいのだと思います。記されている個別具体的な枠組みを大事にするのではなくて。

そこで追い求められたものが何であったのか、ということですね。そうして、どのように育てられてきたか、と。

だから「ソ連の顛末」や「内ゲバ」は、その「思想の使い方を間違えた」でいいのではないでしょうか。

革命のために解釈され利用された言葉が、ひとたびその目的を達したとき、今度は粛正のために利用されるようになるのは必然です。これは思想を受け取る側の問題ですね。だから件のマルキシズムにしても、日本に住むあたしらは個別具体的にやり方を模索すればいいわけですし、そうしてきた。

護送船団方式、終身雇用・年功序列、付き合いという名の仕事

これまでそういったものを利用して、何を育んできたのか
これからそういったものを排して、いったい何を求めていくのか

あたしは「平和」だと思うんだけど。戦争ばっかりやってる国際社会の中で、九条を堅持していくことはやっぱり卑怯ですかね。でも、それでいいのだと思うのですよ。

うちはまずいんだなあ、もう戦争はしない、って約束したから。

あそこで亡くなった方々に。

マルクスは、かじったことしかないですが

マルクスは、神なき時代に向けての旧約聖書を書こうとしたんじゃないかな。他の、ケインズとかスミスとかなどとはやや趣が異なる著作になったのはそのせいなのでは。かじったことしかないですが、この機会にちゃんと読んでみたいなと思いました。

水村の『日本語…』と似た臭いがするのは、西尾幹二の『国民の歴史』じゃないでしょうかね。どちらもきちんと読んでおりませんので、嗅覚だけを頼りに書いちゃいますけど、両方とも、きわめて私的な思いをつづった本として読まれるべきもの、という点は共通してると思いますね。そうじゃない読まれ方、取り上げられ方をするのは、本にとっても不幸なことなのではないか。

個別具体例

あたしらの爺さんの世代は学校で琉球語(しまくとぅば)や宮古口(みゃ~くふつ)をつかうと、罰として「方言札」なるものを首からぶら下げて一日を過ごしたそうです。

http://www.youtube.com/watch?v=LK8r8wb3HIA

♪たとえば泣き虫には、なちぶさ~
 バカやアホには、とっとろ~
 日本語よりも新鮮な、うちな~口をつかおうよ~

          by 佐渡山豊

これっきり~よかった

>自明のことを一々説明しなければ通じないのでは消耗するばかりですので、これっきりにしますね。

ご自分の思い込みを「自明」とされるのは大変困るんですよね。これっきりと仰るのでお付合いしますが。

>本エントリーは僕のエントリーに対する反論でもある。そんなつもりはなかったなんて言わないでね。他者に石を投げつけておいて、自分には投げないででは、そりゃ道理が通らない。

なるほど。これが「お怒り」の理由ですか。確かにこれはBLOG BLUESさんへの反論でもある。異なった意見の表明ですからね。それを「石を投げた?」 ふ~ん、そのように感情的に受け取られたわけですね。異なった意見の表明が「石を投げた」ね。そう思ったから私への人格攻撃をなされたわけですね。

>著者をファシスト扱いした覚えはないなんて、みっともない逃げ口上はお止めなさい。

お得意の「自明」論ですね。逃げ口上でもなんでもありません、私は水村氏を「ファシスト扱い」などしていませんよ。だからそれはBLOG BLUESさんのロジックなんですってば。「エリートのヒロイズム」に浸っているとは思いましたがね。けれど「エリートのヒロイズム」=「ファシスト」ではないでしょう? 皇国史観云々は“思い起こした”のであって、そうだと断言したわけではない。つまり比喩ですよ。「その比喩は良くない」という指摘なら、「そうだったかもしれません」と言えますが、ファシストと断言していると言われれば、違うというほかありません。

>水村美苗に対してもマルクスに対しても「~側の人」という論拠なき臭覚に依ってレッテルを貼付け、批難している。

マルクスに関しては「根拠なき」という批判は認めます。『日本語が亡びるとき』=メロドラマの構図がマルクスにも当てはまると感じ、それを文章に載せただけと冒頭に記してありますからね。

けれど、水村氏に対しても同じと言われるのであれば、一体何をお読みになったのか、疑念を抱かざるを得ません。

前半の文章構成の骨格を抜き出してみますね。

私は『日本語が亡びるとき』に違和感を感じた。
それは八紘一宇に感じる違和感と同様のものだった。
そのことをBLOG BLUESさんのコメント欄にて表明した。
『海難記』で池田氏の評論の一部を読み、『日本語が亡びるとき』はメロドラマなのだとわかった。
そして、ここはエントリーには明示しませんでしたが、私の違和感はメロドラマへの違和感なのだとわかった。

これが根拠なき水村批判ですか? 当エントリーに「根拠なき」という批判、つまり「飛躍」があるのは、『日本語が亡びるとき』=メロドラマの構図をマルクスに転用したこと。けれど、この「飛躍」がダメと言われてしまっては、エントリーを書く意味そのものがないんですよね。

「私は樵です」と予防線を張りつつエントリーを書くのは、この「飛躍」を論証なしで書きたいから。いえ、実際の所論証など出来ようはずもないのです。日々の糧を稼ぐに精力の大半を注がなければならない労働者に、そんな余裕があると思いますか? もし論証できないのなら「飛躍」を書くなと仰るのであれば、それはファッショでしょう。アカデミー・ファシズムとでも言いましょうか?

私は何も学術論文を書きているのではない。公開とはいえ、個人的なブログのエントリーを挙げているだけ。構わないでしょう、個人のエントリーに「飛躍」を書いたって。人格攻撃という「飛躍」でさえなければ。

ごんさん、nesskoさん

ごんさん

< ここでの「自覚は(おそらく)ない」というのは、わたしなりの好意的な解釈です。この場合、水村氏が自覚があってそれをやっているとしたら、「真情」の方が疑われますので >

それが「節度」というものしょう。水村氏についての論評を追いかけますと、どうも「真情」をも疑わねばならないものがあるみたいですが、それらは水村氏にインタビューするなどして直に得た感触から出てくるもの。それを出来居ない我々には、この「節度」は必要だと思います。

>だから「ソ連の顛末」や「内ゲバ」は、その「思想の使い方を間違えた」でいいのではないでしょうか。

う~ん、マルクスはですね。実は「思想が使えないことを知っていた」のではないかと思わざるを得ないんですよ。ま、本当にそう主張するなら論証が必要なわけですが。

だいたい思想なんてものは使えないんです。いえ、ある程度は使えるのですよ。でも、徹底して使おうとするとかえって使えない。たとえば「市場」という思想。大変に有用な思想ですけど、市場原理主義はイタダケナイわけです。マルクスはそこら辺のことを知った上で運動してたんじゃないかな~、と思うわけです。

ですから、マルクスの思想を有害無益なものだと考えているのでは全くない。その逆で、大変有用だと思ってます。ただ、有用なものも使い方次第では破壊的なものになる。有用はものほど破壊的になり得るのですね。マルクスはそこの所を分かっていて、意識的に隠していたのではないか? そういった疑惑です。
*****

nesskoさん

『国民の歴史』は読んでいないのでわかりませんが、メロドラマなのかな?

>きわめて私的な思いをつづった本として読まれるべきもの

う~ん、ならば、「稚拙な日本文学」とは具体的に何を指すのか、「私的」ならば挙げてもらいたいところですよねぇ。でも、それをすると途端にメロドラマの構造は崩れてしまうわけです。だから「きわめて私的」とは言えないんです。

著作をした動機はきわめて私的な真情だったのだろうとは思いますけれども、それをそのまま吐露せずに、公的な形に仕立て上げて、読者の私的な真情を引き出そうとした。それが『日本語が亡びるとき』なのだと思います。

文は人なり

こんにちは。あなたが、あまりに不誠実なので、今一度だけ、反論します。

『ご自分の思い込みを「自明」とされるのは大変困る』なぜ、このような物言いができるのでしょうか。『反論する以上、再反論は覚悟する』これは、自明でしょう。『ブログは公的メディアである』これも、自明でしょう。『レッテル貼りは自戒する』これも、自明でしょう。それを僕の思い込みだと言い張る。きわめて不誠実な言動だ。

さらに、『異なった意見の表明が「石を投げた」ね。そう思ったから私への人格攻撃をなされたわけですね』これまたなぜ、このような物言いができるのか。まったく理解できない。僕は、『批判封じの予防線を張った上で「自分の感じたことは堂々述べ」られては、真っ当な批判ができないのです。次回からは予防線なしで頼みます。で、つい、人格攻撃になってしまった。この点については、重ねてお詫びする』と謝罪し、あなたに対してもアンフェアな態度を改めるよう要求している。極小とはいえ公的メディアで発言する者として恥ずかしい言動は取ってないつもりだ。

『皇国史観云々は“思い起こした”のであって、そうだと断言したわけではない。つまり比喩ですよ』こういう言い訳を日本語では「逃げ口上」と言います。あなたの文脈からは、著者を「八紘一宇」を唱えた人々と同列に配置しているのが明らかに読み取れる。つまり、著者を「ファシスト扱い」している。再度、言います。みっともない逃げ口上はお止めなさい。あなた自身『人間は過ちを犯すもの』だと言明されているではありませんか。素直に認めたらいい。それだけのことじゃないか。あなたは「水伝騒動」にも言及されているが、それができなかったのが「水伝騒動」じゃないか。他山の石とすべきだろう。

僕は、他者を批判する場合は、特にフェアであらねばと自戒している。あなたの言動からは、そうした誠実がまったく見えてこない。「文は人なり」。僕は、この言葉を信じている。これが、本当に最期だ。不誠実な人とは話ができない。

御意に

では、言葉をこころに押し込めたりせずに、忌憚なく、いかせていただきますね。

上であたしが「方言札」の例えを出したのは、「文は人なり」と仰るBLUESさまが、現今の日本の文壇事情を「汚染された日本語」の遣い手による「稚拙な日本文学」の横溢、と宣わくところの、水村氏をご推奨になるからです。

>今、日本じゃあ、あたしなんかより頭の悪い人たちが書いてるんだから、あんなもん読む気がしない

改めてお聞きいたしますが、BLUESさまにおかれましては、現代日本を代表する「あたしなんかより頭の悪い人たちが書いてる」「読む気がしない」ものというのは、具体的にどなたのものすところのどれのことですか。

♪福沢諭吉さんが言ってたよね
 天は人の上に人をつくらないと
 それじゃいったい何ものが
 人の上に人をつくったんだよ

   by 佐渡山豊

>普遍的な文学的価値、学問的価値は、横綱とわんぱく相撲でしょう。普遍性を有すものは有さないものより高度と表現しても妥当なはずです。

笑止千万。何が普遍性を有すものは有さないものより高度と「表現しても妥当」なものか。あなたに日本文学の何がわかる。あなたに現代の世界の文学的課題、そしてその一部でしかない日本の文学の徒が直面している問題の何がわかっているというんだい。

普遍性の糸口

ある人に勧められたので一度短編を読み、「肌に合わないな」と思って疎遠にしていた村上春樹の言葉です。

「高く堅固な壁と卵があって、卵は壁にぶつかり割れる。そんな時に私は常に卵の側に立つ」

彼にこの言葉を言わしめたのは何なのか。

「イスラエルが言わせたのか。日本語か。それは彼だけが言ったのか。それともハンプティダンプティの問い掛けか。虐げられし人々の魂か。」

わたしは今、そのことを考えています。

率直にと言ったはずなのにね
無用な「ほのめかし」はやめるよ
ここはさっくりと

村上春樹に「私は常に卵の側に立つ」言わしめたものは
潰れた玉子の感触を懐かしむ彼のファンであり
巨人大鵬卵焼きが大好きな
庶民としての日本人一般であり
そしてやっぱりあそこで潰えた多くの命だと思っている
その魂を継承した
憲法九条だと思っている

「国家として戦争はしません」

その「独創的な平和」を持っている
日本の文学者だからこそ
あそこであれを言えたのだと思っている

夜郎自大だと笑われることなく

不誠実なのはどちらだか(苦笑)

BLOG BLUESさん 再度の来訪、ご苦労様です。

私がBLOG BLUESさんのコメントを好意的に受け止めていないことは間違いありません。けれども、ちゃんとおつきあいしているじゃないですか? 私としては、「しっかり文章を読んでください」で済む話なんですが。

>『皇国史観云々は“思い起こした”のであって、そうだと断言したわけではない。つまり比喩ですよ』こういう言い訳を日本語では「逃げ口上」と言います。

まだいいますか(苦笑)。BLOG BLUESさんがそのように誤読なさったのは、私が水村氏を無根拠に批判したと思い込んだからでしょう? 先のコメントで私が示した、水村氏批判の根拠についての返事はどうなさいました? そこを無視しておいて、

>あなたの文脈からは、著者を「八紘一宇」を唱えた人々と同列に配置しているのが明らかに読み取れる

なんて言われても。再度申し上げておきましょう。
ご自分の思い込みを「自明」とされるのは大変困る

それにね。文章をよく読んで貰えば分かると思いますが、私は「八紘一宇」を唱えた人を非難しているわけではない。水村氏の真情と同じく「ホンモノ」だと言っています。確かに現代からみれば「八紘一宇」は誤りとしか言いようがないけれど、現代に生きる私たちがそういえるのは、その結果を知っているから。真情を持って「八紘一宇」を信奉した人を、同じ人間として批判する資格が私自身にあるとは考えていません。そう考えているのはBLOG BLUESさんでしょう? そして、自分のその論理から私を非難している。立ち位置が違うんですよ。

>『異なった意見の表明が「石を投げた」ね。そう思ったから私への人格攻撃をなされたわけですね』これまたなぜ、このような物言いができるのか。まったく理解できない。

BLOG BLUESさんさんは私に謝罪なさったという。なるほど、謝罪の文言は書いてあります。けれど、はっきり言います。私は文字通り受け取ってません。

なぜなら、BLOG BLUESさんの私への批判の動機は、謝罪の前も後も、「気に入らない」に尽きるからです。気に入らないから批判している。「文は人なり」と仰いますが、まさにそれが文章に滲み出ています。

予防線云々と言いますが、これも気に入らないから予防線だと受け止められたのでしょう。私としては、自分の立ち位置の表明でしかないのですよ。それにね、上のコメントで示しましたが、よしんばそれが予防線だったとしても、それを張ったのはマルクス批判の部分にであって、水村氏批判の部分ではない。ちゃんと水村氏批判の根拠は示したでしょう? あれだけなら別に予防線など張る必要はないのですよ。どこにも「飛躍」はないのですから。

なぜエントリーをお玉さんの引用からはじめたのか? BLOG BLUESさんには、私のエントリーの意図が全く読めていない。ですから、私にしてみれば、BLOG BLUESさんの批判は的外れのものにしか思えないのです。それでも、こうしてお付合いをさせていただいている。私としては十分に誠実なつもりなのですが。

それにしても進歩が無い

BLOG BLUES 氏は相変わらずですね。
インターネット上の印象操作と偽装工作 (部落解放同盟 / 2008年02月12日
http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/a30d40427da2ea4bf9c4d90932926fa6
自分が思ってもいない事や、能力以上の事をしようとしているので色々ボロが出る。
反米嫌日戦線の死ぬのは奴らださんやヘンリー・オーツさんのように、自分の思いどうりを書けば面白い記事がかけるのになまじ護憲左派を偽装するから辻褄が合わなくなる。


水村 美苗氏の論の立て方は国家の品格氏を連想させる。
部分部分は実に良い事をいっているが最後の結論部分が??になっている。
変わらない日本語なり日本人を想定しているが、最初の設定が間違い。
『諸行無常』。形あるものは壊れ、命あるものは滅ぶ。栄えるものは必ず衰退する。
世の中に変わらないものは無いのに『変わらない日本語』に憧れる
変わらない『永遠の愛』に憧れるメロドラマ的な筋立てです。
やつらださんなら『一瞬の精射の刹那に永遠の愛が見える』とか下ネタになるかも。
基本的に、水村 美苗氏のようなメロドラマは『理性』とは別の仕組みから出来ています。

日本語は。この150年ほどの間にも大きく二回も変化しています。
最初は廃仏毀釈のような精神文化の破壊行為。明治政府のやった標準語の創作と地方語の駆逐。地方語を徹底的に抹殺する。
東北出身の井上ひさしが、昔子供の頃に自分の親が使っている日本語を『間違った日本語』として学校で叱責された事を『親は間違った日本語を自分の子供に教えたのか』と怒っていましたが、地方では徹底した言葉狩りが行われた様です。
それで今では日本人は完全に均質化した言葉を使っている。
関西では振り込め詐欺の被害が極端に少ないらしいが理由は、犯人たちは同一地方ではなく電話で遠くから被害者に標準語で電話する。
しかし大阪人は電話でも大阪弁しか話さないので偽者とばれてしまう。
日本語を守るなら其々の地方の『方言』も含めてすべてを守らないと中央集権の標準語だけなら『国際語の英語が云云』などとは言えないはずです。

二回目に変わったのは六十数年前です。
変わりすぎて、今では戦前の普通の庶民が読んでいた新聞さえマトモに読めなくなっている。
そのままでは普通の一般人が読めない明治の文豪の作品が最高であるとの評価は、(一般人には)誰にも違いが判らない掛け軸とか焼き物の骨董品の話に似ていて面白いが、通常その様な世界では詐欺師ペテン師が横行する。

最近インドネシア人の介護ヘルパーを導入、研修3年後に日本人用の国家試験を受けさすが、たぶん漢字で躓く。合格者は限りなく少ないはずです。
東アジアは漢字圏だが台湾は旧字のまま、日本は戦後いくらか簡略化し,本場の中国は超簡略化して現在に至っている。
今すぐ中国並みにとは言わないが、日本も生き残りの為には日本語の漢字の簡略化は避けては通れないでしょう。
何しろ日本国では、国家の最高責任者さえマトモに漢字が読めなくなっている位に『漢字』とは難しいのですから。

ごあいさつ

愚樵さま、こんにちは、たんぽぽです。
わたしも、あいさつかわりのコメントに伺いましたよ。

>その自由は「人として云々」といった類のことへの言及は控えることで
>辛うじて保持される自由ではないかと考えます。
>この禁を双方が破るとどのような事態になるのか、
>私たちは「水伝騒動」でさんざん見てきたのではないでしょうか?

これは「双方」ではないと思います。
禁を破ったのは、騒動でわたしを叩いた「片方」だけ、
すなわち、「共感派」と称される人たちだけだと思います。

このくだり、訂正していただきたく思います。

日本語が亡びたって、全然構わない

面影さん

>日本語を守るなら其々の地方の『方言』も含めてすべてを守らないと中央集権の標準語だけなら『国際語の英語が云云』などとは言えないはずです。

そうなのですが、そうなると小説の読み手の数は増えないわけで(笑)。小説家としては困ったこと。

このあたりはやはりエリートなんでしょう。八紘一宇も、日本という体制があってのもの。日本語小説も、日本語があってのもの。エリートは体制が在ってこそそのエリートですから、体制がなくなるととても困るんですね。

庶民にとってみれば、体制は必要ですが、体制のあり方はどうでもいいこと。日本人に日本語という体制はとりあえずは必要ですが、長い目で見たときにそれが亡びていったとしても、言葉がなくなるわけではないから困らないのです。

要するに、ソフトランディングはいいがハードランディングは好ましくないと、この程度の話ではないのでしょうか?

たんぽぽさん、ようこそ

やっとこちらにおいでになりましたね。それにしても、

>わたしも、あいさつかわりのコメントに伺いましたよ。

が、

>このくだり、訂正していただきたく思います。

とは、ごあいさつですなぁ(苦笑)

それはそれとして、訂正せよと申し出の内容ですが、「一般認識」を訂正せよと言われても大変困ってしまうのです。件の騒動は「一般」に広く知られているわけではないですけれど、知られている範囲内での「一般認識」。断っておきますが「共通認識」ではないですよ。「一般」と「共通」の違いは例外を認めるかどうかで、「一般」とは例外はあるが概ね共通という意味です。

BLOGBLUESさんもおそらくは「一般」的認識をなさっているはず。ですので禁を守りましょうという話は通じたのだと思います。

まあ、しかし、たんぽぽさんは一般認識論では納得なさらないでしょうねぇ...(笑)

残念な「一般認識」です

人格攻撃したのは、「共感派」だけということを、
いまだに理解されなくて、「どっちもどっち」だと思っているかたが、
たくさんいらっしゃるのですね。

そのような事実誤認が、「一般認識」だったおかげで、
わたしは、理不尽な個人攻撃を、1年近く受け続けることになりました。
今後もそのような、風評被害に見舞われる可能性がありますので、
すみやかに訂正をしていただきたいと思います。

>訂正せよと申し出の内容ですが、
>「一般認識」を訂正せよと言われても大変困ってしまうのです。

一般的にこうだと認識されていたことが、
じつは事実にもとづかないまちがいだったと、理解なさればよいのです。
(でもって、エントリでお断わりすればいいんです。)
ちっとも困ることなんかないですよ。

「一般認識」は案外正しいものですよ

たんぽぽさんにとっては残念でしょうが、それは仕方ないでしょう。「一般認識」といえば、政治に関する「一般認識」あたりは誤りに近いような印象がありますけれど、これは情報が限られていたり、意図的に誘導されていたりするからでしょうね。そうでない場合は「一般認識」は案外正しいものですよ。もちろん私も「一般認識」の側に立っています。

変わり者を自認する私がいうのもなんですが、たんぽぽさんもかなりの変わり者ですよ。自覚しておられます?

そうですね、例えばたんぽぽさんが取り上げられた私の「オバマ演説批判」。どのように批判されようとそれは自由ですし、またその批判を私に知らせようと知らせまいとそれもたんぽぽさんが判断すればよいことですけれども、当人である私が知ってそちらへ出向いていったことを奇貨に釈明せよ、なんてことは普通はないわけです。

私にTBなりでたんぽぽさんの批判を知らせなかったということは、私としては、たんぽぽさんは私に意見は求めていない、という判断になる。だから私も出向いたのは単に「挨拶」だけだったのですよ。たんぽぽさんが途中で方針変更して意見を求めようと考えたのであれば、それはそれで結構ですけれど、ならば「私は考えを変更しました」の一言があってしかるべきなんですよね、一般的には。それを「出向いてきたなら釈明せよ」とは、一般か例外かといえば、例外の方でしょう。

そんなたんぽぽさんですから、

>一般認識論では納得なさらないでしょうねぇ

と申し上げました。

それにね、おわかりないようなので申し上げておきますが、人格攻撃か否かは「事実」をもって認定するのではないのですよ。「事実」がいかに語られたか、その「文脈」でもって判断するものです。「文脈」の受け取り方は人それぞれ違いますから、同じ文章でもそれを人格攻撃と受け取る人とそうでない人との差は出てきます。だから「一般認識」が重要になってくるのですね。

いわゆる「水伝騒動」はたんぽぽさんのぶいっちゃんに対する人格攻撃から始まった。これが私の認識です。繰り返しますが、この認識は「文脈」から判断したものです。「事実」を見るのが論理派・「文脈」を読むのが共感派でしょうし、私はまぎれもなく共感派ですからね、たんぽぽさんご認定の通り。ですので「文脈」を読むにかけては私の方がたんぽぽさんよりは長けているでしょう。つまり「双方に人格攻撃があった」という判断の方が正しかろうということになります。

>『国民の歴史』は読んでいないのでわかりませんが、メロドラマなのかな?

メロドラマというよりは、自分探しの物語、といったほうがより適切かもしれませんね。水村の『日本語~』もそうなのかもしれません。

その一般認識、ちがってます

>そうでない場合は「一般認識」は案外正しいものですよ。

「水からの伝言」騒動について、あなたがお立ちになっている「一般認識」は、
まさに、かぎられた情報でものを言ったり、
意図的に誘導されていたりする、典型だと思います。


>当人である私が知ってそちらへ出向いていったことを奇貨に釈明せよ、
>なんてことは普通はないわけです。

>それを「出向いてきたなら釈明せよ」とは、一般か例外かといえば、例外の方でしょう。

わたしのところへ来て、長い「あいさつ」を書いたり、
トラックバックをたくさん送る時間と労力があるなら、
わたしがエントリで指摘された本題に対して、
なんらかのコメントをするのが、「普通」にして「一般」でしょう。

「普通はない」「例外の方」のことを、さきになさったのは、
愚樵さまであり、それに対して相応のことを、わたしはもうしただけです。


>人格攻撃か否かは「事実」をもって認定するのではないのですよ。
>「事実」がいかに語られたか、その「文脈」でもって判断するものです。

愚樵さんは、ご存知ないようなので、もうしあげますが、
「文脈」とは、事実がどうつながっているか、
事実の流れがどうなっているかを、大局的に把握することです。
事実を無視して、いいかげんな決め付けをすることは、
「文脈」とは言わないので、おまちがえのないよう、お願いいたしますね。

>いわゆる「水伝騒動」はたんぽぽさんのぶいっちゃんに対する
>人格攻撃から始まった。これが私の認識です。

さきに人格攻撃をしたのは、わたしのことを「馬鹿が多すぎ」と言った、
ぶいっちゃんであり、「悪意がある、謝罪しろ」と言った、ニケさんです。
あなたの認識は、まったくのまちがいだと思います。

Re: たんぽぽさん、ようこそ

>BLOGBLUESさんもおそらくは「一般」的認識をなさっているはず。
>ですので禁を守りましょうという話は通じたのだと思います。

BLOG BLUESさんは、つぎのように、「共感派」が自分のまちがいを
認めなかったのが「騒動」だと、おっしゃっています。
あなたの「一般」的認識とは、ぜんぜんちがっていますよ。

>あなた自身『人間は過ちを犯すもの』だと言明されているではありませんか。
>素直に認めたらいい。それだけのことじゃないか。
>あなたは「水伝騒動」にも言及されているが、
>それができなかったのが「水伝騒動」じゃないか。
(2009-02-19)


>たんぽぽさんは一般認識論では納得なさらないでしょうねぇ...(笑)

いわれのない誹謗中傷をされているんだから、とうぜんでしょ?
(おしまいに、「笑」がついているけど、わたしが中傷されることは、
あなたにとっては、笑いごとなのかな...?)

事実を無視してはいけません

>わたしのところへ来て、長い「あいさつ」を書いたり、
>トラックバックをたくさん送る時間と労力があるなら、
>わたしがエントリで指摘された本題に対して、
>なんらかのコメントをするのが、「普通」にして「一般」でしょう。

たんぽぽさんは「事実」をひとつ無視なさってますね。

その前に、私の知らないところで私の記事を批評していたという「事実」があるじゃないですか。私は私の所のアクセス解析でそれを知った。「文脈」はそこから始まっています。ですから

>私としては、たんぽぽさんは私に意見は求めていない、という判断

があるわけでして。そこを無視なさってご自分の都合の良いように「文脈」を組み立ててはいけません。

まさに、情報を限定してものを言ったり、
意図的に誘導したりする、典型だと思います。


この一事だけでも、たんぽぽさんのいう「論理」とはどのようなものかが窺い知れるのですが? いかがでしょう?

「文脈」とは、事実がどうつながっているか、
事実の流れがどうなっているかを、大局的に把握することです。
事実を無視して、いいかげんな決め付けをすることは、
「文脈」とは言わないので、おまちがえのないよう、お願いいたしますね。


いやいや、同意です。全くその通りだと思います。けど、それを「事実」を無視なさるたんぽぽさんから言われると、なんだかオカシイですね。笑いがこみ上げてきます。

ああ、この「笑い」はですね、

>(おしまいに、「笑」がついているけど、わたしが中傷されることは、
>あなたにとっては、笑いごとなのかな...?)

で指摘なさっている「笑い」と同じ性質のものです。誰かがたんぽぽさんを中傷していることを笑っているのではなくて、ご自分でご自分を中傷なさっているから笑っているのです。おまちがえのないよう、お願いいたしますね。

*****

これ以上の反論は必要ないように思われますが、いかがでしょう? まだ他にも指摘できる余地は山ほどありますが、そんな山を築き上げるのも労力の無駄のように思えます。

もちろん、上で指摘した一事をもって、「水伝騒動」でのたんぽぽさんの解釈が誤りだとは断定できません。が、たんぽぽさんの「論理派」としての読解力・事実認定に疑問符が付いたのは「事実」ですし、私としてはその「事実」だけで十分。もっともたんぽぽさんが納得するかどうかは全然別問題ですが、そんなことは私の関知するところではありません。

反論は受け付けます。但し意味のある反論ならば、です。今回と同様の誤った事実認定に基づく反論でしたら、取り合わないかもしれません。

無視してないです

>私の知らないところで私の記事を批評していたという「事実」があるじゃないですか。

その「事実」でしたら、無視していませんよ。

>>私としては、たんぽぽさんは私に意見は求めていない、という判断
>があるわけでして。

それが、わたしのブログに「あいさつ」に来た動機なのも、わかってますよ。
その「文脈」も、わかっております。


「普通」でしたら、自分の批判が「知らないところ」でなされていたら、
その批判に対して、ものもうしたくなるでしょう。
それゆえ、長い「あいさつ」だけで、わたしがエントリで指摘したことに、
なんら言及がないのを、「?」と思ったしだいです。

上述の「事実」と「文脈」を考えると、愚樵さんのなさったことは、
「普通でない」と思ったから、そうもうしあげたんです。
そういう「事実」も「文脈」もなければ、
「あいさつだけしかないのは普通でない」なんて言わないでしょう。

>たんぽぽさんの「論理派」としての読解力・事実認定に疑問符が付いたのは「事実」ですし、

わたしは、事実も文脈もとらえていると思うので、わたしのせいではないでしょう。
愚樵さまこそ、ご自分を振り返っては?と思います。


>その自由は「人として云々」といった類のことへの言及は控えることで
>辛うじて保持される自由ではないかと考えます。
>この禁を双方が破るとどのような事態になるのか、
>私たちは「水伝騒動」でさんざん見てきたのではないでしょうか?

ところで、まだお返事をいただいてないのですが、
禁を破ったのは「双方」ではなく、騒動でわたしを叩いた「片方」、
すなわち「共感派」と言われる人たちだけだと思います。

「双方」という事実誤認が、「一般認識」だったおかげで、
わたしは、理不尽な個人攻撃を、1年近く受け続けることになりました。
今後もそのような、風評被害に見舞われる可能性がありますので、
すみやかに訂正をしていただきたいです。

いつから共感派に?

>その「事実」でしたら、無視していませんよ。

ですがその「事実」、たんぽぽさんの前コメントでは指摘されていませんでしたが? 論理から言うと、指摘されていない「事実」は論理体系に入らないわけです。それとも、そこは共感で埋めろと仰るのでしょうか? 

ならば喜んで! キタ━━━(゚∀゚)━━━!!!

たんぽぽさんの共感派転向に敬意を表して、瑕疵ある論理体系にお付合いしましょう。

>「普通」でしたら、自分の批判が「知らないところ」でなされていたら、
>その批判に対して、ものもうしたくなるでしょう。

いいえ。全然。たんぽぽさんがそうでも、また、たとえそれが「普通」であっても、私は全然です。そう判断した理由も申し上げましたよね? そしてそのこともわかっていると仰る。にもかかわらず

>「?」

ですか?

...これは論理でも共感でも埋められないなぁ。

>「あいさつだけしかないのは普通でない」なんて言わないでしょう。

論理で申しますと、よしんば「普通」ではないとしても、それが論理として通れば良いわけでしょ?

たんぽぽさんは私の知らないところで私の記事の批判をした

私は、たんぽぽさんが私の意見を求めていないと判断した
(求めているなら連絡があるだろう)

だから、意見を述べず「あいさつ」のみに留めた。

論理的にどこかおかしいですか? 論理さえ通っていれば、「普通」云々は関係ないでしょう、論理派ならば。

ああ、ついでに尋ねておきましょうか。なぜ、批判を展開しておきながら、私に連絡をよこさなかったのですか? 

また共感派として述べるなら、

私は、たんぽぽさんが私の意見を求めていないと判断した

ことに対して共感し、「なるほど」と受け入れる。それで済む話です。

ところがたんぽぽさんはそのどちらでもない...、となると、「私の判断」に反感を覚えたのでは? 

そうか! たんぽぽさんは実は反感派だったのですね!?

...ずっと前から知ってましたけど(爆)

たんぽぽさんは私に反感を覚えているから連絡をよこさなかったのでしょ? そう考えればすべてがうまく符合するのです。

申し添えておきますが「すべて」とは「水伝騒動」も含む「すべて」です。ですので、

>禁を破ったのは「双方」ではなく、騒動でわたしを叩いた「片方」

なんて全然思いませんし、

>すみやかに訂正をしていただきたいです。

するつもりもございません。

Re: いつから共感派に?

>その「事実」、たんぽぽさんの前コメントでは指摘されていませんでしたが?

指摘しないのは、当然了解している「事実」と考えられるので、
わざわざ言うまでもないことだからです。

「エントリで指摘した内容に、釈明がないのはおかしい」という
わたしの判断は、最初の「事実」をふまえないと出てこないのですから、
直接言及はなくても無視してはいないですよ。

>ああ、ついでに尋ねておきましょうか。
>なぜ、批判を展開しておきながら、私に連絡をよこさなかったのですか? 

連絡の義務がないからです。


>たんぽぽさんは私の知らないところで私の記事の批判をした
>私は、たんぽぽさんが私の意見を求めていないと判断した

>論理的にどこかおかしいですか?
>共感し、「なるほど」と受け入れる。それで済む話です。

「知らせない」=「意見を求めてない」とは、かぎらないですよ。
それから、もちろん、あなたの対応いかんによっては、
それに応じた受け止めかたを、わたしはすることもあります。

わたしが批評した当人である愚樵さんが、自分のところに
やってきたのですから、「わたしのエントリのことを、
愚樵さんは、どう思っているのかな?」と、考えることになります。
また、あなたは、長いコメントを書きこんで、TBもたくさん送ってきましたから、
わたしと「対話」はしたいのだなとも、考えることになります。

となれば、わたしがいだいている疑問に、
お答えするのが当然と思いますが、あなたは、肝心の釈明は避けるという、
「対話」が成り立たなくなりかねないことをしています。
それで、「コメントしないのは奇妙だ、おかしい」と、
わたしは、判断をすることになります。

いえ、片方です

>「水伝騒動」も含む「すべて」です。ですので、
>>禁を破ったのは「双方」ではなく、騒動でわたしを叩いた「片方」
>なんて全然思いませんし、

前のコメントでお話したように、連絡は義務ではないです。
また連絡しないのは、反感があるからとはかぎらないし、
反感がある人の書く文章が、かならず人格攻撃になるとはかぎらないです。

「連絡なしに批判されたのは、反感があったからで、
よってこれは人格攻撃にちがいない」とおっしゃるのであれば、
それこそ、理不尽な言いがかりであり、手前勝手な決め付けであり、
わたしに対する個人攻撃だと思います。

ぶいっちゃんとニケ氏も、あなたと同じように考えて、
わたしに、あのような対応を取ったと、おっしゃるのでしたら、
やはり彼らも、わたしに人格攻撃をしたことになるでしょう。

やっぱり共感派?

>「知らせない」=「意見を求めてない」とは、かぎらないですよ。

そうですよ。けれど、たんぽぽさんのこの指摘は、「知らせない」=「意見を求めてない」ことを否定するものではないですね? たんぽぽさんは「知らせない」けど、意見は求めていたのかもしれませんが、そんなたんぽぽさんの「思い」なんか、私は知りませんよ。私は「意見を求められてない」と判断したのですから。

で、たんぽぽさんは、ご自分の「思い」をもとにまた論理を展開なさるけども、そもそもその「思い」を私は知らないんだから、そんな論理展開は私にとっては何の意味も持ちません。

たんぽぽさんがご自分の「思い」を正当化したいのなら、「知らせない」=「意見を求めている」でしかありえないことを論証しなければなりません。もし、これが出来るようでしたら、私はたんぽぽさんに全面的にひれ伏しますよ。ぜひ、論証してみてください。

そうではなくて、「知らせない」=「意見を求めてない」とは限らないのだから、どちらの選択肢もあり得る。歩み寄りましょう、といえば、これは共感派。

また、そうでもなくて、「知らせない」=「意見を求めてない」とは限らないけれども、意見を求めているんだ! とゴリ押しするなら、これはトンチンカンな反感派でしょうな。

たんぽぽさんはどれですか?

>「連絡なしに批判されたのは、反感があったからで、
よってこれは人格攻撃にちがいない」とおっしゃる


違いない=論理的にその選択肢しかない、とは言いません。そう考えても、論理的に誤りではない、というだけのこと。そして私はその論理を選択します。私の責任において。

愚樵というHNはリアルな場面では匿名のものですが、ブログという場においては十分に「文脈」は披露していると考えます。

たんぽぽさんがが理不尽だと仰るのなら、私の選択が論理的にあり得ないことを証明しなければなりません。けれども、たんぽぽさんはご自分の振る舞いで、私の選択が正しいことをますます裏付けていっておられる。ご自分でご自分を中傷なさっていると笑う所以です。

Re: やっぱり共感派?

>たんぽぽさんがご自分の「思い」を正当化したいのなら、
>「知らせない」=「意見を求めている」でしかありえないことを
>論証しなければなりません。

「知らせない」=「意見を求めている」だなんて、言ってないですよ。
(ああ、もちろん「言ったと感じられた」はナシね。(笑))
「知らせない」の意味するところが、「意見を求める」なのか、
「意見を求めない」なのは、わたしは、なんとも言ってないです。

わたしのブログに、あなたがいらしてからの言動が不可解だ、
(わたしの希望に関係なく)と、言っているんです。
「もともとは、意見をくださっても、くださらなくても、
どちらでもよかったけれど、わたしのウェブログに直接来て、
長いあいさつまでなさるのなら、エントリ内容について
意見を言うのが「普通」なのに、なにも言及しないのは不可解だ」です。


>たんぽぽさんがが理不尽だと仰るのなら、
>私の選択が論理的にあり得ないことを証明しなければなりません。

いや、ありえます。

「オバマ演説」エントリの、わたしの批判を見て、
あなたは反論できなくて、むかついたけれど、都合の悪いことは避けたいので、
うやうやしくあいさつだけしてお茶を濁して、肝心の論点は無視黙殺した。

こうだとすると、あなたの一連の不可解な言動は、じゅうぶんありえると、
とても論理的に納得できると思います。

一言だけ m(_ _)m

お二人の意見のやりとりを、楽しく拝聴させていただいてますよ♪
口を挟むのは僭越だとは思うのですが、どうしてもちょっと一言だけ。

>>たんぽぽさんがが理不尽だと仰るのなら、
>>私の選択が論理的にあり得ないことを証明しなければなりません。

>いや、ありえます。

愚樵さんの選択が論理的にあり得ると仰るのであれば、それで何も問題はないんじゃないですかね?

あと、
>わたしのウェブログに直接来て、
長いあいさつまでなさるのなら、エントリ内容について
意見を言うのが「普通」なのに、なにも言及しないのは不可解だ」です。
<
これは普通なのかな?と、かなり疑問に感じますね。
これを普通のことにしてしまうってのは、けっこう乱暴なんじゃないの?と。
僕自身は、愚樵さんとまったく同じことを思うであろうからです。
確かにたんぽぽさんのようにお感じになる方々も幾人もおられるでしょう。
それは認めます。
しかし だからといって、それが「普通だ」と言い切れちゃうってのも、
なかなか度胸があるなぁと素朴に思います。
世の中は広いですからね。

それだけです。失礼しました。

アキラさん、ようそこ(^∇^) ついでにたんぽぽさん┐( ̄ヘ ̄)┌

コメントタイトルにて私の気分を素直に表現させていただきました(笑) 

構わないですよね? 私だって「にんげんだもの」。感情は自然と湧き上がってきます。それを露わにするのは、「普通は」下品とされますけど、今更上品を取り繕っても仕方ありませんしね(笑)

*****

アキラさん

>お二人の意見のやりとりを、楽しく拝聴させていただいてますよ♪

「楽しく」ですか(笑)。言葉ってのは変なもので、実は私もたんぽぽさんとのやりとりを「楽しい」と思っていたのですが、それを第3者から言われると???って感じになるのですね。(^∇^) を「楽しい」だとすると┐( ̄ヘ ̄)┌ はやはり違いますね。「楽しんでいる」というより「面白がっている」というのが正しい表現のような気がします。

あ、これはもちろん、アキラさんが楽しんでおられることに水を差すわけではありません。楽しんで頂ければ「面白がる」価値もあろうというものです(笑)

>愚樵さんの選択が論理的にあり得ると仰るのであれば、それで何も問題はないんじゃないですかね?

>しかし だからといって、それが「普通だ」と言い切れちゃうってのも、なかなか度胸があるなぁと素朴に思います。

あ~あ、おいしいところ持っていかれてちゃった(笑)

いえ、いいんですよ。どなたでもどんどん持っていってください。但し「文脈」のアキラかな人に限定しますが(笑)。

*****

たんぽぽさん

たんぽぽさんは「楽しそう」にも「面白そう」にもみえませんねぇ...。

これはあくまで私の「印象」です。違う! 楽しんでいると仰るなら、謹んでお詫びした上で訂正させていただきます。

>あなたは反論できなくて、むかついたけれど、都合の悪いことは避けたいので、

あはは。そうですとも。そうお考えになっていただいて結構です。申し上げたではないですか? 「どうぞご自由に批判なさってください」って。それもちろん、まず第一にエントリーのことですけど、私の「あいさつ」にも言えることです。

また、私はたんぽぽさんにはこちらからは「用事はない」とも申し上げました。こちらは「用事はない」のでいかようにも批判してください。批判の自由は侵しませんいう意味も込めて、また、どうぞこちらも批判なさってくださいという意味で、TBもお送りしました。これは共感派を標榜する私の矜持でもあります(爆)

けど、そんな私の「思い」にたんぽぽさんは微塵も思いを致してくださらないんですよねぇ。論理的にはありえるとみずから認めていながら、それでもあえて無視なさる。

いえ、無視なさるのはいいのです。私だってたんぽぽさんの思いなど無視なんだから。互いに無視ならなんら問題もなし。けど、たんぽぽさんは自分の「思い」だけは執拗に主張なさる。なら、その「思い」の正当性を論証してみてくださいと申し上げたのですがねぇ。

「例えばたんぽぽさんが取り上げられた私の「オバマ演説批判」。どのように批判されようとそれは自由ですし、またその批判を私に知らせようと知らせまいとそれもたんぽぽさんが判断すればよいことですけれども、当人である私が知ってそちらへ出向いていったことを奇貨に釈明せよ、なんてことは普通はないわけです。 」

コメント2074の私の文章ですけれど、この問題についての私とたんぽぽさんとのやりとりは、この文章の範囲内から一歩も出ていないんですよね。

「私が知ってそちらへ出向いていったことを奇貨に釈明せよ」というのは、とどのつまり、私の「思い」は無視で、たんぽぽさんの「思い」だけに焦点を当てているだけのこと。このことをたんぽぽさんは、ここでのやりとりを通じてずっとお示しになっています。そのくせ「文脈」云々を言うから、トンチンカンで笑えてしまうのですよ。

むかむかしてます!!(笑)

って、別に「面白がっている」というアキラさんに対抗したわけじゃなくて(笑)、他人に「面白がられる」と変な気持だ、という愚樵さんの気持を応えたわけでもなく(爆)、相変わらずFC2にTB通らないことにムカムカしていて、たまにはコメ欄TBさせていただこうかなと思いました。よろしくお願いします。
何故久しぶりのコメ欄TBが、このタイミングなんだ、と聞かれても、文脈なんかありません。エントリーを書き上げたときがこのタイミングだっただけで、このエントリーにしたのは肌感覚のうえ「なんとなく」です。
TBさせていただいたエントリーを書きながら考えたのですが、どんな「依存症」も軽度のうちに自覚したいものですね、重度になると自分でも解らないうちに呂律が回らなくなるという症状がでるようで、症状がでたら大変です。ただ「依存症」になる原因は、「systemに絡みとられ貶められている」のかな、とも思った次第で、必ずしも個人だけの責任ではないのかもしれない、とも考えました。

http://dr-stonefly.at.webry.info/200902/article_13.html

Re: 一言だけ m(_ _)m

アキラさん、こんにちは。
おひさしぶりです。

>愚樵さんの選択が論理的にあり得ると仰るのであれば、
>それで何も問題はないんじゃないですかね?

行動が論理的にありえることと、それが正当かどうかはべつですよ。
「都合が悪いから、ごまかして逃げる」という、
愚樵さんの大問題な行動が、論理的に説明できた以上、
こんどは、これを追求する必要があると思います。


>これを普通のことにしてしまうってのは、けっこう乱暴なんじゃないの?と。

>しかし だからといって、それが「普通だ」と言い切れちゃうってのも、
>なかなか度胸があるなぁと素朴に思います。

理由は、いままでのコメントで、お話していますよ。
愚樵さんは、わたしと対話をしに来たのですから、
話題の中心に触れなければ、いぶかしく思われるでしょう。
「普通」と言って、なぜにおかしいのか、わからないです。


それと、さきに「普通」と言ったのは、愚樵さんですよ。

>当人である私が知ってそちらへ出向いていったことを奇貨に釈明せよ、
>なんてことは普通はないわけです。
(コメント番号2074)

ほかにも愚樵さんは、「一般認識」とか「例外でない」とか、
「普通」とおなじ意味のことばも、使っています。

はっきりとした根拠もなく、「一般認識」が「案外正しいもの」と、
言ってしまうのは、アキラさんは、いかが思いますか?
「けっこう乱暴」とか、「度胸がある」とか、思ったりしないですか?
ご意見をいただきたく思います。

やはり都合が悪くて逃げたのね

愚樵さん

>>あなたは反論できなくて、むかついたけれど、都合の悪いことは避けたいので、
>あはは。そうですとも。そうお考えになっていただいて結構です。

「都合が悪いから避けたい」というのを、認めるのですね。

>論理的にはありえるとみずから認めていながら、それでもあえて無視なさる。

論理的にありえることと、それが容認できるかどうかはべつです。
「都合が悪いので、逃げるのをごまかした」という、
大問題の行動を、あなたがなさったことが、論理的にはっきりしたので、
こんどは、これを追求する必要が出てきました。

あなたは、わたしのブログで、「せめてもの歩み寄り」と言ってましたが、
逃げているのに、なぜこんなことを言ったのか、説明をいただきたいです。


>当人である私が知ってそちらへ出向いていったことを奇貨に釈明せよ、

「釈明せよ」なんて言ってないって、ずっと言っていますよ。
これこれの理由で「釈明しないのはおかしい」と、言っているんですよ。
「しろ」と「しないのはおかしい」は、おなじじゃないですよ。

それで、そういうおかしなことをするのは、
こういうことでしょ?と、論理的に推測してみせたら、
あなたは、「あはは。そうですとも」と同意したということです。
(ご自分で同意できたことですから、あなたの「思い」は無視されなかった、
わたしに、しっかり汲み取られた、ということだと思いますよ。)

>そのくせ「文脈」云々を言うから、

「文脈」をさきに言い出したのも、愚樵さん、あなたですよ。

大問題!(爆)

いやいや、面白がらせてくれますよ、たんぽぽさんは。 ちっとも楽しくないのが大問題ですが(爆)

大問題ね。いやいやありがとう。些細な問題を大きくしていただいて。感謝しますよ。

>「都合が悪いから避けたい」というのを、認めるのですね。

いやはや...。私はいったい誰を相手にしているんでしょうね? 論理を読めない人間に論理を話するって、ホントに不毛だ...

私はあなたの読解の自由は認めましたよ。けど、それは、あなたが読解した結果を私が認めることとは違います。

わかります? この違い? 中学生程度の読解力があれば分かると思うのですがねぇ? たんぽぽさんには高度すぎたようで(笑)

「私はあなたが自由に認めたことを認めた」
「私はあなたが自由に認めることを認めた」

文章はほとんど同じですが、意味はかなり違いますよね? ちゃんと日本語が分かる人と話がしたいなぁ...

>論理的にありえることと、それが容認できるかどうかはべつです。

出来の悪い生徒に繰り返し同じことを教える教師の気分。

たんぽぽさんがご自分の「思い」を正当化したいのなら、「知らせない」=「意見を求めている」でしかありえないことを論証しなければなりません。もし、これが出来るようでしたら、私はたんぽぽさんに全面的にひれ伏しますよ。ぜひ、論証してみてください。

そうではなくて、「知らせない」=「意見を求めてない」とは限らないのだから、どちらの選択肢もあり得る。歩み寄りましょう、といえば、これは共感派。

また、そうでもなくて、「知らせない」=「意見を求めてない」とは限らないけれども、意見を求めているんだ! とゴリ押しするなら、これはトンチンカンな反感派でしょうな。

たんぽぽさんはどれですか?


再度提示しておきますね。よ~く読んでくださいな。

ああ、それから。人の問いかけにまともに答えないのを“普通は”「逃げる」と言います。念のため。わははは。

では、あと1コメントだけ

たんぽぽさん、こんにちは。
おひさしぶりです。

>ほかにも愚樵さんは、「一般認識」とか「例外でない」とか、
「普通」とおなじ意味のことばも、使っています。
 ・・・・・・・・・・・・・・
「けっこう乱暴」とか、「度胸がある」とか、思ったりしないですか?
<
これはまったく仰るとおりです。
大変失礼いたしました。軽率なコメントでした。
すみません、いかに訂正させていただきます。
僕自身をも含め、個々人が自分の「普通は・・」を意見表明することは、これは当然のことですが 大いにあってよいと思います。
僕が「けっこう乱暴」とか「度胸がある」とか素朴に思ってしまったのは、そこではなくて、
その自分の「普通は・・」を前提にしたことを他人に強要しようとする振る舞いに・・でした。
たんぽぽさんと愚樵さんとの大きな違いはそこにあると感じます。

>愚樵さんは、わたしと対話をしに来たのですから、
話題の中心に触れなければ、いぶかしく思われるでしょう。
「普通」と言って、なぜにおかしいのか、わからないです。
<
これはたんぽぽさんの「普通は・・」が前提だと思います。
ですからその意味において、「たんぽぽさんの気持ち」としては了解できます。
しかし、愚樵さんは確か対話をしに来たわけではなかったですよね?
それらについての説明もすでになされているはずですよね?
齟齬があるように思われます。
ま そのへんは、必要があればご本人同士で詰めてください。


>>たんぽぽさんが理不尽だと仰るのなら、
>>私の選択が論理的にあり得ないことを証明しなければなりません。

>いや、ありえます。

「“私の選択”=愚樵さんの選択」の意味するところは、「愚樵さん自身が示している選択」でしょう。
そうしてそれにたんぽぽさんが「ありえます」と答えてらっしゃる以上、話はそこで終了だと思うのですが。
同じような話が何度もループするのは不毛です。

お二人のやりとりの流れからすれば、たんぽぽさんが愚樵さんの示したことに向き合うつもりがおありなのであれば、たんぽぽさんは別のことを論理的に証明して見せなければならないはずです。
それをせずに、たんぽぽさんの想像する「あり得る愚樵さんの選択」を一例 示したところで、それは非常にトンチンカンな受け答えにしかなっていません。
そのトンチンカンな受け答えにいくら積み重ねをしていっても、トンチンカンには変わらず、何の意味もないですし、また「話が噛まない」好例を一つ増やすだけでしょう。

すでに愚樵さんが示してらっしゃることですが、最後に一言それを申し上げて、僕はこれにて失礼させていただきます。
軽率だったコメントについては、重ねてお詫び申し上げます。

Re: 大問題!(爆)

愚樵さん

>>「都合が悪いから避けたい」というのを、認めるのですね。
>いやはや...。私はいったい誰を相手にしているんでしょうね?

もちろん、わたし、たんぽぽですよ。
わたしに対して、「あはは。そうですとも」と言ったのですから。

>けど、それは、あなたが読解した結果を私が認めることとは違います。

#2101のコメントの、「あはは。そうですとも」は、
あなたは、わたしが「読解した結果」を、認めたものです。


>たんぽぽさんがご自分の「思い」を正当化したいのなら、
>「知らせない」=「意見を求めている」でしかありえないことを
>論証しなければなりません。

#2909のコメントで、しゃべったように、わたしの「思い」は、
「知らせない」=「意見を求めている」ではないです。
思ってもいないことなので、そのような論証をする必要はないです。

わたしは、あなたになにかを、求めていたのではなく、
「はじめは、意見をくださっても、くださらなくても、
どちらでもよかったけれど、わたしのウェブログに直接来て、
TBをたくさん送って、長いあいさつまでなさるのなら、
エントリ内容について、なにも言及しないのはおかしい」です。

#2106のコメントでお話したように、「釈明しろ」ではなく、
「釈明しないのはおかしい」と言ったんです。
それにもかかわらず、「釈明しないのはおかしい」を、
「釈明しろと言っている」に「変換」なさるのは、なぜなのでしょうか?
こんどは、その理由を推測してみましょうか?


>人の問いかけにまともに答えないのを“普通は”「逃げる」と言います。

しからば逃げないで、最初の問いかけに、お答えいただきたいです。
「水からの伝言騒動」で人格攻撃したのは、わたしをたたいた人たちだけです。
「双方」という、あなたの「一般認識」は、まちがいだと思います。

いまのところ、「結構正しいものですよ」というだけで、
具体的な根拠を挙げた反論を、あなたはなさっていないようです。
根拠をあげて、「一般認識」を証明するのでなければ、
まちがいを認めて、撤回していただきたく思います。

Re: では、あと1コメントだけ

アキラさん

>その自分の「普通は・・」を前提にしたことを
>他人に強要しようとする振る舞いに・・でした。
>たんぽぽさんと愚樵さんとの大きな違いはそこにあると感じます。

前にお話しているように、わたしは、「釈明しないのはおかしい」という
見解を述べているだけで、「釈明しろ」と言っているのではないです。
よってなにかを、強要しているのではないです。

さきに「普通」と言ったのは、愚樵さんで、
わたしは、それに合わせて受け答えただけです。
愚樵さんは、ご自分のなさったことが、返ってきただけとも言えます。

さらに、愚樵さんは、「普通」と同じ意味の、
「一般認識」「例外でない」ということばも使っています。
「一般認識」とは、「水からの伝言騒動で、人格攻撃をしたのは双方」ですが、
これはまちがいであり、わたしがあらぬ被害を受けたにもかかわらず、
「一般認識は、結構正しいものですよ」というだけで、
愚樵さんは取り合おうとしないのでした。

よって、これは、愚樵さんが、ご自分の「一般」を前提にして、
「風評被害を受けても、泣き寝入りしろ」と、
わたしに、強要している振る舞いになるでしょう。
「たんぽぽなんか、二次加害を加えられても、知ったことじゃない」
というのですから、それを言うのは、「けっこう乱暴」で、
「かなり度胸がある」ことだと思います。


>これはたんぽぽさんの「普通は・・」が前提だと思います。

このコメント欄を見ていると、愚樵さんが釈明しないことで、
対話がまともに成り立たなくなっているのですから、
わたしの言う「普通」は、れっきとした事実だと思います。

>しかし、愚樵さんは確か対話をしに来たわけではなかったですよね?
>それらについての説明もすでになされているはずですよね?

「都合が悪いから逃げるのですね?」と、わたしが訊いたら、
「あはは。そうですとも」と答えたので、説明はなされたと言っていいでしょう。


>「“私の選択”=愚樵さんの選択」の意味するところは、
>「愚樵さん自身が示している選択」でしょう。
>そうしてそれにたんぽぽさんが「ありえます」と答えてらっしゃる以上、
>話はそこで終了だと思うのですが。

「都合が悪いから逃げる」のは、大問題の行動なのですから、
ここで終了ではなく、こんどはこれを追求する必要が出たと思います。
それから、あとからわかったことに対して、
新しくお話をはじめるのですから、ループではないですよ。

>たんぽぽさんの想像する「あり得る愚樵さんの選択」を一例 示したところで、
>それは非常にトンチンカンな受け答えにしかなっていません。

#2101のコメントで、「あはは。そうですとも」と認めておきながら、
#2108のコメントで、「私が認めることとは違います」などと、
手のひらを返したことを言う愚樵さんが、とんちんかんなのだと思います。

もう、おやめなさいな

>#2101のコメントの、「あはは。そうですとも」は、
あなたは、わたしが「読解した結果」を、認めたものです。


それはたんぽぽさんがそう解釈したいだけだし、しかも間違ってますね。

「あはは。そうですとも」の言葉は、それだけが独立してあるのですか? 他の言葉との「文脈」の中にありませんか? 独立してあるのなら、たんぽぽさんの読解は正しい。けれど「事実」はそうではない。

いいかげんやめましょうよ。自分の都合の良い「事実」だけを「文脈」から切り離して用いるのは。そういうのを「事実誤認」と呼称するのが一般的です。

私はたんぽぽさんの「読解の自由」を認めただけ。「読解の結果」は承認していない。これ、大人同士の関係なら普通の話なのですがねぇ。

他人の行為の自由を認める。けれど、それは即その行為の結果を認めることではない。これが大人同士なら普通でしょ。

A:「おい、クルマを貸してくれよ」
B:「あいよ、使えよ」
A:「事故っちまった」
B:「おい、どうしてくれんだよ!」
A:「けど、これはクルマ使っていいって言ったオマエのて責任だぜ」
B:「バカか?」

「普通は」こうでしょう。AとBが独立した別人格ならば。Aの言い分は、社会には通用しません。なぜなら「社会」とは、独立した人格によって形成されているという「前提」があるからです(←もっともこの「前提」は日本ではあやしいのですが、これはここでの議論とは別問題です。念のため。お断り)。

社会では、BのAに対する管理責任が問われることもありますが、それはAがBに対して従属した関係だと承認される場合です。たとえばBはAの保護者である場合。

しかしこの場合は、Aは社会に対して十分な発言権のある者として、つまり社会のフル(シニア)メンバーとしては認められていないということにもなる。となれば、フルメンバーであるBに対し、ジュニアメンバーのAが対等の立場で責任を要求するのは、社会的には誤り。つまり、どちらにせよAの発言は認められない。

さて、翻ってたんぽぽさんです。私はフルメンバーのつもりですが、あなたもフルメンバーのおつもりですか? そのおつもりなら、「行為の自由」が直ちに「結果の承認」となるような言説の展開はおやめなさい。あなたがフルメンバーのおつもりなら、たとえ「結果の承認」であると読みことが可能であるにしても(←たとえ、ですよ。「事実」としてはありません。念のため、お断りね)、フルメンバーであるみずからの矜持にかけてその読解は選択しないものです。その前提があるからこそ「読解の自由」は保証される。それが対等な人間が築き上げる社会というものです。

たんぽぽさんは、その前提を平気で踏みにじります。ここまでのあなたとの対話を通じて明らかになったことは、あなたは反社会的な人物であると言うことです。あなたは人格攻撃をされたと怒っておいでですが、それを糾弾する資格があるのはフルメンバーだけです。フルメンバーのジュニアメンバーへの攻撃は、それは人格攻撃ではなく道徳的指導だと受け止められるべき。

あなたは、一方で自分はフルメンバーであると主張しながら他方ではフルメンバーとしての責務を放棄しています。それも、詭弁を弄して誤った事実認定を振り回し、みずからの責務放棄を他人の責任に転嫁する。甚だしく反社会的な行為だと断じざるを得ません。

すなわち、私はたんぽぽさんを私と同等の社会のメンバーとして認めることが出来ません。あなたの生存権=「メンバーであること」は認めますが、フルメンバーとしては認めません。

たんぽぽさんには、あともう一度だけ「愚樵空論」にコメントする権利を認めます。これは私愚樵の管理人たる権限においてです。また、認めるのは当エントリーにおいてのみ。他のエントリーへのコメントは無条件に削除します。

あと一度だけ許された権利をどう行使するかはたんぽぽさんの自由です。その権利行使のありかたによっては、私は私の考えを撤回することもあり得ます。あと一度のチャンスは、私の考えを撤回するためのものです。

「あはは。そうですとも」

わたしは、#2099のコメントで、「都合の悪いことは避けたいので、
肝心の論点を無視黙殺した」と書きましたが、
それに対して愚樵さまは、「あはは。そうですとも」とお答えしています。
(#2101のコメントでは、わたしのコメントを引用もしていますよ。)
========
>あなたは反論できなくて、むかついたけれど、都合の悪いことは避けたいので、
あはは。そうですとも。そうお考えになっていただいて結構です。 
========

よって、「あはは。そうですとも」の意味するものが、
「たんぽぽの言うとおり、私は都合が悪いから逃げたのです」と、
愚樵さまが、みずから認めたのだということは、
「文脈」から、解釈の幅の余地なくあきらかです。

「都合が悪くなったら、ごまかして逃げればいい」という
「行動の自由」に対しては、「結果の自由」を承認するわけには、
ぜんぜんいかないと思いますので、つぎはあなたが逃げたことに対して、
追求をしましょうということです。


それから、「水からの伝言騒動で、人格攻撃があったのは双方」と、
発言するという「行動の自由」を、あなたはなさっています。
ところが、「双方」は事実無根と思いますので、
「結果の自由」は、とても承認できそうにないものです。

こちらも、まちがいを認めるか、根拠を挙げて反論するかの、
いずれかをなさっていただきたいです。

たんぽぽさん、ご苦労様でした

やはり話は通じないようですね。

となれば、私は私が宣言したとおりの行動に出る他はありません。

といっても、別に何をするわけでもない。ただ、たんぽぽさんとのやりとりはこれ以上お断りするだけのことです。

以後もコメントは目を通させてもらいますが、原則として削除させていただきます。当ブログはコメントは投稿がすぐに反映される設定にしてありますから、私が気がつくまでの間しばらく公開されていますけれども、気がついた時点で削除。TBは受け取ります。もちろん、アクセス禁止といった処分は致しません。

それでは、ごきげんよう(^_^)/~~~~

お久しぶりです

いやぁ、なかなか興味深い(?)やりとりでしたが(羨ましいような、同情するような…)終わっちゃいましたか(他人事ですみません)。

少しばかりコメントを(ややエントリーのテーマとはズレるかもしれませんがご容赦を)。

アメリカのデイヴィドソンという哲学者は、「哲学者や言語学者が言うような意味では、言語なるものなど存在しない。」という風なことを述べました(僕はまだその境地には達していませんが)。
その発言をもじって言えば、「水村美苗氏が言うような意味では、『日本語』なるものなど存在しない。」とでもなるでしょうか。
そう考えれば、「日本語」が滅びるかどうかを憂えるなどナンセンスとなるでしょう。
そもそもありもしないものが滅びることなど考えられないのだから。

まぁ、デイヴィドソンまで行かなくても、ウィトゲンシュタイン流に、「日本語」なるものも数ある「言語ゲーム」の一つに過ぎない、と見做してもよいかもしれません。
個々の「言語ゲーム」はひょっとしたら消滅してしまうかもしれない(恐らくは数多くの「言語ゲーム」が消滅してきたように)。
しかし、たとえ「日本語」という「言語ゲーム」が消滅してしまったとしても、人間は(日本人は)「言語ゲーム」という営みそのものをやめてしまうことはできない。
それで何がわるいというのでしょう?(誰しも「日本語」という「言語ゲーム」を続ける自由はあるのだから!)

メロドラマにこじつけて言うと…
私たちは、通常自分が深くかかわったものに対して何かしらの感情をもつものでしょう(たいていは愛着と呼べるような感情を)。
例えば、文学者たる水村氏が「日本語」なるものに愛着を持つのも当然と言えば当然でしょう。
そして、そういったものについて語る場合には(特にその存続の危機を憂える場合は)、幾分かの感傷を伴ってしまうのでしょう(それがメロドラマと呼べるような形式を備えてしまう)。

つまり、自分が深くかかわってきたものに関する「語り」にはそのものに対する「想い」が伴ってしまい「がち」である(もちろん、そのこと自体は悪いことではない)。
語る対象は言語(日本語)であってもよいし、自然科学であってもよいし、特定の思想(マルクス主義など)・哲学であってもよいし、疑似科学や神秘思想であってもよい。
しかし、そのような「想い」は同じ「想い」を共有する(できる)人間には受け入れられますが、「想い」を共有しない人間には届かない。
それゆえ、もし「語り」を不特定多数の人に(「想い」を共有しない人にも)届けたいなら、そのような「想い」を一旦相対化しなければならない(「想い」を前提としてはならない)。

逆に言えば、「想い」を相対化できないがゆえに、メロドラマとなってしまうのかもしれない。
あるいは、「想い」を相対化してしまったら届き得ないということが分かっているがゆえに、メロドラマとなってしまうのかもしれない。

自分の思い入れの深いものが存続する必然性を見いだせないとき(滅びの予感を感じるとき)、人はメロドラマを語ってしまうのかもしれない。

えーっと、マルクスはスルーしちゃいました。

即「印」の情

言葉というものはあくまでも道具です。だから、そこに愛着(=フェティシズム)というのがくっついたりするのは、唯、人情の為せるわざですね。たとえば「ハサミ」の役割がほかの道具に取って代わられたからといって、ハサミが滅びるのを感慨深く見守る、というのは(論理的には)奇妙な話のはずです。ですが、それはまた誰にでもあることなのだから、たとえ論理的に間違っているからといって否定することはできません。たとえば「形見」と呼ばれるものに特殊な価値があることは、人間の「節」として誰しもが持ち合わせているはずです。なので、道具であるところの(近現代の中間に使用されていた)日本語が古典の世界に埋没していくのをことさらに憂えるような御仁がいらしても、別段問題はないわけです。それが、人間なのだから。

そういうことはたとえば、こちらのこのエントリを見ればわかることです。

http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-188.html

このように、あるはずのないものに人格を認めてそこに愛着を持つことは人間として当然なのです。ここでのヨキについてもそうですし、おふくろの味とかそういった類のもの。それは人間にとって当たり前の、情です。

問題は、その「愛着にしか過ぎないもの(されど愛着のあるもの)」を、「科学」によって権威付けして、あたかも他より価値があるかのごとく、水戸黄門の印籠よろしく振りかざすことです。ここでの「科学」は、「知性」と読み替えてもいいものです(その科学的な論述者が、やれ英語に堪能だとか、某の大学を出ているとか、立派な賞をもらったとか)。要するにインテリ、のことです。

 控えおろう、このお方は IQ1300 の

   ルチ将軍にあらせられるぞ!

  ♪命令絶対、規則はいっぱいアクタ、芥、共和国~

みたいな(笑)

・・とかいう冗談はこのくらいにして、

ここらで核心を言わせてもらいますが、たとえば漱石なり鴎外なりを世界に誇る日本文学だと思うなら、・・・確信するのなら、そのことをもって現今の日本語の変貌を憂えること自体がナンセンスであるはずなのです。

古語は表面上は使われなくなっても、「万葉集」や「枕草子」、「源氏物語」がある限り、それが滅びることはございません。古典とはそういうものです。そうしてまた、逆にそれが埋没しそうになるからといって言語をそのままの形で保存しようとすれば、それはもう、実に不自然な形で現実化させるほかはなくなります。(その「不自然」の例は上述しました)

人間は元来、自らに誠実な生き物です。

音や記号でしかない言葉が有用性を持つのは、その誠実さに依拠しているのです。

それゆえ、社会の変化に伴って人の言葉が変わるのは当たり前なのです。

そうしてまた、自らの言葉を誰かの意志によって変えさせられることを喜ぶ人はいません。

そのことを鑑みると、不特定多数の、しかも同業者の言葉に対して「あんなもの読む気がしない」などと、自著で宣うお人の言葉が普遍性を持つはずがないというのは、これは必然の帰結です。たとえその人の思いが普遍性を持つものであろうとも。

(そのプロットの普遍性は認められます。だから、物語としては及第点をもらえたとしても、批評としては評価の範疇を越えたものでしょう。実際に「あんなもの読む気がしない」と口汚く批評しているところの具体的な対象をその読者すら見出せない以上、それは読むに及ばないシロモノだといえます。どこにいるかしれないサヨクのことを口汚く罵ることを売りにするようなシンブンと同じ類の陳述でしょうから)

あ、マルクスでしたね、長くなったので次回にします(^_^;)。

たんぽぽさんのコメントをひとつ削除しました

削除した上で、内容を紹介させてもらいます。あまりにも面白いので。

>ただ、たんぽぽさんとのやりとりはこれ以上お断りするだけのことです。
>以後もコメントは目を通させてもらいますが、原則として削除させていただきます

それは、「アクセス禁止」というものですよ。

アクセスできてるじゃない(笑) いわゆる「たんぽぽ変換」というやつですな(爆) 

quine10さん、ごんさん

quine10さん、よくぞこの荒れたコメント欄へ。投稿、感謝します。

ご意見、何も申し上げることはありません。その通りかと思います。

ただひとつだけ。

メロドラマは、それをメロドラマとわかって見る分にはいいのです。分っていれば、だれも主人公を自分と結びつけたりはしません。いえ、結びつけることがあったとしても、あくまでそれはフィクションとの結びつきですから、出てくるのはあくまで読書感想文でしかない。言ってしまえば娯楽の範囲内で収まるのです。

ところが本書は、それがメロドラマとわかっても、なお娯楽の範囲内に留まらないものを持っています。水村氏のいう「日本語」はフィクションであったとしても、現実に日本語は存在しており、「相対化」を省いて自己と直結する回路が出来てしまい易いから(ごんさんのいう「即印ノ情」でしょう)。その直結回路がエリート意識をくすぐるのでしょうね。

罪作りな本です。

*****

ごんさん

>それゆえ、社会の変化に伴って人の言葉が変わるのは当たり前なのです。

そうなのです。言葉の変化は社会の変化を反映する。けれど、そう考えると、では、その社会の変化は望ましいものなのか? と問わざるを得ない。答えはむろん、否。となれば、またそこから問いは逆流して、英語の普遍語かは望ましいのか? という問いが起こる。ならばたとえフィクションであっても、「日本語」は守るべき、という「すべき論」が出てきてしまうのですね。

これは悩ましい問題です。解決策があるとするば、エスペラントのような人工言語を普遍語にすることでしょうが、そういった理性的な判断を人類全体が下せるかとなると...??? となりますよね。

井戸端

あたしが大好きな日本語です。

朝顔に釣瓶取られてもらひ水

  千代女

ですが、この句。かの正岡子規によると「趣向俗極まりて蛇足なり」と手厳しい。どうやら「取られて」の「られて」がヒロイックで鼻についたようです。いかにも真っ正直な、子規らしい評ですね。
その子規の絶筆。

糸瓜咲て痰のつまりし仏かな

痰一斗糸瓜の水も間にあはず

をとゝひのへちまの水も取らざりき


  正岡子規

壮絶です。自然を自然としてありのままに詠んでいる。無慈悲なまでに。・・・なのですが、これもまた、子規らしくユーモラスだと論評なさる方もいらしたりして。あたしとはだいぶ違うの。でも実は、その読み方もあたしは好き。俳句は奥が深いですね。
、、じゃなくて、人間が奥深いのか。

どこまでも水田日本は水の国

  山口誓子

とりあえず、みんなで楽しく行こうよ。水村美苗さん。
みんな同じものが好きなんだから。
大丈夫、
そのこころ、信じてますって。
あたしも好きだもの。
折々の日本語。

古池や蛙飛び込む水の音

  芭蕉

この余韻、ね

たんぽぽさんのコメント1つ削除しました、その2

再度「たんぽぽ変換」を紹介。

>>それは、「アクセス禁止」というものですよ。
>アクセスできてるじゃない(笑

アクセス禁止にしたい人が、接続のたびにIPが変わるとかで、
ホスト制限だけでは対処できないとき、
コメントを見つけしだい削除することがあります。
そういう場合の「アクセス禁止」と、やっていることが同じです。


へぇ~、いままでコメント削除なんて、ほとんどやったことないから知りませんでした。参考になります。たんぽぽさんそんなことやってるのかな?

でもねぇ、ホスト制限かけてないのに、「同じ」っていくら言っても同じじゃないよ(笑)

試しにTB送ってきてご覧なさい? 削除しないから。それで「アクセス禁止」かどうか、すぐわかる。でも、しないんだろうなぁ(笑) 私にそんな義務はありません、とか言って。もしかしたら、送ったけど反映していない。削除したに違いない、とか言うかな?

コメント文なしの、コメントTBでもいいですよ。

ああ、反映されたら魚拓を取っとくって手はあるな。

それにしても不毛なことを考えてるよ。やだやだ。

たんぽぽさんのコメント1つ削除しました、その3

引用を続けたら、また来られるみたいなので、もうやめます(苦笑)

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じゅうごのじゆう

巷(ってどこ?)で話題の村上春樹さんの受賞スピーチについて、です http://www.47news.jp/47topics/e/93925.php 何だかまとまらないけど、 いつまでもまとまらなさそうだから、 急いで出したいなと思うとこだけ、出しときます ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆...

投げかけられた問いかけは、いまも、そこにありつづける。

いまごろになって、昨年の「騒動」について。 『「双方」が不毛な人格攻撃をやった』というようなことを言い出す人がいて、ちょっとした騒ぎになっているようだ。 http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-217.html#comment2034

都合のいいもんだけ、都合よく使っちゃえ。「ウソ」だろうと。

akiraさん、お邪魔いたします。 と、はじめちゃったのですが、長くなったのでエントリにしちゃいます。 この記事はもともとakira\'s room言葉って...

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“愚樵”改め“愚慫”と名乗ることにしました。

「空論」は相変わらずです (^_^)

      

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