愚慫空論

【自生的秩序】のイメージ(2)~『めぞん一刻』

めぞん一刻 (1) (小学館文庫)めぞん一刻 (1)
高橋 留美子

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絵に描いたように安直な【自生的秩序】のイメージ、その2。今回は、文字通り絵に描かれたものを 。

高橋由美子の『めぞん一刻』。私にとって、このコミックは“青春”だったと、言ってよいかもしれません(少々恥ずかしいですけど)。今でも折に触れて読み返しては、昔の懐かしい思いに浸ったりしていますが、私と同じくらいの世代の者で、同じような思いを抱いている人は決して少なくないだろうと想像します。それほどに一世を風靡したコミックでした。

ただ、今読むと昔と少々違った感慨があるのも間違いなくて、かつては満載されていたギャグに大笑いしたものですが、ギャグはもう何度も読んで知り尽くしてしまっていますし、その面白さが色褪せてしまうのは仕方がない。反面、キャラクターたちが紡ぎ出す物語には、変わらぬ面白さを再確認します。心に響くものは、いつまでたっても変わらないのですね。


『めぞん一刻』はご存知の通りラブコメですから、ストーリーの展開はいわゆる「三角関係」が中心です。ストーリー展開の主軸は〔音無響子・五代裕作・三鷹瞬〕の三角関係。他に〔響子・五代・七尾こずえ〕〔響子・五代・八神 いぶき〕。あと〔響子・三鷹・九条 明日菜〕とか。これらの人間関係がすったもんだの挙げ句、〔響子-五代〕の線に落ち着いてゆくのですが、このコミックの中の響子を中心とする人間模様にはもっと重要な三角関係があって、それは〔響子・五代・音無惣一朗〕。『めぞん一刻』で惣一朗は最初から死者として登場してきますから、この三角関係は死者を含む関係です。生きている人間の関係はすったもんだしますが、死人が入るとすったもんだしない。しようがないのです。

めぞん1
しかし、生きている響子は、生きている人間のなかでのすったもんだに否応なく巻き込まれていきます。そして、どうなるかというと

めぞん2


めぞん3
「ずっとあなたのこと思い続けていたかった。だけど………」
「生きている人達が、だんだん私の中に入ってきている……」

これは現在私が所持している文庫版の『めぞん一刻』全10巻の中の5巻のほぼ最後。つまり物語のちょうど真ん中あたり。『春の墓』という話。ストーリーの転換点です。

めぞん4
「生きてさえいてくれたら…」
「こんな思いしなくてすんだわ……」

響子は惣一朗と「時間の共有」ができなくなった。そのことは悲しい。五代は、響子の惣一朗への呼びかけを盗み聞きして、響子はいまだ「時間の共有」ができない悲しさのなかにあると勘違いする。けれど、響子は、生きている人間と「時間の共有」を始めてしまっている自分を悲しんでいる。

ストーリーの作り方として、響子と五代のこの「コミュニケーション・ギャップ」は実に上手いと感じますが、まあ、それはそれとして、生きている以上否応なく生きている人間と「時間の共有」を始めてしまう人間の性質、この性質が【自生的秩序】の根源なのだと言っていい。『めぞん一刻』のこの場面は、そのことを鮮やかに表現していると感じます。

響子は惣一朗との間に【自生的秩序】を「発展」させていくことを望んでいたし、「発展」を始めていた。が、それは途中で絶ちきられてしまった。人間にとって【自生的秩序】は「真実」であり「かけがえのないもの」です。秩序の「発展」が途中で断ち切られたとて、「真実」そのものがかき消えてしまうわけではない。だから、残された者は発展途上の「真実」を引きずる。しかし、「生きている」ということは「真実」を求めることでもあり、そして「生きている」とは静止したなにものかではなく動的な「発展」そのものですから、「生きている」人間はいつまでも「発展」を止めてしまった「真実」にすがりつくことはできない。「発展」を止めても「真実」は「真実」に変わりありませんが、「生きていること」が動的である以上、生きていくためには動的に「発展」する「真実」が人間には必要なのです。

【自生的秩序】とは、人間が生きていく上で必要な「発展」と同時に必要な「他者」とが、「時間の共有」によって【おのずから】秩序だっていく、そのことを指しています。

『めぞん一刻』に沿った話を続けます。

めぞん5
生きている響子が、生きている人達との「時間の共有」を受け入れ、【自生的秩序】を育み始める。そうすると、そこにはまた「真実」が生まれる。惣一朗との間にあったのも「真実」なら、五代との間に「発展」しつつあるのもまた「真実」です。響子は「2つの真実」の狭間で悩むことになる。生きている響子には「発展」する「真実」の方を選ぶしか選択肢はなく、ストーリーもそのように展開していくのですが、響子の「2つの真実」への苦悩には、五代が回答を出します。それがこの場面。

めぞん6
「あなたもひっくるめて、響子さんをもらいます。」

響子と惣一朗との間にあった「真実」を受け入れて、その「真実」を自分と響子の間の「真実」のなかに取り込む。まさに「発展」です。「生きていること」は「発展」であるということの、見事な表現です。

そうなると、響子と五代の間の【自生的秩序】は、あとは自然に「発展」していくことになります。その経過が

めぞん7  めぞん8

幸福とは、順調に「発展」していく【自生的秩序】のことです。

コメント

一刻館だったら

カルデロン一家に非業の鞭をくらわすことなかった気がする。

そう言えば、めぞん一刻ってまだ読んだことなかった。(世代的に)
昔知人が、「ヴィヴァルディ『春』第二楽章でヴィオラが奏でる犬の音は、惣一朗さんのようだ。ばう、ばう」と言っていたことを思い出す位。
http://www.youtube.com/watch?v=o_xcyOCrNx0&feature=related

>響子は惣一朗との間に【自生的秩序】を「発展」させていくことを望んでいたし、「発展」を始めていた。が、それは途中で絶ちきられてしまった。

生きている人同士の関わりが死で途切れさせられてしまった場合、それはどうしようもないのですね。どうやっても、二度と取り返せない。
でも生き残った方は、生きていく。
だから私達は「弔う」のです。一人では、別の一人の死を受け止めきれないから。「あの時もっとああすればよかった」「こうしていればあの人は死ななかったんじゃないか」「自分の愛が足りないせいで」「あの人は死んだんじゃないだろうか」――私達は皆、こうした思いをいくつもいくつも抱えている。

そして私達が「皆」そうした思いを持っているということは。同じ「死者への思い」を持つ者が集まることで、かろうじて再度生きていく共同体を形成することができる。
主人公青年の「あなたもひっくるめて」とは、そういう共同体の再生ではないかと思いました。彼自身には故人との面識がなくても、生き残った者を支えるために。

続き

感情は肉体に左右されるのですよね。
人は喧嘩をする時、「ずっと怒り続ける」ということが結構難しい。少なくとも衣食住を共有する間柄では、喧嘩をしても数時間で回復することが多いでしょう。
それは、衣食住を通して他人に同期しているうちに、人の内の感情も引っ張られてしまうからなのですね。
(音楽なども、「自分が聞く」だけではなく「他人が聞いている姿を聞く」ものでもあるでしょう)

小説における長屋もの、マンガにおけるアパートものが、古くから人気を得てきたのは、そうしたコミュニティ内で互いに影響しあう身体性や感情が、ドラマを生むからなのでしょうね。


肉体的なもの・生活的なものと、思考とを切り離してしまうとどうなるか。
・ショウペンハウエルが母親と、「どっちが偉い学者か」言い争った末、死ぬまで口をきかなかった。
・M.フーコーが進路について父と揉めた結果、自分の名前から父親がつけた部分を削除した。
と、こういう風になってしまう。

私もまたそういう、音のない光のない世界で生きていられる。一人で、他者を蹂躙して平気でいられる。
ただその先に、死が――ヤスパースを借りれば「限界状況」があるから。単独では限界を乗り越えられず、他者との共同性なくしては死ぬことも生きることもできないから。
めぞんの主人公のように、他者との交わりを望む。

>「自分の愛が足りないせいで」「あの人は死んだんじゃないだろうか」

私達が、近しい誰かのために具体的な何かをできるようになる歳は、十歳程度だと思われます。
ということは、私達は皆、十の歳から、「近しい人のために何かをしてあげられなかった為に、その人が死んでしまったのではないかという後悔」に捉われ続ける者だということです。

いやもっと言えば、「私達のせいで他の誰かが寿命を一年、二年失った」とさえ言える。
それでいいのです。それでいい。
私達は、縁者の命を奪う。そして同時に、他の誰かのために自分の寿命を失って幸せに感じる。
この、生死の重なりあい。

むろんデジタルに、自分の寿命を失いもせず、他人の寿命も損ねない生き方も可能です。リベラリストの一形態はそれです。
あるいは、他人の寿命を損ねて自分の寿命を伸ばすスタイルも、世にある。
ただどうにも、生死を重ねあう、「寿命とは贈ったり贈られたりするものである」立ち方のほうが、我々群としての人間の寿命は長くなるんじゃないかと思います。

自生的秩序って、何かよくわからないけど、簡単に訳そうとしたら「成り行きでそうなっちゃった」とか、「何となくできちゃった」って事ですか?ハイエク読まなきゃなぁ・・・。

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