愚慫空論

“あるがまま”を観ること

あるがまま。“あるがまま”を観ること。

私は『知的フレームを壊せ!』のエントリーで、「知的フレーム」を壊せば”あるがまま”が見えてくる...といったようなことを書きました。けど、“あるがまま”って何なのでしょう? よく言われるし、なんとなくわかるような、けど考えてみるとわからないような、そんな言葉。

けれど、私にはかなりはっきりとしたイメージがあります。

それは、これこれこうだ! と定義することは難しいですし、またそのイメージもまだまだ発展途上のもの。ですので、決定版とはいきませんが、それでも、今の私が思うところの“あるがまま”を観るについて、書いてみます。



私は山に仕事にでかけた昼休み、少し昼寝をするのを習慣にしています。弁当を食べて15分か20分ほど、うたた寝をする。天気の具合によってはままならないことも多いのですが、今頃の季節ですと、良く晴れた空の下の陽だまりの中でのうたた寝は、とても心地が良い。まさに至福のひとときです。

で、ここ数日、小鳥たちの姿を目にするようになりました。暦でいうとちょうど立春。渡りの鳥たちです。これまでシンと静まり返っていた山に少し活気が戻ってきた。木々の芽もいつの間にか大きくなっていて芽吹く準備が整いつつあるようで、騒がしい季節がもう間近に迫ってきている。うたた寝から目覚めて身体を動かし出すまでのつかの間は、周囲の雰囲気がすっ~と私の中に入り込んでくるような感覚に浸ることが出来ます。

3日ほど前、気がつくと、私のすぐ近くにシジュウカラが数匹やってきていました。「ああ、いるな」と思って起き上がりましたが、彼らは特に驚いた様子もなく、周囲の木の枝なんかに一時留まっていたが、やがて飛び去っていきました。

“あるがまま”を観るというのは、今の話でいいますと、「ああ、いるな」と思うことにあたります。そこに「シジュウカラ」と言葉を思い浮かべてしまうと、もう“あるがまま”とは異なってしまっている。そういった感じが“あるがまま”という感じに近い。

別の言い方をしますと、花を眺めていて、「ああ、きれいだな」と思っているときが“あるがまま”。こんな場面を想像してみて下さい。夏の高山で咲き乱れるお花畑を前にして、「花がきれいだなぁ~」と思わず口に出すと、親切な誰かが「この花は○○という名前。これは××。こっちは...」と「解説」を始めてしまう。実は私の思い出の中にもそうした場面はありまして、高校で山岳部に入って初めての夏山合宿で高山に登った時、お花畑を眺めていると顧問のセンセーがやってきて、いろいろと「授業」を始めてしまった。やめてくれ! と思ったことをよく覚えています。もっとも、相手がセンセーですから口には出しませんでしたが(笑)。

ちなみにですが、こうした「解説」あるいは「注釈」には2系統あると私は思っていまして、ひとつは上のような客観的事実を持ち出すもの。もうひとつは「これらの花は、長い冬をじっと耐えて短い夏の間に花を咲かせる。だから美しいんだ」といったもの。前者がサヨク的、後者はウヨク的(笑)。「潔く散る桜の花は、日本武士道の精神を表している」なんてね。どうでもいいっつうの(爆)

“あるがまま”は、客観的とは異なります。客観的は、誰もが共通に認識できることが追及された事実・現象ですから、そこからは事実を観ている「私」は排除されています。けれども“あるがまま”の中には「私」が入っている。事実とそれを観ている「私」。双方あって“あるがまま”なのです。

では事実や現象と「私」の双方あれば“あるがまま”なのか? もちろんそれだけでは足りない。むしろ、双方あればそれは“わがまま”なんじゃないのか? と思う人もいるでしょう。「桜が散るのは武士道だ」なんて、事実と「私」の双方とも入っていますが、これは“わがまま”ですからね。“あるがまま”と“わがまま”とでは正反対です。

ここを説明するのに、「白身魚を味わう」ことを例に取ってみます。

白身魚にはいろいろな種類があります。タイ、ヒラメ、スズキ。あと、ホッケとかタラとか、キスとかサヨリとか、カワハギやカサゴ。白身魚といってもいろいろと種類がありますし食べ方もいろいろですが、ここで考えてみたいのは白身魚の刺身。これを味わい分けるのはかなり難しい。もちろん、私にだって判りません。

白身魚の刺身を味わい分けるには、才能も必要かもしれませんがトレーニングも必要です。「私」の味覚を鍛えなきゃならない。いろいろな種類の白身魚を味わって、その微妙な味の加減を記憶して、それで始めて白身魚を味覚で判別できるようになる。そして、そうなると次は、たとえばタイを基準にしてヒラメはこうだとか、ヒラメを基準にカレイはこうだスズキはこうだ、いろいろと語ることが出来るようになる。私はこの状態が“あるがまま”に近いと考えています。

客観的とは、白身魚の話でいきますと、「私」の味覚に頼るといった曖昧なことを排するということです。そんな感覚に頼るようなことをしなくても、刺身に切り分ける前の姿をみればタイはタイだと判る。だから、タイを食べるにはタイだとわかったタイを食べればよい(笑)。このような方式で世界を眺めようとするのが客観的事実に基づく認識体系――その典型が自然科学――なわけです。

また“わがまま”とは、すべてを、たとえばタイを基準にして語ろうとすることだと表現できるでしょう。そこにはタイを味わう「私」の味覚は入っていますが、そこに固定してしまう。白身魚の話を乱暴にも歴史の話に当てはめてしまいますと、タイを基準にすべてを語ろうとすることは、皇国史観といったようなものに該当するでしょう。そして、「私」が入った皇国史観からしてみれば「私」を排除した歴史観は自虐史観となります。

実は私は、皇国史観側からみた自虐史観批判は、それはそれで正しいと思っています。というのも、そもそも「歴史観」に「私」を切り離すことはできないから。客観的事実に基づく歴史観などといったものは本来ありえない。過去に起こった現象としての歴史は間違いなく存在しますが、それは単に事実があるといっただけのことで、砂浜に砂があるというのと全く同じこと。そこを体系付けるのには「観る者の視点」は欠かせません。ただ人類は、相手が自然現象の時には「私」を排除した上での体系を作り上げることに成功した。「科学の最大の功績は目的論を排したこと」だといわれますが、この方法を人間が起こす歴史現象に当てはめようとするとおかしなことになる。なぜなら、目的のなかった歴史現象など存在しないからです。歴史が難しいのは、現在から見るとその「目的」がわからないことにある。けれども、わからなくなっただけで、決してなかったわけではない。

では、私は皇国史観を支持するのかというと、これは全く支持しません。そんなのは“わがまま”だからです。そのわがままぶりは、皇国史観を歴史修正主義だとした批判が的確に指摘しています。客観的事実を重視する側から見れば、皇国史観は予め「私」が作り上げたフレームの中に事実を無理やり押し込めようとしているものです。私は『知的フレームを壊せ!』のなかで、そうしたことをする例として「優秀」な新聞記者を例に取りましたが、まったく同じことです。

ところで「知的フレーム」といえばまず連想するのは、客観的事実に基づいた体系のことでしょう。『知的フレームを壊せ!』を客観的事実に基づく認識体系の否定だと捉えた人もいたと思います。私があそこで壊せといったのは、客観的なものではなくて、“わがまま”の方だったのか? いえ、違います。その双方です。客観的も、その対極の“わがまま”も壊せといったつもりです。双方ともに、「私」を固定している点では同じだからです。「私」を排除した客観は「私」がないために“わがまま”にはならないけれども、「私」を排除するところに固定するという意味では同じ。その「固定」を「フレーム」と言ったのです。

私は、この「固定」こそが「近代」の最大の特徴だと考えます。主流は「私」を排除する方向で、「私」 を排除したところに普遍性を置き換えようとします。この典型例が基本的人権というやつで、「私」の置き換わる視座としての普遍性。そして、この普遍性を歴史の進歩と固定的に捉え、この人類はこの進歩を知的学習を通じてわがものすべきだとする。啓蒙主義ですね。

皇国史観といった類のものは、その反発でしょう。「私」を普遍性に置き換えることを拒否する。けれども、やはりその視座は固定されている。「私」が固定されるから“わがまま”になる。「近代」の特徴である普遍性に反発しつつも、「近代」の枠組みからは抜け出しきれない。「近代」において宗教がカルトと化してしまう理由は、「固定」にあると私は見ています。

以上のように考えを進めてくれば“あるがまま”とはどういったことを指すのか、理解できると思います。つまり事実や現象を観る時に、観ている「私」を排除することなく、しかも「私」を固定しないで相対化すること。この状態を“あるがまま”を観ると表現する。これが私の“あるがまま”についてのイメージであり、私自身が追い求めているものでもあります。

こうした立場には、過剰な相対主義といった批判があることは承知しています。あるいは危険思想と思われるであろうこともわかっているつもりです。しかし、こうした批判は、「われ思うゆえにわれ有り」に足元を捕られた人のものだというのが私の理解。「私」を思惟の主体だとすると、「私」の相対化とは「私」を分解することに他ならない。そうなると虚無に陥ることになる。

けれども、私は「私」をそのように捉えていません。私にとって「私」とは感得する主体です。そう捉えると、「私」がさまざまなことに共感し感得して「私」を相対化していくほどに、「私」は「無」になっていきます。あるいは「空」と表現してよいかもしれない。つまり「われ感じる、ゆえにわれ無し」です。そして「私」が無になっていくほどに、感じる「私」、今、この瞬間に生きている「私」を感じるようになります。

「われ思うゆえにわれ有り」では、「私」の相対化は虚無であり絶望であり死にいたる病ですが、「われ感じる、ゆえにわれ無し」においては「私」の相対化こそが生きていくことへの指針になります。

コメント

大円鏡智

 
愚樵様。こんばんは。日比野です。

今日のエントリーはとても奥深い話かと思います。

>「私」がさまざまなことに共感し感得して「私」を相対化していくほどに、「私」は「無」になっていきます。あるいは「空」と表現してよいかもしれない。

この一文で私は、仏教で言うところの「無我」を連想いたしました。

「無我」という言葉は、"我なるものは無い"と書きますが、決して自分が無くなるということではなく「自分の見方や考え方に執着しない」という意味においての「無」なのだと理解しています。

執着ある「我」で世の中を見ると、その執着故にその「視点」は固定されます。自分の価値観・世界観を基準に世界を見てしまうということです。

そして「我」という「視点」の固定された眼に映ったものには、すべからく我という自我意識に基づいた何らかの「判断」が与えられます。これはかく、あれはかく、と判断してゆく。

それは逆にいえば、見る人の個性によって、たとえ同じものであってもそれぞれ異なった判断をされることがあることをも意味しています。Aというものがある人にとっては好ましいものであるけれど、別の人にとっては悪しきものとして見えているかもしれないという具合に。

私は、無我の立場でものを見る、という事はそういった個々人の判断の枠を超えたところにあると考えています。存在そのものをただ「在る」としてみるイメージです。

しかし、その「在る」のみえ方は、自我意識に基づいた判断とは違って、なぜそれが「在る」のか、どういう存在として「在る」のか、という風にもう一段深い立場から存在をまるごと受け止め、見つめる立場ではないかと思っています。うまく表現できませんが。

おそらく愚樵様の仰る"あるがままを観る"というのは、ほんとうの意味での正見でもある「如実知見」のことを指しておられるのではないかと得心した次第です。v-421

 白身の魚と言えばアメリカでもスーパーマーケットや魚屋で名前の付け方が出鱈目で何の白身の魚を買わされているのか良くわからないそうです。国によって亜種もあり、名前も違うのでかなりいい加減なのだそうです。
 処でリンクに私のブログの名前を見ました気がつくのが遅れてすみません。こちらからもリンクさせて頂いてよろしいでしょうか?

Re: 大円鏡智

日比野さん、コメントありがとうございます。

> >「私」がさまざまなことに共感し感得して「私」を相対化していくほどに、「私」は「無」になっていきます。あるいは「空」と表現してよいかもしれない。

> この一文で私は、仏教で言うところの「無我」を連想いたしました。

こういった類のことは、いろいろな人がいろいろな仕方で表現しているものなのだろうと思っています。そして、表現が異なるだけで、内容は同じなのだろうとも。ただ「同じ」は、客観的には確かめることができないものなんですね。

> 「無我」という言葉は、"我なるものは無い"と書きますが、決して自分が無くなるということではなく「自分の見方や考え方に執着しない」という意味においての「無」なのだと理解しています。

はい。ここでの「我」は「エゴ」ですね。それとは別に「セルフ」という「我」もある。

> おそらく愚樵様の仰る"あるがままを観る"というのは、ほんとうの意味での正見でもある「如実知見」のことを指しておられるのではないかと得心した次第です。[

う~ん、「如実知見」とはまた立派な言葉ですが...。ただ近頃思ってるのは、立派な言葉が示す内容ってのは、実はそんなに大層なものでもないのではないか、ということです。凡人はいつでも、たとえば「如実知見」といった見方が出来るものではないでしょうけど、何かの拍子にできてしまうこともある。そのときの自分の心の感触とでも言いましょうか、それを覚えておくというのが大切なのだと思います。白身の魚の味を覚えて置くことのように。

ejnewsさん

> 白身の魚と言えばアメリカでもスーパーマーケットや魚屋で...


そのあたりはビーフイーターの国、アメリカでは致し方ない面もあるでしょうね。みんな知らない(笑) けど、日本では、少なくともプロは知ってるはず。知ってていい加減なのはウソ。日本はウソがまかり通るようになってしまっているんです。アメリカでも、そうですか?

> 処でリンクに私のブログの名前を見ました気がつくのが遅れてすみません。こちらからもリンクさせて頂いてよろしいでしょうか?

もちろんです。私の方はお断りもせずにリンクをあげさせてもらいました。よろしかったでしょうか?

勿論大丈夫です!(日本にいた頃は未だインターネットが無く、アメリカにいる間にインターネットが広まったので、日本のブログの礼儀とか常識が未だ分からないのです。)では此方からもリンクします。此れからも宜しく御願いします。
 勿論、アメリカ合衆国(社会や其の中で生きる人ではなく国家政府です)の宗教は資本主義ですから嘘ばっかりです。白身の魚の名前の表示がアヤフヤなのも安い魚を高く売る為の詐欺ではないかと疑っています。

《感じつつあるモノ》

「われ感じる、ゆえにわれ無し」
しかし
《感じつつあるモノ》は在るんですよね。

たけ(tk)さん、ようこそ。

先だってはTBありがとうございます。

>《感じつつあるモノ》は在るんですよね。

ここでいうモノとは、「われ」という現象を生じせしめる「身体」のことでしょうか?

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