愚慫空論

【自生的秩序】のイメージ(1)~『親父の一番長い日』

まず、【自生的秩序】の表記について。前エントリーは『ハイエクの自生的秩序』というものでしたが(まだ続きですけど)、そこでの「自生的秩序」とエントリーNo.202以降で取り上げてきた自生的秩序とは、表記は同じで、またどちらも自生的な秩序であることは同じなのですけれども、その拠って立つところが異なります。前者は「利による自生的秩序」、また後者は「自然による自生的秩序」と言うべきものだというのが私の考えで、その考えに従って前者と後者を表記の上からも区別したいと思います。それで後者、「自然による自生的秩序」を【自生的秩序】とすることにします。

と前置きしておきまして、【自生的秩序】のイメージを描き出してみようとするのが当エントリーの趣旨です。イメージしやすいように“絵に描いたような”といいますか、理想的といいますか、つまりは安直に描いてみたいと思うわけですが、その題材に用いるのが『親父の一番長い日』。これは、さだまさし作詞作曲歌唱による曲のタイトルです。




歌詞はこちらにあります。→コチラ

YouTubeの時間表記を見ていただくとわかりますが、歌謡曲としてはかなり長いです。長いのには訳があって――といっても私の勝手な想像ですが――、この曲は、「妹」を中心に家族の移りゆくさまを叙事的に描くことが、そのまま、家族というものを叙情的に表現することなるのを狙った、そんな曲だからです。叙事が叙情になるには、叙事にある程度の長さが必要で、さらに――これが最も重要なことですが――描く対象が【自生的秩序】をもったものでなければならない。家族は、【自生的秩序】のもっとも基本的なものといって良いでしょう。

「妹」が生まれて、命名、お七夜、宮参り、曲のなかで次々と「イベント」が列挙されていきます。七五三、新入学、赤いランドセル。学級対抗リレー、学芸会、反抗期、初潮、中学、高校...、そして初恋。

「イベント」の列挙とそれにまつわる家族――特に親父――のちょっとした描写は、「妹」の成長と共に家族も成長していく、そんな感触を聴くものに与える。そして「妹」が年頃になるに至って

♪危険な年頃と 夫婦は疑心暗鬼
 些細な妹の 言葉に揺れていた
 今は我が家の一番 幸せなひとときも少し
 このままいさせてと 祈っていたのでしょう♪


家族の幸せはピークに達すると同時に、その崩壊も予感させます。

幸福は【自生的秩序】のなかにあり、【自生的秩序】を育むのは「時間の共有」です。今が一番幸せなのは、「妹」が生まれてからずっと営まれてきた家族という時間の積み重ねがあるから。でも、その積み重ねもいずれ終わります。終わるのもまた【自生的秩序】です。

♪ある日ひとりの若者が 我が家に来て
 “お嬢さんを僕にください”と言った♪


お決まりのパターンですが(笑)、安直なイメージだからいいでしょう。

♪いくつもの思い出が親父の中をよぎり
 だからついあんな大声を出させた
 はじめて見る親父の狼狽 妹の大粒の涙
 家中の時が止まった♪


これまで育んできた親父を中心とした家族の「時間の共有」がここで止ろうとしています。「妹」が彼女の中にある【自生的秩序】に従って、若者と「時間の共有」を始めようと願ったから。それが彼女の真実。だからこそ親父は狼狽し、時間を遡らなければならなくなった...。

『親父の一番長い日』という曲は「妹」の結婚式で終わります。もとよりこの曲はフィクションですけども、本当ならまだここから先も【自生的秩序】は発展していくはずです。新たな「時間の共有」をはじめ新たな【自生的秩序】を育み始めた「妹」はやがて子を為すでしょう。親父を中心とした家族という枠での【自生的秩序】はもはやピークを過ぎてしまったかもしれませんが、「妹」夫婦まで家族の中に入れれば【自生的秩序】の発展は止りません。

日本的な感覚からいうと、“親父を中心とした家族”というのは本当はおかしいのです。ここは曲のタイトルに従って親父を中心に考えましたが、けれども歌を聴いたならば、家族の【自生的秩序】の中心は実は「妹」なのだと日本人ならわかるはずです。伝統的な日本の家族における中心は、子どもなのですね。そして子どもは大人より自然に近い存在です。だからこそ自然に沿った【自生的秩序】なのですね。

「妹」に子どもが産まれると、家族は【自生的秩序】に従って変容します。「妹」はおふくろに、若者は親父に。親父は爺にお袋は婆に。それぞれ呼び名が変化して、家族の役割――といっても主に精神的な部分ですが――も変わる。【自生的秩序】を重んずるがこそ、【自生的秩序】の変化を呼称に反映させるのです。こういったことを【おのずから】と言います。


少し余談。『親父の一番長い日』では、「妹」の結婚式は避暑地の教会でした。キリスト教会でしょう。けれども、これをもって親父家族がクリスチャンであることは意味しません。日本的常識です。

しかし、こうした宗教的な無節操も【自生的秩序】を重視するという日本の感覚からすれば、自然なことだということがわかります。人生最大のイベントである結婚式も、所詮は「イベント」。【自生的秩序】を彩るためのものでしかない。彩りだから、無節操になってしまう。大切なのは結婚式で為される「契約」などではありません。

だから、結婚式という外形を形作る宗教はなんでもいい。それは

♪学芸会でもちゃんと役をもらった
 親父の喜びは いうまでもない
 たとえその役が一寸法師の 赤鬼の役であったりしても♪


と同じなのです。

けれどそう考えると、 今の日本の家族・子どもには「イベント」をこえるイベントが多すぎるような気がします。特に受験。子どもを大きく支配する受験は、単なる「イベント」とはいえない。【自生的秩序】を彩るものではありません。それは【自生的秩序】とは別の秩序に参加していくための競争であり、教育の「教」。【自生的秩序】は「育」です。「教」ばかり教え込まれて「育」を与えられない子どもたちが【自生的秩序】を感知できないにも当然のことでしょう。

コメント

しかし、嫌の物ばかり……

>お七夜、宮参り、曲のなかで次々と「イベント」が列挙されていきます。七五三、新入学、

あげくのはてにさだまさし。(笑)

嫌な物ばかりを並べて頂きましたね。爆!!
終わりは、なんの思考もない結婚『式』ね。
ワシの嫌いな「イベント」とさらに嫌悪する「無思索」です。もちろん「受験」ってイベントも否定するのだけどね。
なんも考えずに、ただ周囲に流されて踊らされている。
あぁやだやだ。……、と、この辺は「知的」「合理的」から出る嫌悪感なのかな? とすると再度みつめてみるけれど、どうも肌感覚が拒否するぞ。

この辺のイベントが自生的秩序のエッセンスなら、ワタシにとっての秩序は遠いなぁ、と思い揺れ動く今日この頃。

すぐ背中にあるのかも、ですよ

> 嫌な物ばかりを並べて頂きましたね。爆!!

おお、それは上々(笑)。嫌いは好きに告ぐ反応です。好きの反対は無関心。嫌いだということは、何か引っかかる所があるのですね。

> ワシの嫌いな「イベント」とさらに嫌悪する「無思索」です。>
>なんも考えずに、ただ周囲に流されて踊らされている。>

「イベント」に近いものは「作法」です。
『〈作法〉という知の形』
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-44.html

ところが、近代から現代の思想は、このような、日々の暮らしとともにあった思想を無視したのである。その結果、思想といえば、文章という表現形式を持ち、文章を書く思想家のものになった。そして、いつの間にか人間の上に君臨し、現実を支配する手段になっていった。
こうして生まれたのが、理念が支配の道具になった二十世紀の現実である。二十世紀の世界では、自由や民主主義という理念さえ、この理念によって社会を維持し、人々の考えを支配する道具として機能した。そのことに気づいたとき、私たちは、思想とは何かを、根本から考え直さなければならなくなった


「イベント」が「無思索」に思えるようになってしまったのは、「日々の暮らしとともにあった思想」が忘れられてしまったからです。今の私たちにとっての「日々の暮らし」とは、カネを稼ぐために労働し、カネを遣ってモノを消費するだけのものに堕ちてしまいました。その堕落に抵抗する人は理念という思考形式でもって抵抗しているけれども、その抵抗もまた「近代」の枠の中なのです。

どうしましょう。

 え、どうしましょう。
 どっちかっていうと「嫌い」ってのは強制される嫌いさで、実をいうと、もとは「無関心」のほうが大きいかもしれないな。なんと言ってもオイラは近代人だもーん。
 オイラが、それをするか、しないか、の基準は「おもろい」か「おもしろくない」かの肌感覚。もっとも、伝統とか風習とか「イベント」は有無を言わせず強制だから、「嫌い」となる。……、ってのも近代の枠の中っていうんだよね(笑)。

 さて、どうしましょう。
 ワタシもブログではいってきたつもりだけど、「カネ」に基準を置く愚かさをね。そうやって「カネ」による堕落に抵抗しても、……って、この物いいも、近代の枠の中だよね。

 じゃあ、どうしましょう。
 って、堂々巡りだ。近代だから近代の枠のなかなのは仕方ないとして、「回帰」しますか? 「ぶち破り」ますか? どうも内山節なんかは「回帰」派のように読めるけど、環境を変えすぎてしまったうえに、人間の欲望も変わってしまった。そんなこんなで「回帰」できなければ、「ぶち破る」しかないけど、考えられる範囲のぶち破り方は、近代の枠の中だよね。ガハハ。

 あらま、どうしましょう。
 近代のなかで近代の枠の中にない、自生的秩序ねぇ~、ああ、困った困った、こまどりしまい。

たいへん楽しく読まさせて戴きました。

さだまさしは好きでも嫌いでもないのですが、この曲や、それから「関白宣言」がリリースされた当時、両曲とも一見(一聴)、家父長制擁護ともとられかねない内容で、
さだまさし、チャレンジャーだなー、とも思ったりもしたが、なるほどこういう解釈なのか。

こんばんは、すぺーすのいどです。

私は「さだまさし」好きですよ。
でも、極めて初期のころ(漢字3文字アルバムのころ+α)までですね。
それとあわせてその頃の彼のアルバムなどに書かれていたエッセイやライナーノートが最高ですね。

でも語りで有名なライブには行ったことないです。
あまり行きたいとも思いませんでしたけどね。

人生のイベントねぇ~(^^ゞ
子どものイベントって、本当にバカバカしいくらい、いろんなのがありますよね。
それを親(祖父母)とかから「やんないのか?」とか言われつつやるのはイヤですね。
dr.stoneflyさんは言われてるんですか?(笑)

我が家は誰もお世話焼いてくれないので、たまにはちゃんとした家族写真があっても良いかな?程度で七五三を利用してますね。でもこのあいだ下の子の七五三も終わっちまって、この腰の重い夫婦は2度と家族写真など撮らないかもしれません。(ToT)/~~~

それより私は個人的に結婚記念日と嫁の誕生日が面倒ですね。すぐ忘れるし・・・(そーゆーのは覚えてて文句を言う人がいる・・・)


おっと、随分話題と関係ないですね。(^^ゞ

>今の日本の家族・子どもには「イベント」をこえるイベントが多すぎるような気がします。特に受験。・・・「教」ばかり教え込まれて「育」を与えられない子どもたちが【自生的秩序】を感知できないにも当然のことでしょう。

まったく、なるほどです。かなり納得しました(^^♪

ただ、親もかわいそうですね。
「教育産業」に煽られて、親のなすべきことを勘違いしている人が多い気がします。(@_@)

「企業の利益への道程には善意が敷き詰められている」

愛する者へ良かれと思った行為が、実は知りもしない経営者の財布を肥やすだけだった・・・なんてイヤだなぁ。

長文ごめんなさい。

札幌運転所隣人さん

> この曲や、それから「関白宣言」がリリースされた当時、両曲とも一見(一聴)、家父長制擁護ともとられかねない内容で、

その見方は、それはそれで正しいのではないでしょうか? 家父長制を批判する人から見れば、この歌や『関白宣言』などは家父長制擁護でしょう。そう受け取るのが自然だと思います。

“あるがまま”のエントリーで書きましたけど、要は「どこからみるか」なんですね。家父長擁護だからダメ、じゃなくて、家父長擁護だけど、いいものはいい、となれるかどうか。そこに立てば、別に母系社会でもいいんじゃないか、という視点だってもてるわけですし。

ちなみに私は、父権社会より母系社会の方がいいと考えてます。でも、それは父権社会をひていするものではない。みんなが幸せだったら、どっちでもいいじゃないですか?

すぺーすのいど

> 私は「さだまさし」好きですよ。
> でも、極めて初期のころ(漢字3文字アルバムのころ+α)までですね。

私は取り立てて好きってことはないのですけど。好きだったのは小学生の頃までで。

> 人生のイベントねぇ~(^^ゞ
> それを親(祖父母)とかから「やんないのか?」とか言われつつやるのはイヤですね。

そうそう。この手の「イベント」は他人から強制されると途端につまらなくなりますよね。自発的じゃなきゃね。ま、でも、自発を待ってると「イベント」をしない親父もいますし、なかなか難しいものです。

> 我が家は誰もお世話焼いてくれないので、たまにはちゃんとした家族写真があっても良いかな?程度で七五三を利用してますね。

あはは。それでいいじゃないですか? 「イベント」をするのに、理由は単なる大義名分だから(笑)。ホントの理由は、ただしたいからだけでいいんです。家族写真を撮りたいから七五三。いいじゃないですか。

> それより私は個人的に結婚記念日と嫁の誕生日が面倒ですね。すぐ忘れるし・・・(そーゆーのは覚えてて文句を言う人がいる・・・)


あはは。コメントは控えさせてもらいます。

> ただ、親もかわいそうですね。
> 「教育産業」に煽られて、親のなすべきことを勘違いしている人が多い気がします。(@_@)

それが「近代」ということで、仕方がないといえば仕方がない。けど、もう仕方がないでは済ませられないですよね。

> 「企業の利益への道程には善意が敷き詰められている」
> 愛する者へ良かれと思った行為が、実は知りもしない経営者の財布を肥やすだけだった・・・なんてイヤだなぁ。

そのあたりは「個人通貨」のエントリーに被ってきますね。「合理性」に対して「合情性」という言葉を使ったのですけど。読んでみてくださいね。

> 長文ごめんなさい。

この程度を愚樵空論では長文と言いません(笑)

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ソマリア沖の靴投げ

早い話が:ソマリア沖の靴投げ=金子秀敏 (専門編集委員)毎日新聞 2009年2月5日 海賊の出没するソマリア沖に海上自衛隊の護衛艦を派遣することになった。 場所が瀬戸内海だったら海上保安庁の巡視船が取り締まるところだが、ソマリアはあまりにも遠い。だから、遠洋

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