愚慫空論

左翼とロック

最近非常にお世話になっているアキラさんの最新エントリーから拝借します。

『〈生活世界〉と〈システム〉と「保守」その3』(光るナス)
宮台氏は「60年代の躍動」、つまり日本の左翼的運動に関して興味深いことを言っています。
「60年代の躍動」とは、結論的には〈生活世界〉を剥奪された者たちが、空洞化する共通前提(全体性)を代替する新たな共通前提(全体性)を、〈システム〉に求めた動きだった、と。
浸食される〈生活世界〉の中での入れ替え可能性に抵抗した若者たちが、共産主義という〈システム〉に活路を見出しそうと運動した結果、皮肉にもますます入れ替え可能化してしまった。
ここで言われる〈生活世界〉とは、私がさんざん言っている「自生的秩序」が働く世界だと同じと考えてよいと思います。つまり言葉に出来ない不合理な秩序が成立している世界。一方〈システム〉とは民主主義、資本主義、共産主義、法治国家など、言葉で記述できる規則に従って秩序が組み立てられている世界のこと。

左翼運動が〈生活世界〉を剥奪された者たちの運動であったとするならば、それはロックにも同じことがいえるのではないでしょうか。


方向性は全く異なります。左翼運動が革新――〈生活世界〉を浸食する現行の〈システム〉に変わる新しい〈システム〉の構築――を目指した知的な運動だったのに対して、ロックは直情的に〈生活世界〉が浸食されていると訴えた。左翼もロックも、〈生活世界〉vs現〈システム〉という構図は同じです。そしてそう考えると、〈システム〉に敵意を燃やす直情型ロックがアナーキーな臭いを漂わせることになったのも、ごく自然な流れであるとも言えましょうか。



左翼運動もロックも次第に〈システム〉の中に組み込まれていってしまうという点でも同じと言えそうです。ロックは大衆に支持され莫大な利益をもたらすものであることが分かると、商業主義の中に飲み込まれていってしまった。日本の政治世界でも、一部の過激な武力闘争が〈システム〉に鎮圧されてしまうと、共産主義は異端視されつつも〈システム〉の片隅に居場所を見つけてしまいます。

ロックの場合でも一部の過激な闘争が〈システム〉に鎮圧されてしまうという現象は同じでしょう。もっともこちらの場合は、表向きには自壊という形で現れることが多いようです。





現在、金融不況の影響による〈システム〉の揺らぎのおかげでその片隅がいくらか注目されるようになってきてはいますが、これはいわば「敵の失敗」によるもの。だとすれば〈システム〉が安定すると再び片隅に追いやられることになりますが、どうも日本共産党などをみていると〈システム〉の安定に寄与しようとしているように見えてしまいます。もっともその動きは、旧来の〈システム〉をそのまま復元させるのではなくて、大きな修正を加えようとするものであることは私も理解はしています。

が、しかし、それが奪われた〈生活世界〉を取り戻すものになるかどうかは、私には甚だ疑問です。というのは、社会主義・共産主義も資本主義や民主主義と同じく〈近代的システム〉――明文化された規律に従って構築される秩序――だからです。そして、その背景にあるのは虚構と暴力。カネという虚構、国家という虚構、基本的人権という虚構。どういった種類の虚構であれ、それらを最終的には暴力という絶対的な力によって保持しようとするのが〈システム〉。対して自生的秩序による〈生活世界〉の背景にあるのは暴力を放棄した和解なのですが、和解は一方的な暴力の前には無力。〈生活世界〉が〈システム〉に侵害されてしまうのは、和解と暴力のリアルな力関係の反映されているのですね。和解が暴力に対抗することは、空想的にならともかく、事実上不可能です。



もう少し付け加えておきましょう。基本的人権を虚構としてしまうことについては反発があるでしょうから。

このことについて私は、前エントリーで「時間の共有」という観点からごく簡単に触れています。機械的な平等は各々のアイデンティティ確立のための闘争を引き起こし、闘争は自由を享受することの基盤である「時間の共有」を妨げてしまう。この先にあるのは、自由と平等ではなく、平等な孤独――といったことですが、これは基本的人権を明瞭なものだと思い込んでしまうことに起因しています。そして明瞭なものこそが虚構。

明瞭なものが虚構だというのは、私たちの感覚と相反するようで、そこの話を始めると長くなるのでやめますが、簡単に言うと、脳に騙されているのですね。人間の脳みそは本来曖昧なものに輪郭を与えてしまう。人が意識する以前の無意識下で輪郭を与えてしまうので、気がつかなければ輪郭のある明瞭なものをリアルだと思い込んでしまうが、それは実は違うのです。明瞭はものは虚構、本当はバーチャルなのですね。そして本当に基本的人権といったものがあるとするならば、それは曖昧な不明瞭なもので、だからこそ明確な言葉にならない自生的秩序のなかでしか実現できないものなのです。
日本国憲法第十二条

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
「不断の努力」とは、明確化していくことではないのです。誰かが明白なものを侵害するから排除するのではない。そうではなくて、不明瞭のままに保持しておくことを不断に努力しなければならないのです。「不断の努力」とは、曖昧なものをそのまま受け止めるための営為のことを指しています。また逆に、そうでなければ曖昧なものは感じ続けることが出来ません。明瞭なものと確定した瞬間に「不断の努力」を放棄できる余地が生まれてしまう。だから虚構なのです。

また、そう捉えると「公共の福祉」も違ったふうに見えてきます。国家といった権力機構のことでも、経済発展といった大義名分とも異なることがわかります。「公共の福祉」もまた不明瞭で曖昧なものであるとするなら、それは〈生活世界〉のことになる。そう捉えると、条文は同じでも意味内容は全く違ったものになります。

基本的人権を大切にするということは、基本的人権を明白なものであると思い込んでしまうと、虚構を基礎に暴力をコントロールする〈システム〉を設計することになってしまいます。しかしそれは、そのなかでこそ基本的人権を体感できる〈生活世界〉を侵害することに繋がっていってしまうのです。



このように見てくるとロックという営為――ひとつひとつの曲やバンドのことではなく、ロックという現象全体――の意義もよく見えてこようというものです。〈生活世界〉を侵害する〈システム〉への反発を遺伝子に組み込んだロックは、ときには商業主義という〈システム〉に飲み込まれ、偉大な才能を失うといった代償を払いつつも、明瞭化することを拒否する精神は変わりません。特定の曲やバンドに人気が出て、流れが明瞭化する方向へ傾き出すと必ず反発が生じる。明瞭化に対する反発は「生」そのもののことですから、師匠が言うように、ロックは「生」の営み他ならない。歪んでバカでかい音は、「生」を歪めてしまう〈システム〉の反発であれば当然のことです。整った音では「生」の反発を表現することはできません。

コメント

『ロックの場合でも一部の過激な闘争が〈システム〉に鎮圧されてしまうという現象は同じでしょう。』
なるほどですね。
一方、国内のフォーク~ニューミュージック~J-POPに目を向けますと、いつの間にかシステムと共存・共栄、補完関係となっているように見受けられます。
転機はやっぱり、多くがサウンド志向となった80年代でしょうか。ちょうど、フォーク系の音楽が自らの持つメッセージ性と葛藤していた時期です。
言うまでもなく、フォーク系の音楽は歌詞依存度がより大。ここであえて、日本語ですらシステムである、と強引?に置いてしまえば、この葛藤もわからないでもない。巻き舌系ヴォーカルが出現したのも、この頃でした。
いまのJ-POPは、殆どの人が日本語を上手に、堂々と唄っています(但し、ヴォーカルとしてですが)。
ひとつの完成形は、やっぱりウタダさんあたりかな。

なんか、話しが曲がってしまいました。

「ポップ」の宿命

いや、これは、「ポップミュージック」という、大衆に開かれた表現の宿命なのですよ。
80年代どころじゃない。エルヴィスやビートルズは、最大の「産業ロック」という側面もありました。
だけど、だからこそ「面白い」のだし、下品で下世話な表現のもつダイナミズムに満ちているのです。
R&B、R&Rよりはファインアート寄りだったジャズの運命を思えば。まあロックもその運命を辿ってますが。

ザ・フーのピート・タウンゼンドは、ロックンロールについて「芸術に決まってるじゃないか」と言いました。だからこそ、彼はギターを破壊したりするパフォーマンスによって、下品でキャッチーな、MAXIMUMな表現形式にこだわり続けていたのです。

芸術と産業の綱渡りが、ポップの肝です。

その点で、ニルヴァーナのカートの限界があったのだと思います。

一寸気になった所があるのですが、ここでの“アナーキー”とは、ウイリアム ゴッドウイン、プルードン、エマ ゴールドマン、現代ではノームチョムスキー等で代表される“アナキズム”の形容詞としてのアナーキーとして使っているのでしょうか?

ANARCHY IN THE UK

ejnews さん

> 一寸気になった所があるのですが、ここでの“アナーキー”とは、ウイリアム ゴッドウイン、プルードン、エマ ゴールドマン、現代ではノームチョムスキー等で代表される“アナキズム”の形容詞としてのアナーキーとして使っているのでしょうか?

いえいえ、そんなところまで考えていません(笑) その下のYouTube動画の曲、『ANARCHY IN THE UK』というのですが(ご存知でした?)、その曲に引っかけての“アナーキー”です。まあ、社会への反発を“アナーキー”という言葉に込めたという程度でしょう。

アメリカでもそうですがアナキズムは資本家政権のプロパガンダで唯の暴力的革命分子として一般に捉えられている様で、ポップカルチャー(雑誌、ロックミュージック、流行に媚しているその他の文化的といわれる活動)でも又その様な使われ方がされているので、政治哲学としてのアナキズムの思想家達の本を読む人は少ないようですね。私は正確にはアナキストではないのですが..............話が長くなるのでこの辺で。

一寸言葉が足りない様に感じましたので、付け加えます。愚樵さんがアナキズムわ知らないと言っているのではなく、一般的な話ですので誤解されない様に御願いします。アメリカではアナキズムを真面目に社会の代替システムとして捉えている人々も日本よりは多いと思います。日本ではどうなっていますか?

日本でのアナキズム

> アメリカではアナキズムを真面目に社会の代替システムとして捉えている人々も日本よりは多いと思います。

そうした人々は、もしかしたらキリスト教原理主義者だったりしますか?

>日本ではどうなっていますか?

これは私の勝手な想像ですが、日本のアナキズムは、社会の表層のシステムと共存可能なものなのですね。私が【自生的秩序】と言っているのが、それにあたります。ですので、西洋的なアナキズムにはなり得ない。共産主義などよりも、ずっと遠いものですね。

アナキズムとキリスト教原理主義とは何の関係も在りません。政治哲学と一方は宗教ですから御互いに同じレベルで比較する事は難しいのですが、アナキズムは個人の自由、平等を重要視していてキリスト教は一つのパワーに跪く様に教えられる人間集団ですから、この二つはどちらかと言うと両極にあるものかと思います。
 日本ではアナキズム(アナキズムと言っても数々の亜種が在り一言では片付けられないのですが)は余り真剣に捉えられていないようですね。

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