愚慫空論

自由と孤独の境目

女子労働者の多くは、苦しい家計をたすけるために出稼ぎに出てきた小作農などの下層農家の子女であり、欧米と比べると、はるかに低い賃金で、きびしい労働に従事していた。紡績業では二交代制の昼夜業が行われ、製糸業では労働時間は一五時間程度、時には一八時間に及ぶこともあった。
想像が付くと思いますが、これはいわゆる「女工哀史」というやつで、私たちが学校の教育で教わってきたものです。ところが
月給をもらって、自分の欲しかった着物を買ったときのよろこびは格別でした。それから工場は休みがあるでしょ、休みの日には誰に気兼ねすることもなく友だちと町へ遊びに行きました。紡績へいっていたときが人生で一番自由なときでした。
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そうではなかったらしい。こちらは実際に女工を勤めたことがある人の述懐らしいですか、これは「哀史」などでは全くありません。どうも私たちが教わってきた歴史というものには、かなりウソがあるようなのです。

といって、今回は、このような歴史のウソを追及したいわけではありません。その点についてはまたいずれ機会があったら取り上げることにしまして、今回は「自由」について少し考えてみたい。私はここのところずっと「自生的秩序」について取り上げていますが、今回もその絡みです。
自由は誰にとっても楽しいものです。上で取り上げた元女工さんの話は、ごく短いものですけれど、その楽しさがよく伝わってきます。付け加えておきますと、この元女工さんは、それ以外の期間はずっと「村」で過ごしていた。ですので女工として勤めていた期間が唯一といっていいのでしょう、自由な時を過ごせた期間だった。

自由はまた必要なものといってもいいかもしれません。今日では、自由は人間としての基本的な権利として保障されています。今の世の中では、だれもが自由を追い求めることが出来る。それが現在の社会の「お約束」になっています。

ところが一方で自由には厄介な面もあります。「人間は自由という刑に処されている」といったのはサルトルだったと記憶していますが、ここでいわれる「自由」には「孤独」のニュアンスが色濃くにじみ出ています。人は誰でも自由を欲するけれども、さりとて孤独に陥りたくはない。自分勝手な話ですけれども、それが人というものであるのは真実でしょう。そして、自由の行き着く先が孤独。これもまた真理といってしまっても構わないだろうと思います。

自由は欲しいが孤独はイヤ。けれども自由を求めると孤独が待っている。自由を追い求めるのが過ぎてしまってみんながバラバラになってしまい、ついには豊かな社会になのに貧困に陥る者、精神的にも「生きさせろ!」とまで叫ばなければならない者が少なからず出てきたてしまった――これが今の社会の現状であることは誰もが感じているところだと思いますが、さりとて自由は手放したくない。今話題の派遣切りに関連して、最近、介護福祉や農林水産業の人手不足、いわゆる雇用のミスマッチがよく取り上げられます。この原因にはそれぞれの職種に必要とされる技能修得の問題もありますが、それ以前に各個人の自由の問題があることも誰もが感じているところだと思います。自由を手放すくらいならホームレスになる方がよい――とまで思っているかどうは知りませんけれども、ホームレスに陥りそうになっても職業選択の自由を手放そうとしない人を見ると、「自己責任」という言葉が再び思い起こされてしまう。孤独に陥ってまでも自由がいいなら、勝手にしろよ――と言いたくなってしまうのですね。

「派遣村」という騒動が、先の年末年始にかけてありました。その騒動については賛否両論さまざまな意見があるようです。私は「自己責任」という言葉で全てを済ましてしまおうとする立場には異議を唱えたいと思う者ですが、さりとて、その原因の全てを社会に、なかんずく政府の政策に求めるあり方にも賛同しきれない。それは、現在が民主主義だから主権者の国民にも責任があるといった論理ではなくて、もっと深層――社会心理といったような観点から、すなわち人間そのものが変わってしまったことに原因があるのではないのか、「自己責任」を軸に右左に別れて対立しているような構図は、その奥にあるものを見過ごしていないか――そんな思いからなんです。

かつて自由を満喫した元女工さんに、次のように問うてみるとします。「では、あなたは、ずっと自由でいたかったですか?」 今の人なら、答えはおそらく「はい」でしょう。けれども、ずっと「村」で過ごしてきた元女工さんはどうでしょうか? 私には「いいえ」と答えるような気がしてならない。それは、自由と孤独の境目を識っているだろうと思うから。自由が楽しめるのは、帰ることが出来る場所――故郷があるからなんです。故郷があるから安心して自由を楽しめる。ずっと自由でいるということは故郷を捨てるということですが、ずっと「村」で過ごして元女工さんがそんな不安な選択をするとは思えないのですね。

故郷とは、自生的秩序が働く場所です。けれども人間というのは欲深いもので、隣の芝生は青く見える。自分の安心は、安心であるが故に忘れてしまう。忘れて自由を追い求めたくなる。そうなると自生的秩序も束縛としか感じられなくなってしまう。そうした社会心理が働いて故郷を崩壊させてしまった挙げ句が、今の不安な社会です。みんな不安だからよりどころを求めて競争する。ある者はカネ、ある者は社会的地位。それらに拠り所を見つけられなかった者は国籍、あるいは民族。

そうした競争を否定して平等に拠り所を見いだそうよという人たちもいますけど、それも違うのですね。機械的な平等は拠り所にはならない。誰でも人は、自分が特別な存在だと思っているから。平等はそれを否定するのです。だからみんな自分の特別さを確認するために競争に走る。平等が拠り所になるのは、自生的秩序のなかでなのです。自生的秩序は時間を共有することで育まれていきます。時間の中身はそれぞれ違っても、過ごした時間そのものは同じだ――時間の共有を通じてこの認識に達したときに、平等は人の拠り所になるのです。

自由と孤独の境目は、時間の共有の有無にあります。共有する時間を持たない者は孤独です。共有する時間を担保したうえで自分の時間を持つことが自由。自由を楽しむためには、共有する時間の担保を捨ててはならない。けれども私たちは、ずっとその担保を削り続けてきたのですね。そこの担保が切れてしまったことが今の病んだ社会の病原です。また、時間はただ同じ空間に居るからといって共有されるものではない。私たちは病んだ社会に暮らす間に、時間の共有の仕方すら忘れてしまったのですね。

コメント

興味深い話ですね!自由という言葉は文化や歴史、個人によってかなり違った物と考えられている様に思いますし、色々なレベルの自由もあるので難しい言葉ですね(そもそも言葉自体がアヤフヤで使用が難しい物ですが)其れと人間年をとると過去と言う者は何時も懐かしく実際よりも良い思い出として変化している可能性は無いでしょうか?“村から見た日本史”は読んだ事がないのでなんとも言えませんが、当時の農村の小作人は現在では創造出来ない様な悲惨な生活をしていた人も多かったのではないでしょうか?歴史の本も明らかに歴史を曲解しようとする物も在りますが、限られた証拠を元に再構築する行為ですから著者の性格、過去の著書でどの様な目的で本を書いているか知る事が重要ですね。
処で、アナキズム(色々亜種が在るのですが日本で政府のプロパガンダによる暴力的革命思想と言うのは誤りです。)によると平等な富の分割によってより良い社会が形成されるのだそうです。如何して職業によって収入の差が出来るのでしょうか?患者がいなければ医者は職業を失うし、犯罪者がいなければ警察はいらない、馬鹿がいなければ先生も要らない、幾ら医者が優秀でも病院を掃除する人が自尊心を失うような収入しか得られないのなら病院を清潔に保ち治療の成功率を向上させる事が如何して可能になるのでしょうか?つまり我々はお互いに必要な存在でありながら格差をつけている、其処に社会の問題の原点があるのではと言う考え方です。お互いに平等な立場にある事で自由が生まれると言う考え方の様です。私なりの解釈ですから間違っているかもしれませんが。私は哲学道教的な人間理解をしていますので西洋的に考えるとある種のアナキズム的な考え方かもしれません。権力的資本層の傲慢さにより我々は本来の社会的自由を失い、そして石油化学薬品により豊かな自然を失い、20世紀の前半まで川や山でも必要最小限の自由を確保出来た可能性も我々は失ったと私は考えています。
 此れは意見の交換ですから貴方の意見を間違いだとか言っている訳ではないので誤解しないようにお願いします。老子は『一人がある事に意見を言うと、別の人が別の意見を言い、直ぐに又別の人が又違った意見を言う、こうして一つの事に百人いると百の違った意見が生まれる。此れは人間が真実を理解できない証拠を示している。』と言う様な事を言っています。私も其の真実を知る事の出来ない人間の一人ですから。

財産

僕は学生時代にすごい濃密な寮生活を過ごしたんですけれど、あの日々とそれを一緒に紡いだ人間関係は、いまだにいきいきと生きている財産になってます。
入りたくて入った寮じゃなかったんですけど、結果的にそうなったことをすごく感謝してます。

高校とかの部活動もそうなんじゃないか?って気もしますが、そうなると、一緒に過ごしていない もっと上の寮の先輩やもっと下の後輩とも、同じような感覚で仲良くできるんですよね。
同じ時間を直接共有しなくとも、「似たような時間を過ごした」ということを共有することでも、成り立つものがあるのだなぁと面白く思ったものです。

ejnewsさん

> “村から見た日本史”は読んだ事がないのでなんとも言えませんが、当時の農村の小作人は現在では創造出来ない様な悲惨な生活をしていた人も多かったのではないでしょうか?

この本は文化人類学のフィールドワークというわけではないですが、実際に日本の地方を歩き、方々に残った古文書を読み解く形で構成されているものです。それによると江戸時代の小作農も我々が考えていた以上に豊かだったというデータが出てきたという話なんですね。明治以降は「おしん」の世界のようなこともあったようですが、江戸時代以前は違ったらしいのです。

> 私は哲学道教的な人間理解をしていますので西洋的に考えるとある種のアナキズム的な考え方かもしれません。

道教的というわけではありませんけれども、私もものの考え方は東洋的なところに基盤があると思っています。勉強したのは西欧関係の書物が多いのですけど、自分でも意識しないうちに東洋的になってきたようです。

>権力的資本層の傲慢さにより我々は本来の社会的自由を失い、そして石油化学薬品により豊かな自然を失い、20世紀の前半まで川や山でも必要最小限の自由を確保出来た可能性も我々は失ったと私は考えています。

その理解は私も同じようなものです。

> 此れは意見の交換ですから貴方の意見を間違いだとか言っている訳ではないので誤解しないようにお願いします。

もちろんです。

>老子は『一人がある事に意見を言うと、別の人が別の意見を言い、直ぐに又別の人が又違った意見を言う、こうして一つの事に百人いると百の違った意見が生まれる。此れは人間が真実を理解できない証拠を示している。』と言う様な事を言っています。私も其の真実を知る事の出来ない人間の一人ですから。

百家争鳴ですね。しかし、今の時代、真実はひとつと思っている人がかなり多いようです。

Re: 財産

> 同じ時間を直接共有しなくとも、「似たような時間を過ごした」ということを共有することでも、成り立つものがあるのだなぁと面白く思ったものです。

それも「時間の共有」の仕方のひとつなんでしょうし、そうした「時間の共有」の集積体のようなものが「故郷」なんでしょう。入りたくて入ったわけではない寮は、アキラさんの「故郷」になっているのでしょう。

そうした「故郷」を維持する能力は、何も日本人特有のものではない、人類共通のものでしょう。が、最近の日本人の「故郷喪失」には目を覆わんばかりのものがあります。「派遣村」は、一面では日本人の「故郷喪失」の実体を露わにしましたね。

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