愚慫空論

幻痛

『千の風になって』についてエントリーするつもりだったのだけど、予定を変更。dr.stoneflyさんが私の「突然死」を切り口に「ブログでの繋がり」について考察されていて、これがとても面白く感じられたので、そこに乗っかるというかテーマを拝借する形で今回のエントリーとしたい。
「死」と「繋がり」について、もう少し言うと、「死によって繋がりは断ち切られるのか」ということについて。
dr.stoneflyさんの考察はタイトルには“ブログでの”という限定がついているが、内容を読ませていただくとブログ云々は入り口であって、考察はそのずっと先へ進んでいる。
「死」と「繋がり」から「生きる」というところにまで考察が及んでいる。
 
それにしても、思うのだけれど、どうも私にはこうしたテーマを好む性向があるようだ。これまでもこのような訳の分からない重たいテーマでいろいろ書いてきたし、これからも書くだろうと思う。
 
dr.stoneflyさんは実生活での私は知らないと書かれているが、もちろん私の方だって現実のdr.stoneflyさんを存じ上げない。dr.stoneflyさんだけではない。ブログ上の知り合いは現実の知り合いではない。
では、ブログという仮想空間の中だけでの仮想の知り合いか? 知り合いということそのものが仮想なのかと問われると、そう断言できるものでもない。何かがそう断言するのを阻む。
その何かを「現実」と「仮想」、「繋がり」と「死(による断絶)」を整理することを通して考えてみる。
 
『太陽がいっぱい』という有名な映画がある。若きアラン・ドロンが主演したサスペンス映画だが、このサスペンスの軸となっているのが「なりすまし」だ。つい先ほどこの映画を再度観る機会があったのだが、何度観ても面白い映画である。好みというわけではないが...
それはそれとして、『太陽がいっぱい』に因んで次のようなことを想定してみる。実は先の『愚樵空論』中断の折に愚樵と名乗る元々の人物は死亡しており、『愚樵空論』を再開したのは別の人物という想定だ。サスペンスとしては有り得ない話ではない。
このケースの場合、dr.stoneflyさんにとっての愚樵は蘇ることになる。誰かが『愚樵空論』という名の下で表現を再開すれば、現実に生きていた愚樵を知らないdr.stoneflyさんにとっては元々の愚樵の死を知る術はない。であるから、『愚樵空論』の復活=愚樵は生きていたとなる。
更に想定を進めて、ではもし、何らかのきっかけでdr.stoneflyさんがこのサスペンスのからくりを知ったとしたら、どうだろうか?
二代目愚樵とブログを通じてよしみを通じるようになり、何かしら心が通い合ったと思ったところが、実は初代は死んでいたと知ったなら?
dr.stoneflyさんと私が現実の知り合いであるなら、もし誰かが『愚樵空論』を再開させたとしてもdr.stoneflyさんは私が死から蘇ったなどとは考えないだろう。現実の世界では身体の死によって表現発信も途絶えると認識されるから、『愚樵空論』が復活してもその表現発信は別の人物のものと捉えるはずだ。だが、このようなサスペンスがあったなら、dr.stoneflyさんにとっての愚樵とは一体どれを指すのか? ますます混乱してしまうだろうけれども、すべてが
dr.stoneflyさんにとっては愚樵という名で呼ばれる「生きている何か」であることには間違いない。
 
こうした問いかけから見えてくるのは、誰かが他者を(dr.stoneflyさんが愚樵を)“生きている”と認識するのは、それが身体であれ表現(の発信)であれ、“変化がある”からということだ。ここでは「現実」とか「仮想」なんてことは全く関係ない。変化が発生する源が現実であれ仮想であれ、変化するなら「生」、変化が停止したらば「死」と認識されるというわけだが、話はこれで終わりというわけにはいかない。
 
さらにさらにサスペンスを進めみる。2代目愚樵が人間ではなく精巧にできたコンピュータ・プログラムによる応答であったとするなら、どうだろう? サスペンスのからくりのすべてを知ったdr.stoneflyさんは、それでもまだすべての愚樵が“生きている”と思うだろうか?
 
「生」と「死」の境目の見極めには、結局のところ、「心」や「魂」などといった訳の分からないものを持ち出して来るしかなさそうだ。「心」のみならず「魂」まで持ち出してきたのは、植物などの場合は「心」はないが変化が“生きている”と思われるからであり、プログラムや機械は変化があっても「心」も「魂」もなく、“生きている”とは思われないからである。
 

* * * * * * *

 

さてさて、私には筆力が足らないが故か、書き始めるとどうしても長くなってしまう。ここまで書いてもまだ、タイトルの「幻痛」にまで至っていない...。 
 
気を取り直して、続ける。
 
順序としては、では「心」や「魂」とは何か? ということになるのだけど、ここではそこに正面から応えるのではなくて、「心」が通じ合ってできた「繋がり」について考えてみたい。どのようなときに「繋がり」は断ち切られてしまうのか? 死によって断ち切られるのか? この疑問に答えることがまた、「心」「魂」を問うことにつながるように思う。
 
この疑問を考えるにあたって、格好の材料はいくつもある。この世界ではどうしようもなく悲惨な事件・事故がくりかえされている。最近話題になっているところでしいところで
広島長崎原爆投下、光市母子殺害事件、JR西日本・福知山線脱線事故などもそうである。数え上げればきりがないが、これらの事件事故で大切な者を奪われた遺族たちの訴えが「繋がり」のなんたるかを教えてくれるように思う。
 
もし「繋がり」が死によって断ち切られるものなら、残された遺族が悲痛な訴えを上げることはないはずである。それこそ、「しょうがない」でおしまいとすることができたはずだ。
だが、強い絆で結ばれた「繋がり」は死によっては断ち切れない。「繋がり」はむしろ強化されたかのように思える。こうした場合では、「繋がり」によって結ばれた者たちのすべてが死を迎えるまで、「繋がり」は絶えることがないように思われる。
 
やっとここでタイトルの「幻痛」を登場させることができる。
医学上に幻肢痛という症状が存在するが、幻痛という言葉は通常は幻肢痛のことを指す。幻肢痛(phantom pain)とは怪我や病気によって体の一部を切断した後、あるはずもない肉体が痛む症状
だそうだ。あるはずがない手足が痛むのは脳の作用によってであるが、あるはずがない肉体が痛むからといってその痛みが幻というわけではない。痛みそのものは現実である。
死によって強化された繋がりは幻肢痛によく似ている。
 
失われたはずの肉体が痛む。肉体が現実であろうが幻であろうが、痛みは現実である。心の痛みの方も同様だ。「繋がり」からくる心の痛みも、つながっている相手が現実・幻に関係なく、現実の痛みとなる。
 
そうそう、こういう例もある。『力石徹の葬式』というチン現象だ(私はこの事件よりも後の世代の生まれなので記録を通じて知っただけ)。
マンガのキャラといった仮想でさえも、人を動かす原動力となりえる。力石徹は幻であり、その死を悲しむ人々の心の痛みは「幻痛」だが、痛みそのものは決して幻ではない。
 
肉体の幻肢痛も、心の「幻痛」も、ともに脳内での作用はよく似たものなのだろう。私は脳という臓器のことに詳しいわけではないので断定的なことは言えないが、痛みを感じる脳内の中枢と身体の方々とを結ぶ神経回路があり、神経回路の先の肉体が失われても回路が残っている限り痛みは感じるのだろう。「幻痛」の場合、中枢は痛みを感じる人であり、神経回路が「繋がり」に相当する。「繋がり」の先が失われても「繋がり」はなくならなず、「幻痛」に苦しめられることになる。


* * * * * * *


いい加減長くなっているが、もう少し。「しょうがない」防衛大臣について。
今、話題のこのニュース、「繋がり」がもたらす「幻痛」の、もう一面を表している材料であるように思う。つまり「繋がり」のない人にとっては「幻痛」は文字通り幻の痛みであり、感じられないものであるということだ。
 
「幻痛」に突き動かされた人「幻痛」に共鳴した人々とによって、防衛大臣は
前防衛大臣になるようで、それはそれでよいことなのだろうけれど、そこで終わらせてはいけない問題なのだと思う。といって、総理大臣の任命責任なんてくだらないことを言いたいのではない。
 
いくつもあるが、大きなところで2つ挙げておきたい。いずれも
前エントリーで持ち出した「表現への意思」というテーマと関わってくることで、書き出すと長くなってしまうから、ここでは手短に示しておく。
 
まずは「なぜ共感できないのか」という問題。この問題を大臣の個人の資質の問題として終わらしてはいけないということだ。もしここで終わらせてしまうなら、同じく「幻痛」を訴える犯罪被害者遺族たちの死刑論に力を貸すことになってしまう。大臣辞任と死刑とでは重みは違うにしても、個人の資質により辞任という論理と個人の資質により死刑というのと同構造だ。
 
そしてもうひとつは、「幻痛」が取捨選択されているという問題だ。ある種の「幻痛」は大衆の共感を誘うように大きく取り上げられ、ある種の「幻痛」は無視され、またある「幻痛」はあたかも「幻の痛み」であるかのように伝えられる。こうした選択が誰によって行われているのかということなのだが、これは決して時の権力者たちだけの問題ではないと思う。右翼左翼ともに「表現への意思」を持つ者全般に言えることのように思っている。
 
ふう、疲れた。今回はここまで。
ここまで読んでいただいた方には、感謝します。

コメント

生きるということ

おはようございます。予定を変更させてすみません(笑)。
4回ほど、読みなおしました。で、感じた事は、あなたは「なりすまし」でもなく「機械」でもなく、まぎれもなく愚樵さんだ、ということかな(笑)。
で、さらに「生きる」ということは、「繋がる」ことそのものじゃないか、と思えてきました。もちろん「心」が「繋がる」という意味です。「真に繋がる」=「真に生きる」。
このことをいろいろ考えていて、まだ思索がまとまりません。
時間がかかりそうなので、とりあえず考えてますよ~、とご報告まで……。

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