愚慫空論

ロックはラーメンだ!?

自生的秩序の話を続けるつもりだったのですけど、ちょっと一休みして、音楽の話をば。

私は樵のクセして生意気にもクラシック音楽を嗜んだりする変わり者なのは、ご存知の方はご存知でしょう。けれど最近、ロック道を邁進するなめぴょん師匠のお導きで、ちょっとずつだけれどもロックも視野に入るようになってきた。そんなわけで面白く見たのが、「BS世界のドキュメンタリー」のなかの「みんなロックで大人になった」7回シリーズ。

第1回 ロックの誕生
第2回 アート・ロック
第3回 パンク・ロック
第4回 ヘビーメタル
第5回 スタジアム・ロック
第6回 オルタナティブ・ロック
第7回 インディー・ロック

ここで示されたロックのジャンルわけは、すでにロックを識っている者にとってはあまり意味がないだろうし、また逆に興味がないものにとっても同じでしょう。ただ私のような初心者で、またロックをよく識らないものにとってはなかなか有効な道しるべになります。こうした番組でロックを識ることはできなくても知ることは出来るし、【知る】ことができれば【識る】ことへと至る回路も開けてくる。今回は、ロックを題材にそのあたりのことを書いてみたいと思うのです。

【知る】ことから【識る】ことへ。この回路はある意味具体的で、ある意味抽象的なものです。【知る】ことというのは普遍性を求めるもの、そして【識る】ことはその事象に即した個別的なもの。が、その個別性は言葉で表すことが難しい性質のもの【知る】ことから【識る】ことへの回路は、普遍→個別という意味では具体的ですが、言葉で表すことが難しいという意味では抽象的。そうした二重性があります。

まず、具体的な方面から攻めていきましょう。これらの番組で私にとって大きな「気づき」があったところ、それは『第4回 ヘビーメタル』の放送でした。

ヘビーメタル、略してヘビメタは、正直言いまして、ロックに多少興味を持ち始めてた私でもこれだけは敬遠したいと思っていたものでした。下品な音をバカでかい音で撒き散らし、またファッションは判で押したように染めた長髪にレザーのパンツ。私などからすれば、はなはだカッコ良くない。そうしたスタイルには彼らなりの自己主張があってのこと――と、まあ、解釈はしてみるものの、そんなスタイルに凝り固まっていることがカッコよくない。番組ではヘビメタはパンクへの反発、またパンクはアート・ロックへの反発といった解説がなされているのですが、そんな系譜を知ったところでカッコ良くないという感触は変わらない。

この番組は制作は英・BBCなんですが、NHKが日本で放映するに当たっては、DJのピーター・バラカンとギタリストのマーティ・フリードマンの2人のちょっとした解説が毎回挿入してされています。そのなかでフリードマンが、ヘビメタのあの下品な音を「癒し」だと表現した。その表現が私がヘビメタを【識る】ことへの回路となったんですね。 ブラック・サバス(Black Sabbath)というバンドがあります。番組ではこのバンドがヘビメタの元祖だと取り上げられていましたが、この「黒い安息日」という名のバンドのデビュー曲、曲名も『Black Sabbath』という曲の出だし、「ジャーンジャーンジャーン」とかき鳴らされる無機質で奇妙な、けれど有名なリフ(下の動画で2分過ぎから)が流れていたとき、私には、“ああ、なるほど、これが「癒し」なのか”と腑に落ちるものがあったのですね。その腑に落ちたことが【識る】ことへの回路となったわけなんです。



それから続いてディープ・パープル(Deep Purple)の『Smoke on the water』。



「ダッダッダーン、ダッダッダダーン」という、これまたよく知られたリフ。これが出てきたときには、私の「腑に落ちた」ものが間違いないと合点した。そしてこれ「癒し」であるなら、彼らがスタイルにこだわるのも、「癒し」へといたるための装束のようなものという視点が出てくる。傍から見てカッコよいとか悪いとか、そんなことは野暮な物言いなんですね。

ここで「癒し」のイメージ――「クオリア」という言葉で置き換えてもいい――についてです。ここを理解していただかないと、私がこのエントリーで伝えたいと思っている核心の部分が伝わらない。これは【知る】から【識る】への回路の二重性の抽象的な部分、なかなか言葉にならない部分です。タイトルの「ロックはラーメンだ!?」は、そのクオリアを伝えるためのもののつもりなんですが、どうでしょうか? 腑に落ちるものがあるでしょうか?

私にとって音楽で「癒し」と言われれば、これまで思い浮かぶのはこういった音楽でした(画像がイカツクて癒されませんが、そこはご容赦を(笑))



聴いたことのない人はないであろう、J・S・Bachの『Air』。『G線上のアリア』と呼び習われているものです。ヘビメタとは正反対の端正でゆったりしたメロディ。美しい弦の音色。低音から高音へバランスのとれたハーモニー。これを「癒し」の音楽というならば、まさしく正統派のヒーリング・ミュージックでしょう。

けれども、こうした正統派を窮屈に感じてしまって、癒しに至れない人も多くいる。クラシックよりヘビメタの方がずっと支持者が多いことを思えば、むしろそんな人の方が多い。それでふと思ったのが“ロックはラーメンだ!?”なのです。

ロックをラーメンという食べ物にたとえたように『Air』を料理にたとえれば、これはレストランで出されるようなコンソメか、日本料理のお吸い物に当たると思えばよいでしょう。どちらも料理としては正統派。技量の高いコックや板前が作り出す芸術品には人を癒す力がある。それは誰もが納得していただけると思いますが、一方で、庶民には堅苦しくって...という面も確かにある。そして、それら正統派が限られた人たちの者という事実も厳としてあります。

私などは、このブログで以前にいくつか紹介したことがありますが、最近は食べ物については自然食志向。志向といっても周囲の環境から自然にそうなるのですが、これはどちらかといえば正統派志向といってもよいでしょう。もっとも、正統派とはいっても本格派とは全く縁のないごく庶民的なものですけど、どちらかという線引きをすれば、昔ながらといった意味で正統派。それは味覚的にもまた健康的にも良いものなんですが、なぜか時折カップラーメンのような決して正統とは言えない食品を無性に食べたくなることがある。そして、カップラーメンを食べているときに感じるのはある種の「癒し」なのです。

ヘビメタの「癒し」は、おそらくそうした「癒し」です。そしてそれはヘビメタに限ったことではなくてロック全般に言えることでしょう。ロックにはさまざまなジャンルがあるように、ラーメンにもいろいろとバリエーションがある。下品でバカでかい音を撒き散らすヘビメタは、さしずめ化学調味料といろいろな香辛料を放り込んで舌が痺れてしまうようなラーメン。それを汗びっしょりになって啜るような、そんな類の「癒し」――フラストレーションの解放――なのでしょうね。

ラーメンが大衆食であるように、ロックも大衆の音楽。その意味でも共通点があると思うのです。



少し余計な文章を付け加えておきます。

エントリー冒頭で私は“なめぴょん師匠のお導き”と書きました。単になめぴょんさんがロックを愛好していることにかこつけて書いたわけではない。本当のことなんです。といって、なめぴょんさんとリアルで知り合いなわけでもない、また具体的なロック道の指導を受けたわけでもない。いささか大げさに言いますと、なめぴょんさんというブログ上の存在が、師匠になったということなのです。

私にとってロックは、実はあまり聞き込むだけの動機のないものです。音楽を聴きたいという欲求を満たすのにクラシックで不足を感じたことはないし、たまに他を聴いてみるにしても、それは浮気のようなもの、“やっぱりクラシックがいいや”と確認するためといった感じのものだった。つまり、他と比較して自己の優位性を確認しようとする――不純なものだったんですね。

しかし、あくまでブログ空間の中だけのことですけれども、真摯にロックを愛して、ロックの良さをアピールしている人に出会った。そこで少し揺らぐものがあったわけです。本当にそんなにロックはいいものなのかなぁ? と。

その揺らぎを自覚したとき、私がとるべき態度には3つの選択肢がありました。

①ロックよりクラシックが優れていると主張して、自分の優位性を確保しようとする。
②ロックが大衆に支持される理由などを分析するなどして、ロックの長所を認める。
③自分自身もロックを好きになる。

①は啓蒙主義であり、②は「識ったつもり」です。で、これら2つは私にとっては批判の対象なのですね。そうなると私には③の選択肢しかないことになってしまうのです。

好きになるというのは、つまりロックを楽しめるようになるということですが、これはしかし、言うほど簡単なことではないのです。いくらロックの素晴らしさを教えてもらっても、それを理解することと好きになることは別問題です。好きになって楽しめるようになるには、理解することとは別の方法が必要なのです。そしてその方法とは「信じること」と「待つこと」なのです。

私にはこれまでもロックを愛好する人との出会いは幾度もありました。けれども、そうした出会いによってロックを好きになることはなかった。もちろん、ロック好きでなおかつ尊敬に値する人は少なからずいました。けれども、その人がロックを好きな部分は信じていなかっし、だから待つことも出来なかった。要するに“私はクラシックが好きだ”という「我」が邪魔していたのですね。

「待つこと」というのは、積み重ねると言うことです。それは「勉強」と言ってもよいかもしれません。信じたとしてもすぐに違和感が払拭できるわけではありませんから、最初は積み重ねていくのには自分に強いて勉めていく必要がどうしてもある。そのモチベーションになるのは「信じること」です。特に、自分にとって利になるものでなければなおさらです。そして、積み重ねが蓄積されていくと、ちょっとしたきっかけで臨界点を突破されて好きになっていく。【知る】ことから【識る】ことへの回路は、その突破点から形成されていきます。


【識る】ことは、学問的に表現するとマイケル・ポランニーが提唱した「暗黙知」となるのかもしれません。

『学びと暗黙知』(内田樹の研究室)
「学び」というのは、「その有用性や意味がわからないもの」(私たちの世界はそのようなもので埋め尽くされている)の中から、「私にとっていずれ死活的に有用で有意なものになることが予感せらるるもの」を過たず選択する能力なしには起動しない。
「学び」を可能にするのは、この「意味のわからないものの意味が予見できる力、有用性がいまだ知れないものの潜在的な有用性がかすかに感知できる力」である。
この力がなければ、子どもたちは「子どもでもその有用性や意味のわかる知識や技能」だけを選択することになる。
そして、「子どもでもその有用性や意味のわかる知識や技能だけ」では私たちは困難を生き延びてゆくことができない(それが「子ども」という言葉の定義である)。
私たちの社会が組織的に破壊してきたのは、子どもたちの中に芽生えようとしているこの「意味のわからないものの意味が予見できる力、有用性がいまだ知れないものの潜在的な有用性がかすかに感知できる力」である。
マイケル・ポランニーはこれを「暗黙知」と呼んだ。
ロックの「癒し」とは、“私たちの社会が組織的に破壊してきた”もの――「信じること」――への本能的な希求の現れではないのか、と私には思えなくもありません。だからこそ、ロックは社会から疎外された若者の反発として立ち現れてきたのであり、なめぴょん師匠がいうように

ロックのビートは生命の躍動だ

ということになる。そしてまた、これを自生的秩序という観点からは、ロックは人間の自生性を抑制しようとする社会のなかで自生的に発生してきた、自生的秩序そのものと観ることが出来るでしょう。ただし、抑制された故にいささか歪んでしまってはいますが。

やっぱり最後は自生的秩序になってしまいました(笑)

コメント

いらっしゃいませ。笑

ヘビメタの女王が来ましたよ。笑

ハードロックは、火の周りでドンドコ太鼓を鳴らして絶叫しているのと同じものを感じるんですよね。野性的な魂の叫び。そういう泥臭いところが好きでした。

クラシック好きのハードロッカー多いですよ~。^^
私はあまり聴かないけど、バッハは好き。

いらしてしまいました(笑)

> ヘビメタの女王が来ましたよ。笑

そちらへ行くことは金輪際ないと思っていたのに(泣)。人間変われば変わるものですねぇ。

> ハードロックは、火の周りでドンドコ太鼓を鳴らして絶叫しているのと同じものを感じるんですよね。野性的な魂の叫び。そういう泥臭いところが好きでした。

ん。私はその泥臭さがなぜエレキのキンキン音なの? と思ってダメだったんですよね。でも、人間はそんなヤワじゃなかったんですね。思い込みはダメです。反省。

> クラシック好きのハードロッカー多いですよ~。^^
> 私はあまり聴かないけど、バッハは好き。

それはそれは(笑)。ロック道、なめぴょん師匠同様、お導きの程を(^人^)

火の周りでドンドコ太鼓!

う~ん、アクティブ!

音楽って、聴くだけじゃなくて演奏したり歌ったりできるわけですから、能動的な癒しですね。

余談ですが、JAZZでもバトルプレイとか、フォーク系でもギターをガンガンかき鳴らすシーンがありますが、さすがに火の周りでドンドコとまではいかないようですね。

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