愚慫空論

自生的秩序~自然と人間

今日は、ごく短く。

自生的秩序という話を突き詰めていけば、それは最終的には「自然と人間」という話に行き着くことは、論理的な追及はさておくにしても、感覚的にはごく自然に理解出来ると思います。

泡瀬

これは、沖縄・泡瀬の様子だそうです。泡瀬で何事が起こっているかは私は触れません。詳しくはTBもいただいているリーフチェッカーさめさんの一連の記事をご覧ください

今回はあくまで感覚的な話です。背景の風景の美しさ、手前の行われている埋め立て工事の醜さ。見事な(!)対比です。この対比は画像を通事でもわかるくらいですから、現地に赴いて実際をみれば、その対比は痛い程のものでしょう。

私は、この感覚を忘れてはならないと強く思います。この感覚は、昔から大切なものだとされている「真善美」への感覚と強く結びつくものです。いくら立派な理念であっても「真善美」を排除してしまったものに価値はありません。

泡瀬の埋め立て工事を進めようとして人々にも、それなりに理念はあるのかもしれません。いえ、理念も何も、食わなければ仕事がなければ、といった切実な「利」の問題もあるでしょう。が、しかし、派遣村を批判する論理でいくならば、そうした「利」も所詮は自己責任です。かけがえのない自然を破壊して取り返しの付かないことをしてまで「利」を追求する権利はないともいうことができます。でも、そうした批判は聞こえてこない。自己責任の根本にあるのは、「人間のみの利」だからです。

けれども、そうした人間の傲慢さが世の中をおかしくしているのは、誰も感じ始めているはずです。強く感じるか、うすうす感じているのか、程度の差はそれぞれあるでしょうか、「自然なんて関係ないよ」といった態度には、もはや違和感を感じずにはいられないはず。大切なのは、その違和感です。その違和感を探っていけば、私たちの社会のルールが人間の傲慢さを基準に組み立てられていることに気がつくはずです。

泡瀬の生き物たちが滅ぼされていくことは、巡り巡って、いずれ私たち自身の身に降りかかってくることになるでしょう。

コメント

悲しいな

ご推薦の内山節を読んで居ります。
そのなかに
>「人間は自己を主張し、しかもその主張を知性で合理化するから、次第に本当のことがわからなくなっていく」
とありました。
文中の「知性」を置き換えると主旨が変わるかもしれないのですが、“「国家」「法律」「金」で合理化するから、”と置き換えたい気分です。
本当のことは、「真善美」でしょうか。あと、優しさや思いやりや寛容も入れたいとともに、「合理化」を当然とする人に囲まれては生活しにくいな、と思う次第でございます。ああ、やだやだ。

dr.stoneflyさん

>ご推薦の内山節を読んで居ります。

ありがとうございます。嬉しいです。でも、手に入りにくいでしょ、内山節。マイナーですからね。でも、そこがまたいいんです。

>「合理化」を当然とする人に囲まれては生活しにくいな、と思う次第でございます。

同感同感。そんなに合理化がいいなら、自分も合理化してしまえ! と毒多になってしまいそうです。けど、合理化をいう人間ほど自分の周囲は非合理的で固める。趣味とかいって(怒)

合理化といえば

はじめまして、村野瀬さんのサイトから来ました。

長期的に見れば、自然生態系や生活環境、天然資源は、人間にとって一番の宝物なのですが、経済や目先の銭のためにそれらを破壊しているのは、とても愚かで残念なことです。

世の中には、環境経済学という学問があり、本来は無理なのですが、あえて環境がもたらす恩恵を全て金額換算しています。 もし、開発事業のアセスメントにおいて、きちんと環境を金銭換算すれば、この種の開発は勿体無くて出来ないはずです。 もっとも、それはどのように環境を金銭換算するかによるのですが…。

Re: 合理化といえば

もえおじさんようこそ。

それからスミマセン。一度お返事を書いたのですが、なぜかアップされていませんでした。送信ボタンを押さなかった...?

> 世の中には、環境経済学という学問があり、本来は無理なのですが、あえて環境がもたらす恩恵を全て金額換算しています。 もし、開発事業のアセスメントにおいて、きちんと環境を金銭換算すれば、この種の開発は勿体無くて出来ないはずです。 もっとも、それはどのように環境を金銭換算するかによるのですが…

う~ん、そうですね。環境を金額換算することには意味はあると思いますが、現在の経済体制ではそれが環境破壊の歯止めになるかどうかは疑問です。といいますのも、金融崩壊でもわかるとおり、貨幣価値はそれ自体増殖するものです。現下の危機でその増殖に規制を設けようとする動きが始まっていますが、それでも金融資産>実体経済という図式に変わりはないでしょうし、自然資本(環境)もまた金融資産の影響を強く受ける。いかに貴重な環境があっても、そこを破壊して生み出される資産の価値が環境の価値よりも上回ると算定されてしまうと、環境経済学はかえって自然破壊にお墨付きを与えることにもなりかねないと思うのですね。

制度の悪用は、別の問題

勿論、貴重な環境の一部を完全に聖域とすることで、(例えば)国立公園などのように完全な規制を加えて開発不可能にすることはできるでしょう。 しかしながら、そうではない部分に関しては、自然(或いは、自然資本)に対して何の正当な評価もしないで開発されてきているのが実情です。

残念なことに、環境アセスメントには環境の価値を図る客観的なものさしが欠如していることが多く、「評価の欠如が自然破壊にお墨付きを与えている」のです。 原則として、生態系、自然環境に対して、確かな評価基準を設けることにはそれなりの意味があり、「何の評価基準もない現状よりはまし」であると言えます。

もっとも、どんなまともな基準を設けても、意図的に数字を操作しようとすれば出来ます。 日本の高速道路の建設に関しても費用対効果の評価は行われていますが、かなり意図的に数字が操作されていると思われます。 (自然資本などに)正当な基準を設けようとする試みと、評価制度を悪用しようとする問題とは、全く次元の異なるお話です。

Re: 制度の悪用は、別の問題

> 勿論、貴重な環境の一部を完全に聖域とすることで、(例えば)国立公園などのように完全な規制を加えて開発不可能にすることはできるでしょう。 

いえ、私が環境経済学に懸念を感じるのは、そうした「聖域」を侵犯する口実になるかもしれないと思ったからです。

例えば、ある固有の生物種が棲息する小さな地域があったとしましょう。で、そこに貴重な天然資源が発見されたりする。そこを開発すべきかどうか? という議論になったと仮定しましょうか。

ある固有の生物種が棲息しているということは、かけがえのないものということで本来は経済的評価が出来る対象ではない。では環境経済学は、その地域に無限大という評価を下せるか? たぶん出来ないでしょうね。そんな評価を下すことは、環境経済学そのものの意義を失わせることになりますから。環境経済学は人間の都合に従って良心的に「適正な」評価を下すことになるでしょう。これは制度の悪用というより、制度そのものの欠陥なんですね。

制度を運用するに当たっては、制度の悪用を禁じるのはもちろんのことですが、制度そのものの限界についても留意しなければなりません。私が考えたのは、限界の方なのです。

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