仕事の報酬(2)
2009-01-22
脱線した挙げ句、仕切り直しすることになった『仕事の報酬(2)』の続きです。といって、厳密に(1)の続きになるかどうかは私自身も大いに疑問のあるところ(笑)。
今回は「仕事の報酬」について考える題材を、有名な内田樹氏の文章からお借りすることにします。
『読者と購読者』(内田樹の研究室)
が、そのまえに「仕事」と報酬の関係を整理しておくことにします。
『仕事の報酬(1)』で私は次のように述べました。
「【仕事】と〔識る〕は切って切り離せないもの。仕事は〔識る〕ことによって【仕事】になると同時に、〔識る〕は【仕事】の報酬でもある。」
また『教育』では、仕事の意味には「自分の役割をこなす」という意味と「自分の目的を実現する」ためという意味との2種類あって、私が【仕事】と表記するのは前者の意味の時である、としました。しかし、これらの表現は「仕事」とその報酬との関係を十分に表しているとはいえません。そこで、下のような図を描いてみました。

「仕事」とは、仕事を為す主体である「私」が仕事の対象となるものに働きかけることです。働きかけの対象になるのは、〔(他)人・社会〕か〔モノ〕のどちらかです(白矢印)。そして「私」は「報酬」を得る(黄矢印)わけですが、これにはいろいろなカタチ――〔自然・神〕〔人・社会〕〔社会的地位〕〔モノ〕〔カネ〕etc...――があって、しかもひとつの「仕事」から得られる「報酬」はひとつとは限りません。私自身の職業で例としますと、私は樵ですから「仕事」として働きかけるのは木という「モノ」です。それに対して得る「報酬」は、労働に対しての報酬としての〔カネ〕、仕事仲間の間での〔地位〕と人間としての信頼(=〔人・社会〕)、そして今年冒頭のエントリー『知識』で述べた〔自然・神〕との【対話】。ひとつの仕事からこれら数種類にもわたる「報酬」を得えることができます。
また図には、上に【対話】、下に【手応え】の言葉が掲げられていますが、「仕事」から得られる「報酬」のうち、上の方が【対話】の要素が強く、上から下(〔自然・神〕→〔カネ〕)へ向かうにつれて【対話】が減ると同時に【手応え】の要素が増えるということを意味しています。【仕事】と表記するのは、報酬に【対話】の要素が多く含まれる「仕事」のことである、とここで訂正しておきましょう。 〔識る〕〔知る〕との関係を記しますと、これも上にいくに従って〔識る〕、下に行くに従って〔知る〕の要素が強くなります。上ほど主観的、下ほど客観的といってもいいでしょうし、下に行くほど計量することが可能になっていきます。〔カネ〕に至っては計量することそのものです。また上に行くほど身体的、下に行くほど頭脳的といってもよいかもしれません。 (最上位が〔自然・神〕で最下位が〔カネ〕、「私」と同位にある(べきな)のが〔(他)人・社会〕であることは間違いないでしょうが、その他の順位を定めるのは難しい。) これらの「報酬」は、「私」にとっては自分が何者であるか――アイデンティティ――を示してくれる指標でもあります。「私」は、「私」自身の求めるところに従って、これらのなかから好きな指標を選んで自身のアイデンティティとすることができる。そんな性質もあります。
さて、こんな整理が果たして整理になったか、むしろ混乱するのではないかという疑念はさておき、内田樹氏です。
それに対して、そんなこと言ったってカネも欲しいでしょ、という意見もあるでしょう。確かにこの文章を額面通り“AでなくてB”というふうに捉えるとそういう批判にもなるのでしょうが、上でも述べたとおり「仕事」の報酬は1つだけではない。内田氏に限らず、「仕事」の報酬として望ましいのは、多様な報酬を得られるものに決まっています。本の著者なら読者であって購読者がもっともよい。内田氏は、作品に力がありさえすれば、購読者はあとから付いてくる、と言っています。 この文章を読み解く鍵は“用がある”の解釈でしょう。これを報酬と解するよりも、内田氏が求めるアイデンティティとした方が意味はすっきりします。内田氏が本を著わすという「仕事」に求めているのは、〔人・社会〕にアイデンティティをおくことであり、〔カネ〕におくことではない。このように解釈すれば“AでなくてB”で正しいですし、最初のうちは自費出版したのだという内田氏の話とも符合します。内田氏にとって著作するという「仕事」は【対話】を志向する【仕事】であるわけです。
それにしても、Webと著作、そしてその金銭面での報酬の関係は、内田氏の想定では不十分なようにも思います。「仕事」に〔人・社会〕と〔カネ〕の報酬の両面を求めつつも、アイデンティティを〔人・社会〕におくことはよいことですけれども、Webにはそのアイデンティティをより広げる可能性がある。それは簡単なことで、著作の全てをWebで公開してしまえばいい。
たとえ作品に力があったとしても、全てを読むには著作を購入しなければならない。世の中には経済的な理由から、そうそう著作を購入できない者だっているでしょう。図書館という選択しもありますが、私のような住環境の者にはそれも厳しい。それに書籍に物理的に入手するより、クリック一発でアクセスできる方が簡単便利です。そんなこんなを諸々考えると、著作の全文Web掲載は、内田氏の求めるアイデンティティ拡大へのハードルを下げる画期的な方法であるはずなのです。しかし、内田氏はその選択はしない。もし私が図書館なりで内田氏の著作を入手して、全文このブログにて転載したとしても、内田氏は著作権侵害を申し立てることはないでしょうか? “読者に用がある”のであれば、私はその手助けをするだけなのですが(笑)
与太話はこのくらいにしまして、もうひとつ内田樹の研究室から拝借です。
『入試「改革」のご提言について』
このことをまた再び上の図で見てみます。ここで言われる利益とは〔社会的地位〕とか〔カネ〕など【手応え】のことだと言っていいでしょう。となれば、今の子供たちは、【手応え】を求めることを自己のアイデンティティとしてしまっていると読み解けるわけですけれども、それはなにも学習に限った話ではないようです。将来の職業の選択にしても、人付き合いにしても、すべてその基準は【手応え】。そして、その原因はおそらく子供を取り巻く大人達にある。子供を勉強に駆り立てる大人達の動機もまた、【手応え】なのではないのでしょうか...?
私は『教育』のエントリーで【おのずから】【みずから】という表現を用いました。そこで用いた【おのずから】【みずから】は、〔自然・神〕へと志向していく【対話】そのもののことでしたけれども、そのことの大切さは【手応え】ばかりを志向してしまっている現状と比べればよく理解出来るのではないでしょうか? 【手応え】は、非常にわかりやすいものです。客観的基準を示すことが容易ですから誰にも理解出来る。ですので、それをテコに大きな社会を作ることも比較的容易なのでしょう。
『部族社会と大きな社会』(池田信夫blog)
追記:マルクス批判については『労働の権利』で取り上げています。
今回は「仕事の報酬」について考える題材を、有名な内田樹氏の文章からお借りすることにします。
『読者と購読者』(内田樹の研究室)
が、そのまえに「仕事」と報酬の関係を整理しておくことにします。
『仕事の報酬(1)』で私は次のように述べました。
「【仕事】と〔識る〕は切って切り離せないもの。仕事は〔識る〕ことによって【仕事】になると同時に、〔識る〕は【仕事】の報酬でもある。」
また『教育』では、仕事の意味には「自分の役割をこなす」という意味と「自分の目的を実現する」ためという意味との2種類あって、私が【仕事】と表記するのは前者の意味の時である、としました。しかし、これらの表現は「仕事」とその報酬との関係を十分に表しているとはいえません。そこで、下のような図を描いてみました。

「仕事」とは、仕事を為す主体である「私」が仕事の対象となるものに働きかけることです。働きかけの対象になるのは、〔(他)人・社会〕か〔モノ〕のどちらかです(白矢印)。そして「私」は「報酬」を得る(黄矢印)わけですが、これにはいろいろなカタチ――〔自然・神〕〔人・社会〕〔社会的地位〕〔モノ〕〔カネ〕etc...――があって、しかもひとつの「仕事」から得られる「報酬」はひとつとは限りません。私自身の職業で例としますと、私は樵ですから「仕事」として働きかけるのは木という「モノ」です。それに対して得る「報酬」は、労働に対しての報酬としての〔カネ〕、仕事仲間の間での〔地位〕と人間としての信頼(=〔人・社会〕)、そして今年冒頭のエントリー『知識』で述べた〔自然・神〕との【対話】。ひとつの仕事からこれら数種類にもわたる「報酬」を得えることができます。
また図には、上に【対話】、下に【手応え】の言葉が掲げられていますが、「仕事」から得られる「報酬」のうち、上の方が【対話】の要素が強く、上から下(〔自然・神〕→〔カネ〕)へ向かうにつれて【対話】が減ると同時に【手応え】の要素が増えるということを意味しています。【仕事】と表記するのは、報酬に【対話】の要素が多く含まれる「仕事」のことである、とここで訂正しておきましょう。 〔識る〕〔知る〕との関係を記しますと、これも上にいくに従って〔識る〕、下に行くに従って〔知る〕の要素が強くなります。上ほど主観的、下ほど客観的といってもいいでしょうし、下に行くほど計量することが可能になっていきます。〔カネ〕に至っては計量することそのものです。また上に行くほど身体的、下に行くほど頭脳的といってもよいかもしれません。 (最上位が〔自然・神〕で最下位が〔カネ〕、「私」と同位にある(べきな)のが〔(他)人・社会〕であることは間違いないでしょうが、その他の順位を定めるのは難しい。) これらの「報酬」は、「私」にとっては自分が何者であるか――アイデンティティ――を示してくれる指標でもあります。「私」は、「私」自身の求めるところに従って、これらのなかから好きな指標を選んで自身のアイデンティティとすることができる。そんな性質もあります。
さて、こんな整理が果たして整理になったか、むしろ混乱するのではないかという疑念はさておき、内田樹氏です。
私が用があるのは「私の読者」であって、「私の本の購入者」ではない。実に明快ですね。内田氏の求める報酬は読者であって購読者ではない。上の図に従っていうと、〔人・社会〕であって〔カネ〕ではない、というのですね。
それに対して、そんなこと言ったってカネも欲しいでしょ、という意見もあるでしょう。確かにこの文章を額面通り“AでなくてB”というふうに捉えるとそういう批判にもなるのでしょうが、上でも述べたとおり「仕事」の報酬は1つだけではない。内田氏に限らず、「仕事」の報酬として望ましいのは、多様な報酬を得られるものに決まっています。本の著者なら読者であって購読者がもっともよい。内田氏は、作品に力がありさえすれば、購読者はあとから付いてくる、と言っています。 この文章を読み解く鍵は“用がある”の解釈でしょう。これを報酬と解するよりも、内田氏が求めるアイデンティティとした方が意味はすっきりします。内田氏が本を著わすという「仕事」に求めているのは、〔人・社会〕にアイデンティティをおくことであり、〔カネ〕におくことではない。このように解釈すれば“AでなくてB”で正しいですし、最初のうちは自費出版したのだという内田氏の話とも符合します。内田氏にとって著作するという「仕事」は【対話】を志向する【仕事】であるわけです。
それにしても、Webと著作、そしてその金銭面での報酬の関係は、内田氏の想定では不十分なようにも思います。「仕事」に〔人・社会〕と〔カネ〕の報酬の両面を求めつつも、アイデンティティを〔人・社会〕におくことはよいことですけれども、Webにはそのアイデンティティをより広げる可能性がある。それは簡単なことで、著作の全てをWebで公開してしまえばいい。
たとえ作品に力があったとしても、全てを読むには著作を購入しなければならない。世の中には経済的な理由から、そうそう著作を購入できない者だっているでしょう。図書館という選択しもありますが、私のような住環境の者にはそれも厳しい。それに書籍に物理的に入手するより、クリック一発でアクセスできる方が簡単便利です。そんなこんなを諸々考えると、著作の全文Web掲載は、内田氏の求めるアイデンティティ拡大へのハードルを下げる画期的な方法であるはずなのです。しかし、内田氏はその選択はしない。もし私が図書館なりで内田氏の著作を入手して、全文このブログにて転載したとしても、内田氏は著作権侵害を申し立てることはないでしょうか? “読者に用がある”のであれば、私はその手助けをするだけなのですが(笑)
与太話はこのくらいにしまして、もうひとつ内田樹の研究室から拝借です。
『入試「改革」のご提言について』
おそらく社説子は「学習意欲や動機付けを示すことができれば、受験知識がなくても大学に入れる」というような利益誘導をすれば、子供たちは学習意欲や動機付けを身につけるようになると考えているのであろう。子供たちが学習することは、子供たちの「仕事」――このようにいっても異論を唱える人はまずいないと思います。その子供たちの「仕事」に利益誘導を持ち込んだことが教育の荒廃を招いた。内田氏はこのように指摘をします。
けれども、教育危機を生み出したのはまさにこの「こうすれば『いいこと』があるよ」という利益誘導によって子供たちを学習に導くという教育観そのものなのである。 競争において相対優位を占める「努力」に適正な「報酬」を約束するという「努力=報酬相関システム」の導入によって、日本の子供たちは勉強することを止めた。
このことをまた再び上の図で見てみます。ここで言われる利益とは〔社会的地位〕とか〔カネ〕など【手応え】のことだと言っていいでしょう。となれば、今の子供たちは、【手応え】を求めることを自己のアイデンティティとしてしまっていると読み解けるわけですけれども、それはなにも学習に限った話ではないようです。将来の職業の選択にしても、人付き合いにしても、すべてその基準は【手応え】。そして、その原因はおそらく子供を取り巻く大人達にある。子供を勉強に駆り立てる大人達の動機もまた、【手応え】なのではないのでしょうか...?
私は『教育』のエントリーで【おのずから】【みずから】という表現を用いました。そこで用いた【おのずから】【みずから】は、〔自然・神〕へと志向していく【対話】そのもののことでしたけれども、そのことの大切さは【手応え】ばかりを志向してしまっている現状と比べればよく理解出来るのではないでしょうか? 【手応え】は、非常にわかりやすいものです。客観的基準を示すことが容易ですから誰にも理解出来る。ですので、それをテコに大きな社会を作ることも比較的容易なのでしょう。
『部族社会と大きな社会』(池田信夫blog)
ハイエクが見抜いたように、大きな社会を維持するシステムとして唯一それなりに機能しているのが、価格メカニズムである。このことは逆に言うと、わかりやすい【手応え】でなければ大きな社会はつくれないということでもあります。そして、そうした社会を作り上げるために社会の成員がみなみな「強き個人」を志向すべきなのかどうか、私にはその方向性が良いとは決して思えない。欧州の「部族感情」であるキリスト教をルサンチマンであるとして否定したニーチェが発狂してしまったこと、また「部族感情」に没入しながらも孤独に陥っていったキルケゴールのことなどを考えると、それは人間には過酷すぎる選択であるとしか思えません。
マルクスとハイエクがともに見逃したのは、伝統的な部族社会がコミュニケーションの媒体だったという側面だ。これこそが「近代」という構造そのものなのではないでしょうか。
追記:マルクス批判については『労働の権利』で取り上げています。
コメント
小集団をかけもちしての大社会
部族を作るための基盤
このタイトルの内容を記事にするのはもう少し先の予定なのですが。
>微分的な小集団と対話し、そのような小集団といくつもいくつも、周波数ごとチャンネルごとに属し方を切り替えながら多元的な私が構成されていく。その結果として大きな社会が生まれる。
それはWebの中に新たな可能性が見いだされていますね。池田氏が指摘するとおりに。空間と時間を超えて、また紙やインクといった物理媒体からの制限も超えて。
けれども、まだWebの可能性が経済的な基盤と結びついて、確固とした現実にまでは至っていない。そこが克服すべき問題ですが、なに、みんなが気がつけば、技術的にはすぐにでも可能なはずです。
人生アウトさんのような教育を与えられるものは幸福です。けれど、残念ながら、そうした幸福は誰にでも与えられるものではない。一般人にとっての「知」は「利」よりも優先順位が低いものです。その証左が大きな社会を駆動するシステムとして「価格メカニズム」が唯一のものになっているという事実。
なに、しかし、この問題もみんなが気がつけば案外簡単に解消できると私は思っています。「利」へのインセンティブは「利」でもって解消すればよいのです。
>微分的な小集団と対話し、そのような小集団といくつもいくつも、周波数ごとチャンネルごとに属し方を切り替えながら多元的な私が構成されていく。その結果として大きな社会が生まれる。
それはWebの中に新たな可能性が見いだされていますね。池田氏が指摘するとおりに。空間と時間を超えて、また紙やインクといった物理媒体からの制限も超えて。
けれども、まだWebの可能性が経済的な基盤と結びついて、確固とした現実にまでは至っていない。そこが克服すべき問題ですが、なに、みんなが気がつけば、技術的にはすぐにでも可能なはずです。
人生アウトさんのような教育を与えられるものは幸福です。けれど、残念ながら、そうした幸福は誰にでも与えられるものではない。一般人にとっての「知」は「利」よりも優先順位が低いものです。その証左が大きな社会を駆動するシステムとして「価格メカニズム」が唯一のものになっているという事実。
なに、しかし、この問題もみんなが気がつけば案外簡単に解消できると私は思っています。「利」へのインセンティブは「利」でもって解消すればよいのです。
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勉強とは先哲との「対話」に他ならなかった。生きることは知ることであり、それはニュートンやソクラテスに跪く忘我だった。
そういう若者にとって、競争や利益誘導はつまらないものでした。満点をとることなど幾らでもできる。しかし、知そのものに潜む神性を尊ばない教師には、白紙答案をくれてやるのがふさわしい。
そして、クラスメイトに勉強を教えるようになった。知ることの本質的な面白さを布教することで、私は友人と「対話」した。
内田氏が疑問視する、
「競争において相対優位を占める『努力』に適正な『報酬』を約束する」
「努力の『費用対効果』を配慮すれば、競争における相対優位を得る方法は一つ」と真逆に。
何故か。その理由は二つです。
一に、信念なり宗教なり持つ者は、己の知見をより多くの人に知ってもらいたいと願うから。私の場合は、先哲との対話をより多くの人に知らしめたかった。
二に、(ややこしい話ですが)小さな社会はコミュニケーションの媒体であること。アリストテレスは、国家が小規模であることを願ったといいます。私は、知の対話を通じてコミュニティを作りましたが、それは小規模であると同時に代替不可なものです。
カネや数値は大きな社会に不可欠なものですが、それは対話の欠如であり代替可能性である。しかし、人間は対話を求め代替不可能性を求めるものです。そのためにわざわざ小さなコミュニティを作る。
私は部族を作ります。私が他者にとってのソーシャルキャピタルになります。小さな社会をいくつも作って、その中で他者にとっての代替不可能性をアイデンティティを保障します。
微分的な小集団と対話し、そのような小集団といくつもいくつも、周波数ごとチャンネルごとに属し方を切り替えながら多元的な私が構成されていく。その結果として大きな社会が生まれる。